松平太郎 
 まつだいら たろう 

陸軍奉行並、箱館政府副総裁
 
  天保10年(4年とも)、禄高150俵の幕臣、松平九郎左衛門の子として生まれる。名は正親。  

  安政3年、表祐筆として出仕。代々の幕臣であり、洋式兵学を学び、慶応3年6月、外国  

  奉行支配組頭に転じ、陸軍奉行並、歩兵奉行等に昇格した。慶応4年正月の鳥羽伏見の緒  

  戦に幕府が破れた時は大坂城にあり、城内の様子がおかしいので尋ねた所、慶喜が城を抜  

  け出して江戸へ落ちたという報を聞いて驚いたという。その後は軍艦で江戸へ帰り、榎本  

  武揚、大鳥圭介らと同様、幕府洋式軍の力はまだまだ薩長の西軍に劣るものではない事を  

  実地に知っていた主戦派であり、太郎も再起を主張したが、上野に恭順した慶喜から直に  

  諭されたともいわれる。その後は江戸に留まり、各幕臣の調整役的な勤めを果たしていた。  

  4月の江戸開城後に大鳥圭介が幕府陸軍を率いて北上し、日光より今市に至った所へ軍用  

  金を届け、また上野戦争後は彰義隊頭並春日左衛門、旭隊長吹田鯛六、同奥山八十八郎と  

  謀り、陸軍隊結成に関与して、旧幕軍の脱走に尽力する。  

  同年(改元後は明治元年)8月、慶喜や徳川家の移封が駿河70万石と決定後、遂に榎本武揚  

  らと共に軍艦にて江戸から脱走し、仙台で大鳥、土方ら陸兵と合流し、10月に蝦夷地箱館  

  に至る。翌明治2年正月、入札(選挙)により、榎本に次ぐ信任を得て、蝦夷共和国政府  

  の副総裁に選出された。共和国は軍資金も底を尽き、開陽丸他、頼みの軍艦の座礁等で勢  

  力をそがれ、厳冬期を過ぎての官軍再来に備える事となる。乙部上陸に始まった明治2年  

  春の官軍攻勢により、箱館は次第に包囲を狭められ、5月11日、遂に海陸からの箱館市街  

  総攻撃が始まる。五稜郭から箱館奪回に向かった歴戦の陸軍奉行並土方歳三は一本木関門  

  付近にて戦死、激戦の敗色に、太郎は自ら出馬しようとする榎本を留めて「我総裁の代わ  

  りに行かん」と騎馬で将兵を率いて出陣し戦うが敗れ、千代ヶ岡へ退いて守備を命じた後  

  五稜郭に戻った。官軍参謀黒田清隆の降伏勧告には味方の箱館病院医師高松凌雲と会津藩  

  士小野権之丞、更に、先に力尽きた弁天砲台の永井玄蕃、新選組相馬主計(主殿)等が五  

  稜郭説得を試みたが、城内はなかなか降伏を決しなかった。この時、新選組大野右仲の記  

  すには、「両総裁曰く、それ我等の蝦夷に来たりし所以は、(略)朝廷の許しを請う所は  

  蝦夷の弾丸黒子の地を賜らば、即ち諸隊をして上は王化の余光を仰ぎ、下は北門の関鑰と  

  なり、万死をもって弘恩に報いしめん。吾等二人は干戈を動かすの罪をうけ、斧鉞の誅す  

  る所ももとより甘んずるなり」とあり、北の蝦夷地で日本の関守となり朝廷に尽くすつも  

  りであった。総裁二人は戦争を起こした罪で処刑されても不服は無い、というのである。  

  しかし、最終的にはこれ以上味方の死傷者を増やすのみでは益が無いと衆議を決し、17日  

  榎本と太郎は共に亀田の官軍陣地へ出頭して黒田と増田虎之助の両参謀に会見、18日に降  

  伏停戦が決定する。榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、松岡盤吉、沢太郎左衛  

  門、相馬主計、渋沢成一郎らが箱館戦争首謀者共に東京に送られ禁錮されたが、太郎は5  

  年正月特赦により出獄した。後に、開拓使五等出仕、次に三瀦(みずま)県権参事となり、  

  12年には外務省七等出仕としてウラジオストックに在勤したが間もなく退官した。幕臣の  

  故郷である江戸(東京)に戻りたい、というのが太郎の念願であった。その後は市井に暮  

  らし、明治42年5月24日、療養先の伊東河津浜に病死。享年71歳。  

  願いにより幕臣墓所でもある東京府北豊島郡南千住町(東京都荒川区南千住一丁目)の円通  

  寺に葬られたが、昭和14年、本郷区駒込蓬莱町(文京区向丘二丁目)の大林寺に改葬。墓石  

  のみは円通寺に残された。  

■ 御 家 紋 ■




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