山内容堂
やまうち ようどう

土佐藩主
 
文政10年10月9日、土佐12代藩主山内豊資の弟、分家南屋敷の豊著の長男に生まれる。母
 
は側室で御扶持大工平石氏の娘。諱は豊信(とよしげ)で容堂は号である。元服後、弘化
 
3年に分家を継ぎ蔵知1500石を受けた。藩主豊資が天保14年に隠居後は、13代豊照、弟の
 
14代豊惇が相次いで病死。重臣たちの協議の上、豊惇の死を隠し嘉永元年11月12日に豊信
 
(容堂)を豊資の養子に迎え、12月28日には第15代藩主となり、分家当主から一躍土佐24
 
万石の大名の座に踊り出る。嘉永3年9月、烏丸光政の娘で右大臣三条実萬の養女・正姫
 
(なおひめ)と婚姻。従四位下、土佐守を任ぜられる。襲封当初は大叔父である隠居の豊資
 
と門閥重臣層に藩政の実権を制されていた。土佐は藩祖山内一豊が徳川の抜擢を受けて任
 
命され、土着であった旧主長宗我部家の家臣団を下層に置き、上士・山内侍と下士・長宗
 
我部侍の二分化した藩であり、上は恩のある親幕府、下は差別され反骨的な精神を抱き、
 
これが幕末の様々な動きに影響する事は忘れてはならない。
 
嘉永6年6月ペリー来航の折、江戸幕府がペリーから受け取ったアメリカ大統領の国書に
 
意見を求め、容堂はアメリカの要求を拒絶し武力攻撃への対応策を急ぎ実施すべきと答申。
 
藩内には吉田東洋と小南五郎右衛門を登用し、海防強化を目指す藩政改革を推進して、藩
 
主としての才幹と政治力を印象付けた。
 
更に中央で将軍継嗣問題が起こると、容堂は一橋慶喜を推す老中阿部正弘、松平春嶽、島
 
津斉彬、伊達宗城ら雄藩大名を主とする一橋派に与し、三条家との姻戚関係を利用して積
 
極的な京都工作を行う。しかし安政5年、紀州藩主徳川慶福を推す南紀派の井伊直弼は大
 
老就任により、条約調印及び将軍継嗣問題に決着を付け、一橋派の弾圧を開始。徳川斉昭、
 
松平春嶽らは隠居謹慎となるが、容堂はこの時はまだ処罰の対象とはならず、6月に大坂
 
の警備を命ぜられる。容堂は井伊の政治に憤慨し、幕府に九箇条の難題を出し抵抗の姿勢
 
を示したが却下され、翌6年に依願隠居して家督を豊範に譲り、10月に幕府から謹慎を命
 
じられ、以後2年半、品川鮫川の別宅にて謫居した。この間に朝幕間の意見調整はより困
 
難となっていった。
 
万延元年3月の桜田門外の変で井伊大老は暗殺され、反動的に尊皇攘夷熱が高まる。文久
 
元年8月土佐の郷士や庄屋たちを中心に、容堂の救援を目指し郷士の武市瑞山を盟主とし
 
て土佐勤王党が結成。当時土佐藩では、容堂の意志を体した改革派の吉田東洋が藩政を掌
 
握し、保守的立場の上層の門閥や小八木五兵衛らの佐幕上士たちと、尊王攘夷派の小南五
 
郎右衛門ら上士がおり三派鼎立の様相を呈していた。土佐勤王党は長州と連絡を取り、土
 
佐藩を挙げての勤王実現の為運動し、説得を聞かない吉田東洋を文久2年4月8日に暗殺。
 
勤王党の発言力は強まり同年10月藩兵は勅使の三条実美、姉小路公知を護衛するに至る。
 
一方の容堂は、同4月中には既に謹慎から自由の身となっており、6月の勅使大原重徳に
 
よる幕政改革の勅状後は8月15日将軍に謁見して政務参加を求められ10月27日に御用部屋
 
出仕を命ぜられている。政治の場に復権した容堂は一貫して保守佐幕的であり、将軍後見
 
職に就任していた一橋慶喜、政治総裁職の松平春嶽らと公武合体策を念頭に参画する事に
 
なる。同年は長州系の尊攘激派によるテロが最も頻発した年でもあり、翌3年5月、家老
 
を通じ土佐勤王党の解散を命令、6月には平井収二郎ら3名に切腹を命じている。7月、
 
宇和島藩主伊達宗城宛の手紙で容堂は、時勢の変化に対応するには公武合体しかなく長州
 
と通じる勤王党を許すわけにはいかないと述べている。8月18日の政変で京都政界から長
 
州派が一掃され、公武合体派の力が復活。これに名分を得た容堂は9月に「勤王党の獄」
 
として首謀者の捕縛(後の慶応元年には武市瑞山らを処刑)を断行した。
 
容堂は元治元年春に上京して国事周旋に関与していたが、参与会議における慶喜と島津久
 
光との意見対立に失望、病気を理由に土佐へ退いた。幕府の長州征伐には深く関わらず、
 
藩内において旧吉田派の後藤象二郎ら新進官僚を重用し、軍事整備、殖産興業を進めてい
 
くが幕勢の衰退は著しく、薩長主導による武力倒幕の方向が具体化しつつあった。土佐が
 
薩長の後塵を拝する事なく、徳川を温存したままの保全的な新国家権力移行を模索してい
 
た容堂は、土佐の坂本龍馬の発案「船中八策」を受けた参政後藤の懸案を容れて、これを
 
藩論とする事に決定。10月3日に大政奉還の建白書を将軍慶喜に差し出した。坂本の構想
 
をそのまま受け入れたものではなかったが、雄藩諸侯会議を設けてその議長に慶喜を立て
 
るという案を慶喜は採用。戦争回避と徳川保全と土佐の功績という容堂の望みが一度は叶
 
う。が、幕府廃止と王政復古の号令の後、小御所会議が行われ、新政府の議定となってい
 
た容堂が「この場に朝廷への政権交代の最大功労者である慶喜が呼ばれないのは不当であ
 
り、王政復古の始めに兵を動かすのは国内の内乱のもとである。」と異論を唱え、数名の
 
公卿が「幼冲(まだ幼い)の帝」を擁して陰謀を企てていると発言、岩倉具視から、天子
 
を幼冲とは不敬であると咎められ、どこまでも反対するならば自らも危ういと察し、慶喜
 
排斥と武力倒幕の流れには抗しきれず、鳥羽伏見の戦以降、土佐藩は官軍に随従する。
 
慶応4年2月堺を警護していた土佐藩兵が、上陸の上乱暴に及んだフランス軍艦の乗組員
 
と乱闘、11名の死者を出した堺事件には、容堂が藩士20名の切腹を厳命。天皇が開化に踏
 
みきる今、部下が外交を妨げるのは心痛であり、土佐のみ責任を問われる事を願うと語り
 
大名の責任感と新政府の意志を強固に実現したのである。凄絶な連続切腹に外国人は途中
 
で処刑中止を申し入れた。
 
明治政府において、容堂は議定、内国事務局総督、警報官知事、学校知事、制度寮総裁、
 
上局議長、を歴任。明治2年7月依願退職。箱崎の田安御殿を下賜され、麝香の間際祗候
 
を命ぜられる優遇を受けた。素顔の容堂は豪放の上に洒脱、堂々たる女好き、酒好き、芝
 
居ずきな殿様で、長州の周布政之助が京都藩邸を訪れた時は妾と入浴中、気軽に用件を承
 
諾して「良い湯加減だから一緒に入るか」と誘って周布が慌てたり、勝海舟が弟子の坂本
 
龍馬の脱藩罪の赦免を願った時は瓢箪の絵に「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」(一年中酔っ
 
払いの土佐大名)とサインして了承を示し、晩年は役者の市川団十郎一座を借り切ったり、
 
お忍びで団十郎を連れ出し吉原遊郭を冷やかしたり、新政府の顕官が目を付けた遊女や芸
 
者と聞くと先手をとって自分のものにしてしまう等、周囲を唖然とさせて面白がっていた
 
らしい。日に3升という程酒を飲んだが、しゃれた紋服に大髷、丸腰で、遊興の場でも鷹
 
揚に構え悠然としていたという。東京浅草区橋場の別荘に住み、明治5年1月に脳卒中に
 
倒れ半身不随に苦しみ、6月21日に再度の発作を起こして没した。享年46歳。
 
墓は品川区東大井の下総山墓地。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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