横山主税
よこやま ちから

会津藩士
 
享和元年、保科正之以来の会津藩世臣、家禄七百石の横山家に生まれる。
 
父は、横山五八郎常元。通称、又作のち主税、名は常徳。
 
安政元年2月、若年寄に登用され、翌2年3月、江戸常詰を命じられた。
 
嘉永6年6月にペリー率いる黒船が浦賀に来航以来、江戸表は急に慌ただし
 
くなり、会津藩は幕命により、品川第二砲台の警備にあたっていた。安政2
 
年10月に江戸でおきた大地震では、会津藩邸や品川第二砲台も甚大な被害を
 
受けたが、横山は適切な事後処置をとり、評判となる。
 
安政5年、百石の加増が二回あり、江戸常詰家老に昇格し、万延元年には、
 
知行一千石となる。当時会津藩の横山主税というと、水戸藩の武田耕雲斎、
 
宇都宮藩の戸田大和とともに江戸の三家老といわれた。
 
文久2年7月、横山は突然、越前候で幕府の政治総裁職に就任したばかりの
 
松平春嶽に呼ばれ、謁見する。容保に京都守護職に就任せよとの内命で、拝
 
受するよう進言するように言われた。容保に復命すると、これは大職であり
 
過失があると、徳川宗家に大きな影響を及ぼすため辞退しようと二人の間で
 
決め、横山が再度越前藩邸へ行って辞退言上するが、春嶽は、一橋慶喜とも
 
相談していたことなので、直ちに会津藩邸に向かい、病床にあった容保に宗
 
家最大の危機であるから保科正之の遺訓の通り実行するようにと主張した。
 
その後何度かのやりとりの後、容保は受諾し、横山は賛意を表し、家臣たち
 
と京で死のうと肩を抱き合ったという。若松の城代家老西郷頼母は、反対で
 
あったが、横山は拝受と決まるとすぐに、家老田中土佐に野村左兵衛、外島
 
機兵衛ら熟達の士十数名をつけて先発上洛させ、準備を進めた。
 
12月24日、容保入京。本陣を黒谷の金戒光明寺におき、公卿や他藩と
 
の折衝のために、京都へ先発した熟達の藩士ほか手代木直右衛門、秋月悌次
 
郎、広沢安任らを当てた。容保の参内に続き、文久3年将軍上洛と東帰問題、
 
男山八幡宮上幸に際しての横山の代理共奉、会津藩兵長沼流操練の天覧に続
 
いて、八、一八の政変と七卿落ちなど、横山は多忙と苦労の日が続いた。
 
この歳の暮、横山に二百石加増と将軍家茂から時服を賜ることになったが、
 
横山は病に倒れた。主君の許しを得て元治元年5月会津へ帰藩し、療養を続
 
けたが、8月7日、ついに病没。大窪山に葬り、養嗣子の主税常守が相続した。
 
 
 
上記写真は二代目横山主税です。

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