阿部正弘 |
あべ まさひろ |
文政2年10月16日、備後福山藩主阿部正精の六男に生まれる。
通称四郎五郎、雅号裕軒。10歳で柴山敬蔵、門田堯佐らに儒学を学び、
また馬術槍術などにも修練した。
天保7年、兄正寧のあとを継いで七代藩主となり、同11年、寺社
奉行、同14年閏9月、天保の改革で失脚した水野忠邦の跡をうけ
て25歳の若さで老中に抜擢された。
当時、幕政の急務は幕府権威の回復と外交問題であった。正弘は
弘化2年以降、老中首座にあってこれらの問題にあたる。
嘉永6年6月、ペリーが来航し、通商、燃料食料の供給、難破船の
保護希望等の強引な開国を求めた。そのやり方に立腹した正弘は、
幕閣をはじめ、大名、幕臣、陪臣、浪人にまで対応策の上書を求め
たが、はかばかしい案は得られなかった。しかし、この時に正弘に
より登用された、勝海舟、川路聖謨、岩瀬忠震、大久保忠寛、江川
太郎左衛門などの人材はその後の幕末の動きに重要な働きをしている。
嘉永7年3月、日米和親条約を締結。イギリス、オランダ、ロシア
との間にも次々と和親条約を結ぶ。老中首座を堀田正睦に譲ったあと
も内政に専念し、対外政策を築いていった。
大船の建造を許可し、品川沖にお台場を築く。さらに天下武備の根源
は旗本の兵備にありと考え、講武場(築地鉄砲洲、のち神田小川町、
後に講武所と改称)を設立し、西洋の兵制、砲術などを学ばせる一方、
蕃書調所(のちに開成所、さらに東京大学に発展)を設立したり、長崎
に海軍伝習所を開設するなど、次々に進めた。
正弘は人の意見を聞いてその最大公約数といえる結論を出し、自身の
本音はなかなか表面化させない若い割には老練の人物と、当時も評価
を得ていたといわれている。
安政4年6月17日、にわかに病で倒れ、39歳で病死した。過労のためと
いわれる。
墓は、東京都台東区谷中墓地。
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