幾 松 
 (木戸松子) 

 
 
  後の木戸孝允(桂小五郎)の妻となる幾松は、幕末において桂の働き  

  を助ける重要な存在であった。その出自は色々と伝えられてきたが、  

  松子の生地である福井県小浜市の郷土史研究会の調査報告によるも  

  のが近年の定説とされている。  

  松子は天保14年、若狭小浜藩士木崎市兵衛の子として生まれ、名を  

  計(かず)といった。弓師浅沼忠左衛門の子であった父は木崎家の養子  

  となり、小浜藩主酒井忠義に仕え、町奉行の祐筆をつとめていた。  

  小浜藩には木崎姓が多く、その主だった木崎十六軒の一軒だったという。  

  母は、小浜藩神子浦の医師細川太仲の娘で、末子といい、読み書き躾の  

  行き届いた娘であったといわれている。  

  市兵衛と末子には磯太郎、由次郎、計、里など四男二女(または三女)  

  あり、計は長女と思われる。  

  嘉永元年頃、小浜藩に農民の騒ぎで奉行が罷免される事件があり、罪  

  なきと思われる市兵衛もその際に職を辞し、行方知れずとなる。末子  

  は男子は親戚に預け、計と里を連れ、実家細川家を頼るが、五年後に  

  京都加賀藩邸に仕える市兵衛の消息を知り、里だけを連れて京へ上り  

  ともに藩邸で暮らすことになる。市兵衛は生咲(木咲)と改名していた。  

  細川家に残されていた計は小浜京都間の塩干魚の魚商人の助けにより  

  独りで京へ向かい、父母のもとに無事たどり着き、一家四人で京都市  

  中に家を借り住まい始める。しかしまもなく父市兵衛が病に伏し、生  

  活苦のため、計は口減らしに、公家九条家諸太夫の次男難波恒次郎の  

  ところに養女に出された。  

  恒次郎は、定職も持たず放蕩三昧で、三本木の芸妓幾松を落籍して妻  

  としており、実家に寄生するその日暮らしをしていたが、遊ぶ金が底を  

  つくと計を三本木の芸妓にし、安政3年の春、14歳の計に二代目幾松  

  を名乗らせた。  

  嘉永7年、ペリー来航以来尊皇攘夷、討幕を唱える勤皇の志士たちが京  

  に集まり、盛んに遊里を使うようになる。緊張の解消、個人密談、密偵  

  の目をかわすなどの点から志士にとっては遊里は都合のよい場所であ  

  り、御所に近い三本木にも多くの志士が出入りし、その中に長州の桂も  

  いた。その頃幾松は、笛と舞の名手で、美しく頭もよい名妓として評判  

  になっており、桂と会った頃にはすでに旦那もいたといわれ、桂は金と  

  武力で奪い取ったという話もある。幕末の闘争では刀を抜いたことが  

  ないという桂が、幾松を手に入れるためには刀を抜いたということで  

  思い入れもしのばれる。その出会いは、文久元年又は2年といわれる。  

  幾松は実家と養家の生計を担っており、落籍には多大の金がかかったが  

  長州の伊藤の働きがあったもようである。このとき幾松20歳、桂は  

  30歳であった。木屋町御池上ルに一戸を構え桂の隠れ家としても使  

  い、落籍後も幾松は芸妓を続け、勤皇志士のために宴席での情報収集  

  に努めた。  

  元治元年4月、桂は京都留守居役となり、長州藩の外交役として働く  

  が前年の禁門の政変で長州勢力は地に落ちており、新選組にも付け狙  

  われていた。6月5日の池田屋事変の折、会合定刻前に池田屋に赴い  

  た桂はまだ同志が集まっていなかったために対馬藩邸に行き難を逃れ  

  たといわれているが、その頃の話として、幾松の家で晩酌中に近藤一隊  

  がそこを訪ね、幾松が気丈にも渡り合ったという話も伝えられている。  

  元治元年7月19日、禁門の変が勃発し、長州は形勢の挽回をはかり  

  兵をあげるが戦いに敗れ、藩邸に火を放って京を脱出した折、桂もいっ  

  たんは淀まで脱出していたが再び京に潜入し、乞食に身をやつし、二条  

  大橋の下に潜伏した。幾松は、当時毛利家の御用達をしていた京都高倉  

  竹屋町の大黒屋当主今井太郎右衛門家で握り飯を作り商家の女に扮して  

  二条大橋の上から包みを落とし、桂へ届けていた。その桂にも危険が  

  迫り、対馬藩邸出入りの商人広戸甚助の手引きで京を脱出し、出石に  

  潜伏するが、桂の追跡がままならぬ幕府側は、今井家を焼き払い幾松を  

  捕らえようとした。桂は対馬の同志に幾松の身を託し、慶応元年正月、  

  幾松は甚助とともに対馬へ向かうが、対馬藩の情勢も悪化しており、  

  幾松も桂の身も案じて、2月には下関に向かった。  

  長州藩ではちょうど高杉晋作が挙兵したところで、桂の行方を探して  

  おり、桂に長州へ戻るよう記した手紙を幾松に託した。その後、幾松は  

  出石へ向かう。  

  桂は、その頃出石で広戸一家の助けで小さな店を借り、広戸の分家の  

  広江孝助と称して商人になりすましていたが、4月8日、幾松の迎えで  

  甚助と弟直蔵を伴って出石を出立し、京、大坂を経て、5月26日  

  船で馬関に着いた。  

  長州藩主毛利敬親の命により、桂小五郎は木戸貫治と改名し、後準一  

  さらに維新後孝允となる。幾松も松子と改め、長州藩士岡部利済の養女  

  として入籍し、木戸と正式な夫婦となった。その後山口の糸米に住まう  

  が、木戸が明治政府の要人となるために、明治2年7月、東京に移り住  

  んだ。木戸は新政府の参議として外遊に出かけ、その後内閣顧問を務め  

  多忙な日々が続くが、明治8年に脳疾患におかされ、明治10年天皇に供奉  

  し、京都に居た時に再発。松子が京へ向かい看病するが5月26日に  

  亡くなった。  

  松子は直ちに剃髪し、翠香院と称し、桂の隠居場として用意していた  

  上京区土手町に住まい、墓守として暮らした。  

  松子も、明治19年4月10日、胃病を患い没したといわれる。享年44歳。  

  墓は、京都市東山区霊山の木戸孝允の墓の傍らに作られた。  




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