和宮親子内親王 
 (かずのみやちかこないしんのう) 

 
 
  弘化3年閏5月10日、仁孝天皇と橋本経子の間に二人目の和子として  

  生まれる。父仁孝天皇はこの年の1月に47歳で崩御し、実兄の  

  第七皇子である胤宮も和宮誕生よりも1年も前に乳児の間に死去し  

  ていた。父帝には男子七人、女子八人の子があり、和宮は15人目の  

  末の子で第八皇女であったが、異母兄弟たちは幼いうちに死去した  

  ものが多く、15歳上の孝明天皇と16歳上の敏宮しか残っておらず  

  一人娘のように大事に育てられたと思われる。母方の橋本家は大臣家  

  につぐ格式を持ち、母経子は典侍という高級女官であったが、天皇  

  崩御の後は剃髪し、宮中を辞した。和宮の外祖父の権大納言橋本実久  

  は、12年にもわたり和宮を養育し、その死後は長男実麗が後を引き  

  継いだ。また、孝明天皇も和宮を我が子のように慈しんだという。  

  嘉永4年7月和宮六歳の折、有栖川宮家九代の熾仁親王との婚約が  

  成立する。このとき親王は17歳。孝明天皇の配慮で、鷹司政道が縁  

  を取り持ったという。婚約の年から9年、安政7年2月、15歳の和宮  

  は、輿入れ準備の仮住まいとして、御所の東北、今出川門内の桂宮邸  

  に転居した。  

  時に、世は黒船来航以来の勤皇、佐幕また攘夷、開港の問題で騒然とな  

  っており、朝廷の力が増して行く中、幕府は威信回復をねらう一策と  

  して将軍家茂に和宮降嫁の話を持ち出した。幕府は家茂の相手に決ま  

  っていた伏見宮倫姫との縁談を流してまで、皇女を求めた。家茂は  

  和宮と同い年で、ほかにつりあう年齢の皇女がいなかったため、幕府は  

  和宮を標的に、強引な折衝を朝廷にもちかけた。孝明天皇ははじめ、  

  和宮を思い断るが、幕府は、安政の大獄で罪に問われた公家や大名の  

  復権や、開国を止め鎖国状態に戻すなどの妥協案を提示し、朝廷方も  

  朝廷権力回復のためと歩みより、対立せずに公武合体の収拾をつけたい  

  と考え、和宮の降嫁は受け入れられた。そうして、和宮の意思は全く  

  無視された状態で熾仁親王との婚約は破棄された。  

  和宮は、父の十七回忌後に江戸に下るが、嫁いだ後であればこのために  

  京へ戻ることを許すこと、江戸では御所の風儀を認めることなど五ヵ条  

  の条件を示すが、一つでも受け入れられなければ破談にするというもの  

  であった。幕府は渋ったが結局、結婚後に京に帰ることを認め、婚約は  

  成立した。  

  文久3年秋、和宮は京を立つ。その輿入れの行列は前代見ない豪華で  

  長いもので中山道を江戸へと下り、道筋には厳戒態勢がしかれた。  

  11月15日江戸に入るが、和宮が示した輿入れの条件はなかなか入  

  れられず、それを手紙で知った朝廷は違約詰問の使者を出そうとする  

  など、待遇を巡る揉め事が続き、周囲の悪感情が広まる。  

  しかし、和宮自身は自らのおかれた位置を理解し、的確に行動する  

  懸命な女性であったという。夫である十四代将軍家茂との間には親密  

  な夫婦愛があったといわれ、家茂は和宮の境遇を理解し守ろうとした。  

  また、和宮は朝廷の思いも遂行し、攘夷を幕府に迫った。そして京風の  

  風儀へ変えることも努め、今までは将軍の正夫人は武家の習いで御台様  

  と呼ばれてきたが、これを拒否し、和宮様と呼ばせた。和宮は将軍の子  

  をなすことを願うが恵まれず、二人が20歳になった結婚四年目に侍妾  

  選びを和宮自らが行う。家茂が三回目の上洛の折、和宮は小姓として  

  気に入っていた17歳の蝶を選び、同行させた。  

  上洛した家茂は第二次長州征伐の敗北で心労も多く、胃腸障害や足の腫  

  れ物などに苦しみ、その末慶応2年7月20日、21歳にして大坂城  

  で亡くなった。5日後この弔報は和宮のところへ届き、すぐに阿弥陀仏  

  の名号を書いて大坂へ送り、棺に納めさせたという。  

  家茂の遺骸が江戸に戻り、和宮のために買った西陣織の反物が届いた。  

  「空蝉の唐織りごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」  

  「三瀬川世にしがらみのなかりせば 君諸共に渡らましものを」  

  和宮の哀切の情が表れている。和宮は落髪して静寛院と号した。  

  この年の暮れに、兄孝明天皇も36歳で崩御し、16歳で即位した  

  明治天皇を擁して、薩摩、長州が幕府を朝敵として戦いを望み、将軍  

  慶喜のもと、徳川は瓦解する。  

  和宮は江戸にとどまり、徳川のために働いた。自らが江戸城にとどまる  

  ことにより、城もろともに焼き尽くそうとする薩長軍の行動を阻止する  

  盾となろうとした。又、徳川の家名存続のために京への手紙もしたためた。  

  明治10年9月2日、結核を(または脚気を)患い、静養先の箱根塔ノ沢で  

  32歳で亡くなった。墓は夫の隣にというのが遺言であったという。  

  墓は、東京都港区芝増上寺。  




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