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第 9 回 |
第 一 部 暁 闇 |
(六) 惑 い |
1 |
歳三とおりつは、小料理屋「たつ次」の二階座敷にいる。ふすまを外せば大人数の時で も入れるようになっているのだが、今は仕切られて六畳の一部屋になっていた。時折は早 い酔客の声が階段を伝って下から漏れ聞こえてくる位で、階上は静かなものである。 女中のお初は別室に寝かせてある。一度意識は戻ったから安心というものだが、恐らく 貧血から来たであろう気分の悪さはひどかったようで、少し立ち上がろうとするとふらつ いてしゃがみ込むという具合であったから、しばらく眠らせておくより仕方がない。早坂 の家には、おりつの祖父の家に足を伸ばした、という使いを出してある。日が落ちてから の勝手な寄り道では、姑の松枝にきつく叱られるのはわかっているが、それでも奉公のお 初が咎めを受けるよりはいい、と思ったのだ。 「たつ次」の亭主藤吉は、年はそろそろ五十の声を聞くかという頃合で、顎の左には古 い喧嘩の傷が残っている。痩せて人相も鋭い。いかにも身一つで世の中の裏側も見てきた というような、ちょっと凄みのある親父で、板前の天職を得ていなかったらどんな、と思 わせるようなところはあるが、堅気の商売を長くやっているだけの世慣れたところがあり、 喧嘩剣術師匠の歳三が訳ありげな女連れであがっても、心得たもので詮索したりはしない。 店の者にはまかせず、自分で膳を整え、酒とちょっとした料理を運んで階段を上がってき た。 「大したものは出来ねえんで、お口に合うかどうかわかりませんがね。」 と、これは武家女房のおりつへの謙遜である。歳三の好む肴は知っている。 「すまんな、藤吉。」 歳三は頭を下げた。 「いやだよ先生、柄にもねえ。……なあに、今日はちょうど暇でしてね。二階まで混む事 はねえから、あの娘さんの按配が良くなるまで、ゆっくり待ってておやんなさい。」 暮れてから急に雲が重くなってきて、夜分には雨になろうかという天気であった。冷え込 んだ風が時折障子窓をカタカタと震わせている。確かに、客足はいつもより鈍るだろう。 「ああ。面倒をかけた、ありがとう。」 藤吉はへっ、と古傷のある口元で笑い、 「先生にしちゃ、馬鹿に素直で気味悪いや。」 おりつが、静かに頭を下げている。藤吉はそちらに向かって、 「ご遠慮には及びませんよ。それじゃ、あたしはこれで。なんかご用があったら呼んで下 さいまし。」 「うん。」 歳三の返事をしおに、藤吉は障子を閉めて階段を下りていった。用があったら呼べ、とい うのは気を利かせるつもりらしかった。 歳三は、りつにまだ湯気の立っている膳のものをすすめた。 「どうぞ。あなたは、こんな所で召し上がる事もないでしょうが、結構うまい。」 「ええ、でも。」 おりつは少しためらった。 「酒まではすすめないが、何も食べてくれんと、亭主がスネる。」 「……そうでございますね。」 歳三は、仏頂面をして先に食べ始めている。おりつも、つつましく箸をつける。煮物の 茄子をほぐして一口運ぶと、つい声を出した。 「あ……」 「何か?」 「美味しい。」 微笑した。焼き魚より煮物の味に興味が先立ったのは、主婦らしいところであろう。 「そうでしょう。あの男は口は悪いが、腕はいいんだ。」 おりつはくすっと笑った。 「……ご自分のことをおっしゃっているような。」 確かに、似ている。歳三が自分のことを誉めているような錯覚が生じた。 「うん……?」 歳三は仏頂面で魚を食べている。他に間の持たせようがなかった。ひょんな事とはいえ、 余人のない部屋に二人でいるのだ。妙な事になったという気持ちから、ぎこちなく会話が とぎれていた。歳三は、手酌で酒を飲み始めた。さほど好きではないが、喉も渇いていた。 「歳三どの。」 と、おりつが声をかけた。歳三は黙って、左手の猪口を上げたままそちらを見た。 「思わぬ事で、またお助けをいただきました。かたじけのうございました。」 おりつは辞儀をした。 「いや。」 「ですが、これ以上のご迷惑はおかけできませぬ。お初は私が様子を見ておりますゆえ、 どうぞ、お先にお帰り下さいませ。」 勿論気配りから出た言葉なのだろうが、もうあなたへの用は済んだ、というようにも受け とれて、歳三はかちんと来た。つい、言わでもの返事をした。 「俺が、一緒にいては迷惑かな。」 「いえ、そのような……」 「わかっている。体面ばかり気にするあなたのことだ。」 おりつが黙った。人妻、それも武家とあっては外聞を憚るのはもはや習性のようなもので、 確かにその通りだが責められるいわれはない。 今日の歳三は意地が悪い。 「俺のような得体の知れない奴に、あれこれとつきまとわれるのは困る……ずっと、そう 言いたかったんでしょう。」 「歳三どの。」 「我ながら、みっともねえと思うさ。子供じゃあるまいし。」 歳三はやや捨て鉢な気分も手伝って、苦い顔で杯をあおった。手酌で注ごうとするのを、 おりつが徳利をとって、酌をしようとする。 「よしなさい。」 思わぬ制止に一度手を止めたが、おりつはかぶりを振り、酒を注いだ。これも意地の強い 女である。 「慣れない事はするもんじゃない、お互いにな。」 「慣れないこと?」 「あなたは、こんな所で男に酌をするような女じゃないし、俺は……」 沈黙があった。歳三は杯を置き、おりつの顔を見た。 「俺はね、女に惚れたことがない。」 「……え?」 意外な言葉に驚いたように、おりつもまっすぐに歳三の顔を見た。目が合った。なぜか 視線をそらすことが出来ずに、おりつはそのまま口をつぐんで次の言葉を待った。 |
2 |
問わず語りが続く。歳三が自分の色恋の話を、自ら人にするのは珍しい。あまりいい思 い出がないからだ。それをこの男は「惚れたことがない」という言葉で打ち消そうとして いる。 「そりゃあ、この年まで関わりがなかったとは言わん。むしろ、ひととおり以上にくぐっ てきたかもしれねえが……、どの女にもしんそこ惚れた、と思った事がないのさ。それが いけないと思ったこともない。」 歳三のいう、くぐってきた関わりとは、またもおりつの知り得ない世界であろう。それは 恋ではない、というのであればおりつもまた恋を知らずにきた一人であった。 「……寂しいと、思う事も?」 おりつは、そんなふうに表した。 「うん。……ないな。」 返された言葉に幾分冷ややかな思いを抱きながら、おりつは女の立場で抗弁した。 「あなたを、想うひとはいらしたでしょうに。」 同じ恋を分け合っても、男と女の想いは常に別のものであろう。歳三はやや黙って、 改めて思い出したように苦い話を続けた。 「……一緒になれなきゃ死ぬ、とまで言った女もいたし、口じゃ言わないがじっと尽くし てくれたのもいる。だがね、俺の頭はそうなると、すっと冷めてしまうのさ。飽きた、と いうわけじゃない。始めから、その女に惚れてもいない事に気がついてしまう、といった 方がいい。若いうちは、冗談じゃねえ、一人の女のために縛られて暮らすのなんざ、まっ ぴらだ。遊びの相手ならいくらでもいる。うっとおしいのは御免だ。……そんな風に思い 上がって来たと思う。それがわかって離れていく者もいれば、冷たい奴だ、となじるのも いた。冷たいと言われれば、なるほどそれが性分だと自分でも思ってきた。」 「そう、でしょうか。」 と問い返したのは、歳三の性根が冷たいということに、にわかにうなずけないものがあっ たからである。おりつは男の冷たさを味わってきている。が、その相違をうまく言葉に表 せるだけの力は、今は持ちあわせていなかった。 歳三は、目をおりつの目に合わせた。 「だが、おりつ殿。あなたは、別だ。」 おりつが息を飲んだ。 「俺は、あなたに惚れている。」 「………。」 聞いてはならぬ言葉だった。が、おりつは呼吸を止めたまま、その言葉を我が身の上にま っすぐに受け止めてしまった。 「どうにもならん事だと、ちゃんと頭じゃわかっている。だが確かに俺は、あんたに惚れ ている。」 「うそ。」 声がかすれている。 「嘘なら、気が楽さ。」 歳三が鼻白んだように言った。おりつは嘲弄されたように感じて、つい声音をきつくした まま、鋭い言葉をつきつけていた。 「嘘です、もうおやめ下さいまし。」 歳三はおりつの腕をつかんで、強引に抱き寄せた。 「あっ。」 もがいた。が、一方で抑えようのない力が女の中にも生まれている。 「あんたが、好きだ。」 「………。」 歳三の言葉は、さらに直截になった。 「ただ、会いたいと思った。あんたを見たかった。こんなのは初めてだ、嘘じゃねえ。」 「いや、」 語尾は力なく途切れて、歳三の唇の中に消えていった。 気の遠くなるように長い数秒が過ぎた。歳三の手はおりつのうなじに添えられ、細い首 筋を支えている。おりつは仮死から目覚めた小鳥のように、はっと我に返って、歳三の胸 を突いた。 「……なりませぬ!!」 歳三は女の力にひるんだわけではない。眉根のあたりにひそんだ恐怖に近い表情を見て とり、わずかに腕を緩めた。おりつは唇を濡らしたまま、定められた台詞で責めた。 「わたくしを、そのような女だとお思いですか。」 「思っちゃいねえ、だが、……抱きたい。」 「馬鹿な、事を。」 「ああ、馬鹿だ。だがいまあんたを抱きたい。」 「やめて。」 聞けぬ、と歳三は思った。このまま組み敷けば自分のものになるところまで近くにいる。 膝を割ってしまえば拒み通すはずがない、という確信のようなものが生まれていた。人の 理性と欲望の垣根は案外に脆い。あと一度口を吸ってしまえばおりつは崩れるだろう。 しかし、おりつはその時手ごわく抗って、歳三の頬を打った。ぴしり、という音に歳三 は目を開き、やや距離をとって女の表情を見た。 「わたくしが、間違っておりました。歳三どのを、見損ないました。」 「………。」 「こんな、卑怯な方だとは存じませんでした。」 「卑怯?好きな女に好きだと言うのが卑怯か。」 「恥ずかしいとは思われませぬか。」 「思わん。」 おりつが絶句した。次の語句を探すうちに、胸がつまって目元にふくれあがるものがある。 「こんな……女の隙に乗じてつけこむような真似があなたの手管でございますか。」 「違う。」 歳三は、再びおりつの腕をつかんだ。今度は振りほどかない。 「男として、正直にしたまでだ。」 「………。」 「欲しいものは欲しい。男とは、それだけだ。」 おりつが下を向いて、いやいやをするように首を振った。言い分は認められぬ、というつ もりらしかった。震えている。嗚咽をこらえているのか、怯えているのかはわからない。 「欲しいもの……?」 「ああ。」 それが今、自分の腕につかんでいるものだ、との説明は必要あるまい。歳三の視線は強か った。おりつはしばらくそれを見つめることすら出来なかったが、ようやく顎を上げた。 「男として……ならば歳三どの、女を盗む事があなたの、男の本分でございますか。」 「盗む?」 「わたくしは早坂の妻です。たとえ、一時あなたにどうされようと、それは消せる事では ありませぬ。」 「あなたは一人の女だ。そう思って言っている。」 「ものだ、とおっしゃいました。」 「持ち物ではない。」 「それでも」 おりつは深い吐息の後で、一度唇を噛んだ。 「あるじはあるじです。」 「………。」 絶望的な拒絶の言葉だった。歳三は、折っていた指を開いて、女の腕を離した。 「ご立派な心がけだな。」 つい、子供じみた憎まれ口が出た。女が黙った。主のある身、という拒否を通すつもりな らば、こうして歳三と二人で一室にいる時間も、疑われれば申し開きの出来ない状況にあ る。おりつが武家の潔癖を通すつもりならば、初めから固く同室を避けなければならなか ったのだ。それをしなかったのは、ただのなりゆきだけではなく、どこかに歳三への好意 がほのめいていたことに他ならない。更に言うなら、あの出会いの時に抜いたと同じ懐剣 を突きつけてでも、この時点で男との距離を離して部屋を出なければならない。それを指 摘すれば、おりつはそれ以上は議論を続けず屈するのみであろう。が、歳三はそれ以上に 女を責めたてることはしなかった。したくもなかったのである。 長い沈黙が座を支配した。 いつの間にか、窓の外から細かな雨音が忍び入ってくるのに気づいた。軒から落ちる雨 だれの音をいくつか数えた、と思った頃、おりつがうつむいたまま、ぽつりと言った。 「では、お抱きなさいませ。」 唐突な心の揺れに、歳三のほうが驚いた。 「なぜ。」 「ここで何があろうと……」 と、言葉を切っておりつはふと、寂しげに瞬いた。 「同じ事でございましょう?」 歳三の思考を見抜いたような言葉だった。 こうした行きつ戻りつの考えを巡らせる女ほど、一度あきらめ、開き直った時の態度は 強い。その裏にある真意をはかりかねて、歳三はそのまま手を伸ばさずにいる。 怖れが生じた。今その言葉に乗っておりつを抱いてしまえば、この女は自害するのでは ないか。歳三は女の貞操などそれほど信じてはいないが、自責の強いおりつなら、或いは という懸念がある。 その間に、おりつの目から再び、幾筋かのしずくが白い頬をつたって落ちている。歳三 は先ほどの荒々しさではなく、無防備な少女のように変わったおりつの肩をふんわりと引 き寄せて、髪の匂いが嗅げる位置に添い、そのままで動きを止めた。 お互いの息だけが聞こえている。歳三はその額ぎわを指で触れてみた。おりつは逃げな かった。しかしごくかすかに震えている。 「こわいのか」 はい、と言う言葉の代わりに、顎の下でおりつの髷がこくり、と下に揺れた。 「禁を破ることが、か。」 いいえ、という代わりに、今度は髷が横に二度揺れた。 「では何がこわい?」 「………。」 「言ってくれ。黙っていられると、俺にはわからん。」 おりつの口が、ようやくまたほぐれた。 「わたくしも正直に言うなら……夫に操を立てるなどという殊勝な心などではありませぬ。 いいえ、むしろ……むしろ……自分の心だけに従うなら……今ここで、何もかも忘れてし まいたい。あなたに、すべてまかせて投げ出してしまいたい。」 歳三は黙った。 「でも……でも、出来ませぬ。たとえ誰にも知られなくても、わたくしが我が身を恥だと 思い、罪だと思っていく事が恐ろしいのです。それが怖くてならないのです。今の暮らし が、辛くて……逃げ出したくても、それが、出来ないのです。……何かが、きっと、壊れ てしまうのが、怖いのです。駄目なのです。」 「………。」 「馬鹿だとお思いでしょう。あなたにはおわかりにならないかもしれない……」 「いや。」 わかるような気がする、だけではあるが、おりつにはおりつで、必死に守ろうとしてきた 暮らしがある事は察しているつもりだった。 しかしおりつは、宙から取り出した短剣のように、突き刺さる言葉を選んだ。 「それとも、歳三どの。わたくしをさらって、逃げてくださいますか。」 歳三は、細めていた目を見開いた。 「剣の道を捨てて、武士になりたいという夢も、あの試衛館のお仲間も、何もかもを捨て て、どこかへ連れ去っていただけますか。」 「………。」 おりつは静かに続けている。 「あなたは、……いえあなたも、お出来になりますまい。女に惚れたと口にするからには、 そこまでのお覚悟をなさる事ではありませぬか。一ときの、ただ我が物にしたい、という 思いに溺れるだけでは済みませぬ。」 これには二の句がつげなかった。正直、今おりつへの思いを遂げたところで、その先の 先まで考えていたわけではない。この頃、人の妻と不義を働いたといっても、事が公にな り大罪に問われることは、歳三の住む庶民の世界ではすっかり薄れていた。一度や二度の 過ちがあったからといって命のやりとりをするほどの事ではない、という習慣が出来あが っていたのである。当の歳三に、おりつを抱え込むほどの責任能力はまるでない。が、古 い道徳の中に住んでいるおりつには、そこまでの一大事になりうる事だということを改め て知らされたときに、歳三は頭から水を浴びせられたようにひやりとなった。 「理屈ばかり、言って……」 おりつは歳三の返事がない事ですべてを悟ったのか、体を離した。あえて微笑した。 「いや、……その通りだ。」 住む世界が違う。 おりつの言葉はそれを示していた。 「片意地をはっている、と、自分でも思います。でも……そうするのがわたくしの生き方 なのですから、仕方がありませぬ。歳三どの、あなたも……ご自分の意地を貫いてお生き なさいませ。それしか、申し上げる事はございませぬ。」 「わかった。」 歳三は大刀を手にとり、立ち上がった。階下に通じる障子を開けて背を向けたまま、 「もう、会いません。すまなかった。」 と、言ったが、女からの答えはなかった。背後でまた、こくりと縦に丸髷が揺れているよ うな気がした。 歳三は歩いた。夜道が雨に濡れている。傘を持たずに飲みに出たらしい町人たちが二三 人、川沿いの道を足早に過ぎ去ってゆく。 歳三は、ゆっくりと川端におり立ち、思い詰めた表情で、じっと立ち尽くした。雨の音 だけが辺りの薄闇を包んでいる。 「……む!」 歳三は、低い気合いと共に佩刀を抜き放ち、虚空を斬った。一振りは上段、ふた振りは 低く横になぎ払い、切っ先が水面を裂いて飛沫を上げた。 「俺ァ、馬鹿だ。」 歳三は呟いて、惨めな思いを振り払うかのように顔を上げた。昼に梳いた髪は雨に解け て、額の上に幾筋か乱れかかっていた。 |
3 |
歳三の足は、そのまま自分でも思いがけぬ方角を辿っている。まつわりつくような冷た い秋雨にうっそりと濡れながら、夜の町を歩いた。間もなく町の木戸は閉まるだろう。こ の時間から柳町の道場へ引き返す気は失せていた。歳三は、雨夜にしんと人気の絶えた町 並を縫ってから、浅草寺にほど近い長屋の戸を、ひそやかに叩いた。中からは、いぶかし むように女の声がした。 「誰?」 「俺だ。」 この名乗りがまだ通じるかどうか懸念はあったが、声の主にはすぐにわかったようである。 「……歳さん?」 軽い驚きを伴いながら、語尾が上がった。 「ああ。」 間もなくガタガタと音がして、戸が開いた。中から、お品という女の顔がのぞいた。 「……珍しいこと。」 わずかな灯火を背にした暗がりの中で、女がしみじみと言った。確かにそうである。 「しばらく。」 歳三はややばつの悪い感触を隠すように、短く言った。 「上がってよ。」 歳三は、かつてそうしたように、音もなく中へ入った。女はもう寝ようとしていたらしく、 夜具がのべてあった。お品はそれをささっと折り畳んで狭い部屋の角に押しやってから、 たんすの引き出しを開けつつ、尋ねた。 「ずぶ濡れじゃないか。そんなに降っている?」 「川泳ぎをしたのさ。」 「この陽気に?」 「……寒い。」 「馬鹿だねえ。早く、脱いで。」 お品は呆れ声を出しながら、ありったけの手拭いを出してやっている。 「これでもかぶっておいでなさいな。」 お品は、歳三の裸にちょっと目を背けるようにして、古びたどてらを寄越した。歳三は 褌を脱いで、ぽんと板の間に放った。埋み火を起こしてからしばらくして、お品は燗酒を 出して来た。 「熱燗はあまり好きじゃなかったっけね。でも、あったまるから。」 「ああ……。」 歳三は、苦い顔をして酒をあおった。もともと、自分から口にするほど酒が好きなわけ でも、強いわけでもない。しかし、夕刻に喉を通した酒のぬくみは、雨に打たれた事です っかり冷めてしまっていた。手早く体温を取り戻すためにも、ここは女の好意を受けるべ きだろう。 お品が再び台所に立っている間に、歳三は何気なく部屋の隅を見た。角に黒い金具を打 った煙草盆が、綺麗に拭き清められて、片寄せてある。 (……吸わぬはずだが。) そういえば、今手にしているぐい飲みも、見たことがない。女所帯にしては、ごつい手 ざわりのする器である。 「お腹はすいてない?」 「いや。食いたくねえんだ。」 空腹ではない、といえば嘘になるが、改めて腹に入れたいという気は起きなかった。それ よりも、歳三の満たされぬ部分は他にある。 そう、と言って気抜けしたような返事がすると、歳三は顔を上げた。 「お品。」 「何?」 歳三は、手を伸ばしてお品の腰を引き寄せた。一瞬だが、女が戸惑ったような仕草をした。 「困るか。」 「……困りゃしないけど……」 当惑した顔を誤魔化すように、お品はくすっと笑った。歳三の手をはずし、立ち上がって 帯を解き始める。小さく呟いた。 「勝手だねぇ。」 「………。」 「いいよ、あっためてあげる。」 その言葉で歳三とお品の中に残っていた埋ずみ火に、風が吹き込まれた。歳三は酒の香を すべて体内から押し出すように、お品の肉の熱さに溺れた。しばらく肌をあわせなかった ことの戸惑いは急速に掻き消えて、そこにはかつて何度も馴染んだ二つの体があり、互い の記憶を呼び覚ますかのような探りあいの時が、呼吸と途切れ途切れの声だけを交えなが ら、ただ黙々と流れていった。 夜更けて、歳三はお品と一つ布団の中にいる。さっきまでの荒々しい時間が嘘のように、 静もった空気だけが部屋の中に満ちている。お品は童女のように、歳三の胸のあたりに顔 を伏せて、幾分肩を縮めて忍び寄る夜気を防ごうとしていた。その位置なら男の鼓動まで よく聞こえるはずである。歳三は、掻いた汗がすっかりひいてしまった頃に、ぽつんと口 を開いた。 「なぜ、何も聞かねえ。」 お品はふっ、と笑った。昔からあまり声をたてて笑わない女である。 「聞いたほうがいいの?」 「………。」 「どうして、一年余りも放っておいた女のところへ、今頃になって……なんて、さ。そん な顔じゃ、どうせ楽しくない話に決まっているもの。ただ、歳さんがあたしに会いに来て くれたっていうだけで、いいの。」 そういえばそれほどの月日が立つかな、と、歳三は改めて思ったが、急に疲れが押し寄せ て来て、手足も動かぬほどの倦怠に支配されながら、暗い眠りに落ちていった。 体に溜まった体液を吐き出した後のけだるさの中で、歳三は女の身支度をする気配に目 を覚ました。以前ならこの家に泊まった時は、お品が揺り起こしてもつねっても目覚めな い、という事が多かったものだが、やはり久しぶりに来て、いくらか布団の勝手が違うと 感じていたためかもしれない。お品は、歳三の顔のあたりは影になるように、気を遣って 反対側の雨戸を細く開け、斜めに差し込んだ光の中で帯を結んでいた。全体に細身ではあ るが、少し下がりかけた胸と腰の丸みは、ちょうど男の手のひらに扱いやすい程度の大き さには熟れている。歳三は、情事の相手にあまり若い娘は好まなかった。お品もそろそろ 年増から「大年増」と呼ばれる過渡期にいる。しかし、細い子持ちの縞模様の着物を手馴 れた動作で整えるしぐさは、男を迎え入れた翌朝のためか、ほんのりと若やいで見えた。 「どこへ行く。」 歳三は、枕に頬をくっつけたまま、やや眩しげに目を細めて尋ねた。 「お勤めよ。」 「こんな早くにか。」 と、歳三はつい、一年以上も前の習慣にとらわれたままの質問をした。何時間ほど眠った かはわからないが、お品の勤めといえば昼過ぎにようやく起きだして、日が翳る少し前に 出かけるもの、と決まっていた。この日差しの加減はまだ世間並みの朝のものに違いない。 「あそこはやめたの。今は、まっとうな昼の店……たいした稼ぎにはならないけどね。」 「ふうん。」 歳三は気のない返事をした。しゃべりながら振り返ったお品の化粧は、昼の店にふさわし く、以前よりずっと色味を控えてある。自嘲気味の薄い笑いが言葉に混ざった。 「もう、濃い紅をひいてお酌をしたって、お客に喜ばれる年でもありゃしないしさ。…… おまんまは支度してあるから、好きにしていてよ。夕方には帰ってくるから。」 「ああ。」 お品は、やがて軽い下駄の音を響かせて出て行った。歳三は、昨夜の雨とその後に吹き 出した汗で蒸れたらしく、やや痒くなった頭を爪で掻きながら、あくび一つをして、布団 の上に起き上がった。なるほど、箱膳の上にかけられた布巾をめくってみると、簡単なが ら食べるものの支度がしてある。呑みかけた一升徳利は、台所の目につく場所にまだ置い てあった。厠へ行こうかと思ったが、路地の向こうから井戸端で洗濯をしているらしい近 所の女たちの声が聞こえているので、顔を合わせるのも面倒になり、立ったついでにその 徳利をつかんで、再び寝間に戻った。 (我ながら……情けねえな。) おりつを我が物に出来なかった代償に、お品に慰めてもらいにきたようなものである。 歳三は布団の上にあぐらをかき、冷や酒を飲みはじめた。 歳三は、初めての女で大失敗をやらかして後も、何度か寝る女を変えてきたが、お品は 通算すると一番長い年月をつきあったことになる。薬売りの行商先の旦那に連れられて、 何度か通った飲み屋の小女だった。といってもそれほど下種な店ではなく、そこそこに風 采の良い旦那衆なども常連にはおり、酔客の間をひらひらと立ち働く何人かの女たちも、 世慣れて小奇麗な、いかにも江戸の水で磨きをかけたという、渋皮の剥けたようなのが多 かったから、店は賑わっていた。お品も含め、十代の若い頃には水茶屋の茶汲み女をして いた、というのや、深川や品川から流れてきた、というのもいた。無論、その店でも特に 客の要望があって話がつきさえすれば、酒の酌以外にも同伴する事がありそうな気配は察 していたが、歳三は水商売の常として気にもしなかった。都会で効率よく女が稼ぐには、 男と寝るのが一番早い。 お品は、歳三が贔屓の旦那と二人連れで小座敷で酒を呑んでいた時に、旦那が厠に立っ た隙をみるかのように盆を下げにきて、 「いつもお連れなんですね」 と言った。歳三はむすっとした顔をして、 「金がねえからさ。」 と答えた。旦那を財布代わりにしている事を正直にこぼしたのも、ひそかにこの女を「い い」と目をつけていた事の裏返しかもしれない。しかしお品はふっと声のない笑みを見せ てうなずいた。歳三の手がお品のなだらかな腰にすっとかかった時も、お品は盆を持つ手 を傾けはしなかった。そんなきっかけで、二人は、できた。女が一人暮らしと知ったのは 懐の寒い事が多い歳三には好都合であった。歳三は江戸に出てくる度に、或いは時々、生 来の気まぐれが起きて商いを数日ほっぽらかしては、この長屋に篭った。しかし、いつの 間にか足が途絶えて、この間来てからもう一年以上になる。この間、歳三がお品一人とし か寝なかったといえば嘘になる。つかず離れず、何の約束も決め事もない間柄で、これと いった文句ひとつ言わないのがお品の特徴であったのだ。 その歳月の間に、歳三も若者と呼ばれる季節を過ぎようとしていた。女であればとりあ えず抱いてみたい、という旺盛な欲求は少しずつ失せていき、たまの女郎買い以外には、 肌の合う女でなければかえって面倒だ、という年齢相応の趣向が出て来た。お品と一番長 く続いたのは、閨でのお品が最も歳三の好みにあっていた、からに過ぎない。お品がこの 長屋にいる時以外に、どの男を客にとって副業としようが、どこの店に商売替えをしよう が、知るつもりもなかったのである。薄情といえば薄情であろう。 呑むでもなく寝るでもなく過ごしているうちに、夕刻になってお品が戻って来た。 「あら、そんなに飲んで……歳さんにしちゃ珍しいね。」 そこは玄人だから、歳三がどの位の酒量を過ごしたのかは、見ればわかるらしい。確かに 徳利の中身は随分と軽くなっていた。胃がわずかに痛む。 「もうおよしよ。飲んで青くなるひとは、悪酔いするっていうから。」 「青いか。」 「うん。体に毒だから、何かお腹に入れなきゃ。」 お品は都会の女の通例で、既に出来上がった寿司やら惣菜やらを急いで買ってきたよう だが、温かい汁物くらいは自分で作って添えようと思ったらしい。台所に立ち、菜を刻む 包丁の音をさせながら、 「歳さん。あたし、ねえ。」 「うん。」 「三日、休みをもらったの……だからさ。ゆっくりしていってよ。」 「いいのか。」 たいした稼ぎにならない、と言ったのは今朝である。その上に休みを三日も貰えば、給金 に響くのは間違いない。 「ええ。じきに、辞めるつもりの店だから……むきにならなくてもいいの。くにから弟が 来ているって言ったら、許してくれて。」 「弟?俺ァ、おめえよか二つ年上だぜ。」 歳三は苦笑した。言いながら酒と飯をおごられようとしているのだから、威張れたもので はない。 「だって、どうかすりゃ歳さんのほうがあたしよりずっと若く見えるもの。あたしの兄さ んは十三も離れているって、店の人に話してしまったしさ。」 お品も外で働いているから実年齢よりは若く見えるほうだと思うが、確かに歳三が四十男 には見えまい。お品の気の回しようをおかしがっていると、台所から鰹でとっただしの匂 いに続いて、味噌をといた湯気と香気がぷん、と漂ってきた。 一夜のつもりが三日も続けて同じ夜具の中でからみあっていると、歳三はどうしたわけ か、おりつと別れた「たつ次」の二階での出来事は遠い昔の事のように思えて、ふと、初 めからお品を抱くために柳町の道場から出かけてきたような錯覚にとらわれた。睦みあっ た年月のある男女は、肌を合わせると昔に戻るのが早い、と誰かに聞いたような気がする。 酒を含んだ息の匂いにも、お品は顔をそむけたりはせず、吸った唇を動かして合わせてく る。歳三は、時に貪欲なほどに女の肌身の中に埋没した。お品もまた、以前はこれほどで はなかったような、と思うほどまともに女の欲望をさらけだして、歳三の体にからみつい てきた。 「歳……さん……」 お品は、歳三の激しさに耐えている。時々は耐えかねて、両手で歳三の胸を押し返し、急 激な動きを制止しようとした。無論、そんな抵抗は役にも立たない。 「気が、遠く……待って……。」 言葉になるのはほんの時々で、あとは必死にこらえた呼吸に混じって短い声が続くばかり となる。お品は目をきつく閉じたまま、手探りで指を動かし、枕元に投げ出された手拭を 掴んで、自分の口に運んで、噛んだ。隣家にまで聞こえるほどの声を出すまいとしている ようであった。それでも、汗みずくになって熱くなりきった顔をいやいや、というふうに 横に激しく振ると、手拭は落ち、最後の懇願を漏らした。 「死んじまう、よ……。」 その後でお品は小さく叫び、がっくりと息絶えたようになった。歳三は夜目の中にその表 情を見届けると、今度は自分も目を閉じて、頭の中が真っ白になるのを覚えながら全ての 力を絞り尽くし、死体のように女の上に体重を投げ出した。 深夜になっている。歳三は、疲れ果てて寝入ったはずがふと目覚めて、正体もなく動か なくなっているお品の横で、天井を見つめていた。互いの汗を拭いた後で、お品はいつの 間にか襦袢を着たらしい。歳三が眠りにつく前は裸形だった。 もっとも、お品が一糸まとわぬ裸のまま隣に横たわっていたとしても、歳三は腰から下 がすっからかんになるほどに出すものを出してしまって、再び何をする気も起きなかった ろう。こんなに続けて女を抱いたのは久しぶりだった。ひとまわり痩せたような気さえし た。 体内のもやもやが出きってしまうと、今度は奇妙なまでに、頭の中は冷え切ったように なり、ある重苦しい惑いが戻ってきた。 歳三は、横に眠るお品に惚れてはいない。惚れた、と口にしたのは自分を手厳しく拒ん ではねつけたおりつである。 ―――そのような女だとお思いですか。 と、おりつは言った。簡単に身を許すような、と言い換えてもよいだろう。無論、そんな 事は毛ほども思っていなかった。お品は、おつりが言った「そのような」女である。別段 おりつが他の女を見下して言ったわけではなかろうが、歳三を喜んで求めるのは、確かに そのような、お品でしかなかった。代償行為だという事は、歳三にも嫌というほどわかっ ている。 煤けた天井のしみを見上げてまんじりともせぬまま、歳三はふと、おりつの青ざめた小 さな泣き顔を思い浮かべた。三日も抱き合った女の横で、もののはずみに近いほどしか触 れる事のなかった女を思い出すとはどうした事であろう。 (俺って奴は、女の痛手を、別の女の肌身で癒してもらうしかねえのか。) 歳三は、ちらりとお品の寝顔を見た。何年つきあっても他人のような、それでいて馴れき ったような、微妙な距離感のある寝顔が、軽く唇を開いて息をついている。 (いや……はじめから、俺にはお品みてえな女が分相応なのかもしれん。何の気取りも気 兼ねもいらねえ。お品ならかたっ苦しい事は何も言いやしねえ。) その時、お品がふいに寝返りを打ち、体の向きを横にして、ちょうど歳三のほうに向く 格好になった。緩んだ胸元から曲線が下に落ちて、「う……ん。」という声と共に、片側 の乳房が現れている。 さっきまで自分が顔や手をうずめたその丸みを見るともなく見ながら、歳三は、背筋に ぞっと這うようなものを感じていた。 (一生、遊び人のヒモみてえに、細々とした暮らしを送るのか。このまま、あてもねえ場 末の剣術屋で終わるのか……おお、嫌だ嫌だ。俺には、できっこねえ。) ぶるっと身震いが走ったのは、寒気が忍び込んだせいばかりではあるまい。歳三はお品 の襟を合わせて柔らかい乳をしまってやりながら、 (お品は、いい……確かに、楽だ。だが……俺ぁこの女といると駄目になっちまう。この ままずるずると、こじんまりした裏店の暮らしに慣れっこになっちまう。それが怖くて、 俺は、こいつから遠ざかったんじゃなかったか。) 歳三は左腕を顔の下にあて、女に背中を向けて、眠った。 |
4 |
飽きるまで遊んでいてくれればいいよ、とお品は言っていたが、目覚めればもらった休 みの三日目、の朝になっていた。お品は起き上がって身支度をしている。 「お品、俺は……」 歳三は、今日は言わねばなるまい、と自らも身を起こして口を開いたが、 「聞きませんよ。」 と、さらりと先を制された。そして何を思ったのか、お品はふと窓を開けて、 「いい天気だこと。ねえ、大川へ出てさ、舟にでも乗らない?」 と、いつにない提案をした。 「舟?」 「歳さんも、そろそろお天道様にあたらなきゃ。それに……今日は、外を歩きたい。あん たと。」 「面倒だな。」 「何言ってんの。一宿一飯の恩義っていうだろ。それくらいきいておくれよ。」 お品は冗談とも本気ともつかないあねさん口調でそう言った。かつて、何日転がり込んで ただ飯を食わせてもらっても、恩着せがましい事は言ったことのない女であった。お品は 先に目覚めた時、すでに外出の心積もりをしていたのであろう。眉を綺麗に整え、昨日よ り幾分濃い目に紅をひいていた。 なかば無理に連れ出された町中で、歳三は照れ臭いのか、横のお品ではなく、前を見て 歩いている。昼前の町で、男女の二人連れは珍しい。見ようによっては、夫婦者にも見え るだろう。お品はなぜかしみじみと今気づいたように、 「初めてだよね。あんたと外歩きするなんて。」 「………。」 「あたしとは、だけどさ。」 声はさりげないが、皮肉が混じった。歳三はややむっとして、訂正にかかった。 「俺も初めてさ。女連れで町なかをちゃらちゃらと出歩くほど、ふやけちゃいねえ。」 「本当かしら。だとしたら、光栄だ。」 本当かしら、という言葉に、歳三はふと、無意識のうちに嘘をついていた事に気づかされ た。短い距離ではあったが、ほんの数日前に女連れで堂々と歩いている。まさかお品が、 藤吉の店近くへ行く用事があるはずもないが、おりつとの事を知ればやはりいい気持ちは するまい。もっとも、あの時はおりつと連れ立って歩いたといっても、背中で女中のお初 が眠りこけていたが。 お品にとっては知った道筋らしいが、この通りは歳三は歩いたことがない。お品は、こ じんまりとした古着屋の軒先に足を止め、立ち止まっている。 「どうした。」 「え……。」 「何か、欲しいのか?」 ちなみに庶民にとっては、反物から着物を新調する、などというのは値がはるので滅多に ある事ではなく、ひとたび衣装を作れば一生もの、であった。しかし人のほうは好みも変 われば年もとるので着るものは取り替える。よって、リサイクルとしての古着の売り買い はごく当たり前の事であった。 お品は軒近くに吊り下げられている客引き用の女物を何枚か眺めて、少しためらったあ とでこう言った。 「うん。何か、買ってくれない。」 「俺が?」 「他に誰がいるのよ。」 それもそうだ、と歳三は思った。暇そうな店の前には、他に人影もない。 「珍しいな。」 お品が笑った。 「珍しいも何も……あたしが、歳さんに何かねだったことなんか、一度もありゃしない。」 「そうだった。」 お品が金のかかる女であれば、歳三はとっくに続かなくなっていたであろう。何しろ、日 銭の稼ぎは客に心づけをもらう女のほうがずっといいくらいなのである。それでもお品は、 水商売の女にありがちな人目を引くようななりは好きではなく、流行の柄だ化粧だ、に凝 るほうでもなく、いつも小ざっぱりと装うだけの女であった。歳三はいつも手ぶらで行っ て、何となく抱き合って帰ればそれでよかった。一度、珍しく歳三のほうが実入りのいい 仕事に当たった時に、櫛か着物でも買ってやるかと言った事があるが、お品は嬉しそうに しながらも戸惑って、ううん、と首を振っただけであった。それ以来、買い物の話は立ち 消えになって随分長い月日がたっている。そんな事を今日思い出したのかもしれなかった。 「何でもいいのよ、身につけるもんなら、半襟でも、腰巻でもさ。」 「腰巻ってわけにゃいくまい。」 歳三は、そっと懐の中を算段している。試衛館を出る時に、いざ、という別の目的の為 に入れて来た金が、古帯の中にある。歳三にとっては虎の子というべきものだが、ここで お品の為に使ってしまうのも一興かもしれない。確かに、この女には支払うべき借りがあ り、それなしには舟に乗った時の話がしづらそうであった。歳三はそう決めてから、女物 の袷を物色している。 「どんなのがいい。」 「さあ。お見立てしてよ。」 お品は、含み笑いをしている。寝物語の合間に、呉服屋に奉公に出された事を聞いて、 歳三が「門前の小僧」ならぬ丁稚小僧だった事は知っている。もっとも、その後二度目の 奉公で女中と不首尾の情事に終わったことまでは、話していないが。その話を聞いた時に お品は、歳三はセンスがいいから、本気で続けていればいい呉服商人になれたかもしれな い、という意味の事を腕枕の上で言っていた。 「ふむ。」 歳三は真面目な顔をして色柄を見、深い藍色の地に、小さく紅葉を散らした柄の着物を 選んだ。 「ちょっと渋いかね。」 歳三は身頃を手にとり、お品の襟元に合わせてみた。落ち着いてよく似合う。 「これで、いいか。」 「ええ。」 お品は素直に気に入った様子で、パッと華やいだ微笑を浮かべた。それからお品を外に 待たせておいて、歳三は帯の間にはさんでおいた虎の子をはたいて、それでも足りずにや や強引な口調で店主の渋面を尻目に値切り倒してから、何食わぬ顔で店を出た。 その後刻。二人は川へ出て、小舟を仕立てている。秋も深まった川面を渡る風は思った より冷たい。お品が金を出して、半刻でいいから流してくれと雇った船頭は、男女二人連 れの客に気をきかせてか、あちらを向いたまま黙って舟を流している。ちょっと痩せた男 だった。空も水も青く澄んでいて、流れを無邪気な顔で見つめているお品の後れ毛が、横 になびいている。 「これ。」 「え?」 「かけな。風よけになる。」 歳三は、さっき買ってやった着物の包みを解き、上着の代わりにしろと差し出した。お 品はうん、とうなずいて、ふわりと着物をはおった。 「この季節に、舟遊びとは……。」 と、歳三が呟く。 「風流?」 お品が尋ねた。 「物好きさ。」 愛想もない答えに、お品はくすっと笑った。 「なんだかさ、一緒に外へ出てみたかったの。……最後の、ぜいたくね。」 「最後の?」 「ええ。うんと、ぜいたくした。身も、こころもさ。」 お品は、ふっと目をうるませて視線をはずした。少しの間があいて、船頭が舟を操る音だ けが川波の音に変化を添えている。 「何か……話があったんじゃねえのか。」 半ば察していながら、歳三は切り出した。お品は振り向いて、 「え?」 「言えよ。」 「うん。」 お品は、再び水面に目を落としたまま、 「あたしねえ、……じきに、江戸を出るんですよ。」 「え。」 「嫁に行くの。いい年して、おかしいでしょ。」 「……いや。」 言いつつ、歳三は多少驚いている。新しい男の存在と、別れ話になるだろう事は感じてい たつもりだが、そう直截な話がこの女の口から出るとは予測していなかった。先にお品に 言わせたのは、どのみち同じ話になるのなら、花を持たせて譲るつもりだったのである。 そういう歳三の心の動きを知っているのかいないのか、お品は淡々と続けた。 「向こうは、二度目だけどさ……おかみさんは早くに死んで、子供もいないから、そのへ んは気楽なものよ。」 死別の後妻はそれなりに難しいもの、とも聞くが、お品は頓着していないらしい。確かに 三十に近づいた女の行き先としては、後添えの女房あたりがよいところだろう。まして、 お品にも様々な過去がある。 「聞いたほうがいいのかね。」 「何を?」 「どんな男か、さ。」 「職人よ。……馬鹿がつく位、真面目な、いいひと。」 「ふうん。」 「くにで、仕事をしたいんだってさ。今、向こうで家をさがしてる。それが見つかったら、 あたしを……」 「迎えに来るのか。」 「来月には、ね。」 「……急だな。」 と、言った歳三の声音には、昨日まではまだ自分のものだと思ってきた女を、唐突に見知ら ぬ男がさらっていくような、わずかにうずく嫉妬が混じっている。 お品は小さく笑いだした。 「でもないけど。急に来たのは歳さんじゃないの。」 「ふむ。……そうか。」 言われてみればその通りである。歳三の思いつきがあとひと月も遅ければ、お品はあの家か ら去って、嫁に行ったと他人の口から知らされた事だろう。 「そうよ。」 「しかし、じゃあ、なぜ俺を家に入れた?」 お品は答えない。 「まずいんじゃねえのか。その……いいなづけにさ。」 その言葉があまりに改まっていておかしかったのか、お品はまたふふっと笑った。 「……かもねえ。」 お品は微笑したまま、目を瞬かせている。 「月に一度や二度でも、あんたが通ってくるうちは、あたしは歳さんのものだと思ってい た。あんたが他の女と寝ようが、新しい刀だ撃剣だと他のものに気をとられていようが、 ただ女の体と、その日の晩飯を求めてくるんだろうが、あたしは構わないつもりだった。 あんたを待っていられるうちはそれでよかった。でもね。待つのがみ月になり、半年にな った時に、あたしの中であたしは一人になったの。からっぽの空家になっちまったの。そ こへすうっと滑り込んできたのが今のひとだった。初めて抱かれるまでに、またみ月かか った。そのひとに抱かれている間に、トントン、と戸を叩く音がしやしないかと思った夜 もある。でもね、いつの間にかあたしは……あんたとは違う足音を待つようになっちまっ てたんだ。こっちがいいよ、と言わなけりゃ着物ひとつ脱がす事の出来ないような、来る 時には佃煮やら団子やら、土産のひとつも買ってこなきゃ入れてもらえないと思い込んで るような、ぶきっちょな男をあたしは……あたしの持ちぬしにする事に決めてしまった。 それでも、そのひとに不義理をしてもあんたを家に入れたのはね。」 と、ここまで言ってからお品は言葉を切って、 「言ったでしょ。最後の、ぜいたく。……あたしの、女としての、さ。」 今度は歳三が黙った。 「だって、好きだったんだもの。あたし、歳さんのこと好きだったんだよ。しんそこ惚れ てたんだ。」 「………。」 「惚れた男がさ、あたしを思い出して会いに来てくれたら、嬉しいに決まってるじゃない か。何だか心細い顔してさ、あたしの肌のあったかさが恋しくてしがみついて来たら、嬉 しくって仕方ないじゃないか。」 この時ばかりはお品の顔が歪んだ。目がうるんでいる。歳三は、自分がいかに残酷な事を 積み重ねてきたかを無言のうちに責められたような気がした。 「江戸でひとつくらい、ぜいたくな思い出が欲しかったの。」 お品は、はあっと大きく息をついて、 「これでもう、心残りはないわ。……ありがとう。」 お品は、薄い唇を横にひいてふわりと微笑んだ。この瞬間から、お品にとって歳三は過去 のものになったようだった。 「お前は……いい女だったな。」 「いまさらお世辞なんて。」 「舟が着いたら……」 「……うん。」 それっきり二人は黙って、揺れに身を任せていた。舟着き場から、歳三は一人、お品を後 にして去った。 川端を離れてから、歳三はぼんやりと歩いている。 (このまま、試衛館に帰る気がしねえ……) だが、女遊びはこりごりだった。ここ数日、べったりとお品とつきあったことで失恋の痛 手が癒えるどころか、よけいに物憂くなっている。 (御籠りでもするさ。) 歳三は半日をかけて歩き、薬売りのついでで知り合った懇意のぼろ寺に転がり込んだ。住 職はもう七十にはなろうという枯れ木のような老人である。金のない時は、歳三はたまに この寺に転がり込んで、和尚のひま話につきあいつつ数日暮らすという事があった。口の 悪いジジイで、およそ聖職者とは言い難い砕けたところがあり、それゆえにこの寺は流行 らないのだが歳三は気に入っている。和尚は歳三の顔をひとめ見るなり、 「ほ、ほ。相変わらず……煩悩だらけの面をしておるの。」 「毒消しに来たのさ。」 「お前が、座禅かね。大方、遊び疲れて軍資金も底をついたというところじゃろう。」 「当たらずといえど、かな。」 「よかろう。そうじゃの、三日も何もせず座っておれば少しはそのくたびれきった面構え がましになるじゃろうよ。」 何をして暮らしているのかよくわからない和尚で、「離れにはあまり近寄らんようにの」 と注意を与えたのみで、滞在を許した。これまた、何をしているかよくわからない浪人が 離れの障子をわずかに開けて書き物をしているのが時折見られたが、歳三は言われた通り 口をきかなかった。 歳三はおとなしく、座禅三昧の三日を過ごした。三日目になって、やはり歳三の顔を見 ながら和尚がまた、にやりと笑った。 「ふふん、やはり、無駄じゃな。」 「何が。」 お前など、百年も修行したところで、悟り澄ますなんて芸当はできまいよ。世俗の塵芥に まみれて傷だらけで生き抜く面相をしておる。」 「ちぇっ。」 「もう、あのオンボロ道場に戻って、棒っきれでも振り回した方がよかろうよ。少なくと も、女臭いにおいだけは抜けた頃じゃ。」 「人ンちをぼろと言えた柄かい。」 「はっはっは。」 和尚はこりこりと小茄子の漬物をかじっている。歳三は、和尚と向かい合って渋茶をす すりながら、ふと目を上げて、 「離れの浪人……」 「む。」 「おおかた、攘夷だなんだと騒ぎを起こしてお上に追われている奴じゃねえのかい。」 「忘れることじゃ。」 「見たってことをか。」 「さよう。でないと、お前さんをただ帰すわけにいかなくなる。」 「わかったよ。」 出発の前、歳三が口をすすぎに井戸へ回ると雑然と繁った庭木の間に隠れるようにして、 離れのぼろ小屋がある。そっと窺うと、障子が開いて意外にも浪人の方から姿を見せた。 「お帰りになるそうですな。」 年の頃なら五つか六つは上だろうが、それ以上の落ち着きを含んだ静かな声である。 「御籠りは、性に合わないらしい。三日で破門ですよ。」 「剣が強いとおききした。なるほど、相当お使いになるようだ。」 「……どうですかね。」 歳三、ひやりとする。 (こいつ、ただものじゃねえ。) 浪人は態度は物静かだが、目にぞくりとするような人を威圧する凄味がある。 「あんた、上方からかね。」 江戸とは逆の言葉尻になる訛りからそう問われた浪人は黙っている。 「京、か。」 重ねた問いにも浪人は黙って、薄く笑っている。 「和尚が、あんたのことは見ぬふりをしろという。だから、忘れるさ。」 「ありがたい。」 「おかしな世の中ですな。あんな、浮世離れした爺様までが、尊攘熱にかぶれて浪士をか くまったりするらしい。」 「和尚には、他意はない。ただ、旧知の友人をしばらく置いて下さったというにすぎませ んよ。」 「うさんくさい男が好きなのさ。いや、毛色の変わった男というべきかね。」 「……男というものは、時として思いもかけぬ変転を見たりするものですよ。好むと好ま ざるに関わらず、いつのまにか、毛色の変わった男になってしまうことがある。」 「ふむ。」 「好きな女を抱いて、安閑と市井に埋もれて暮らすのも一生なら、一剣を抱いて火中に飛 び込むのも一生。どちらも……男には、選ぶことが出来る。いや、選ばざるを得ない時が あるものです。」 「………。」 「今は、乱世です。どんな男にも、運の変わる芽はある。」 「ほう。」 「むろん、あなたにも。」 「なぜ、俺にそんなことを。」 「さあ。少し話をしてみたかった。退屈しのぎですかな。」 歳三は目礼をして、その場を去った。そのまま裏門を抜けて、林の中へ入り、ふと足を止 めた。 (斬るか、あの男。) なぜそう思ったのかわからない。男は政治犯らしいというだけで、歳三はただの、市井の 無名剣客にすぎず、後年新選組の副長となったときと違い、男と敵対する立場があるわけ ではない。何か、遠い予感のようなものだろう。 (しかし……斬れるか、俺に。) 歳三は、ぶるっとわけのわからぬ身震いをして、ゆっくりと背後を振り返った。あの男 の視線が追っているような気がしたのである。 (場末の喧嘩じゃねえ。ほんものの、修羅場をくぐってきた男の、気迫ってやつか。俺は 今、あいつには勝てねえ気がする。) 歳三は足を早め、あとは振り向きもせず柳町の試衛館道場へ帰った。 ぶらりと帰ってきた歳三は、まず近藤の居室に挨拶に出向いた。障子は開け放たれてい、 近藤は机に向かって何か書き物の最中らしい。 「勇さん。」 歳三はきちんと膝を付き、頭を下げた。 「ただいま、戻りました。」 「おう、歳さんか。……しばらく見なかったが、どうした?」 「勝手に留守をして、申し訳ありませんでした。」 「馬鹿にかしこまってるじゃないか。」 「師匠様だからね。」 「よせやい。」 近藤は笑って、 「さてはお前、またどこかで悪さをしてきたな。」 「悪さ?」 いつづけ 「道場の連中は、情のこわいイロにでもひっかかって、流連してるんじゃねえかなんて言 ってたよ。」 歳三は複雑な顔をした。寺といい道場といい、よほど女遊びばかりしていると思われてい るらしい。さほどに伴っていない実態は自分が一番よく知っている。 「お前さんが、断わりもなく何日も空けるのは珍しいからな。ひょっとして、図星かい。」 歳三はにが笑いをしつつ、 「悪さは、しかけたがね。」 と、言った。 「え?」 「いや、なんでもない。……女には、ちょっと懲りたよ。」 「なんと。」 近藤、細い目を見開く。 「どうしたわけだ、歳さん。」 「いや、昔のはなしさ。」 と、言った歳三の言葉は嘘ではない。わずか数日の間に、おりつもお品も、昔のことにな ってしまったような気がしていた。このへんは寺泊まりの効能かもしれない。 近藤はからからと笑って、 「そうかい?俺ぁ、お前はこと女に関しちゃあ、剣術よりも手だれだと思っていたがなあ。」 「ひでえな。」 「その歳三様に、懲りた、と言わせる女がいたとはな。ふふふ、これは愉快だ。」 歳三はむっとした顔をつくった。 「愉快なもんかね。」 「いや、江戸の女も捨てたものじゃない。そうそう、土方歳三ひとりの思いどおりになっ てもらっては、面白くないからな。」 近藤はなおも笑っている。そも、歳三と二人で女郎買いや酒を飲みに行っても、武骨な近 藤は金主であっても女どものウケが悪い。勝気なだけにその点が気に入らず、一頃一緒に 遊びに行くのはやめていた事がある。歳三は歳三で、近藤のような女房持ちになるほどの 甲斐性がなく自慢された事もあったのでどっこいなのだが、 「おつねさんに、言うぜ、今の。」 近藤はごほ、と咳払いした。 「や、うむ、その。」 「とにかく、当分女にうつつをぬかしていられる身分じゃねえってことさ。休んだ分、気 をいれて稽古でも何でもするよ。」 女を抱きたさに歳三が町中を彷徨っている間にも、男としてひそかに戦っている者がいる。 それはあの浪人の静かな威圧感に現れていた。歳三は、人に負ける事が嫌いである。近藤 はそんな経緯を知らないからまた驚いた顔をして、 「まさに、晴天のへきれき、だな。おい歳よ、おめえ、大丈夫かい。」 近藤は歳三の顔をのぞき込むようにし、堪え切れず吹き出す。 「狐でもとっつけて帰ってきたか。は、は、は……」 歳三はますます苦い顔をして、 「勇さん。あんた、総司にかぶれて、へらず口が増えたぜ。」 「そうか?」 「それに、普段おっかねえ面をしているくせに、その笑い上戸がいったん出始めたら止ま らねえのは気イつけたほうがいいな。」 歳三は近藤の文机の書物を指した。 「いくらこ難しい本を読んでにわか学問を積んだって、いっぺんに威厳がふっとんじまう ぜ。」 「うむ。そうかそうか。」 「じゃあ、俺ァ、道場へ出てくるよ、先生。」 と、歳三が立って行きかけると、その背に声がかかった。 「歳さん。」 「ん?」 近藤がにこにこしている。 「やはり、へらず口はお前の方が上だな。」 「………。それぁ、どうも。」 歳三は、ちぇっ、というばつの悪い顔をして、軽く会釈して出て行った。近藤は背後で、 まだ笑っているらしい。 その後刻の道場裏手の井戸端で、稽古を終えた歳三が勢い良く顔を洗っていると、横か ら沖田総司が手ぬぐいをひょいと差し出した。 「はい。うわ、すごい汗だ。」 歳三は顔を上げて、 「なんだ、お前か。」 と言いながら受け取り、顔をごしごしと拭った。 「なんだはないでしょう。久し振りに会ったのに、ご挨拶だな。」 「何を言いやがる。さっき、俺が道場に出たら、おめえ、そそくさと逃げ出したろうが。」 「逃げ出したのは土方さんのほうでしょう。」 と、試衛館ではまずへらず口でも塾頭になれる沖田は言った。 「何を。」 沖田は指を折りつつ、 「ぷいと出たきり、かれこれ……七日も顔を見せなかったんですからね。私はその間、精 をだしてお勤めを果たしてきたんですから。土方師範代がお戻りになったからには、少し くらい楽させてもらわなくっちゃ。」 沖田が妙な肩書きをつけて歳三を呼ぶ時はからかっていると相場が決まっている。 「そんなに忙しいもんかよ、おめえが。」 「これだ。」 「後で立ち会えと言ったのが、聞こえなかったか。」 「いやですよ。」 笑い出した。 「何が。」 「なんか尋常じゃない顔つきで現われたと思ったら、『後で、一手お願いする』なんて、 妙にくそ真面目に言うんだもの。くわばらくわばら、ですよ。」 「なんだと。体がなまっているから天才沖田塾頭の手厳しい教えを乞おうと思ったのによ。」 歳三の天才云々も、勿論日頃から人に誉められる沖田へのお返しである。 「ふふふ。そういう憎まれ口が出るようになれば、本調子ですねえ。」 沖田は慣れっこなので意に介さない。冗談のたたきあいが出来る相手が戻ってきたとばかり、 喜んでしまっている。 「ちっ。俺のが憎まれ口なら、おめえのは無駄口でへらず口だよ。」 「それはどうも。」 歳三が汗を拭い終えると、沖田は懐から包みを出し広げた。大福が二つ入っている。 「食べませんか。」 「どうしたんだ、それ。」 「煙草屋に買い物に行ったら、ご隠居にもらったんです。二つしかないから皆には内緒で すよ。」 「まだ奥の使い走りにされてるのか。」 この小憎らしい沖田が勇の妻にはどことなく頭が上がらず、用事を頼まれてのこのこと買 い物に行かされたりする事を、歳三は知っている。 「違いますよ。まあ、猛稽古でお疲れでしょうから、どうぞどうぞ。」 沖田は歳三を促し、縁側に腰かけた。大福を頬張りながら、 「……それで、どうだったんです?」 「何が。」 何が、と言うことを何度か繰り返している事に気づいて歳三はちょっと苛立った。天才と いわれるゆえなのか、沖田は思いつきで主語を省いて話し出したりするので、理屈屋の歳 三としてはいちいち聞き返さなくてはならずその点が面倒臭い。 「ちょっとは、まともな句が出来ましたかね、豊玉宗匠。」 「は?」 ますますわからない。沖田はくすくす笑って、 「ふらっといなくなったりなさるもんだから、また風流の虫が起きて、芭蕉よろしく吟行 の旅にでも出られたかと思っていたんですよ。」 歳三が下手な俳諧の趣味がある事は、日野でさんざん聞き知ってくる沖田である。それも からかいの材料にしようと思って仕入れてくるのだから始末が悪い。 「馬鹿言え。」 「おや、私はそう言ってかばっておいてあげたのになあ。それとも皆の言う通り、どこか いい所で流連という方が当たってるのかな。」 「どっちも、当たってねえよ。」 「ふうん。」 沖田はあまり気にもとめない様子で、ぼんやりと前を見ている。少しの間。 「総司。俺はね、……女に振られてきたよ。」 歳三は、なぜかその時ばかりはふと口に出した。 「え?」 沖田がびっくりして歳三の顔を見つめる。 「こたえたよ、ちょっとな。……だから、あまりきかねえでくれ。」 歳三の声音がやや渋くなったので、沖田はうなずいた。 「わかりました。」 ややあって微笑に戻った。 「土方さんが、私にそんな弱音を吐くなんて、よっぽどだな。」 女にふられた事が、ではなく、男としてまだ何者でもないという自分の不甲斐ないさまを、 立て続けに指摘されたという事が歳三自身にはこたえているのだが、このあたりの機微は 話しても若い沖田にはわかるまい。黙って大福を飲み込んだ。 沖田は明るく、 「雪が降るんじゃないかな。おっと、これもへらず口でした。」 「誰にも言うなよ、みっともねえ。」 「みっともない事かどうかよくわからないけど、……まあ、可哀相だからそっとしておい てあげましょうか。」 真面目が三分と続かない若者である。 「馬鹿。もう、ふっきれてるんだ。明日からは、おめえを叩きのめす位の気で、やるぜ。」 「おお、こわ。じゃあ、本気で鍛え直してさしあげますよ。性根からね。」 「てめえ。」 「ははは。」 沖田は歳三の怒声を避けて、身軽く立ち去った。その高笑いを聞いた時に、いるべき場所 へ戻ってきた、という気分がようやく歳三の中にも生まれていた。 (七) へ続く |