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第 8 回



第 一 部  暁  闇  
(五) 情  念
 
 
 試衛館道場では、今日も稽古の最中である。近藤勇と、今日は加減が良いらしい周斎老
人が座して見守っている。板の上では何組かの立ち会いが行われていて、その中に、永倉
新八と打ち合う歳三の姿があった。近藤は養父の耳元へ少し顔を近づけて言った。
「どう思われます、父上。」
 父上、と呼ばれるには少し厳めしさの足りない感じのする周斎は、
「うん?」
とやや日が高くなって温まってきた道場の中で、眠っているのか起きていたのかわからな
いような顔で、倅の側に耳を近づけた。
「歳ですよ。」
と、その勇に言われると頷いて、
「ふむ。……ちと、隙が多いな。」
「はい。近頃どこがどう、というのではありませんが、様子がおかしいのです。」
 近藤がさらに、歳三は普段妙にぼんやりしている事があり、それが剣にも出ているよう
な気がする、と言うとこの養父はふいに微笑した。
「春だからな。」
「は?……父上、今は九月ですぞ。」
 倅の勇はぎょっとしたような顔をした、老父の頭が少し緩んできたのではないか、と思
ったらしい。
「わかっておるわい。歳の、頭の中が、遅い春だというのよ。」
「……?」
 近藤は合点が行かぬ様子である。周斎は片手を上げ、腹に響くような声で、
「やめ!」
 老師もたまに往年の厳しさを垣間見せる事がある。皆、その声で打ち合いを止めた。
「歳、惣次郎と立ち会ってみな。」
「……は。」
 歳三は、俺が?と言う顔をしたが沖田の方は無頓着に笑みを見せて、
「もう、総司です。周斎先生。」
と言った。沖田はこの夏に、思うところあってそれまで馴染んでいた幼名から、沖田総司
と改名していたのである。近藤のほうは、「こら」というふうに、沖田に顔をしかめて見
せたが、周斎は気にしていない。
 沖田と歳三は、互いに一礼して打ち合い始めた。もともと技量では沖田の方が格段に上
なのはわかっているのだが、今日はことに沖田の気合いが激しく、歳三はいつもの負けん
気による技の冴えがなく、次第に防戦一方になっている。元来、沖田には稽古場での容赦
がない。
「まだまだ!」
「……くっ。」
 歳三は、かろうじて小手を撃つが、浅い。相手に肉薄して「気組み」で斬れ、というの
が天然理心流の強さである。これだけの浅い撃ち込みでは、例え刀が届いても軽微な傷し
か与えられず、そのまま斬られるであろう。二人はその後も何度か打ち合うが、歳三は沖
田に押し返され、ついに道場の際まで追い詰められ、したたかに面を打たれた。
「それまで。」
周斎の声で二人は、離れた。老師はいつに増して厳しい顔をした。
「歳、そんなにふらふらと迷いがあっちゃ、だめだ。素振りから、やり直しな。」
そう言い捨てて周斎は席を立ってしまった。


 その後刻。溜まり部屋でごろごろしている原田と永倉のもとへ、沖田がやってきて、
「あれ、土方さんは?」
と狭い部屋の中を探した。永倉が答えて、
「知らん。道場じゃないのか。」
「いいえ。」
 その時、昼寝をしていた原田が首だけこちらを向いて、
「ああ、さっき、昼飯を食って、しばらくふて寝していたと思ったらよ。そのあとぷい、
と玄関を出ていったぜ。」
と面倒臭そうに答えた。
「そうか。気がつかなかったな。」
「どこへ行く、とも言わなかったな。むっつりしちゃって。」
「周斎先生に言われたのが、面白くなかったんじゃねえのか。」
「さあねえ。」
 二人の会話を聞きながら、沖田はふと思いついたように、
「今日は、何日です?」
と視線を上げた。もっとも、のべつ好き勝手にしている食客たちのこの部屋には、暦がな
い。永倉が指を折って確か二十五日、と答えると、沖田は、一人得心顔をした。
「ははあ……」
「何だよ。」
「何かあるのか?」
「いえ。」
知りたがりの原田が興味を示したのを見て、沖田はそらっとぼけた。
「いえ。……お宮参り、ですよ。多分。」
「はあ?」
「誰が。」
 永倉まで不思議そうに覗き込んできた。
「土方さん。」
「よせやい。へっ、あの人が、どんな神仏を拝みに行くってんだ。」
原田は苦笑している。
「そりゃ、武芸が上達するような神様でしょ。」
「ははは、まさか。」
永倉はからりと笑った。ちなみに、流儀にこだわらなければ、神道無念流の永倉新八は、
沖田と並んで試衛館でも群を抜くほどに強い。
「土方さんにも、願掛けの一つくらい、あるんですよ。きっと。」
永倉と原田は同時に、あの人がそんな可愛いもんかい、という顔で腹をおさえている。


 その歳三は八幡宮の境内にいて、所在なく薄ぼんやりと木陰に座っていた。すでに日が
傾いて夕映えがあたりを照らしている。
「……来ねえか。」
ぽつりと呟き、歳三は立ち上がった。このままいれば夜露で着物の尻が濡れるだろう。そ
れにこの時刻になれば目的の叶うことはない。
(何をやっているんだ、俺は……。)
 ねぐらを目指す烏たちの間延びした声が、その場に孤影を落とす歳三への嘲笑のように
聞こえていた。
 
 

 
 
 その頃、早坂家の奥では、おりつが、靖志郎の枕元に座っていた。出かけられるはずも
ない。靖志郎は、昨夜から熱を出して具合が悪かった。今は、布団の上に起き上がり、薬
湯を飲んでいる。汁の苦さにわずかに顔を歪めたあと、
「今日は、願掛けに行かなかったのか。」
と、聞いた。
「はい。」
「それは、悪い事をしたな。せっかくの息抜きを。」
「いいえ、息抜きなどと。」
そもそも病気平癒の為願掛けにゆけ、と言い出したのは姑のほうであり、それを続けても
一向に快癒の兆しが見られないのは嫁の信心が足らぬからだ、等と留守の間に言いたい事
をこぼして息を抜いているのは母親のほうである事は、靖志郎も知っている。家に病人が
いて、帰るまでに何があるかと気が気でない外出は、さほどに楽しいものではない。
「順徳どのにでも会いに行っているのかと思ったが。」
 おりつはふと、先日の料亭での事を思い出した。毎度ではないが、確かに祖父が待ち合
わせてくれる時には、わずかな心のなぐさめになる。しかし順徳が気にかけてくれるのは
犬猿の仲になった松枝やその息子ではなく、孫の顔見たさなのだ。それがわかっているか
ら、陰で会っている事は口にはしていない。
「なぜでございます?」
「お前が出掛けた後、薬の味が変わる。」
「………。」
これには答えられなかった。なるほど、症状により薬は変えているだろう。
 しかし、靖志郎の胸にはもう一つの疑問があるようだった。
「それに、近頃幾分、浮き足だっているようだ。」
「そんなことはございませぬ。」
「男でも出来たか。」
日頃に似ず夫の口から下世話な言葉を聞かされた事で、おりつはつい、気色ばんだ。
「何をおっしゃるのです。」
 靖志郎の顔は対照的に、さらに冷たい。
「私がこんな体だからな。お前も若い女だ、無理からぬ話さ。」
「そのようなおっしゃりようは、聞きたくございませぬ。」
 おりつが矛先をかわそうとして目を背けると、靖志郎は唐突に二の腕のあたりを掴み、
その体を抱きすくめた。
「何を、」
「………。」
 靖志郎は無言のまま、思いがけぬ力でおりつを布団の上に倒し、両手で胸元をくつろげ
た。おりつは、抵抗した。
「お熱、が……」
 ふと、病人への気遣いが出て、おりつは夫を突きのける事をためらい、体を固くした。
襟を割って滑り込んだ靖志郎の手のひらが熱い。両膝をこじ開けられ、脚にこめた力が弛
んだあと、夫の顔が近づいてきて首筋にふせられた時、おりつは観念して目を閉じたが、
ふいに、
「ふ……ふふ。はははは……」
「………?」
唇は愛撫の息ではなく、低い声を漏らしておりつの肩の上にかかった。
「私を、殺したいのか。」
「―――。」
 靖志郎は冷たい笑いを浮かべながら、体を離した。あとには、驚いて目を開いた妻の、
着崩れた姿が残った。
「お前を抱いてなど、やれぬ。病人相手に何を期待しておる。」
 おりつは、頬にかっと血がのぼった。
「行け。」
 おりつは襟元を掴み合わせ、唇を震わせながら、逃げるように部屋を出た。別の部屋に
入り、屈辱のあまり声を殺して泣いた。畳の上に、大粒の涙が続けて落ちている。
 
 
 一方その頃、歳三はある岡場所に、女といる。
「どうしたんですよ、お客さん。」
 女はこの家の女郎である。情交の後で、長襦袢姿の胸元が乱れ、その上にほどけた髪が
ふたすじほど落ちかかっている。少し剥げた塗り盆を煙管の雁首で行儀悪く引き寄せ、新
しい火をつけたあと、煙をふう、と吐き出しながら、鼻白んだように客の顔を見た。歳三
は毎夜の酷使で薄くなり、派手な赤地の模様もくすんだ色合いに変わっている布団に黙然
と横たわったまま、女には見向きもしない。
「あれの後、ひとっことも口きかないでさ……あたし、そんなに良くなかったかい?」
 女は言葉の合間にふう、と溜息をついて、所在なげに髪を掻き上げている。場末の崩れ
た生臭さはあるが、器量は悪くない。若い頃は官許の吉原にいた、というのも嘘ではない
かもしれない。
 歳三は切れ長の二重を幾分眠そうに半ばおろして無言のまま、先ほどからずっと、襖の
しみが何かの形に似ているのを気にしていた。女郎の独り言は終わらない。
「せっかく、泊まりで買ってくれたっていうのにさ。いい男で、今夜はツイてるって思っ
たのに。お酒もおしゃべりも嫌だってんなら、もう一遍するかい?」
 営業抜きでそう申し出るには、言葉通り歳三の事を気に入っているのだろう。女郎にと
っては、客相手の肉体労働は一度でも少ないほうを望むのが常だからである。
「……いや。」
 歳三がやっと、ぼそりと答えたのを聞いて、女郎はやや厚めの口をとがらせた。
「何が気に入らないのかねえ……自分で言っちゃ何だけど、あたしこう見えてもこの店じ
ゃあ、一番の売れっ子なんですよ。さわりの時じゃなきゃお茶引いた事がないんだ。」
 確かに、歳三がこの部屋に入ってからも二、三度、常連の客からの引き合いが入ったほ
どであるから、売れているのだろう。その点で初顔のこの男にも、それなりの満足をさせ
る自信を持っていたに違いない。
 歳三はちょっとすまなさそうに、
「……お前のせいじゃねえんだ。」
と言って薄く嘆息を漏らした。女郎はその顔をちらり、と見て、
「なんか、面白くないことでもあるんだね。よくないよ、そんな風に鬱屈してちゃ。」
 歳三はふっと笑った。
「むずかしい言葉を知っている。」
「お客の受け売りさ。近頃は、こんな所に来てまで、攘夷だのなんのって小むずかしいこ
とばっかりいう奴が多くてね……日々国を思うゆえに気がおさまらぬこの心を鬱屈、とい
うのだ。拙者の鬱屈を、お前の柔肌で慰めてくれ、なんて。そういう奴に限って、しよう
のない助平で、ねっちりとしつっこいんだから。」
「ふふ……」
 歳三も、近頃江戸に似たような浪人者が増えている事は知っているから、つい笑った。
こんな場末の安女郎相手に尊攘論をぶってみたところで座興にもなるまい。
 女は歳三につられて少し笑い、
「あんた、笑うとちょいと可愛い顔をするね。」
と、言った。
「俺が?」
人から可愛い、等と面と向かって言われたのは絶えて久しいことである。
「たくさん、泣かしてきた顔さ。その顔は。」
「………。」
 歳三は憮然として黙った。
「ねえ、……。」
 女は囁いて、歳三の首筋に腕を回し、やや形の崩れた胸を押し付けつつ、口を吸いにか
かった。鼻腔から漏れる息が湿って、少し弾んでいる。
 だが、歳三はその手をはずし、女の体重を押し返してから、立ちあがった。無造作に下
帯と着物をつかんで、着始めている。
「ち、ちょっと。あんた……どうしたの。」
 女は意外な展開に驚いている。
「帰る。」
「ええ?だ、だって、払いは泊まりだよ。」
「いや。いい。」
「何さ。」
折角朝まで楽しませてやろうと思ったのに、と女郎は剣呑な声を出した。
「悪いな。ゆっくり寝てくれ。」
「何だい、もう。」
 女は、思い切り不服な顔をして火の消えた煙管をそこらに投げつけた。
 店を出ると外は音もなく、霧の糸を撒くような雨であった。歳三はひとり、不機嫌な顔
で歩いた。
 
 

  
 その翌日の昼間の試衛館である。歳三は、皆が三々五々出かけてしまった後も、一人煎
餅布団にくるまって震えていた。額に濡れ手ぬぐいをのせている。今しがた、沖田が冷た
い井戸水で冷やし、絞ってくれたばかりであった。外は秋の空が高く澄んで、こんな天気
の日に家に篭っている者は馬鹿だ、というように雀の声が小刻みにはねている。
「鬼のカクラン、ですねえ。」
 沖田は歳三の枕もとに座って、にやにやしている。
「うるせえ。」
言ったついでに一つ大きなくしゃみが出て、沖田はその唾をひょい、とよけた。
「皆、この陽気に雪が降るって言ってますよ。土方さんが寝込むなんて。」
「嬉しそうに言うな。」
 秋も深くなってきて、夜は予想外に冷えたりするものだ。それなのに夜更けに女郎屋か
ら歩き通して、霧雨にじっとりと濡れたのがよくなかったらしい。明け方になったら悪寒
がして、無理に食べたら朝飯を吐いた。どうも見事に風邪を引いたものである。
「七月に、私がハシカでうなっていた時、同じ事をおっしゃったじゃないですか。こっち
は、生死の境をさ迷っていたんですよ。」
 この夏、江戸には麻疹とコロリ(コレラ)が猛威をふるって、数多の死者が出たあとなの
である。試衛館ではもともと頑健な連中が多いせいか、幸いに棺桶を出す事は免れたのだ
が、中でも若くてとびきり元気なはずの沖田だけが麻疹に罹患して、大騒動の末に一命を
とりとめたという経緯があるのだった。
「殺したって死ぬかよ、お前が。」
「口だけは達者だ。」
 沖田は苦笑して、
「お粥を召し上がって、お薬を飲んだら、いい子で寝ていなくては、いけませんよ。歳三
さん。」
と、この時は自分の姉に似た口ぶりですまし、小首をかしげて見せた。
「馬鹿野郎。」
「馬鹿はないでしょう。いい年をして、そんな事を言ってくれる人もいないなんてかわい
そうだから、やさしくしてあげているんです。」
種類は違うが、この二人が憎まれ口をきき合っていたら三日はもつだろう、という好敵手
なのである。およそ周辺で歳三の毒口に対抗しうるのは、この若い塾頭くらいのものでは
あるまいか。
 その時道場のほうから、「きえーっ」という近藤の甲高い気合いが聞こえて来た。歳三
はこめかみの辺りを二本の指でぎっ、と押さえて、こぼした。
「あれだ。ちょっとウトウトすると……あれが……どうにかならねえか。」
 近藤勇の気合のすさまじさというのは、後世の語り草にまでなったほどだから、平常な
らともかく、病人にとって有り難いものとはまるで言い難い。どんなに耳を塞ぎたくても
この家のくたびれた布団をかぶったくらいでは、防音効果のほどは知れている。
「はあ。」
 沖田はくすくす笑っている。まさか歳三さんが寝ていますから、静かに気合を発して下
さいと言えるわけでもなかろう。そもそも、風邪をひいたのも自業自得としか言いようの
ないところであるのだ。
「まあ、がんばって寝て下さい。」
 沖田は妙な激励を残して、お粥と薬を乗せた盆を持ち、部屋を出た。
 廊下を歩きながら、つぶやいた。
「まさか恋わずらい、って事もないだろうけどなあ。」
あの憎さげな土方歳三が、である。
 歳三は一人の部屋に残されて軽い咳と重い鼻水に悩まされながら、濁った池の水面に、
新しい空気を求めて口を開いて漂う鯉のようにやや唇を開いて呼吸をしながら、それでも
いつしか眠りに落ちていった。やがて熱に浮かされ、夢を見ていた。
 深い漆黒の闇の中にいる。
 相手が見えない。どこからか、竹刀が降り下ろされて、避けようもなく、打ち据えられ
ている。痛みを感じるようで感じないようでもあり、ただ、当てられた所に火箸に触れた
ような熱さを、これも感じるようで感じないようでもあった。
 不意に、視界がぱっと明るくなったと思うと、河原の真ん中に立ち、白い鳥が飛んでゆ
くのを見上げていた。ふと気付くと歳三は腰まで水の流れにつかっている。
 その時に、細い指の感触に手首を掴まれ、驚いて振り返ると、おりつが微笑んでいる。
 そのままおりつに手をひかれ、幻の中で抱き締めると、いつかその体は、先日の女郎の
乱れた姿態に変わっている。薄黒さを秘めた生々しいまでに赤い襦袢が両肩から落ちて、
襟白粉と地肌の境目がぼやけて写っていた。ぞっと襲ってくる恐怖に腕をほどき、あたり
を見回すと、彼方でおりつが、寂しげな視線を送っている。が、その姿はほの白い靄に包
まれて正体がないように見えた。
「………!」
 歳三は、ばっと布団をはねのけ、夢と気づいた。びっしょりと寝汗をかいている。二三
度瞬きをすると、見慣れた部屋の、黄ばんだ障子の模様が目に入ってきた。
「……どうかしてら。」
 歳三はふう、と息をついてまた、ぱたりと寝てしまう。汗をかいた寝巻きを替えなけれ
ば、と思ったがすでにそれも億劫であった。
 
 


 
 元来鍛えているせいか、歳三の熱は案外に早く下がって、秋晴れの日に雪が降る懸念は
なくなったが、あの白昼夢を見て以来、胸につかえの残るような感じは、幾日か過ぎても
消えることはなかった。原因不明のつかえではない。わかっているだけに厄介な気がして
病後もだるいような億劫さは続いた。
 歳三は、ぐずぐずと腐っているような気分は嫌いである。
 その嫌いな事を、いつになく世間の目等を憚って遠慮してみたために、胸のしこりが取
れないのだ、と思ってから、歳三はある決心をした。
(片をつけてしまえば良いのだ。)
 結果はおそらく願う通りにはなるまいが、歳三はほぼ自分を得心させるためだけに、出
かける支度を整えていた。
「おや、お出かけですか。」
 いつもなら、歳三が出て行く時に気にもとめない沖田が庭先で声をかけてきた。
「ん。」
 聞こえるかどうかわからない鈍い返事とともに頷いてから、歳三は着流しの裾を翻して、
道の上に出た。見上げるとあいにく雲が重くなってきている。雨の方が早ければ、歳三の
もくろみも流れてしまうことになるかもしれない。
 歳三は横鬢の後れ毛を少し撫で付けて襟を気にした。そうして、例の八幡宮の門前の茶
店の少し奥まった一角にいて、今日は懐手をしたまま、半分眠ったような顔をして、端然
と人を待った。曇天で、店の中の方が暗い。ただしここから往来はよく見える。
 歳三には、腹が決まってしまえば、あとは野となれという癖がある。
(……来た。)
 歳三はそれでも、視線だけは少し外した。
(確かに俺は、どうかしている。しかし、……)
 女二人が歩いて来る。おりつがいつものようにお初を伴い、細い通りを歩いてくるので
あった。そしていつもなら、こちら側の茶店に腰をかけてわずかに茶を一服するほどの休
息をとるはずである。なぜなら、お初がそれをたまの外出の楽しみとして供をしてくるに
違いないからであった。おりつなら若い娘の期待は裏切るまい、という予想があった。
 ところが、女たちの足は、今日はこの店の前を通り過ぎていこうとしている。
「………。」
 その時、お初がさっとこちらを見た。一瞬戸惑った顔をしたが、やがてこちらにも聞こ
えるほどのひょんな声を上げて、
「あ、いけない!」
 どうしました?と言いながらおりつが声をかけた。お初は困ったような顔をして、
「私、忘れ物をしたようでございます。」
と言った。
「忘れ物?」
おりつが不思議そうにお初の手元を見た。来る時から手荷物は小さな風呂敷包み一つでし
かなく、それはちゃんとそこにある。
「はい。さっき、お社の前に荷物を置きました時に……」
「何を忘れたのですか。」
お初は、いえ、と言いよどんで、
「あの……ちょっと。どこかに、落としたのかもしれません。探して来てもよろしゅうご
ざいますか。」
と、小さな包みを胸に抱えて、余った手のひらを合わせてみせた。
「私も、一緒に探しましょう。」
おりつが何気なく言って八幡の社へ足を向けようとすると、お初はそわそわしながら引き
止めて、
「いえいえ。若奥様は、ご看病でお疲れなのですもの。あの、いつものお席で休んでいて
下さいませんか。申し訳ございません。」
といいざま、パタパタと裾を蹴って境内の方へ走って行ってしまった。残されたおりつは、
やや疲れた顔で茶店へ入って行き、腰をかけ、お茶を一つ、と小女に力ない声で注文した。
 どうやら、店内のまばらな客の顔ぶれを確かめる気もないらしい。そのままやや目を伏
せて、茶が運ばれてくるまでの間、細い嘆息を漏らしていた。いつもより顔色が青い。
 お初がすぐに戻って来る気配はない。
 歳三は思い切って席を立ち、そのまま黙って、おりつから一人分ほど離れた位置に座っ
た。おりつは男の着物が目に入ったのか、ふと顔を上げて、驚いた。
「やあ。」
 歳三の挨拶に、おりつは動揺しつつも、頭を下げた。歳三は軽い軽く咳払いをして、
「お変わりなく」
と言った。おりつはつとめて平静を装っている。視線をはずしたまま、
「どうして、なのでしょう。」
と独り言にように言った。
「は?」
「なぜか……よくお見掛けいたします。」
おりつの声が細い。武家の、それも丸髷を結った女が茶店で若い男と口をきく、などとい
う行為自体に、勇気のいる状況であった。
「ああ……それは、私の行きつけの店が、近いからですよ。ついでに歩いています。この
辺りは寺社が多い。」
 歳三の声はごく世間話のように聞こえる。それに安心したのか、おりつは返事をした。
「歳三どのが、お参りを……?」
「いや、暇つぶしです。お世辞にも信心深い方じゃない。」
「そうでございますか。」
と言いながら、おりつはそうだろう、という表情をした。どう見てもこの男が余暇を惜し
んで寺社仏閣詣でをする善男の顔には見えない。
「あなたは?」
歳三は、既に知っている答えをわざわざ聞いた。おりつの目元にちょっと翳がさした。
「夫の、病気平癒の願をかけにまいります。」
予想した答えである。女の口は、身近なことにはほぐれやすい。
「ああ。ご亭主は、その後いかがです。」
「この所、またふせっております。」
「出掛けてきてよいのですか。」
「母が付き添っておりますから……。こんな時だからこそ、お参りを欠かしてはならぬと
申しまして。それに……」
「それに?」
「母子水入らずで世話をしたいのでございましょう。」
「………。」
 おりつはわずかに笑みを含めたが、聞きようによっては姑の批判ともとれる言葉を出し
た。やはり、出会いの経緯からして歳三にはある程度の事情がわかっているという気安さ
が、普段は出さぬ愚痴に形を変えたのかもしれない。
 歳三は、何気ない風で話題を別にした。
「面白い男がいましてね。」
「え?」
話が飛んだので、おりつは小首をかしげてつい、歳三の顔をまともに見た。
「この先で、小料理屋をやっている男なんだが。藤吉といって……」
「………?」
「私に、喧嘩のやり方を教えてほしいというのです。」
「喧嘩?」
あの晩と同じ、おりつの知らない世界の話のことのようである。
「そう。とにかく、喧嘩が強くなりたいという。一度酔っ払いにさんざんな目に合わされ
たことがあるとかで、それがきっかけらしい。店や周りの者を守りたい一心だというので
すがね。もともと本人が血の気が多いたちなんでしょう。この男が、なぜか私とはうまが
合う。」
「ええ……」
それは歳三も同じ種類の男だからではないか、と思った。
「始めは、道場に習いに来たのですよ。ご存じの通り、あまりご立派な道場ではありませ
んのでな。門弟にも、百姓、町人が多い。」
 これにはうかつに相槌を打てば認めた事になり、おりつはうなずかずに黙って、次の言
葉を待っている。
「ところが藤吉のやつ、気が短くてね。うちの塾頭は沖田というんだが、以前あなたも会
った男ですよ。」
「ああ、あの、お若い方。……塾頭でいらっしゃるのですか。」
「そう。ああ見えてあいつ、こと剣術にかけては私などよりもっと手厳しい。強い上に容
赦がない。」
「まあ。……とてもそんな風には……おやさしい方と思いました。」
 ひょろりとして、日々の稽古で太る間がないという風に締まっては見えたが、顔自体は
二十歳を越えたか越えないか、ちょっとはかりかねるような無邪気な感じで、やたらと笑
っていた印象がある。おりつは沖田には玄関前で会ったきりだから、道場に足を踏み入れ
た時の沖田総司は想像すらつかない。歳三のおとうと弟子だろうという見当で見ていた。
塾頭といえば、浪人を叩き伏せた歳三よりも強いのだろう、という事にはなる。
「それが、人が変わるのですよ。とにかくその沖田が、藤吉に稽古をつけていた。藤吉の
やつ、だんだん頭に来て、むちゃくちゃにつっかかっていった揚げ句、沖田にこてんぱん
にやられましてね。しまいに……」
「はい。」
「竹刀を投げ捨てて、沖田に飛び掛かっていったのです。」
「ま。」
「もちろん、すぐ押さえ込まれまして音を上げましたがね。その時の悪態の方がすごい。」
「沖田様に、悪口を……?」
「そうです。」
「それは、あの……いつか、歳三どのがあの浪人に掛けたような言葉でございますか。」
 歳三は呆れたように軽く手を振って、
「とても、あんなものじゃない。口喧嘩なら間違いなく私も沖田も、藤吉には子供扱いさ
れて終わりですよ。」
「まあ……」
 おりつも呆れている。「薄汚ねえ浪人づれ」ではまだまだ序の口ということらしい。
「それっきり、道場には顔が出せなくなった。言われた沖田はけろっとしていたのですが
ね。」
「恐縮してしまったのでございましょう。」
「藤吉はどうも、ああいう所は苦手だと。土方流の喧嘩剣法で結構だ、こっそり手ほどき
をしてほしい、と頼まれましてね。」
「それで、この辺りにたびたび……」
 おりつは合点がいったという顔で頷いた。単に偶然というには、見かける事が多すぎた
からである。歳三も頷き、
「その代わり、うまい物が食い放題ですからな。こちらもありがたい。」
 おりつはここで初めて、くすっと笑いをもらした。確かに、あのこじんまりした道場の
大所帯らしき掛け声の数からすれば、毎度板前が作るような料理が出るわけにはいくまい。
「藤吉には月に数度、教えに来ます。」
「ええ。」
まだ笑みのまま答えたおりつに、歳三は不意に、容易ならぬ言葉を投げかけた。
「しかし、この門前にはあなたに会いに来ている。」
おりつは、あっと息を飲んだ。歳三にしてみれば、思いを打ち明けたに等しい。
 濃い曇り空の端が、やや赤味をさして暮れかけている。どこかで烏が遠く鳴いている。
二人の間に、しばしの沈黙が流れた。
「……歳三どの。」
「なんです。」
「どういう……おつもりなのです?」
おりつの手には、先ほど茶碗の淵の紅を拭った懐紙がある。目を上げられず、その懐紙を
折り畳んで、手のひらに包み込んでいた。汗が少しにじんでいる。
「どういう、とは。」
「人が見たら、何と思うでしょう。私たちが、ここで……」
「別に。」
 歳三は、怖いほどに無愛想な目をした。
「時折、見掛けてはいた。が……今まで、声を掛けたことはない。」
「………。」
「だが、今日はお一人だった。あなたと話をしてみたいと思っただけだ。」
 おりつは、困惑している。何と返答すべきか迷いながら、手の中の懐紙を握った。
「人に知られて困るようなことはしていない。」
 おりつはそのはっきりとした声に押されるように顔をややそむけているが、歳三の瞳は
その表情を捕らえて離さない。おりつはふと、白い懐紙を毛氈の上に置いて立ち上がった。
「連れが……遅いのです。」
そう言って話を変えることしか、歳三の視線に抗する手立てがないように、おりつは表に
出てお初を待った。その後ろ姿を歳三は見ている。
 その時、店の前を男が二、三人、口々に何か言いながら境内のほうへ走り過ぎて行った。
「おい、行き倒れらしいぞ。」
「若い娘だっていうじゃねえか。」
おりつははっとして、
「お初。」
社の方に向かって歩いた。歳三も立って向かう。
 案の定、境内の石段の上にはお初が倒れており、人が何人か周囲を囲んでいる。おりつが
駆け寄った。
「お初、お初。」
周りにいた町人の一人が声をかけた。意識がないので様子を見ていたらしい。
「あなたの、お連れさんですかい?」
「はい。」
「いやあ、いきなり、ふらふらっとしたかと思ったら、二、三段ずるっとすべり落ちてよう。
ハナは蚊の鳴くような声で、ただのめまいです、平気ですって返事をしたんだが、ふっと気
ィ失って、それっきり気がつかねえ。」
歳三が割って入り、男に尋ねた。
「頭は。」
「いや、見たところは足からこけたようだった。打っちゃいねえと思う。」
歳三は手を回してお初の頭部をさぐってみるが、外傷はないようだ。気絶しているだけかも
しれない。おりつの方を振り返ると、
「とにかく、ここじゃなんだ。運ぼう。」
「はい……」
この場合、歳三の他に頼る者がない。素直にうなずいた。
「戸板がいるかい。」
気のきいた男が聞いてくれたが、歳三はいや、いいとかぶりをふって、ぐったりしたお初を
背負った。小柄な娘一人、さほどの重さではない。
「おりつ殿。さっき話した藤吉の店が、近い。そこで寝かせよう。いいですね。」
 野次馬に礼を言って、藤吉の店に向かって歩き出した。おりつはお初の風呂敷包みを持っ
て少し後ろをついて歩いてくる。お初は眠ったままである。
「私が、気がつかなかったのがいけないのです。このところ、この子は無理をして……あま
り、休んでいなかったのに……。」
「仕方ない。あなたも病人を抱えてるんだ。」
寝不足からくる疲れだとすれば、医者に見せるまでの事もあるまいと思った。三兄が医者だ
し、実家にいる時にも野良でぶっ倒れた若い娘の貧血を見たことがある。ぐっすりと眠らせ
れば或いはすぐにも回復するだろう。
「そんな所へもう一人、かつぎ込めんでしょう。」
「………。」
確かに、早坂の家に歳三を伴ってこの姿で帰れば、お初はきつく叱られるであろう。おりつ
自身が何を疑われるかわからない。
「藤吉の所から、何とか言い繕って使いを出すんですな。」
「はい。」
 ほどなくして、竜の子の掛け提灯がある藤吉の店、小料理屋「たつ次」に着いた。店は間
もなく開くはずだが、まだ戸は閉まっている。歳三は、あるじに向かって声を出した。
「藤吉。俺だ。」
 
 
 
 
 
 
 
                                 (六) へ続く


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