誠抄

あずま男
(1)


(一)   向 こ う 傷


――――元治元年六月。京都、三条小橋の池田屋。新選組が、浪士たちを襲撃している。
   闇の中で、壮絶な死闘が続いた。家屋の一階で、鎖つきの鉢金(ヘルメット)を被
   った隊士が一人の浪士を一刀のもとに斬り下げた。そののち、階下は嘘のように静
   かになった。顔にも首筋にも、ねっとりと返り血がついて、気味が悪い。それに、
   真夏の京の室内は、まさに蒸し風呂である。男は、「ふう」と息をついて、あまり
   の暑さに鉢金を脱いだ。と、物置にひそんでいた浪士が、いきなり飛び出して来て
   背後からその男に斬りかかった。男は振り返りざま「うわっ」と叫んでひっくり返
   った。額を斬られている。浪士がなおも斬りつけようとすると、
永倉   平助っ!!
――――と、叫んで横合いから飛び出したのは永倉新八である。すんでのところで、浪士
   を斬って落とした。
永倉   平助、大丈夫かっ。
藤堂   やられた……ざまァねえ……。
――――倒れているのは、新選組副長助勤、藤堂平助である。永倉は手拭いを出して傷を
   縛り、
永倉   死ぬなよ。
藤堂   へへ……新八さんよ……いくら俺がせっかちでも、この若さで死ぬほどオッチ
     ョコチョイじゃ、ねえ……。
永倉   へ、その減らず口じゃ大したこたねえな。
――――その時二階で、局長近藤勇の甲高い気合と、物音が聞こえてきた。永倉は、はっ
   とふり仰ぎ、舌打ちをした。
永倉   ちっ、まだいやがるのか。平助。俺は、近藤先生の加勢に行く。じっとしてい
     ろよ。
藤堂   おお。
――――永倉が死体をまたいで、階段を駆け上がっていくと、藤堂は自分の額に手をあて
   てみた。手拭いが早くもべっとりと血で濡れている。
藤堂   うわ……。
――――藤堂は、ちょっと目を見開き、
藤堂   色男が、だいなしじゃねえ、か……。
――――と、ひとりごとを言った後、激痛で失神した。


――――壬生、新選組屯所。副長の土方歳三が、藤堂平助の病室を見舞いにきた。藤堂は
   膳を運ばせて、昼飯をかっこんでいる。
土方   どうだ。
藤堂   あ。
――――藤堂は、箸を置こうとした。
土方   いや、そのまま。
藤堂   じゃあ、遠慮なく。医者が来て、飯が遅くなりましたんでね。
――――藤堂は、旺盛に飯を食っている。
土方   それだけ食えりゃ、本調子だな。
藤堂   だいぶ、血が出ましたからね。そのぶん食って、滋養をつけなきゃおっつかね
     え。
土方   やはり若いな。回復が早い。
――――土方はにやりと笑った。
藤堂   こっちは、とうとう三人死んだそうですな。原田さんなんざ口が悪いから、四
     人目はおめえかと思っていた、などとぬかしゃがる。せっかく手柄を立てて、
     ついでにてめえの墓までおっ立ててたまるもんかってんだ。
土方   その意気だ。
藤堂   しかし、あん時鉢金を脱いだのは油断だった。士道不覚悟で切腹ですかね。
土方   馬鹿な。名誉の負傷じゃないか。
藤堂   へへ。しかし、向こう傷でよかった。背中を斬られたんじゃ格好が悪くって風
     呂にも入れねえ。
土方   向こう傷にしても、あと二寸もずれていたら、目鼻をやられていただろう。君
     は運が強い。
藤堂   鼻の頭ががまっぷたつじゃ、それも格好が悪いや。額なら、まだしも箔がつき
     ますからな。しかし、一つ困ったことがある。
土方   なんだ。
藤堂   顔に傷があっちゃあ、女がおっかながるじゃねえですか。
土方   ははは。もう、女遊びの心配か。
藤堂   まあね。せっかく褒賞金をもらったんだ。遊ばねえ手はねえでしょう。
土方   ほどほどにしておきたまえ。
藤堂   はあ。
土方   傷が全快したら、女より先に、君に仕事がある。
藤堂   なんです。
土方   近藤先生が、近く新規隊士募集のために江戸へ出張される。君には、その仕事
     を手伝ってもらいたいのだ。
藤堂   へえ。先生も上洛以来、初のお宿下がりですな。
土方   藤堂君。君には江戸へ先発してもらう。……あんたもひさしぶりに生まれ故郷
     の匂いをかぎたいだろう。
藤堂   あっ。
――――藤堂は、嬉しそうな顔をした。
藤堂   ありがてえ。そりゃ、何よりの褒美だ。
土方   君は、大流の北辰一刀流の出身で江戸の諸道場に知己も多い。近藤先生が到着
     される前に、各道場へ根回しをしておいてくれ。その方が、局長の限られた江
     戸滞在の間に、募集の事がすんなりと運ぶだろう。
藤堂   根回しねえ。俺ァ、あんまり小難しい弁は立ちませんぜ。
土方   その額の傷が、何より雄弁に物を言うさ。
藤堂   はは。そうか……。確かに、腕に覚えのある奴ア、これを見て奮い立つかもし
     れませんな。
土方   精鋭が多く集まるよう、期待している。
藤堂   そりゃあ、もう。とびきりの上玉を引っ張ってきてみせますよ。
           ゼゲン
土方   (苦笑する)女衒みてえなことを言うなよ。
藤堂   しかし、俺一人ですか。
土方   局長には数名の供がつくが。誰か、他に必要かね。
藤堂   いや。江戸の道場なら、総長の山南先生の方が付き合いが広い。それに、弁舌
     もよっぽどお上手だ。山南先生はご一緒されないんですか。
土方   山南さんか。
・・・・土方は、ちょっと複雑な顔をした。
土方   あの人は、池田屋に加わっていない。向こうへ行けば、誰からも当然その話を
     聞かれるだろう。総長に恥をかかせても気の毒だ。
藤堂   なるほど、そりゃあそうですな。山南さんも、あの日に腹下しで出られなかっ
     たとは運がなかった。
土方   ………。


――――藤堂平助は、江戸へ入り、同流派の出身で伊東甲子太郎という道場主を訪ねてい
   る。
藤堂   伊東先生のご高名は、山南さんはじめ、当流の諸先輩がたからかねがね伺って
     おりました。文武両道にすぐれ、勤皇の志も人一倍厚い御仁だ、と。
伊東   いやいや。しかし、この私が、新選組にねえ……。
――――伊東は、ちょっと見た目には剣術使いとは思えぬような、柔和な美男子である。
伊東   藤堂君。私は……、必ずしも幕府を尊重すべしとは思っていませんよ。
藤堂   は。
伊東   むしろ、異国の脅威に屈してなしくずしに開港をし……異人どもに我が国へ足
     を踏み入れることを許した公儀のやりかたには、憤慨している。尊皇攘夷の大
     義のためには、朝廷をこそおしたてて奉ずるべきだと思っています。京都守護
     職の御支配浪士として、幕府の庇護下にある新選組とは、私の主旨が合わぬの
     ではないかな。
藤堂   尊皇攘夷の志なら、新選組だって皆持っています。
伊東   ほう。しかし、ならばなぜ池田屋とやらで、同じ尊皇の志を持つ浪士を斬られ
     た。
藤堂   そりゃあ、洛中に大火を起こして、そのどさくさに帝を長州にさらっていこう
     ってもんを放っておく馬鹿はないでしょう。
伊東   なるほど。しかし、今回の武功で新選組はますます公儀に肩入れをされ、いた
     ずらに武力のみを誇るようになって、肝心の尊皇攘夷などはどこかへ行ってし
     まうのではありませんかな。
藤堂   そうならないために、伊東先生に来ていただきたいんです。
伊東   ほう……。
藤堂   こう言ってはなんだが、近藤、土方のお二人は、多摩の百姓の出だ。うかうか
     と公儀の連中におだてられているうちに、本分を見失っていいようにされかね
     ねえ。私は小難しい議論は苦手だが、そんなこっちゃ駄目だと思っている。同
     じ北辰一刀流の山南敬助総長なども、そういうお考えです。ここは一つ、伊東
     先生のお力で新選組そのものが道を誤らねえようにしてもらいてえ。
伊東   なるほど……。新選組数十、いや数百の壮士が、本来の目的に添い、勤皇のた
     めに一丸となって働くとすれば……これは強力なものになりましょうな。
藤堂   はあ。
伊東   まずは、近藤氏にお会いして、話をしてみましょう。その上で、加盟するかど
     うか決断したい。
――――伊東は、秀麗な顔に笑みを浮かべた。結局は、藤堂の周旋が功を奏して、伊東は
   門人知人多数をひきつれて、新選組に加盟している。


――――夕刻、京の新選組屯所。幹部の溜まり部屋に、永倉新八、原田左之助がいる。
永倉   平助は?
原田   さあな。なんだか、いそいそと着替えて出ていったぜ。
永倉   忙しい奴だな。また、女でも買いに行ったかね。
原田   いや、酒を飲みに行くと言っていた。近頃気に入った料理屋があるらしい。
永倉   一人でか。
原田   ああ。
永倉   ほう……あいつは賑やかな酒が好きなはずだが、一人とは珍しいな。
原田   ふん、若様のお忍びってところだろう。
永倉   ははは。まさか、伊勢の藤堂様のご落胤だなんて話、信じてるんじゃあるめえ
     な。ありゃあ、江戸っ子一流のしゃれさ。そんな話は、江戸では掃いて捨てる
     ほどある。
原田   そうかね。


・・・・「御料理、御酒、みよしや」と書いてある小料理屋。奥の小座敷に、酒を運んで
   くる仲居がいる。菊栄という、二十は二つ三つ過ぎた頃の女である。
菊栄   よろしおすか。
――――中には、この所ちょくちょく飲みに来る若い侍が一人いる。背がひょろりと高く
   筋骨がたくましく、はぎれのいい江戸弁を使う。髪形から見て浪人風なのだが、い
   つもこざっぱりと風采のいい格好をしているし、金払いもいいところを見ると、懐
   は豊からしい。店のほうでも、大事にするようにと言われていた。男の「ああ」と
   いう声で、菊栄は中に入った。まだ名前を知らなかったが、この男が藤堂平助であ
   る。
菊栄   あの……今日は、お一人どすか。
藤堂   そうだよ。
菊栄   へえ……。初めてどすな。
――――いつも、仲間らしき男たち二三人と、賑やかに飲んで帰るのだ。
藤堂   うん。
菊栄   芸妓はんでも、呼びまひょか。
藤堂   いいや。今日は、いいんだ。一人で静かに飲む。
菊栄   へえ……。
藤堂   あんたが酌をしてくれないか。どうせ雨で暇だから、いいだろう。
菊栄   へえ。
――――菊栄はちょっと困った顔をしたが、女将からも粗相のないようにと言われている
   から、酌をしつつ相手をした。菊栄は、この男がこわいのである。それは、この男
   の額にある、はっきりとした刀傷のせいであった。
藤堂   あんた、名前は。
菊栄   へえ……菊栄、どす。
藤堂   きくえ?へへ、仲居さんにしちゃ、しゃれた名前だな。どんな字を書く?
菊栄   菊の花のきく、に、栄えるという字どす。
藤堂   菊の栄え、か。いい名前だなあ。
菊栄   おおきに。
藤堂   俺は、藤堂っていうんだ。藤と菊じゃあ、季節があべこべだな。
菊栄   へえ。伊勢のお殿様と、おんなじお名前どすな。
藤堂   ああ。俺は、その殿様の落し胤だよ。
菊栄   え?
藤堂   藤堂侯が江戸の女に産ませた若君なのさ。
菊栄   へえ……。
――――菊栄は面食らっている。
藤堂   信じてねえな。
菊栄   い、いえ……。
藤堂   俺だって半信半疑さ。
――――藤堂は、くしゃっと笑った。笑うと、精悍な顔に人懐っこい表情が浮かぶ。
菊栄   そうどすか。
――――菊栄は、藤堂の杯に酒をついでいる。
藤堂   あんた、おとなしいねえ。
菊栄   え……。
藤堂   そういう時はさ、客商売だったら「へえ道理で、どことなくお品があります」
     とか何とかさ、お世辞の一つも言うもんだよ。
菊栄   へえ……すんまへん。
藤堂   あやまったってしょうがねえや。(笑う)
菊栄   うち、あまりうまいこと話できんと……よう、叱られます。
藤堂   いいよ。客におべんちゃらを言う女なんざ、他にいくらでもいる。
菊栄   ………。
藤堂   あんた、亭主は。
菊栄   ……おへんけど。
藤堂   そうか、よかった。
菊栄   え?
藤堂   いや、こっちの話。
――――藤堂は、杯をあおって飲む。菊栄は何度か帳場と行き来した。
女将   お菊はん。あんた、えらい気に入られたようやなあ。
菊栄   すんまへん、他を放ったらかしにしてしもうて……。うち、よそも手伝わんな
     らんいうて、断りまひょか。
女将   あかんあかん、逆ろうたら、こわいえ。おとなしゅう、飲んで帰ってもろたら
     よろしい。お金はたんと持ってはるお人やしな。
菊栄   なんでどす。
女将   あれは、新選組の偉いさんや。
菊栄   新選組。
――――菊栄は青くなった。この夏、祇園会の夜に池田屋で人を大勢斬った浪士隊ではな
   いか。
女将   あんたにまかせるし、あんじょう頼むえ。
――――菊栄は、気が重くなりながら座敷に戻った。
菊栄   すんまへん、遅うなって……。
藤堂   いや。あんたを独り占めして、悪いな。
菊栄   いいえ……。
――――菊栄は、酒をつごうとして、手がわずかに震えている。
藤堂   どうした。
菊栄   (ぎくっとして)え?
藤堂   様子が変わったな。手が震えている。
菊栄   そ、そんなこと。
藤堂   俺のことで、何か言われたか。
菊栄   い、いえ。
藤堂   駄目だよ、あんたは正直だからな。新選組だって、ばれちゃったんだろう。
菊栄   ……へ、へえ……。
藤堂   ちぇっ、嫌われたもんだなあ。
――――藤堂は頭を掻いている。
藤堂   怖がらせると嫌だから、黙っていたのによう。
菊栄   ………。
藤堂   震えなくてもいいよ。新選組ってったって、俺はさ、女にはやさしいんだ。
菊栄   ま。
――――菊栄、ややほっとする。
藤堂   本当だぜ。自分で言うのも変だけどさ。
――――藤堂はまた、くしゃっと笑った。
藤堂   ついでだから言っちまおう。実はさ、俺は……今夜は、あんたに会いたくて来
     たんだ。
菊栄   え?
藤堂   この間の宴会の時さ。あんたは覚えていねえかもしれねえが……俺が酔っぱら
     って厠へ行った時、あんた、廊下の行灯をさっと明るくしてくれたろ。それに
     俺が用を足すまで、ちゃんと物陰で見ていてくれたじゃねえか。
菊栄   あ、あれは……お足元が危ない、思うて……。
藤堂   うん。そこが、気に入ったんだ。と、いうか好きになった。
菊栄   ………。
――――菊栄、赤くなっている。
藤堂   俺は、承知の通り新選組の藤堂だけどさ。決してあんたに悪いようには、しね
     えつもりだ。もしあんたが嫌でなかったら、時々、会ってくれねえかな。
菊栄   会う……て。
藤堂   ここじゃなくて、さ。つまりその、俺の女になってくれねえかなあ、ってこと
     さ。もしそうなるっていうと、実に嬉しいんだがな。
菊栄   まあ……。
――――菊栄、ますます赤くなる。こんなに直截に女を口説いていいものだろうか。
藤堂   あれこれ、うまい事言って誘おうかなとも考えて来たんだが、俺は京者のよう
     にもってまわったような根回し言い回しはできねえし、性に合わねえ。だから
     あんたが嫌だといえばすっきりあきらめる。
菊栄   そんなこと、言われたかて……。
――――菊栄、消え入りそうに小さい声で、
菊栄   あの……ほんまに、うちなんかを。
藤堂   ああ。
――――藤堂はいきなり、菊栄を抱きすくめて、唇を吸った。抵抗する間もなかった。菊
   栄はびっくりして体を固くしている。
藤堂   菊栄かあ。本当に、いい名前だ。


――――それから菊栄は、勤めの合間に藤堂と会うようになっている。ある時、女将に呼
   ばれた。
女将   お菊はん。あんた、この所ちょいちょい、きれいにしてどこかへ出掛けはるよ
     うやけど、誰と会いに行ってますのや。
菊栄   え……。
――――菊栄は、真っ赤になった。
女将   ほほほ。ちゃあんと、顔に書いてありますえ。
菊栄   ………。
――――菊栄、頬に両手を当てている。
女将   あんたは、いくつになっても小娘みたいなお人やなあ。うちには、ちゃんとわ
     かってますのえ。藤堂はんと会うてはりますのやろ。
菊栄   ……す、すんまへん……。
――――菊栄、泣きそうな顔をして俯いている。
女将   何を謝ってはんの。あほやなあ。うち、怒ってるのと違うえ。
菊栄   え。
女将   藤堂はんはな、ちゃんとうちに挨拶してきはったんえ。決して遊びではなく、
     お宅の菊栄さんとつきあいたいと思っている。時々、仕事の合間に会わせても
     らおうと思っているから、ちょっと目をつぶってくれ、言うて。ほんまはな、
     あんたに仕事をやめてもろうて、家を借りて住ませてもええ、言うといやした
     んえ。そやけど、うちもお菊はんがいてはらへなんだら、何かと不便やし、こ
     のまま置いておかしてくれ言うたんや。
菊栄   ………。
女将   何しろ、ああいう若いお人やし、今のお気持ちが本物かどうかしっかりと確か
     めてからやないと、うちかて心配やしな。あんたには悪いけど、うち、あんた
     が前に嫁いで離縁されてはるいう事も、お話ししたんえ。
菊栄   えっ。
女将   そやけど、藤堂はんは笑うて、そんなんかまへんかまへん、言うておくれやし
     た。もし、あんたも好いてくれて、ややでもできるような事になったら、ちゃ
     んと母子とも面倒見る、組の方で許しが出たら、嫁にしてもええ、言うてくれ
     たんえ。
菊栄   ほ……ほんまどすか。
女将   そうや。まあ、なんぼ浪士いうたかて、仮にもお上の御用をしてはるお武家は
     んやし、奥様になるいうたら難しいかもしれへんけど、あんた……藤堂はんの
     こと大事にしよしえ。今度はしっかりと女の幸せをつかまな、あきまへんえ。
菊栄   へ、へえ……。
――――菊栄は、涙が出そうになっている。


――――昼。出会い茶屋で束の間の逢瀬をしている藤堂と菊栄。
菊栄   こんな、明るい時に……恥ずかしい。
藤堂   何でさ。
菊栄   そうかて……うち、もう若いことおへんし。
――――当時、菊栄の年齢はもう年増と呼ばれるうちに入っている。
藤堂   馬鹿言え。まだまだ、立派なもんさ。ええ、邪魔くせえ。脱いじゃえ脱いじゃ
     え。
菊栄   いや、いやや。やめとくれやす。
――――菊栄、襦袢を脱がされて恥ずかしさのあまり手で顔を覆う。
菊栄   いや……寒い。
――――藤堂、笑って、
藤堂   だから、あったかくなるようにするのさ。
――――菊栄は藤堂の激しさに耐えた。終わってから、襦袢だけは着て、布団の中で藤堂
   の胸によりそうようにして話をしている。
菊栄   あの……聞いた話どすけど……
藤堂   ん?
菊栄   新選組が壬生を出て、お西はん(西本願寺)に引っ越すて、ほんまどすか。
藤堂   うん……どうもそういうことに決まりそうだなあ。
菊栄   そうかて……お西はんは、お寺さんどすやろ。そんなところへ、新選組みたい
     なお侍はんが大勢で住むやなんて……。
藤堂   うん。まあ、似合わねえな。(笑う)殺生を禁じた仏さんのところへ、京で最
     も殺生をしている野郎どもが乗り込むんだからなあ。
菊栄   ……なんでどすの。同じ本願寺でも、お東さんやったら、わからへんこともお
     へんけど……。
藤堂   ああ。東本願寺は幕府よりで、西本願寺はどちらかと言えば、それに反対する
     倒幕方の味方をしている。以前から、浪士をかくまったりしていたんだ。だか
     らこそさ。
菊栄   ………?
藤堂   まさか、そこへ新選組が入り込んでは手も足も出まい、というわけさ。まあ、
     一種の脅し……嫌がらせだな。
菊栄   そうどすか……そら、お西はんも、なんぎな……いえ、すんまへん。
藤堂   いいさ。その通りだからな。
――――藤堂、菊栄の髪をなでながら、
藤堂   いくら、役目の上とはいっても……あまりゴリ押しをすると、京の町のひとび
     とから嫌われるだけだ。幕府の威光をかさにきて、僧侶にまで無理難題をふっ
     かけるなんざ、やりすぎだ……と、俺の先輩は頑固に反対している。
菊栄   へえ……。ほな、おとりやめに?
藤堂   いや。それ以上の頑固者がいてね。もう決まったことだ、とつっぱねているの
     さ。その人は、新選組の中枢を握っているから、まあ誰が何と言ったってひっ
     くり返らねえだろうな。
菊栄   へえ……そうどすか。
藤堂   また、菊栄に嫌われるなあ。
菊栄   うちが?なんで?
藤堂   だって、さっきはあんなに嫌がったもんな。俺のことなんか、本当はいやいや
     つきあってるんじゃねえのか。新選組なんて、逆らったら後が怖いからしかた
     なく、さ。京の女は皆そうだもんな。
菊栄   そんなこと……おへん。
――――菊栄、涙ぐむ。
藤堂   お、おい。
菊栄   嫌いで、こんなこと……うち……。
――――菊栄、ぽろぽろ泣く。
藤堂   悪かった。おい、冗談だよ。
菊栄   ………。
藤堂   たださ……俺も、その先輩……山南さん、てえんだが、その人の言う通り、新
     選組が今のまま、勤皇方の浪士どもを斬って歩くだけでいいのか、同じ日本人
     同志で殺しあっている時ではない、っていう意見には賛成なんだ。公儀に味方
     するか、それとも幕府倒すべし、という意見を持つかの違いだけで敵対しあっ
     ているが、考えてみればおおもとの尊皇攘夷という志は、どっちも同じなんだ
     からなあ。
菊栄   うちには、ようわかりまへん。
藤堂   そうか。
菊栄   けど、今の御仕事……気が進まへんのどしたら、新選組をおやめやしたら、よ
     ろしおすのに。
藤堂   (笑う)そうはいかねえよ。そんなことをしたら、俺の首が飛んじまう。
菊栄   なんでどす。
藤堂   お前は、本当に何も知らないんだなあ。新選組はな、一度入ったら死ぬまでや
     められぬという掟があるのさ。逃げ出したりしたら、即、切腹か斬首だ。
菊栄   まあ。……そんな、島原の花魁やあるまいし……やめることもできひんやなん
     て……いいえ、花魁にかて年季がおす。新選組には、年季もおへんのどすか。
藤堂   あはは。ねえなあ。
菊栄   なんで、そんな決まりのあるところへ、お入りやしたんどす。
藤堂   そう言ったって、俺はその法度が出来る前からいたんだもの、仕方がねえさ。
菊栄   ほな、決める前に、そんなんあかん、て言うたらよろしおしたのに。
藤堂   それを決めたのが、さっき言った頑固者でさ。泣く子も黙る土方歳三といって
     猛者揃いの新選組の中でも、鬼みてえに恐れられている人さ。もっとも、当時
     はまだ新選組も小さなもので、局を脱するを許さずというのは、単に心構えだ
     けのことだと思っていた。それが、今や誰も逆らえない金科玉条になってしま
     ったのさ。
菊栄   そうどすか……。
藤堂   俺もまだ死にたかねえし、逆らわずにいるしかしょうがねえのさ。
菊栄   うちは……藤堂はんがご無事でいとくれやしたら、どっちでもよろしおす。あ
     のう……そのおでこの傷みたいに、もう、お怪我をせんといておくれやすな。
藤堂   これか。池田屋でここをやられた時は、死ぬかと思った。
――――藤堂、池田屋で敵に斬られた額の傷をさする。
菊栄   死ぬなんて……いややわ。
藤堂   あの時は俺も夢中だったからなあ。
菊栄   なんで、さっき言うたように、皆同じように国を思うてはるのに、斬り合いを
     しやはったんどす?
藤堂   あの池田屋に集まった連中は、目的を達成するために、京都中に火を放って、
     守護職、所司代を殺そうとしていたんだ。しかも、そのどさくさに紛れて、帝
     を京の都から連れ去ろうと考えた。これは、どう考えても暴挙だろ。
菊栄   へえ……恐ろしいことどす。
藤堂   だから、斬ったのさ。しかし、そのお陰で新選組は、明らかに公儀の手先だ、
     という旗色を天下に示してしまった。……それがよかったのか悪かったのか。
     山南さんなどは、ああして強引に大勢を討ち取ったことは、決して新選組の将
     来のためにはならねえ、というんだがね。
菊栄   ……難しいお話どすなあ。すんまへん、うち、ようわからんと、お相手になり
     まへんやろ。
藤堂   何、いいのさ。わからなくても……愚痴だと思って、聞いていてくれりゃあい
     い。俺だって、難しい話は山南さんの受け売りだからな。ああ、そのうち、お
     前にも会わせるよ。山南さんってのは、そりゃあやさしくていい人だぜ。
菊栄   へえ。
――――菊栄は微笑して、そっと起き上がり、髪を直し始めた。
藤堂   なんだ。もう行くのか。
菊栄   そうかて……もう、支度が始まりますもん。夕方には帰らんと……女将さんに
     悪おす。
藤堂   そうか。ああいう店は、夜がかき入れ時だからな……。
菊栄   へえ……うち、あんまり役には立ってしまへんやろけど、女将さんには、えら
     いお世話になってます。まじめに働いてお返しせんと、悪おす。
藤堂   わかったよ。しかしあの女将は、お前のことを、地味な子だがいろいろと細か
     く気がついて重宝している、と言っていたぜ。もっと自信を持ちなよ。
菊栄   へえ……。
――――菊栄ははにかんでいる。


――――壬生屯所。局長近藤の部屋に、副長の土方、総長の山南。
土方   その話は、もう済んでいると言っているのだ。山南さん、組の総意として決ま
     ったものに異を唱えるのは、やめてもらいたい。
山南   何が総意だ。総長である私が、最初から賛成していない。
土方   双方の意見を入れて、局長が決定したことだ。それが、新選組の総意だと言っ
     ている。
山南   土方君。君が神仏を信じないのは結構だ。しかし、君は京の町のひとびとが、
     どれほど寺社仏閣というものに親しみ、深く崇敬しているかご存じない。私は
     何も、我々が寺に住むことで仏罰が当たるなどというつもりはない。あれほど
     の名刹へ、新選組が強談に及んで言うことをきかせた、という、市民の感情を
     まともに害することはやめたまえ、と言っているのだ。
土方   古刹に武家が間借りをして何がおかしいのかね。現に、会津藩は黒谷の光明寺
     を宿所にしている。由来、京の大寺院は非常時に陣所となる目的で残されたも
     のだ。知恩院しかり……、
山南   屁理屈でしかない。君の言う寺は、幕府の庇護下にある。しかし、西本願寺は
     新選組の存在を、迷惑だとしか思っておらん。嫌がる相手のところへ、武威を
     もって乗り込むのは、言語道断じゃないか。みっともないとは思わんのかね。
土方   みっともないというのなら……何年も民家に分宿して、居候をしている方がよ
     ほどみっともないだろう。このまま壬生の片田舎に埋もれていたのでは、その
     方が笑い物だ。新選組ではいちいち、集合をかけるたびにあっちの家、こっち
     の家と、畑の真ん中を使いに走らせていると京の諸隊では笑い合っているさ。
     それとも何か、山南さん。あんた、坊さんの迷惑はかわいそうで、ここの郷士
     の八木家、前川家の人たちは気の毒じゃねえというのかね。我々が出て行けば
     彼らはもとの暮らしに戻れるんだぜ。
山南   話のすりかえだ。壬生を引き払うなら、何も西本願寺でなくてもよかろう。相
     手の弱みにつけこんだことが潔くないと言っているのだ。
土方   では、どこに移る。新選組も、結成当時の小人数ではない。池田屋以来、やっ
     と京でも我々の声望が上がり、公儀からも一隊として過分に期待されている今
     日、ますます増員の必要に迫られているんだ。二百、三百の兵を収容できる屯
     所が、この京都市中のどこにあるのかね。
山南   新たに、屯所を造営したらいいじゃないか。
土方   その金はどこにある。そんなもの、逆さに振ったって右から左に出て来やしね
     え。それとも、京大坂の豪商の献金に頼るかね。え、それも同じだ。金のある
     ところに金を借りればいいいいというんなら、広い場所のある西本願寺に場所
     を借りようという俺の意見と、なんら変わらんのじゃないかね。郷士、豪商と
     言ったって、町民に変わりはねえ。人の迷惑が嫌だなどと甘いことを言ってい
     るが、結局は同じことじゃねえか。町者の世評が怖くて、体を張っている隊士
     たちを預かっていられるか。俺はね、あんたと違って、彼らに手当てを払い、
     飯を食わせ、寝る所の面倒を見なくちゃあならねえんだ。寺社への崇敬などと
     寝言を言っていて、日々の実務ができるかよ。
山南   土方っ。貴様……
――――山南、思わずひざを浮かせる。
近藤   やめたまえ、二人とも。
山南   しかし。
近藤   もう、いいだろう。こんな事で両君が喧嘩している場合ではない。山南君、多
     忙な土方君の苦労も察してやってくれ。
山南   ………。
近藤   また、土方君。山南君の意見ももっともなことだ。いかに、国事が大切だと言
     っても良識を失ってしまっては困る。
土方   良識、ですか。
――――土方、ふっと苦笑を浮かべる。
近藤   しかし、隊士の増加にともない、今の分宿の状態では不便なことこの上ない。
     屯所を移すことは、さしせまった急務なのだ。ここは一つ、土方君の手配通り
     西本願寺に移転することとしたい。だが……むろん、永久にというわけではな
     い。わしも、八方に手を尽くして、もっとふさわしい場所に移れるよう努力す
     る。山南君の言う通り、我々の手で屯所を新築できれば、それにこしたことは
     ない。莫大な資金が必要だが、強引に借りまくるのではなく、人々に快く出資
     してもらえるよう、まずは一致協力して新選組の名をさらに高めることだ。
土方   折衷案ですな。
――――土方、意地わるく笑っている。
土方   私はともかく、山南総長の顔を立てたというわけだ。
山南   ……君の物言いは不快だ。失礼する。


――――山南、憤然として部屋に戻る。藤堂が縁側で待っている。
藤堂   やあ、山南さん。ちょっとお話が……。
山南   君か。
――――山南、ほっと笑顔に戻る。部屋に入って、茶を飲みながら、
山南   話というのは、何だね。
藤堂   いや。ちょいと、野暮用でしてね。
――――藤堂、照れたように頭を掻いている。
藤堂   山南さんに……ちょいとその……見てもらいたいものができたんで。
山南   何だい。刀かね。
藤堂   嫌だなあ。ま、どっちかっていうと、鞘の方かな。
山南   鞘?
藤堂   男が安心して納まる鞘ですよ。
山南   ああ……なるほど。(笑う)どういう人だね。
藤堂   どうもね、おとなしくて、口数が少なくて、恥ずかしがりやで……俺が今まで
     つきあってきたような女とは勝手が違うんですよ。ほめたっておだてたって、
     もじもじしてる一方でね。本気で好かれてるんだかどうなんだか。
山南   藤堂君は、惚れたか。
藤堂   ああ……多分、そうだろうと思うんですよ。
山南   なんだい、ひとごとみたいに。
藤堂   山南さんのいい人の、ほら、島原の明里……ありゃ、いい女じゃないですか。
     色っぽい上に品があってさ、情が深そうで……て、ことは山南さんは女の目利
     きは本物だ。一度会って、そいつが俺のことをどう思っているのかを、その、
     さりげなくね。
山南   ははは……。


――――「みよしや」の座敷。藤堂と、山南が飲みに来ている。菊栄が膳を運んで来る。
藤堂   山南さん。これが、その……菊栄ですよ。
山南   ああ。お初にお目にかかる。山南敬助です。
――――山南、丁寧に頭を下げる。菊栄は恐縮して両手をついている。
菊栄   へ、へえ……。
藤堂   菊栄。この人はな、俺の同門の北辰一刀流の先輩で、今は新選組の総長様だ。
     一つ、粗相のないようにな。
菊栄   へえ……。
――――菊栄、緊張している。
山南   ははは……総長などと言っても、肩書きだけの暇人だ。菊栄さん、新選組では
     藤堂君の方がよっぽどご活躍ですよ。
菊栄   へえ。
藤堂   なんだい、へえ、へえって一つ覚えみたいにさ。子供じゃねえんだから、もう
     ちょっと気のきいたことを言いなよ。
菊栄   そうかて……うち、藤堂はんの前かて、なんや……気恥ずかしいのに。山南様
     は、それよりもっと偉いお人どすのやろ。あがってしもうて……。
藤堂   ね、こういう女なんですよ。
山南   いいじゃないか。世間擦れして、口さがないのよりはずっといい。菊栄さん、
     藤堂君はね、口は悪いが、性根はまっすぐでいい男ですよ。
菊栄   へえ……うちも、そう思います。
山南   おや。(笑う)ごちそうさまだな、藤堂君。
菊栄   え……まだ、お料理が……。
藤堂   馬鹿だな。そっちの事じゃねえ。
菊栄   へえ。すんまへん。
山南   (微笑して)いいなあ。江戸っ子で気は短いがさっぱりした君と、おっとりし
     た菊栄さんとじゃ、まさに東男に京女じゃないか。お似合いだよ。
藤堂   そうですかねえ。俺は、もうちっとハキハキしてくれてもよさそうなもんだと
     思うんですがね。手応えってもんが足りねえんじゃねえかと。
山南   ははは。もう、あけすけな女には飽きたと言っていたくせに。今までだいぶ、
     痛い目に会ってきたからなあ。
藤堂   山南さん。
――――藤堂は、照れて厠に立ってしまっている。山南はやさしく、
山南   菊栄さん。藤堂君はあんな事を言っているが、実はあんたが可愛くってしょう
     がないんだな。彼は本当にあんたに惚れているよ。
菊栄   ………。
山南   あんたは、どうかね。
菊栄   うち……。
山南   ん。
菊栄   藤堂はんのこと……嬉しゅうて……勿体のうて。うち、うちかて……。
――――菊栄、そのままうつむいてぽつりと涙を落とす。
山南   わかった。お互い、今の気持ちを大事にしあって、幸せになるといいな。
菊栄   へえ。
――――山南は、にっこりと笑っている。




(二) 春 の 色


――――非番の日。藤堂、呉服屋に入っていく。
手代   これはこれは、藤堂様。よう、おこしやす。
藤堂   うん。ちょいと、着物を見立ててもらいてえと思ってな。
手代   こちらから、壬生へお伺いしてもよろしおしたのに……ちょうど、先日のお袴
     ができておりますよって、お届けにあがろうと思うてたとこどす。
藤堂   いや、別口なんだ。屯所じゃ、決まりが悪いや。
手代   と、おっしゃいますと。
藤堂   友禅の女物が欲しいんだよ。
手代   へえ、へえ、なるほど……。(微笑する)
――――藤堂、風呂敷包みを開けて、中から一枚の地味な着物を取り出す。
手代   これは?
藤堂   寸法はこれに合わせてもらいてえ。本人には、出来た時に驚かせてやりてえと
     思ってさ。内緒で持ってきたんだ。
手代   はは。そら、お楽しみどすな。おいくつの女子はんで。
藤堂   えーと、二十四、いや、二十三かな。
手代   そら、ちょうど難しいあんばいどすな。(笑う)これを見たら、お年よりも、
     うんと地味な好みのお人のようどすけど、そういうもんをお探しどすか。
藤堂   いや。もっとこう、若々しくて小奇麗で、ぱっとしたもんを着せてやりてえ。
手代   へえ、はんなりと、どすな。
藤堂   そう。その、はんなり、だ。
――――手代、様々な友禅模様の小紋の反物を出してくる。
手代   そうかて、あんまり人目をひくようなもんは、ご本人さんがよう着まへんやろ
     し……あくまでおとなしゅう、それでいて明るいような……と。
藤堂   きれいだなあ。
手代   好いた女子を、きれいなべべで飾ってやるのも、男の楽しみどすさかいなあ。
     こんなん、ぱあっと見違えたようになりまっせ。
――――手代、桜色の生地に細々と花模様を散らしたものを広げてみる。
手代   それとも、こちらのお色目どしたら、新選組のお衣装と、お揃いや。
――――手代、今度は水色の友禅を広げる。
手代   どっちも、春先にふさわしい、明るいお色どっせ。それとも、若草色。それか
     ら、淡い山吹色……。こちらは八つ橋の柄がしゃれてますな。
――――手代は言いながらさらさらと反物をひろげていく。
藤堂   緑や黄色は似合わんだろうな。
手代   白地もおす。こんなんも、楚々としてよろしおすえ。花いかだどす。
藤堂   ひゃあ、きれいだ。目移りするなあ。
手代   藤堂様のお名にちなんで、藤色はどうどすか。青みのと赤みのと、いろいろお
     すけども。
藤堂   それもしゃれてるな。
手代   こちらどしたら、藤色いうても、灰味がかった紅藤どすさかいに、寒々しい感
     じはおへんし、同じ赤っぽいのんでも、桜色や桃色よりは、長いことお召しに
     なれまっせ。三十越したかておかしいことおへん。小花の散らしも、藤、菊、
     梅、桜、萩と……手のこんだ花尽くしになってますさかい、袷の時期やったら
     ずっと着られます。あとは帯で、春らしいのと、秋冬らしいのと着こなしを変
     えたらええ。
藤堂   本当だ。菊が入ってる。
――――藤堂、菊栄の名に合うと、ちょっとにやっとする。
手代   ちょうど、昨日染元から届いたばかりどす。これは柄のわりにお値打ちどすさ
     かい、店に出したらじきにのうなりますわ。
藤堂   わかった、それにする。いくらかな。
手代   藤堂様、それはおへんやろ。
藤堂   え。
手代   今まで着たこともないような、きれいな着物をもろうて、どっせ。合わせる帯
     がおへなんだら、可哀相やおへんか。女子はんに恥かかしたらあきまへん。
藤堂   はっはっは。
手代   着物一枚に帯三本、いいますよって。
――――手代、今度は帯を出してくる。
手代   春はこの白いの、秋はこっちの深いエンジか辛子か、藍色もよろしおすな。
――――手代、着物の反物の上に、さっさっと帯地を合わせていく。
藤堂   (苦笑して)大した商売上手だな。
手代   まあ、それは冗談で、いっぺんにせえへんかてよろしおすわ。ありがたみがの
     うなりますさかいに……とりあえず春物一本、ええもんをつけまひょ。
――――藤堂は、明るい色合いの帯一本を選んで呉服屋を出た。


――――菊栄の家。菊栄は、藤堂と会うのに不便だからと、「みよしや」から近い所に小
   さな借家を借りて、店は殆ど昼勤めだけにしてもらっている。
藤堂   こんな小さい家でなくてもいいのによ。それに、本当にもう働かなくてもいい
     んだぜ。隊に休息所として届ければ、三度三度の飯だって運んでもらえるんだ
     し、俺の給料からだって、全部というわけにはいかねえが、お前ひとり困らね
     え位の手当てはできる。
菊栄   ………。
藤堂   いつまでも、飲み助どもの相手をして重いものを運んでなくたってさ。のんび
     りと好きなだけ昼寝でもして、花でもいけるとか、退屈なら芝居でも見にいく
     とか、気ままにしていりゃあいいじゃねえか。
菊栄   いやどす。
藤堂   いや?
菊栄   それは、お妾はんになるいうことどすやろ。うち、それだけはいや。
藤堂   なぜだ。
菊栄   いや。囲い者になって、化粧して男はんの来るのを待ってる女やなんて、汚ら
     わしい。うちそんなん、嫌い。大嫌いどす。
――――菊栄、いつになく強い口調で言う。
藤堂   どうしたんだ。
菊栄   かんにん……。
――――菊栄、不意に泣きだす。
藤堂   怒らねえから、言ってみな。ん?
菊栄   ………。
――――菊栄、しばらく泣いてからようやく話し始める。
菊栄   うち……うちの亭主、外に女を囲うてたんどす。うち、何も知らんと……やや
     が生まれたさかい言うて、初めて知らされて……うち、まだ十九どした。その
     女はもう、二十七八で、うちよりずっと年増どした。それで、今度を逃したら
     後がないさかい言うて、ややを産んで……跡取りを先に産んだのやし、言うて
     亭主はだんだん、そっちに入り浸りになってしもうて……しまいには、家まで
     やや抱いて女が来て……濃い化粧の匂いをぷんぷんさして、うちより若い、ち
     ゃらちゃらしたなりをして、平気な顔でずけずけ言うんどす。「おかみはん、
     あんた嫁に来て三年もたつのに、子の一人もよう産まんと、ようこの家にいて
     はりますなあ。あんたもまだ若いのやし、他の男はんを見つけはったらどない
     や、うちとこの子は、もう一生、あの人からは縁が切れんようになったんやし
     な」、言うて……。
藤堂   それで……妾に追い出されたのか。
菊栄   へえ。もう、うちの親も死んでしもうて遠慮ものうなったんどすやろ。だんだ
     ん、その女と亭主と二人して嫌がらせを……子のない女はこれでも見とき、言
     うて猫の子を拾うてきはったりして……うちも、もう辛抱たまらんようになっ
     て。たまに帰ってくる亭主の顔を見るのんも、声を聞くのんも寒気がするほど
     嫌になってしもうたんどす。たまに、酔うて寝床の中で手えのばしてきたりし
     て……それかて、あの女と間違えてはるのやと思うたら、もう……殺してやり
     たいほど憎うて、憎うて……夜中に台所の包丁を持ってじいっと寝息をうかご
     うてた事かてありますわ。
藤堂   ………。
菊栄   そうかて、うちに人殺しはようしいひん。どうせやったら、あの女の家の近く
     であてつけに死んでたたってやりたい。妾の家の前で女房が喉突いて死んでた
     ら、旦那かて世間に顔向けできひんやろ。それとも、その家の裏で、鴨川に浮
     かんでたらあのお人らが殺したいうて、さんざんにお取り調べを受けるやろか
     ……そんなことばっかり考えて、暗い顔してうろうろ歩いてましたんえ。
藤堂   馬鹿だな。
菊栄   そんな時に、みよしやの女将はんに声をかけられて……。


――――回想。夜、妾の家の明かりが見え、赤子の泣き声が漏れてくる路地にじっと佇ん
   でいる菊栄。後ろからぽんと背中を押され、びっくりして布の包みを取り落とす。
   冷たい音がして、中から包丁が刃をのぞかせる。
女将   いや、あんた……。
――――女将、急いで包丁を拾う。
女将   なんえ、こんな……大それたこと。誰かを殺そうとしてはるのんか。
菊栄   ち、違います。
女将   そうかて、こんな暗い所にじっと立って……うち、そこの船宿の窓から見てた
     んえ。もう、小半時もそうしてはるやおへんか。
菊栄   違います。うち、自分が……ここで死んでやろうと……。
女将   アホな。ちょっと、こっちへ来よし。
――――女将は菊栄を抱きかかえるようにしてその船宿の座敷へ連れていった。事情を聞
   いて亭主に話をつけ、菊栄をみよしやに引き取ったのである。


――――藤堂、聞き終えてため息をつく。
藤堂   そうだったのか。
菊栄   うち……もう人の女房になることは望んでしまへん。藤堂はんかて、今後ご出
     世しやはったら、お武家はんにふさわしい奥様をもらわはりますやろ。それは
     それでよろしいけど、うち、その時はお妾になってつきまとうのはいやや。あ
     んな女と一緒の身になるのは、まっぴらや。なんや、自分まで汚らわしい女に
     なるような気がする。
――――菊栄、自分の肩をかかえ、身震いする。
藤堂   お前を妾だなんて、思わねえよ。
菊栄   いいえ、それでも……いつ帰ってくるかもわからへん男はんを、じいっと待っ
     てんのはもう、かないまへん。一人でいたら気がへんになりそうで……嫌な事
     かて思い出してしまうし、体動かして働いてたほうが、ずっと気が紛れるんど
     す。
藤堂   わかったよ。よっぽど辛い思いをしたんだなあ。お前がそんなに一気にしゃべ
     ったのは、初めてだもんな。
――――菊栄、急に恥ずかしそうにする。
菊栄   すんまへん……。
藤堂   もう、忘れな。嫌なことは忘れてさ、肩の力を抜いて生きていきゃいいんだ。
     これからは、俺がいるじゃねえか。
菊栄   へえ……。
藤堂   その包み、開けてみな。
菊栄   え?
藤堂   いいから、開けてみろ。
菊栄   へえ。
――――菊栄、風呂敷を開けてみる。中には、うやうやしく畳紙に包まれて、仕立てあが
   ったばかりの友禅の小紋と、帯が入っている。
菊栄   まあ……、こ、これ。
藤堂   着てみなよ。
菊栄   こんな、きれいなの……うちに?
藤堂   早く。ぐずぐずしてるとひんむいちまうぞ。
菊栄   へ、へえ。
――――菊栄、急いで奥へ行き、襖を閉めて着替えをする。藤堂はにやにやして衣擦れの
   音を聞いている。菊栄はおずおずと、恥ずかしげに出てきた。
藤堂   ほう。
――――おとなしい顔だちではあるが、もともと色が白くて美人の部類なのである。淡い
   紅藤色の着物が、花の咲いたように似合う。
藤堂   こりゃ、驚いた。なるほど見違えるもんだなあ。(笑う)
菊栄   おかしおすか。
藤堂   違う違う。普段の仕事着とは比べ物にならねえ位、きれいだよ。いやあ、それ
     なら二十で通るぜ。
菊栄   そんな……。うちには、こうとやないやろか……。
藤堂   こうと?
菊栄   派手、いうことどす。
藤堂   馬鹿いえ、それでもおとなしい位だぜ。休みの時はいつもそうしてな。化粧も
     ちょっと濃くしてさあ。まだ若いんだ、別に男に媚びるこたあねえが、女はき
     れいになるのを楽しまなくちゃ、嘘だよ。
菊栄   へえ……。
藤堂   ほら、こんなものもある。
――――藤堂、懐から今度は小さな包みを取り出す。中に、新しい京紅と櫛、簪が入って
   いる。
菊栄   まあ……こんなもんまで。
藤堂   ちょっと、こっちへ来なよ。座って。
――――菊栄、藤堂の前にひざをつく。藤堂、紅筆を取って、
藤堂   どれ、俺がつけてやる。今、京で一番新しい流行りの紅だとさ。
菊栄   そんな……。
藤堂   いいから。いっぺんやってみたかったんだ。ほら、じっとしてな。
――――菊栄は目をつぶって、唇を閉じている。藤堂はそこへ紅を塗っている。
藤堂   こう、こうか……。意外と難しいもんだな。
菊栄   ………。
藤堂   で、こうだ。
――――藤堂、何も装飾のない菊栄の髪に、櫛と前差しの簪をさしてやる。
藤堂   やあ。できた。お雛さまみたいだぜ。
――――菊栄は上気した頬で、鏡台をのぞきこんでみた。なるほど別人のようである。
藤堂   お前はさ、親にもらった下地は別嬪なんだから、自信を持っていいんだ。何し
     ろこの俺の目にとまった位だからな。
菊栄   へえ……。嬉しい。おおきに……。
――――菊栄がぱっと笑顔を見せた。
藤堂   や、さっき泣いた烏が笑ったな。
――――藤堂、からっと笑っている。


――――「みよしや」。昼客で忙しい中、菊栄はいそいそと働いている。
客1   おい、あんな仲居、前からいてたかいな。
仲居   お菊はんのことどすか。(笑う)何言うといやすの。もう、足掛け三年はいて
     はりますえ。
客1   へえ、そうか。気づかなんだな。
客2   ちょっと、きれいな子やな。おい、今度来たら声かけてみたらどないや。
客1   そうやなあ。あんなおとなしそうな別嬪、わしの好みやねん。
仲居   あきまへん、お客さん。お菊はんは見込みおへんえ。
客1   なんでや。亭主持ちかいな。
仲居   亭主やおへんけど……そらもう、ええお人がおいやすさかいに。
客1   なんや、残念。もうちょっと早うに気がついたらよかった。
仲居   近頃急にきれいにならはったんどす。女は恋をすると、いいますやろ。
        ヤ
客1   お前、妬いてんのと違うか。なんならあんたでもええがな。
仲居   あほらし。


――――「みよしや」。女将が藤堂の座敷に来ている。
女将   すんまへんなあ。お菊ちゃん、今ちょっと忙しいて……じき、寄越しますさか
     いに。
藤堂   何、今日は酒を飲みに来ただけさ。
女将   ほんまは、心配でしょうがおへんのどすやろ。
藤堂   へ、馬鹿言え。
女将   藤堂はん。おかげさんで、あの子、せんよりきれいになって、それに、ずっと
     明るくなりましてなあ。近頃、お客はんの受けもようなって、ごひいきさんが
     増えましたんや。もともと気の細かい子やってんけど、ちょっと雰囲気が暗い
     ところがおしたさかいになあ。うちもこれでようやく安心どす。
藤堂   かといって、あまりこき使っちゃ困るぜ。
女将   へえ、そらもう……。
――――女将、藤堂に酌をする。
女将   この前、ちょっとあの子の家、見に寄ったんどす。きれいなべべ着ててびっく
     りしましたえ。うちが、どないしたん、そんなええべべ着て、言うたら、恥ず
     かしそうに、これ、藤堂はんに買うてもろうたんどす言うて。まあ、店にいる
     時とは見違えましたわいな。
藤堂   そうかい。(にやにやして)物惜しみするやつで、いくら言っても外に着て歩
     かねえんだ。
女将   ほほほ。あまり歩いてもろたら、男はんが寄ってきて藤堂様が困りますやろ。
藤堂   そりゃそうだ。
女将   そやけど、お菊はんな、物を買うてくれはることも嬉しいけど、もっと嬉しい
     のんは、藤堂はんが自分の事をようほめてくれはることやそうどす。
藤堂   ほめる?そうかな。
女将   へえ。女子は、きれいやとか可愛いとか……ほめたらほめただけようなります
     さかいに。天狗になるようなんは別として、あの子は特に自信をなくしてまし
     たよってになあ。
藤堂   前の亭主の事か。
女将   へえ、聞きはりましたんか。
藤堂   うん。よほどひどい目にあったらしいな。
女将   そうどす。十五、六の娘を無理に頼んで嫁にもろうたくせに……外に女ができ
     たら、色気が足らんやの、辛気臭いやの……しまいには、若いくせに子も産め
     へん役立たずやとまで言うたそうどすえ。
藤堂   む。
女将   それというのも、あの子の家が昔はお商売がさかんで、そのお父はんの身代を
     あてにして、あの亭主は店を広げたんどす。それやのに、お父はんが死んで、
     残った兄さんが店を手放してしまわはってからは、急に手のひらを返したよう
     になって……早う出て行けがしのことをするようになったんどすなあ。ほんま
     に、情け知らず言うたらあんな奴のこっちゃ。
藤堂   菊栄の兄貴というのは、行方がわからんそうだな。
女将   へえ。跡をついだもののうまいこといかんと……どこぞへ流れていったきりや
     そうどす。そやさかい、あの子も心細い身の上やよって、亭主の帰りを待って
     辛抱してたんどすなあ。ほんまやったら、こんな仲居勤めなんかしてる育ちの
     子やおへんのやし。
藤堂   そうか。
女将   うちがあの子を拾うて、亭主に話をつけに行った時かて、「ああ、あんな陰気
     な女はもういらん。やっと出て行きたい言うてくれるのやったら、すぐにでも
     去り状書いてやるわ。そのかわり、自分から別れたい言うのんやさかい、持参
     金も何も返さへんで。」と、こうですわ。それも、妾のひざ頭に手を置いたま
     まどすさかいになあ。
藤堂   ………。
女将   そやけど、あんな女を後妻にしたさかい、金遣いは荒いわ、奉公人に威張り散
     らして人もどんどんやめるわで、店も近頃はずっと傾いてきてるようどすわ。
     当たり前や。天罰てきめんやし。
藤堂   そうか。そりゃあ、いい気味だな。
女将   へえ。そうと知らんと、福の神を追い出して、貧乏神を引き入れたようなもん
     どす。
藤堂   福の神……菊栄がか。
女将   へえ。あの子を嫁に出したら実家が潰れて、離縁した家が落ちぶれて……不思
     議と、うちは今繁盛さしてもろうてますもん。
藤堂   そりゃ、いいことを聞いた。
女将   そやし、うちはお菊はんのこと、手放されしまへんのどす。藤堂様、あんさん
     もあんじょう、大事にしてやっとくれやすや。


――――夜。屯所に帰って来た藤堂。宿直の原田に声をかけられる。
原田   よう、平助。なんだ、今日は例の女のところへ泊まりじゃなかったのかい。
藤堂   そのつもりで待っていたんですがねえ。
原田   ふられたのか。
藤堂   いや。今日は仕事が忙しくてクタクタで、その上アレが始まったばかりで腹が
     痛えから、ぐっすり寝たいとさ。
原田   アレって?
藤堂   「月の華、さわり、込め玉、赤団子。」
原田   ああ。なんだアレかよ。(腹を抱えて笑う)わっはっは。それでのこのこと帰
     ってきやがったのか。
藤堂   ちぇっ、久々の非番だってのに、間が悪いや。
原田   何も、その女でなくたって島原ででも遊んでくりゃあよかったんだ。
藤堂   青い顔して詫びてるもんを、なんだか気がとがめるじゃねえですか。
原田   へへ、だらしねえなあ。女房でもねえ女に義理立てするなんざ、お前も若いね
     え。今からそんなんじゃ、本当に所帯を持ってからが思いやられるぜ。
藤堂   ちぇっ。
原田   男なんてものはさ、たとえ妻を持ったって、上手に遊んで息を抜かなくちゃ。
     近藤さんを見てみなよ。
藤堂   いいんですかねえ、そんな事を言って。
原田   何がさ。
藤堂   仏光寺のなんとかいう家のご令嬢と、婚約あい整い、この夏にもめでたく祝言
     てえ人がさ。親父さんにでも知られたら、即破談ですよ。何しろ、新選組に堅
     気の娘をくれてやろうなんて奇特な人はそういねえんだからね。惚れて頼み込
     んだ原田さんこそ、身持ちを固くしなきゃならねえんじゃねえんですかい。
原田   なんの。俺は、おまさをもらったって自分の信念を変える気はねえ。
藤堂   何が信念だか。(笑う)
――――その時、山南が入ってくる。
山南   失礼。藤堂君が戻ってきたと聞いたが……。
藤堂   なんです。
――――山南、原田の顔をちらりと見て、
山南   あ、いや。いいんだ。
原田   総長。私にはご遠慮なく。同門どうしでお話がおありでしょう。
山南   いや別に……碁でもどうかと思っただけだ。
原田   どうぞどうぞ。どうせ私はここで、寝ずの番ですからね。
――――その時、廊下を土方が通りかかる。山南と土方、互いにちら、と不快な表情を走
   らせる。が、土方は原田の方へ、
土方   ご苦労。
――――と言っただけで通りすぎる。山南は無視された恰好で、
山南   やはり、もう遅い。またにしよう。
――――と、わずかに笑って自分の部屋に戻る。
藤堂   なんだったんだろう。山南さん。
原田   あんたに、内緒話でもあったんだろうさ。しかしこう言っちゃなんだが、近頃
     の山南さんはどうも陰気で、影が薄いねえ。
藤堂   ………。
原田   皆、土方さんと山南さんの喧嘩じゃ、土方さんばかりを悪く言うが、俺はどっ
     ちかといえばあの人のほうが気持ちはわかるね。これだけ大勢の人間をきりも
     りしていくのは、きれいごとばかりじゃやっていけねえ。山南さんみてえに、
     奥で本ばかり読んで暇にしているようじゃ、実際の現場はわからねえよ。
藤堂   山南さんも、好きで閑職についているわけじゃねえんだけどな。
原田   そうは言っても、守護職に飯を食わせてもらっていながら、公儀のやり方が悪
     いとか、勤皇浪士にも同情するようなことを言ってたんじゃ、らちがあかねえ
     よ。博徒だって、世話になっている親分のためには、命を捨てて喧嘩をするっ
     てもんだぜ。
藤堂   やくざと一緒にされちゃたまらねえ。
原田   山南さんにしても、伊東さんにしても、北辰一刀流の門人は理屈が多すぎるの
     さ。
藤堂   俺は。
原田   お前は別だ。理屈より先に体が動くほうだろう。
藤堂   はは……。
――――藤堂、ちょっと複雑な顔で笑う。


――――その翌日。藤堂平助は土方に呼ばれる。
藤堂   何でしょう。
土方   うん。局長が会津中将様とのお話で出掛ける。君に供をしてもらいたい。
藤堂   は。


――――近藤は立派な白馬に乗って、八番隊と共に公用で出掛けたが、帰路、祇園の門前
   町で馬を降り、
近藤   私は、ちょっと私用で寄るところがある。諸君はこの先の会所で休息していて
     くれ。ああ、藤堂君だけはついてきたまえ。
藤堂   はあ。
――――近藤、徒歩でぶらぶらと歩いていく。
藤堂   どこへいらっしゃるんで?
近藤   小間物屋だ。
藤堂   小間物屋?
近藤   ああ。今晩、急に三本木で、会津の公用方と会合をすることになってな。
藤堂   へえ。今度は夜の会合ですか。で、なんで小間物屋に用があるんです?
近藤   鈍いな。三本木には、わしが今目をつけているコレがいる。
藤堂   ははあ。駒野とかいう芸妓でしたな。
近藤   そう。それで、ちょっと簪でも買っていってやろうというわけさ。
藤堂   へえ。しかし、簪なんざ、注文でなきゃいいものはありませんぜ。芸妓ともな
     りゃ目が肥えてて、できあいの安物なんかじゃ馬鹿にされるでしょう。
近藤   ところが、この先にそういう急場の客にも現金買いで上物を売ってくれる店が
     あるのさ。旅人の京みやげなどに、出来合いも必要だからというのでな。主に
     言えば、ちょっとしたものを奥から出してくれるそうだ。
藤堂   へえ。
近藤   その店は、なんと総司が見つけてきたんだ。しかし、あいつは色気がねえ。江
     戸の姉さんに買ってやったそうだが。
藤堂   はは。
近藤   平助。君に女ができたそうだな。
藤堂   昔から、女はいますぜ。
近藤   そうじゃねえ。今度のは堅気で、わりとまじめだそうじゃないか。
藤堂   はあ……よくご存じで。
近藤   いいことだ。女は、仕事のはげみになるからな。どんな女かね。
藤堂   はあ。料理屋で仲居の昼勤めをしていますが、どっちかというと内気でおとな
     しい女ですよ。よくめそめそ泣くし、気のきいたことも言えねえし………。
近藤   ははあ。そりゃ、本気で惚れたな。
藤堂   なぜです。
近藤   君みたいな男が、人に悪く言うというのは、女房同然に思っている証拠じゃな
     いか。
藤堂   ははは……いやあ。
――――藤堂、照れたように頭を掻く。その小間物屋に入って、近藤は凝った簪を選んで
   藤堂にも聞いた。
近藤   平助。君は、どれがいいと思う。
藤堂   ふーん。俺は、こんなのが好きですね。もっとも、芸妓にしちゃあちょっとお
     となしいかな。
近藤   そうか。では、これとこれをもらおう。
店主   へえ、二つも。おおきに、ありがとう存じます。
――――近藤、勘定を払っている。
藤堂   いっぺんに二つもやるんですかい。豪勢だが、ちっと甘やかしすぎじゃありま
     せんかねえ。
近藤   いや。こっちは、君のだ。
藤堂   え。
近藤   平助のいい人に、ご祝儀だ。(にこっと笑う)


――――藤堂は「みよしや」へ行く道すがら、壬生寺のあたりでぼんやりと立っている山
   南を見かけた。
藤堂   山南さん。
――――山南、はっとして振り返る。
山南   ああ……君か。
藤堂   見て下さいよ。これ。
――――藤堂は無邪気に、近藤にもらった簪を見せた。
山南   ああ……いいな。どうしたんだね。
藤堂   近藤さんのお供で行ったら、こっそり買ってくれましてね。菊栄にやれって。
山南   ほう……。
藤堂   ああいうところは気が細かいんだよなあ。だから、あのいかついご面相でも、
     女にもてるのかもしれねえ。
山南   近藤さんは……君が可愛いんだろう。
藤堂   今からみよしやへ持っていってやろうと思うんだが、山南さんもどうです。
山南   いや、遠慮しておくよ。……菊栄さんを喜ばせてやりたまえ。
――――山南、ふと微笑して去る。その背中が、どことなく寂しげであることに藤堂は気
   がつかない。


――――「みよしや」。
菊栄   この間は、すんまへんどした。
藤堂   いいさ。おいお菊。これ、開けてみな。
菊栄   へえ。(小箱を開ける)まあ、きれい……。
藤堂   何と、近藤局長からの贈り物だぜ。
菊栄   局長て……あの、近藤勇はんどすか。
藤堂   そうさ。買い物につきあったら、俺に下さったんだ。お前にやりな、とね。
菊栄   あんな、名高いお方が……。恐れ多いことどす。
藤堂   何、おそらく口止め料だ。
菊栄   え?
藤堂   近藤さんは女の方がお盛んでな。女房もいれば馴染みが何人もいるんだが、ま
     た新しい芸妓に入れ揚げてみやげを買ってやろうっていうんだ。これは、「平
     助、目こぼししてくれよ」って事だろうよ。(笑う)
菊栄   ………。
――――菊栄はちょっと眉をひそめる。が、藤堂は気づかず、簪を菊栄の髪にさしてやっ
   て上機嫌でいる。
藤堂   お前は、何でも似合うなあ。
菊栄   近藤様に、よう、お礼を申し上げておくれやす。
藤堂   あいよ。


――――数日後。菊栄は夕刻、近所の稲荷にお参りをして、立ち上がった。
菊栄   (あの人……おとといは非番やいうてはったのに、来いひんかった。どうかし
     たんやろか。お風邪でもひかはったんと違うやろか。)
――――ぼんやりと歩きはじめると、竹藪の上をうるさいほどに烏が鳴いている。
菊栄   いややわ……好かん。
――――菊栄は家に戻って寝た。夜更けに、どんどんと戸を叩く音で目が覚めた。
菊栄   誰?
藤堂   俺だ。開けろ、開けてくれ。
――――菊栄があわてて開けると、藤堂が酔って倒れ込むようにして入って来た。
菊栄   まあ……どうおしやしたんどす。
藤堂   酒だ。酒。
菊栄   もうあかん。こんなに酔うて……。
藤堂   うるせえ、うっ。
――――藤堂は急に走って厠に行くと、げえげえと吐いた。菊栄はおろおろして背中をさ
   すっている。吐いたことで落ちついたらしく、
藤堂   すまねえ。……水。
菊栄   へえ。
――――藤堂は水をごくごく飲むと、菊栄が今まで寝ていた布団の上に倒れた。
菊栄   どうおしやしたんどす。なあ……こないなるまで飲むやなんて……。
――――藤堂は仰向けになってしばらく荒い息をしていたが、吐き捨てるように言った。
藤堂   山南さんが、死んだ。
菊栄   えっ!
藤堂   殺されたようなもんだ。くそっ、畜生!
――――藤堂は両手の拳を目に当てて、泣いた。しばらくそうしていた。
菊栄   ……なんで、山南様が?
藤堂   切腹さ。脱走の罪だとよう。
菊栄   脱走……。
藤堂   たった一日……いや、たった一晩だ。近藤さん、土方さんに抗議して、大津の
     宿に泊まっただけだ。近藤さんがあそこへ迎えに行って、話し合えば済んだこ
     となんだ。あの人はちゃんと、今夜大津に泊まる。そこで話ができなけりゃ、
     そのまま江戸へ帰る、と書き置きしていったんだ。脱走じゃねえ。話せばカタ
     のついたことじゃねえかよう。それを……。
菊栄   無理やり、切腹を……?
藤堂   山南さんは馬鹿だ。追手の沖田と一緒に、のこのこと壬生に帰ってくるなんざ
     馬鹿としかいいようがねえ。沖田も馬鹿だ。あんないい人に罪を着せて、腹を
     切らせた近藤、土方も馬鹿だ。それを止められなかった伊東も、幹部の連中も
     みんな馬鹿だ。
菊栄   ………。
藤堂   俺はその中でも、一番の大馬鹿だ。うすら馬鹿の、まぬけの、とんちきだ。俺
     は大馬鹿野郎だ。
菊栄   あんさんが……なんでどす。
藤堂   山南さんが……あんなに思い詰めていたことに、気がつかなかった。俺だけに
     は何か打ち明けようとしたかもしれねえのに、いや、何度も……話をする機会
     はあったのに、何も気づかなかった。あの時、隊を出る前に止められたかもし
     れねえのに、俺は……。
菊栄   藤堂はん。そんな……あんさんのせいやおへん。あんさんのせいやおへん。
藤堂   ………。
菊栄   うち、うまいこと言えんけど……きっとそうどす。
藤堂   菊栄。
――――藤堂は菊栄にしがみつくようにして抱いた。翌朝、着替えを済ませ、顔を洗って
   屯所に出勤する藤堂。
藤堂   うーっ。頭がガンガンする。
菊栄   気いつけて……。
藤堂   巡察がしんどそうだ。
菊栄   あの……余計なことかもしれまへんけど。
藤堂   ん。
菊栄   あんさんまで、やけ起こさんといておくれやすな。
藤堂   ………。
菊栄   すんまへん。
藤堂   わかってるよ。死んじまっちゃつまらねえ。
――――藤堂はふっと笑った。



               


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