誠抄

あずま男
(2)


(三)   江 戸 の 水


――――山南の死後ほどなくして、新選組は西本願寺に屯所を移転した。四月の早々、藤
   堂は副長の土方歳三、参謀の伊東甲子太郎、三番隊組頭の斎藤一と共に、隊士募集
   のため江戸に下っている。
藤堂   さても……気骨の折れる人選だぜ。
――――藤堂は旅籠の部屋で斎藤と話している。
斎藤   なんでだい。
藤堂   俺ァ、土方さんと伊東さんの板挟みだよ。
斎藤   そのために、近藤先生が選んだんだろう。
藤堂   確かにな。
斎藤   藤堂君は、土方さんにとっては試衛館以来の同志。しかし、北辰一刀流の同門
     としてあの伊東さん一派を新選組に勧誘した本人でもある。まあ、道中ご両所
     の仲をうまくとりもってくれってことだろう。
藤堂   だからさ。どっちに片寄ってもいけねえ。うまく、こう……やじろべえみたい
     にさ。遣り手婆ァじゃあるめえし、俺にそんな器用な真似ができるわけがねえ
     よ。
斎藤   ふふ。
藤堂   さしずめ、あんたはお目付役ってとこかい。
斎藤   え。
藤堂   俺が、伊東さんにくっつきすぎねえようにってさ、近藤先生や土方さんの意を
     含められているんじゃねえのかい。
斎藤   まさか。私は江戸で応募者の剣技を見るだけさ。一応、剣術師範だからね。
藤堂   ふうん。
斎藤   しかし……こう言ってはなんだがね。
藤堂   うん。
斎藤   山南さんの死で、伊東さんは多少とも、不安は感じているだろう。参謀の重職
     とはいっても、あの人はあくまでも途中参入だからね。
藤堂   うん。
斎藤   今までは、山南さんと君と、結成以来の幹部が、二人もつなぎ役になってくれ
     た。しかし、その一方が亡くなった。これからは何事も、藤堂君藤堂君と言っ
     てくるだろうな。
藤堂   ああ。
斎藤   しかし、山南さんの死で警戒しているのは、近藤土方両氏も同じことだ。君と
     伊東さんとが結束して、隊内の動揺をあおるんじゃないかと思ったかもしれな
     い。
藤堂   ははあ。
斎藤   この時期、伊東さんを隊から一月以上も離したのは、そういうところもあった
     んじゃないかねえ。
藤堂   なるほど。
斎藤   私などがお目付役をしなくてもさ。土方さんがちゃんと目を光らせていると思
     った方がいいよ。
藤堂   そうだな。あーあ、いちいち人の顔色をうかがうなんざ、くさくさする。
――――藤堂、仰向けにごろんと寝る。
斎藤   (笑って)まあ、私もあんたも、隊士募集の仕事だけは真面目にやって、あと
     は江戸を楽しむつもりでいればいいのさ。
藤堂   江戸かあ。


――――その江戸。伊東甲子太郎は、土方に申し出ている。
伊東   土方さん。私は、新入隊士の勧誘は初めてだ。ここは一つ、昨年経験ずみの藤
     堂君を、私の介添えとしてお借りしたいが。
土方   ………。
伊東   いけませんかな。藤堂君なら、気心も知れていて頼もしい。
土方   いいでしょう。藤堂君。伊東先生に力を貸してやってくれ。
藤堂   はい。
土方   ただし……お二人とも同門ということで、人選に偏りのないように心していた
     だきたい。
伊東   承知している。
土方   藤堂君も、いいな。
藤堂   は。
――――藤堂は、土方の目にぞくっとするものを感じた。昨年、伊東を始めとする北辰一
   刀流その他、筋目のいいの剣客を多く引き入れたのは、藤堂の勧誘によるものであ
   る。しかし、今年も同じようなことをしたら、伊東の派閥がさらに拡大することに
   なる。土方が許さないだろう。
土方   では、私、斎藤君、それに伊東先生の組と、三手に分かれて各道場にあたって
     みるとしよう。


――――伊東は宿所を出て、懐手で歩いている。藤堂も一緒である。
伊東   さて……藤堂君。ああしてクギをさされては、同門の道場を頼るわけにはいか
     んな。北辰一刀流の剣客など大勢連れていったら、二心を抱いていると疑われ
     るだけだ。
藤堂   はは。そうですな。これ以上、伊東先生みてえな教養人が増えたら、土方さん
     の居場所がなくなっちまう。
伊東   ふむ。
藤堂   今回は、大流儀の門人は避けることです。無名であっても、腕っぷしは滅法強
     くて、頭の中は単純素朴で理屈をこねず、よく言うことをきく、そういう男が
     あの人たちには一番喜ばれる。
――――伊東、微笑する。
伊東   世間では、藤堂君もそういう人だと思っているようだが、私は違う。
藤堂   ………。
伊東   君も、尊皇攘夷の志は人一倍強いはずさ。何しろわが北辰一刀流で育って、そ
     ういう思想がないわけがないじゃないか。
藤堂   はは……。
伊東   しかし、君はその人柄を近藤、土方の両君に愛されている。今後とも、その朴
     訥さで信頼を受け続けていたまえ。その方が安全だ。
藤堂   はあ。
――――藤堂は曖昧に笑った。
伊東   藤堂君。私も、江戸にはいろいろ、挨拶したいところがある。昼はみっちりと
     仕事をして、夜はお互い、好きに行動することにしよう。君も、行きたい所が
     あるだろうから。
藤堂   は。それは、ありがてえ。


――――夜。伊東と藤堂は別々に自由行動をとっている。藤堂は、昔懐かしい盛り場へ行
   って存分に羽をのばそうとしている。
藤堂   (へへ、昔はぴいぴいのカラッケツで、土方さんと一緒に用心棒の内職をして
     しけた女郎屋なんぞへ通ったもんだがよ。今の俺じゃ、金回りも身分も違うっ
     てもんさ。)
――――藤堂は、懐の中をさぐって財布の位置を確かめている。ふと、別の物が指に当た
   って、取り出した。お守り袋である。
菊栄   (回想)道中の、お守りどす……。
――――心配そうに見上げていた菊栄の顔がふっと浮かんだ。
藤堂   許せ、菊栄。旅の恥はかきすてだ。それに……深川で芸者を揚げて騒ぐのは俺
     の昔からの夢だったんだぜ。たまの息抜きをさせてくれよ、な。
――――藤堂、お守りを袂深くしまいこんでいる。


――――藤堂は芸者三人を揚げて飲んでいる。もてた。
芸者1  ちょいと、こちらの旦那、粋なお召し物でござんすねえ。
芸者2  そりゃあそうだよ。ねえ、京の都の呉服屋で誂えたってんだもの。
芸者1  へえ、京都ねえ。道理で品がいいよねえ。
芸者3  ねえねえ、旦那。旦那は例のさ、新選組とかっていうところのお偉いさんなん
     でござんしょう。
芸者1  えーっ。新選組!
藤堂   うん。まあ、そうだ。
芸者1  新選組っていったら、去年の夏に、池田屋とかいうところでさ、火付けを企ん
     だ浮浪人どもをエイヤッとやっつけたっていう、あれでしょう。
芸者2  そうそう、あたしもさ、瓦版でさんざん読みましたよ。討ち入りした中でも、
     主だったお人は江戸のお侍が多いって聞いてさあ、あたしゃ胸がすーっとした
     もんさ。赤穂義士以来の大騒動だったっていうじゃありませんか。
芸者3  ねえ、旦那。旦那もその討ち入りに加わっていらしたんで?
藤堂   あたりめえだ。この額の傷はその時の向こう傷だぜ。
芸者1  きゃーっ。すごい。
芸者2  うわーっ。本物本物。近頃じゃ珍しい、本当のお侍様だよ。
――――芸者たち、はしゃいでいる。
芸者3  旦那。あたしにお酌させて下さいな。
芸者1  なにさ、あんたなんて、しゃしゃりでる幕じゃないよ。
芸者2  ちょいと、黙っといでよ。旦那、ねえ、その時のお話をさ、聞かせて下さいま
     しよ。本当に悪人を斬ったんでござんしょう。
芸者1  そうそう。聞かせて下さいな。新選組の旦那。
藤堂   まあまあ、今日は忍びだ忍び。
芸者2  いや、じらさないで下さいな。ねえねえ。
――――藤堂、江戸女たちのさえずるようなおしゃべりをいい気持ちで聞いている。


――――藤堂、深川の岡場所で女郎屋にしけこんでいる。女の名は勝弥。
藤堂   江戸は、近頃どうだい。
勝弥   さっぱりでござんすよ。こう景気が悪くっちゃ、お客だって来やしない。何し
     ろ、天下のお膝元だってえのにさ、肝心の公方様が上方へ行ったっきりなんで
     すからねえ。猫も杓子も京、大坂へなびいちまって、江戸は火の消えたような
     もんですよ。
藤堂   ふうん。
勝弥   それに、参勤がなくなっちまったのがこたえてるよねえ。やっとこさ去年の秋
     になって、昔の通りに戻すなんてお触れが出たってさ、すぐに人が戻ってくる
     わけじゃないもんね。男の数が減っちゃ、あたしたちはおまんまの食い上げで
     すよ。
藤堂   なるほど。道理でどこへいっても愛想がいいわけだ。
勝弥   逆にさ、京の都じゃ女の数が足りなくて、揚代だって天井知らずだっていうじ
     ゃないか。悔しいったらありゃしない。
藤堂   へえ。
勝弥   京女なんて言ったってさ、どうせ地肌が見えないほどべったり厚化粧して、キ
     ンキラの友禅なんかひきずってさ、オスだのメスだの、ドスだの包丁だのって
     言っておつにすましてるだけなんだろ。もったいぶって、酒の席でもしゃべら
     ないっていうじゃないか。
藤堂   はっはっは。
勝弥   どうせ旦那だって、むこうじゃろくな洒落の一つも言えない人形みたいな女を
     ありがたがって拝んでるんじゃないのかい。およしよ、上方の女なんて、腹ン
     中じゃ銭勘定のことくらいしか考えちゃいないよ。
藤堂   大変な剣幕だなあ。
勝弥   この御時世だからね。旦那みたいに、京と江戸を行ったり来たりしているお侍
     が多いのさ。そいつらと来たら、やはり都の女と比べると、江戸の下町女は下
     品でいかん、なんて言いやがるのさ。何言ってやんでえ、ついてるもんが一緒
     なら、することだって一緒じゃないか。女と寝るのに、下品も上品もあるもん
     かってんだ。そんなに勿体ぶった女が好きなら、吉原へ行ってお職の太夫でも
     買ってみやがれってんですよ。
藤堂   あっはっはっは。いいぞいいぞ。
――――藤堂、手を打って喜んでいる。
勝弥   旦那だってさ、懐のあったかいお人みたいだから、ナカ(吉原)へ行って遊ん
     だらよかったんじゃないのかい。何も、あたしみたいのじゃなくてもさ。
藤堂   いいんだ。せっかく江戸まで来たってえのに、しゃっちょこばってアリンスだ
     のクンナマシだのって言われちゃ肩が凝るじゃねえか。女でも、生きのいいの
     が一番さ。
勝弥   あれ、嬉しいことをお言いじゃないか。
――――女、くすくすと笑う。
藤堂   しかし、どうせだから明日あたり、吉原にも遊びに行ってみるかなあ。
勝弥   まっ。憎らしいよ、このお人は。たった一晩でお見限り?
藤堂   何しろ俺も忙し……いててて。
――――勝弥、きゅっと藤堂の脛をつねっている。
藤堂   やったな、こら。
――――藤堂は女をひっくり返し、じゃれあうようにして着物を脱がせ始めた。


――――藤堂は、日頃おとなしい菊栄を相手にしている反動のように、思い切り女と楽し
   んだ。女の方も思い切って声を上げたり、本気になって熱中しているらしい。勝弥
   があられもない事を口走ったりするのを、むしろ新鮮に感じた。菊栄はいつも、乱
   れるのが罪だとでも思っているかのように、じっと歯をくいしばって耐えている。
   その忍耐を壊すのが一種の快感でもあるのだが、やはり食い足りないと思うことも
   ある。藤堂はびっしょりと汗をかいて、ふとんに腹這いになっている。
藤堂   (ぐったりとして)うー……げっぷが出そうだ。
勝弥   まだ、吉原へ行きたい?
藤堂   馬鹿言え。腰が抜けて仕事ができなくなっちまう。
勝弥   うふふ。そいつは御愁傷様。あははは。
――――女は屈託なく笑っている。
藤堂   (ああ……俺が若い頃に相手をしてきたのは、皆こういう女だったなあ。口が
     悪くてあけっぴろげで、男まさりで……しかし、裏表がなくてさっぱりしてて
     さ。思うことをぽんぽん言いあってよ。喧嘩別ればっかりしたが、それでも恨
     みっこなしだった。)
――――藤堂は、この時ほど江戸の女を懐かしく思ったことはない。勝弥は茶碗酒をぐっ
   とあおったあと、
勝弥   ねえ、旦那。旦那はさ、じきに京へ戻っちまうんでしょう。
藤堂   ああ。
勝弥   こんどは、いつ?
藤堂   さて……まるであてがねえな。
勝弥   なーんだ。それじゃ本当にこれっきりだね。残念だわ、いいお客さんなのにさ
     あ。
藤堂   へ。俺も、残念だ。
勝弥   女を乗せるのが上手だこと。(笑う)あのさ、旦那。それなら、京へ戻ったら
     あたしの朋輩のところへも通ってやっておくれよ。
藤堂   朋輩?
勝弥   そう。あたしの友達で、お蘭っていう子がさ……前はここにいたんだけど、上
     方の方が実入りがいいっていうんで、去年の秋に鞍替えしていっちまったんで
     すよ。京都の清水で、商売をやってますよ。親の借金のせいでこんな境遇にな
     っちまったけどさ、気立てがよくて、頭がよくて、それにあたしよりきれいな
     いい子ですよ。
藤堂   へえ……。
勝弥   そうそう、手紙が来てたんだ。これ。
――――勝弥、そのお蘭からの手紙を見せる。
藤堂   ほう。
勝弥   ね、見て下さいよ。あたしにあわせてやさしい文字で書いちゃいるけど、なか
     なかきれいな字を書くでしょう。
藤堂   うん。こりゃあ、ちょっとかしこそうだな。
勝弥   そりゃそうですよ。親が店をつぶさなきゃ、立派な薬問屋の跡取り娘だったっ
     ていうんだからさ。なかなか、しっかりした負けず嫌いの娘でね。ここを出た
     時はまだ十八だったけど、そうだ、新選組の事を瓦版で読んでさあ。
藤堂   新選組?
勝弥   そうそう。あたしたちにすらすらと読んできかせてくれてさ、お江戸のお侍が
     こうして、向こうで華々しいことをやってのけたんだ。女だって負けちゃあい
     られない。噂に聞く都の女と、江戸の水を産湯に使ったあたしと、どっちが上
     等か見せてやる。この、新選組のお侍たちみたいに、なぐりこみをかけてやる
     さって笑って行っちまったんですよ。
藤堂   ふーん。勇ましいな。
勝弥   ね、あたしの紹介だって言えば、きっとよくしてくれますよ。店の名前はそこ
     に書いてあるでしょ。ぜひ、贔屓にしてやってくださいましよ。
藤堂   (笑う)わかったよ。


――――土方一行は、半月ほどの間に五十四名の新入隊士を採用して江戸を発っている。
藤堂   いやいや……たちまちのうちにこれだけ集まるとは、偉くなったもんだなあ。
     ちょっとした大名行列じゃねえか。
伊東   そうかね。
藤堂   そりゃあもう、おととし新選組を旗揚げした頃なんざ、ひどいもんでしたよ。
     京は愚か、大坂、近江まで足を棒にして歩き回って、やっと一人、二人とぽつ
     ぽつ集まって来たようなもんで。
伊東   では、私はだいぶ楽をさせてもらったというわけだ。
藤堂   いやまあ、今回は……伊東先生の名前で集まった分も入っていますとも。
伊東   いや。今や新選組の名声で、これだけの壮士が集まってくるということだよ。
――――伊東、柔和な笑みを浮かべているが、その瞳が冷たく光っている。
土方   藤堂君。
藤堂   はい。
――――藤堂、土方の元へ寄る。土方、書き付けを渡し、
土方   宿割りだ。斎藤君と二人で、漏れのないように面倒をみてやってくれ。
藤堂   はい。
土方   女に、みやげは買ったか。
藤堂   え。……ええ、まあ。
土方   ならいい。忘れると後がこわいからな。
――――土方はにやっと笑った。


――――江戸への帰路。旅籠で、三浦常三郎という新入隊士が、夜おそく、しきりに厠へ
   駆け込んでいる。藤堂は自分の部屋の襖を開け、廊下へ声をかけた。
藤堂   どうした。ええと、三浦君。腹をこわしたのか。
三浦   はあ。
藤堂   じゃあ、これを飲みなよ。京の、霊泉堂とかいうところの薬で、腹下しに効く
     らしい。もっとも、俺は飲んだことがねえから本当かどうかわからねえが。
――――言いながら藤堂は、荷物の中から巾着袋を引っ張りだした。ばらばらと、さまざ
   まな薬の包みが出てきた。
三浦   藤堂先生は……さすがに用意周到ですね。
藤堂   いや、何……コレがね。
三浦   コレ?
藤堂   京にいる俺の女がさ、持っていけってうるさくいうもんだからよ。しかし、ま
     あ役に立ってよかったかな。ああ、どうせ俺には荷物になるだけだから、あん
     た、残りも持って行きなよ。
三浦   そうですか。
――――三浦は、まだ若い。今回採用した中ではおとなしいほうだろう。藤堂は、気軽に
   水をくんでやった。
藤堂   ほらよ。
三浦   は。ありがとうございます。
――――三浦は恐縮して、薬を飲んだ。
三浦   藤堂先生。
藤堂   何だい。
三浦   今回、伊東先生は私の技量を見て、採用を迷われたと聞いています。それを、
     藤堂先生が推して下さったとお聞きしました。ありがとうございます。
――――三浦は、深々と頭を下げた。
藤堂   何、あれは、あんたが試験の時にあがっているだけだ、と思ったからさ。よく
     入隊試験じゃそういうことがあるんだ。伊東さんは初めてでわからなかったん
     だろうさ。俺の見たところ、あんたが一番まじめそうだ。仕事に慣れりゃ、き
     っとうまくいくさ。
三浦   は。努力します。
藤堂   京は、いいよ。新選組は実力第一だ。手柄次第じゃ、すぐに出世して手当ても
     ぐんとあがる。そうすりゃ、うまいものも食えるし、上等の着物も着られる。
     いい女も寄ってくる。まあ、せいぜいがんばんなよ。
――――藤堂は気さくに笑っている。


――――京へ到着した。
藤堂   ああ、明日からまた、巡察か。こうなると江戸が恋しい。
斎藤   (くすくす笑って)だいぶ、羽を伸ばしたらしいからな。
藤堂   いいじゃねえか。もう、江戸の遊びもいつ出来るかわからねえんだ。
斎藤   しかし、あんたにゃ京に待っている女がいるんだろう。
藤堂   ああ。
斎藤   土産を渡しに行って、迂闊な事を口走らないように気をつけることだ。
藤堂   ああ。しかし、あれだね。斎藤さん。江戸の女も久々に遊んでみると、やっぱ
     りさばさばして小気味がいいや。都の女はどうもまだるっこしくていけねえ。
斎藤   (笑う)まあ、ほどほどに。当分忙しくなるさ。
――――屯所の中は、五十人以上の新規入隊者でごたごたしている。掲示された割り当て
   を見に行くと、三浦が寄ってきた。
三浦   藤堂先生。私は、八番隊に配属されました。よろしくお願い申し上げます。
藤堂   ほう。頑張ってくれ。
三浦   はい。早速、田舎の母に文を書きます。
藤堂   まだおっかさんが恋しいのかね。
三浦   は。(赤くなる)しかし、私が京へ上って武士になる、などと言っても信じな
     かったものですから。くにで米を作っていたほうがよほどまっとうだ、などと
     憎まれ口を聞くような母でして。
藤堂   はは。


――――新入隊士たちは一同に集められ、伍長の島田魁が代表して局中法度を読み上げる
   のを神妙に聞いている。
島田   「新選組局中法度の事。一つ、士道に背くまじき事。一つ、局を脱するを許さ
     ず。一つ、勝手に金策致すべからず。一つ、勝手に訴訟取り扱うべからず。一
     つ、私の闘争を許さず。右条々相背き候者は・・・切腹申し付くべく候也。」
――――噂には聞いていたものの、やはり「切腹」のところで隊士たちはざわめいた。続
   けて諸注意が読まれており、各隊の組長たちは、並んで自分の部下になるものの配
   属を待っている。
藤堂   俺のところは三人だ。この中の、最初の落ちこぼれだけは、自分の組から出て
     ほしくねえ。
斎藤   (うなずく)お互いにな。
沖田   さて、いつまでもつか。……伊東先生の勧誘を受けた隊士などは、危ないな。
藤堂   何だよ、総さん。聞き捨てならねえ。俺は、江戸で伊東先生と一緒に回ったん
     だぜ。
沖田   だって……ああいうやさしいお人ばかりだと思って来たかもしれませんよ。そ
     れが、ほら。近藤先生や、大男の島田さんなどの姿を見て、すっかり怯えてい
     る。
――――沖田は、くすくす笑っている。
藤堂   支度金だけもらってずらかろうったって、そうはいかねえ。ビシビシやるさ。
沖田   まあ、初めは迷子に気をつけないと。私たちだって、地図を片手に通りの名前
     を覚えるだけでずいぶん苦労した。さっき屯所の中で、もう迷っている人がい
     ましたよ。
斎藤   こんなに大勢じゃ、隊内が落ち着くまで大変だ。藤堂君。江戸の匂いがとれる
     頃まで、京都の匂いを嗅ぎに行っている暇はないかもしれんよ。
――――斎藤は、にやにや笑っている。
沖田   何です。その、匂いって。
斎藤   甘ったるい匂いさ。
藤堂   ちぇっ。


――――藤堂、八番隊を率いて、市中巡察に歩いている。三浦もいる。また、屯所の道場
   では激しい稽古に新入隊士たちが目を丸くしている。藤堂は汗をぬぐいつつ、
藤堂   三浦君。どうだ、大変か。
三浦   は……。想像以上ですね。
藤堂   音を上げるなよ。おっかさんに、意地を見せてやらにゃあ。
三浦   はい。


――――藤堂は、近頃伊東に傾倒している、といっても、隊士としての仕事を怠けている
   わけではない。むしろ、藤堂率いる八番隊は、沖田、永倉、斎藤、原田の隊と並ん
   で、活動的だといってもいい。早朝、倒幕浪士たちの巣窟となっている百姓家を襲
   う手筈を整えている。
土方   方広寺の北の空き家に、奉行所の役人を斬って手配中の浪士二名が潜伏してい
     る。場所は福助に案内させる。
――――福助というのは、新選組の用達もしている目明かしである。
藤堂   わかりました。
――――福助の案内で、その廃屋の前へ来た。夜が明けてきている。
福助   藤堂様。あの家どす。
藤堂   よし。
――――藤堂は、四名を突入組、七名を包囲組に分けて、自ら斬り込んでいる。
藤堂   新選組だ。神妙にしろ。
――――浪士たちは飛び起き、すかさず刀を取って抜いた。
藤堂   馬鹿。おとなしく、縛につけ。
浪士1  ふざけるなっ。
――――浪士の一人が、抵抗して斬りかかってきた。藤堂はその刃を擦り上げ、右袈裟に
   斬り下げている。背後で、平同士の三浦ら三人と、もう一人の浪士が構えあってい
   る。平同士の一人が、討ちかかった。が、浪士に斬られた。
平同士  うわあっ。
――――浪士はさらに、三浦に向かって刀をふるった。藤堂がすごい勢いで飛び出し、そ
   の刃をはねのけておいて駆け抜けた。浪士の腰が泳いだ。
藤堂   三浦、今だ。
――――すかさず、藤堂が声をかけた。三浦がはっとして、気合を発し、浪士の体制が崩
   れた所へ一太刀浴びせた。
浪士2  ぐっ……。
――――浪士は、それでも気丈に戸を開け放ち、表へ出た。
藤堂   外だ。
――――藤堂の声で、表に待ち構えていた隊士たちが群がり、浪士はずたずたに切り裂か
   れて絶命した。藤堂は三浦を振り返り、
藤堂   やったな。初太刀をつけたじゃないか。
三浦   は、はあ……しかし、藤堂組長のおかげです。危ないところでした。
藤堂   何、構わんさ。俺も、池田屋では永倉さんに助けられている。相身互い、って
     いうじゃねえか。
――――浪士たちの死体を見ながら、藤堂はちら、と暗い気持ちになった。
藤堂   (こいつらも……初めは尊皇攘夷の志を立てて京に上って来たんだろうに、つ
     まらねえ死に方をするもんだ。何も……手向かいしなけりゃ引っ張っていくだ
     けでよかったのによ。)
三浦   組長、どうか?
藤堂   ああ……いや。
――――藤堂は以前ほど、勤皇浪士を斬ることに情熱を持っていない。しかし、部下にそ
   れを悟られるわけにはいかなかった。
藤堂   (三浦へ)怪我人を、運んでやりな。
――――藤堂は、下っ引きなどを指図して死体を片づけている福助へ、
藤堂   福助。ご苦労だな。
福助   見事なもんどすな。藤堂はんの斬った方は、一太刀どすわ。
藤堂   慣れだろう。
――――藤堂、さらっと言う。福助は驚いたような顔をしている。
藤堂   福助。帰るついでに、使いを頼まれてくれんか。
福助   へえ、何どす。
藤堂   うん。問屋町通りに、「みよしや」という料亭があるだろう。
福助   へえ、知ってます。
藤堂   そこの、仲居で菊栄……お菊と呼ばれている女に、ちょいと言づけてほしいん
     だ。「今夜行く」とな。それでわかる。
福助   ははあ。(にやりと笑って)旦那、お盛んなことどすな。
藤堂   (笑って)頼んだぜ。




(四)   嘘


――――藤堂は、京都へ戻ってから半月ほど経って、ようやく菊栄の家に顔を見せた。
菊栄   ………。
――――顔を見るなり、菊栄がじわっと涙ぐんだ。
藤堂   おう、どうしたんだよ。
菊栄   そうかて……。こないに長いこと離れていたのん、初めてどすさかい。
藤堂   馬鹿だな。
――――藤堂はぎゅっと菊栄を抱きしめてやった。
菊栄   もうお帰りになるころやと思うて、何度かお西はんまで行って……。
藤堂   え。
菊栄   境内の掃除をしてはるおじさんに聞いたら、土方様のご一行やったら、ぎょう
     さんの新入りはんを連れて、もう戻ってはる言わはって……それやのに、ずっ
     と来てくれはらへんし、江戸であんさんに何かあって、帰ってきてはらへんの
     かと思うたんどす。
藤堂   屯所まで行ったのか。
菊栄   すんまへん。
藤堂   まあ、いいや。だけど、女が会いに来てるなんて知れると、平隊士の手前、決
     まりが悪いからなあ。今後は、手紙か何かにしてくれよ。
菊栄   へえ……。
藤堂   壬生の頃は、けっこう女の出入りなんかも勝手にできたんだけどさ。さすがに
     寺の中じゃ連れ込む奴もいなくなったからな。目立つんだ。
菊栄   もう、しまへん。堪忍。
藤堂   まあ、すぐに来られなくて、俺も悪かった。何しろ、新入りが五十人だからな
     あ。俺の隊にも三人、見習いとして預かってるもんでいろいろと忙しくてさ。
菊栄   へえ。………。
――――菊栄、すっと立って茶を入れにいく。
藤堂   (まさか、疑ってるんじゃあるめえな。)
――――疑っているも何も、江戸でひさびさに遊びまくってきた藤堂だけに、すぐに菊栄
   の顔を見るのが、何となく後ろめたかったのは事実なのだが。
菊栄   ……お江戸は、楽しおしたか。
藤堂   仕事がなけりゃあな。何しろ、水と油みてえなもんだから、気を使ってさ。
菊栄   水と油?
藤堂   土方さんと伊東さんだよ。俺は、どっちにも義理があるから、うまいこと両方
     を立てなきゃならねえだろ。
菊栄   へえ……。なんや、うちと藤堂はんのことかと思うて、ひやっとしました。
藤堂   馬鹿言え。俺たちは東男に京女、だろ。
――――藤堂は笑ったが、
藤堂   (しかし、待てよ。水と油か……。確かに、俺と菊栄は違いすぎるかもしれね
     え。)
――――お互いに違いすぎるから惹かれあうのだともいえるが、江戸でさばさばした女た
   ちと遊んで来ると、そっちの方が遠慮がない気さえしてくる。
藤堂   (水と言えば俺はやっぱり……江戸の水に合うんだ。それはしょうがねえ。)
菊栄   あの、どうか?
藤堂   (はっとして)え?
菊栄   おぶうより、お酒の方がよろしおすか。
藤堂   いや。今夜は、四ツまでに屯所に戻る。新入りが気になる。
菊栄   まあ……。
――――泊まっていかないのか、と、菊栄はちょっと寂しげな顔をしたが、それを口には
   出さない。それが菊栄の慎みなのだが、藤堂はそこでもわずかに物足りない思いを
   覚えた。
藤堂   ほら、江戸のみやげだ。人に見つからねえように、隠して持って来たんだぜ。
――――藤堂は江戸で評判の読本や、粋な染の手拭いや渋い細工物の財布など、細々した
   ものを出した。
藤堂   何しろ、着物や髪飾りなんかは、こっちのほうが本場だからな。何がいいかわ
     からなくってさ。
菊栄   へえ。おおきに。
――――菊栄は微笑した。しかし、
藤堂   気にいらねえか。
菊栄   (びっくりして)なんでどす?
藤堂   友禅を買ってやった時ほど、嬉しそうじゃねえ。
菊栄   いややわ。嬉しいに決まってるやおへんか。
藤堂   本当かねえ。
――――藤堂はちょっと口をとがらせた。京育ちの菊栄には、江戸の粋好みはわからない
   のかもしれない。
菊栄   長旅で散財どしたやろに……うちにまで気い使うてもろうて、すんまへん。
藤堂   えっ。
――――藤堂、ぎくりとする。
菊栄   ?
藤堂   いや。茶を、もう一杯くれ。
菊栄   へえ。
――――その夜、藤堂は久しぶりに菊栄を抱いた。しかし、やはりどこか足りない。
藤堂   (こいつ……俺が浮気したと思ってしらけているのかな。)
菊栄   う……。
――――菊栄にしてみれば、いつもと変わりないのだが、藤堂の方にやましいところがあ
   るからでしかない。江戸の玄人たちの痴態と比べて刺激が足りないといっては、菊
   栄がかわいそうである。


――――この慶応元年は新選組が最大の人数を抱えていたと言われる年で、藤堂もやはり
   忙しい。それに案の定、伊東甲子太郎の一派が、さまざまに藤堂を引き入れようと
   誘いをかけてきた。自然、そちらのつきあいが増えていく。
伊東   藤堂君。今夜、島原へつきあいませんか。
藤堂   ……伊東先生は、輪違屋の花里太夫が馴染でしたな。太夫遊びなんて、値がは
     るばかりで、肩がこりませんか。
伊東   慣れてしまえば、風情があっていいものさ。花里の妹分でいい妓がいる。今日
     は私がおごろう。


――――島原。遊女に酌をされている藤堂。
藤堂   藤尾……か。
藤尾   へえ。先生と同じ、藤の花どすえ。
藤堂   へへ。
――――藤尾はなるほど、目に鮮やかな藤の染模様に、金駒の縫い取りをした打ち掛けを
   着ている。
藤尾   花里ねえさんのお馴染みの、イーさまにお聞きしました。先生は、伊勢のお殿
     様のご落胤やとか……。
藤堂   はは。
藤尾   お顔がすっきりして、お目が涼しいておいやす。伊勢の若様言うたら、ほんま
     やとしか……。
藤堂   よせやい。
――――藤堂、にやにやしている。


――――「みよしや」。
女将   近頃、藤堂はんがあまり来はらへんな。
菊栄   へえ。なんや、いろいろとせわしいようどす。
女将   さよか。お菊はん、江戸っ子はな、気はええけど飽きっぽいさかいに……気い
     つけとかんと、あかんえ。
菊栄   へえ……。
女将   まあ、初めのうちほどちょいちょい会うわけにいかへんのはしょうがないけど
     ちゃんと、つなぐとこはつなぎとめとかんと。あんたは、色恋のかけひきやな
     んてできひんやろしな、心配やわ。
菊栄   へえ。


――――菊栄、家に戻り、ことことと煮物を始める。
菊栄   あの人……子芋の炊いたんは、好きやし。
――――菊栄、ぽつりとひとりごとを言いながら、ふと不安に感じている。
菊栄   (確かに……初めの頃は三日とあけずに会いにきてくれはったのに……うち、
     嫁には行っても、男の人と恋なんてしたことないし、わからへんけど……そん
     なもんなのやろか。このまま、だんだんに、間遠くなってしまうのと違うやろ
     か。)
――――菊栄は煮物を終えて、初めて買ってもらった小紋に着替えた。もう、秋になって
   いる。櫛、簪も取り替え、紅をひいてみた。藤堂の笑った顔を思い出した。
藤堂   (回想)やあ、できた。お雛様みてえだぜ。
――――菊栄は所在無く、藤堂のくれた読本などを読んでいる。しばらくして、トントン
   と表の戸を叩く音が聞こえた。菊栄ははっとして立ち上がり、
菊栄   藤堂はん?
男(声) へえ、その使いどす。
――――と、いう声で菊栄は何気なく戸を開けた。
菊栄   あっ!
――――男の顔を見て、あわてて閉めようとした。しかし、男の手がしっかりと戸にかか
   っている。男は、弥兵衛といって、菊栄のもと亭主である。まだ四十前の、わりと
   体格のいい男である。
菊栄   や、やめて。帰っておくれやす。
弥兵衛  あほう。開けて、中へ入れんかい。締め出したら、大声でわめいたるで。
菊栄   ………。
――――菊栄が手を離し、男はのっそりと入ってきた。
弥兵衛  ほう、こじんまりしているが、なかなかきれいにして、ええ暮らしをしている
     やないか。
菊栄   何の用どす。うち、あんさんにはもう……何の関わりもおへんえ。
弥兵衛  まあ、そういいないな。あの時のことは、わしが悪かった。
菊栄   ………。
弥兵衛  おちえ……、あの女子な、まあ妾にして何もさせんといたうちはよかったが、
     あれはどうも、お家はんに向いた女子やなかったわ。あれやったら、おとなし
     いお前のほうがよっぽど、よかったんや。わずか四年のうちに、お前がいてた
     時の奉公人は残らずやめよったで。
菊栄   お民はんがくにへ帰る時にうちとこへ来て、聞きましたわ。そやけど、そんな
     ん、うちの知ったことやおへん。
弥兵衛  そらそうや。そやけどなあ、昔のよしみで聞いてんか。わしな、今、ちょっと
     困ってんねや。
菊栄   ………。
弥兵衛  ちょいと、別の女子の事で……たちの悪いのにひっかかってしもうてなあ。二
     十両……いや、十五両でもええのや。ちょっと、貸してくれへんか。
菊栄   あほなこと、言わんといておくれやす。なんでうちが……
弥兵衛  何も、くれ言うてんのと違うがな。貸して、言うてんのや。必ず返すさかい、
     な、頼むわ。
菊栄   よう、そんな事が言えますなあ。ほな、うちが輿入れしたときに、うちの家か
     ら持っていった持参金、家財道具や着物、それに……お父さんから出してもろ
     うた店のお金……あんた、返してくれはりましたか。身一つで追い出しておい
     て、よくもまあ。
弥兵衛  あれはお前、そっちから家出したんやがな。急に人たてて、いなしてくれ言う
     てきて、お前は何の挨拶もせんと。不義理したんはお前のほうやで。
菊栄   帰って。早う、いんでおくれやす。
――――菊栄は、座布団を投げつけた。
弥兵衛  何すんねん、危ないがな。
菊栄   帰って。お金やったら、うちのもん、質にでもなんでも入れたらよろしやろ。
     それとも、あの女子に頭下げて、帳場から出してもろたらええやないの。
弥兵衛  あかんがな。そんなことが出来るくらいやったら、何もお前のとこにまで来て
     へんがな。
菊栄   ………。
弥兵衛  それにお前、あの店で誰やら、金持ちの男に手えつけられて、世話になってる
     そうやないか。ちょっとした小金はため込んでんのやろ。
――――弥兵衛、にやにやして菊栄の姿を見る。
弥兵衛  なるほどちょっと見ぬ間に、えらい垢抜けたな。ええ着物着て、紅つけて……
     ハハ。何のことはない、お前かて、おちえと同じ妾になったんやないか。
菊栄   なんやて。
――――菊栄、かっとして台所の包丁を取りに行く。
弥兵衛  おっと、そんな物騒なことやめとき。
――――菊栄、弥兵衛に素早く抱きとめられる。
菊栄   は、離して!
弥兵衛  そんな事したら、お前の旦那にも、あの女将にもえらい迷惑がかかるで。え、
     おとなしゅう、貸してくれたらええんや。あと三日のうちに払わんと、わし、
     指の一本ではすまへんのや。せっかく出来た子供を、ててなし子にはしとうな
     いやないか。
菊栄   い、嫌。
弥兵衛  え、お前が、すんなりわしの子を産んでくれたら、あんな女子に産ませへんか
     てよかったんやで。二度も流れた言うたかて、子をなした夫婦には変わりない
     がな。
菊栄   ………。
――――菊栄、びくっとして黙る。
弥兵衛  なんぼなんでも、お前のええ人かて、亭主の子を二度も身ごもってあかんかっ
     た女子やと聞いたら気持ちも冷めるのと違うかいな。
菊栄   ……卑怯者。
――――菊栄は弥兵衛を突き飛ばし、ふらふらと部屋に戻った。鴨居の上に隠しておいた
   包みを取り出し、弥兵衛に投げつけると、小判が散った。
菊栄   十両おす。返さんかてええし、その代わりもう、二度とうちに顔見せんといて
     おくれやす。
――――というと、見るのも嫌だというふうに、顔を背けて泣きだした。弥兵衛は金を拾
   うふりをしながら、そっと足音をしのばせて菊栄の背中へ近づき、菊栄に襲いかか
   った。
菊栄   あっ!!
――――菊栄は畳の上に押し倒され、片手で口を塞がれ、もう片方の手で裾をまくり上げ
   られている。もがいた。しかし、力でかなうはずがない。弥兵衛の体に押されて、
   着物がひきつれている。
菊栄   うっ、うっ。
弥兵衛  おとなしゅうせんかい。ええ着物が、破けても知らんで。
菊栄   ………。
――――その瞬間、菊栄の目が見開かれて、動きが止まった。それを、弥兵衛は合意とと
   ったらしい。口をふさいでいる手を離し、荒々しい動作に移った。


――――菊栄が乱れた衣服で呆然と体を畳の上に投げ出していると、弥兵衛は平然と身支
   度をして、金を拾って懐に入れた。
弥兵衛  へ、へ……おかしなもんやな。自分の女房やった時はおもしろうもなかったも
     んが、人の女やとええように思えてくるのやさかい。
菊栄   ………。
弥兵衛  金の足りない分や。せんより、ええ体になってたで。おおきに。
――――弥兵衛はそのまま戸をくぐって出て行った。


――――菊栄はしばらくしてから、藤堂のくれた小紋を抱きしめて、さめざめと泣いた。
   湯をわかして入り、肌が赤くなるほど洗った。
菊栄   藤堂はんに……あの人に申し訳ない………。
――――死にたいような気持ちだった。
菊栄   (いっそ、うちのええ人は、新選組の藤堂平助様やて、言うてやりたかった。
     そやけど……あの人に迷惑がかかったらあかん。これ以上、うちのことで面倒
     かけられへん。あんなことされて……女将はんにも、誰にも言えへん。)
――――押し倒された時、菊栄は一瞬だったが着物を惜しんだ。藤堂にもらった初めての
   着物でなければ、たとえぼろぼろに破かれても抵抗しただろう。大声を上げて近所
   に知らせたろう。しかし、騒ぎが藤堂に知られることを恐れた。今の境遇が壊され
   ることを本能的に恐怖したのだ。


――――藤堂は、その後数日して来た。菊栄はせいいっぱい、何でもないふりをして相手
   をしたが、どこかぎこちなくなるのはやむを得ない。
藤堂   どうしたい。なんだか、具合でも悪そうだな。
菊栄   いいえ……。
藤堂   紺色なんか着てるから、顔色が悪く見えるのかな。あれ、着てみろよ。
菊栄   え。
藤堂   ほら、最初に買ったやつさ。もう涼しくなっていいだろう。
菊栄   へえ……今、しみ抜きに出してしもうて。
藤堂   なんだ。まだ春におろしたばっかりだろう。
菊栄   すんまへん……煮物炊こうとして、縫い目のとこにお醤油をこぼしてしもうた
     んどす。あとが残ったらいややし……。
藤堂   そうか。まあ、いいよ。
菊栄   ………。
――――捨ててしまいたいほどに忌まわしい思い出ができてしまったが、もちろん藤堂に
   は言えない。わざわざ人に頼んで洗いに出したが、出来上がってきても袖を通す気
   になれるだろうか。
藤堂   伊東先生がさ。
菊栄   え?
藤堂   ほら、同じ流派の大先輩だと言ったろう。あの人がね、江戸にお内儀を置いて
     きていたんだが、つい先だって離縁してしまったぜ。
菊栄   なんでどす。
藤堂   いやね、この間お内儀から手紙が来て、常陸にいる伊東先生の母上が重病だと
     知らせてきたんだ。それで慌てて、弟の三樹三郎さんと、早駕籠を飛ばして帰
     って話を聞いたらさ。
菊栄   へえ。
藤堂   これが、実はお内儀の嘘だったんだな。
菊栄   嘘……。
藤堂   江戸にいるお内儀はさ、いろいろと京の新選組の噂を聞くが、人を斬ったり、
     寺に押しかけたりと、評判が悪い。もう危ない真似はやめて家に戻ってほしい
     と思って、母上がご病気と嘘を申しました。と言う。まあ、女の気持ちもわか
     らねえじゃねえが、あの温和な伊東さんが、さすがに怒ったそうだ。
菊栄   ………。
藤堂   夫の身を案じたにせよ何にせよ、いやしくも虚言を弄して、しかもわが母を持
     ち出して、多忙な我々をたばかったとは、断じて許しがたい。この国事多難な
     折りに、皆身命を賭して奔走しているというのに、自分の夫だけは安閑として
     女房のもとで暮らしてくれとは、武士の妻にあるまじき、あさはかな考えであ
     る。汝のごときは、自分のことだけを思い、国のあることも知らぬ愚か者だ。
     そんな妻を持っていることすら恥ずかしい。即刻、離縁するからいずこへなり
     と立ち去れ、とこうだ。
菊栄   まあ。
藤堂   お内儀は泣いて謝ったそうだがね。まあ、伊東さんも、隊にさんざん頭を下げ
     て帰ったんだから、そりゃあ怒るのも道理さ。
菊栄   そうかて……お気の毒や。
藤堂   と言ったって、嘘はよくねえ、嘘は。それに、伊東さんは参謀で、俺たちみた
     いに市中で人を斬るような危ない仕事は全くしちゃあいねえよ。しかも、ご本
     人はおそろしく腕が立つ上に、一人歩きをすることは滅多にねえ。新選組の中
     では、最も安全なお人だと言ってもいいくらいさ。
菊栄   ほな、なんで……。
藤堂   伊東さんは、道行く女が振り返るほどの美男だからなあ。そりゃあ、心配なの
     は別のことだろうさ。
菊栄   女子はんのことで?
藤堂   ああ。姿がいい、腕がいい、頭がいいの三拍子とくりゃ、女がほっとくわけが
     ねえじゃねえか。お内儀がひとりじめしてえ気持ちもわかるが、到底無理って
     もんだな。妙な小手先の策を練ったおかげで、離縁されちゃ元も子もねえや。
菊栄   ……あんさんも。
藤堂   ん?
菊栄   嘘は、嫌いどすか。
藤堂   あたりめえだ。まあ、可愛い嘘なら仕方がねえがな。
菊栄   好きなお人のために、つく嘘もあるのと違いますやろか。
藤堂   まあな。……おい菊栄。お前も、俺に何か嘘をついてるんじゃねえだろうな。
菊栄   え?(びくっとする)
藤堂   しかし、俺には皆打ち明けてくれたもんな。江戸の女が、上方女は腹ン中がわ
     からねえ、なんて言ってやがったが、まさかお前に限ってそんなことはねえよ
     な。
菊栄   江戸の、女?
藤堂   (しまったという顔をして)あ、いや……旅籠の女将さ。
菊栄   ………。
藤堂   寝るか。
――――藤堂は明かりを消して、菊栄を床に引き入れた。少しして、
藤堂   おい、どうした。
菊栄   え……。
藤堂   震えてるじゃねえか。
菊栄   ……さぶうて……。
藤堂   そうかねえ。熱でもあるのかな。
菊栄   なんでもおへん。
――――菊栄は藤堂にすがりついた。弥兵衛に犯された記憶が生々しくて、体の震えをお
   さえることが出来ない。



               


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