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あずま男 |
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(五) 巴 ――――慶応二年になっている。この年は、伊東があからさまに近藤、土方に対して異心 を抱きはじめた年である。祇園の料亭で、取り巻きの篠原、鈴木(実弟)らを集め て話している。 伊東 やはり、芸州その他を出張してみてわかった。もはや、長州が恭順するどころ か、京都以西の諸藩で、幕府奉るべしなどと思っているところは、皆無に等し い。 篠原 長州征伐が、ああもお題目だけの大失敗に終わっちゃ仕方ないでしょうな。 伊東 ああ。もはや、幕府の力をもってしても、わずかに長州一国を攻めきれんとい うことだ。我々も、京都守護職の庇護下でいつまでもうろうろとしている場合 ではない。 篠原 井の中の蛙ですな。 伊東 そうだ。いくら京の町で肩で風を切って歩いてみたところで、天下分け目の戦 になった時に、大本の幕府が惨敗してから慌ててみても仕方ない。ここはやは り、早々に近藤、土方とは手を切ることだな。 鈴木 新選組そのものを手に入れる事はあきらめるのですか。 伊東 初めはそのつもりでいたが……いや、近藤はともかく、土方を丸め込むのは容 易じゃないよ。 篠原 確かに。あの御仁を勤王倒幕派に変えるなんてことは、真夏に雪を降らせるよ り難しそうだ。 鈴木 斬りますか。 伊東 いや。こちらにも必ず死人が出る。それは好まない。 篠原 そうだなあ。土方一人をやったところで、沖田、井上、山崎、原田……こうい う一人ずつを片づけていくのは大変な骨折りだ。彼らは、大して思想がない代 わりに、土方同様の職人気質ですからな。土方が死んだら、きっと仇を討つ気 になって騒ぐ。さあ、今日から倒幕だ、というほど器用じゃない。 伊東 それに、近藤の馬鹿が……幕閣におだてあげられて、すっかり寵臣気取りにな っている。そのうち、本当に幕臣取り立てになる腹づもりでいるらしい。 篠原 ははは。この時世に、物好きな。 伊東 もはや、回りが見えなくなっている。のぼせ上がって、おのれ一人の出世しか 考えなくなっていくだろう。盟主として仰ぐに値せぬ。 篠原 ふふ……。とんだ九郎判官だ。 鈴木 は? 篠原 源義経が、勝手に位階をもらってさ、総すかんをくらって滅びたじゃないか。 伊東 そう。成り上がり者に大層な肩書をくれてやり、のぼせて駄目にする。位うち といって、古来からある。彼は百姓の出だからな。落ち目の幕府でも、ご直参 となれば小躍りして喜ぶだろう。 篠原 いいように使い捨てられるんじゃないのかねえ。可哀相に。 伊東 我々は、その尻馬に乗らんことだ。 篠原 しかし、手を切るといったって……そう簡単にはいきますまい。 鈴木 そうですよ。結党以前からの同志である山南さんすら、死なせた連中です。 伊東 あれは、失策だった。 篠原 どっちの? 伊東 我々も、近藤たちもさ。彼らは、山南君を死なせたことで隊内の反感を買った し、我々としては、もう少しうまく利用すべきだったかもしれん。 篠原 ふむ。 伊東 山南君も、思ったより思慮の浅い人だったな。ああもあからさまに抗議文など 書いて、たった一人で出奔したら、救いようがない。 篠原 冷たいねえ。 伊東 あの場は、屯所の移転に反対するだけでよかったのだ。近藤、土方の人気が下 がるだけで十分だった。あの人は、事を急ぎすぎた。 篠原 さんざん煽ったんじゃないんですかい。 伊東 人聞きが悪いな。 テツ 鈴木 山南さんの轍を踏まないようにするには、どうするんです。 伊東 脱退は、しない。あくまで、分派する。 篠原 分派、ねえ。 伊東 そうだ。大坂と同じく、別動隊を作るというわけさ。 篠原 そういう小理屈が、彼らにわかりますかな。 伊東 むろん、我々だけでは無理だ。そのために……薩摩に後ろ楯を頼もうと思って いる。 篠原 なるほど……。 伊東 薩摩は、従来の公武合体策を捨てている。すでに長州、土佐と組んで倒幕をや る気だ。しかし、まだ表立って公儀に反したわけではないから、依然として会 津からは手が出せない。 篠原 薩摩の新選組を作るわけですかな。 伊東 ああ。何、三年前に同じことを近藤たちがやったのだ。文句は言えまい。 篠原 寄らば大樹の影……ですか。 伊東 大樹は将軍の事だ。それを言うなら、これからは、寄らば菊花の影さ。 篠原 ふふん。 伊東 しかし、我々だけでは必ず報復が来る。念のため、近藤派の子飼いともいう人 物を引き連れていくことだ。それならば、名実ともに穏当な分離と言うことが できる。 鈴木 やはり藤堂君ですか。 伊東 そう。それに……斎藤君は、近頃芸妓の取り合いで近藤と仲違いしている。引 き入れるなら今だ。 篠原 藤堂平助、斎藤一……二人とも、生え抜きですな。しかも、強い。 伊東 ああ。手駒にするにはうってつけさ。 ――――伊東、薄く笑っている。 ――――一方、近藤と土方である。 近藤 斎藤君は、うまく伊東の仲間に入り込めたのかな。 土方 ああ。斎藤君のいろである芸妓にあんたが横恋慕して、譲れ譲らねえの喧嘩を したと思われている。あの忠実な斎藤君が、さすがに局長に愛想をつかしたら しい、とね。 近藤 斎藤君は、仕事の上で叱責する理由がないからな。 土方 ふふ。あんたの女好きも、たまには役に立つということだ。 近藤 ひどいな。 土方 しかし、表立って人に言えない恨みごとの方が、根が深い。伊東はそこにすか さず目をつけてくるだろうさ。 近藤 あれは、自分が一番賢いと思っている。時々、わしにまで説教する。 土方 天狗にならぬことさ。ただ人のくせに空まで飛べると思っていると、思わぬ怪 我をする。あんたも気をつけることだ。 近藤 む。(咳払いをする)ところで……斎藤君はいいが、平助はどうなる。 土方 平助か。 近藤 あいつは、だいぶ伊東に私淑している。大丈夫かね。 土方 わからねえな。根が、北辰一刀流だ。 近藤 しかし、試衛館の仲間だ。 土方 ………。あの性格だ。行くなと言っても止まるまい。どちらの親方につくか、 あいつが決めることだ。 近藤 平助は惜しい。俺はあいつが可愛い。 土方 しかしね。 近藤 もし、伊東がごちゃごちゃ言いだしても、あいつだけは引き止めたい。永倉や 原田みたいに、女と添わせて落ちつかせてやったらどうだ。 土方 それは、期待できんな。例の仲居とは、初めの頃ほどの熱はねえらしい。 近藤 なんだ、そうなのか。 ア ガ 土方 伊東の周旋で、島原の輪違屋に登楼ったりしているようじゃ、所帯は持つまい よ。まだ若いからな。 近藤 あいつは、昔から飽きっぽい。 土方 江戸育ちの常さ。悪気はなくても、目新しいものに気が移る。いくら試衛館か らの同志だと言っても……伊東の弁舌にかかっちゃ、ふらりと乗っかっちまう かもしれねえよ。奴は自分じゃ理屈を言わないが、清川八郎、坂本龍馬の出た ような所で育ったんだ。天下国家のため帝を奉じ、幕府倒すべし、てな議論は 耳にタコができるほど聞いてきたはずだ。それを忘れちゃいけねえよ。 近藤 ………。 ――――その藤堂。菊栄の家に行くと、留守で、しかも新しい錠がかけてある。 藤堂 何だ、こりゃあ。 ――――がたがたと戸をゆすってみたが、もちろん開かない。しかたなく、みよしやの方 へ行ってみようとした。その時、人の視線を感じてふっとふり返った。 藤堂 ………。 ――――薄暗い路地から、この家をうかがっていたらしい男がいる。刺客かと思ったが、 町人である。藤堂がそちらを見ると、何気なく姿を消した。 ――――藤堂は「みよしや」に行き、菊栄を呼んでいる。 藤堂 あの錠前は、何だ。 菊栄 ……何かと物騒どすし。すんまへん、これ。 ――――菊栄、合鍵を渡す。 藤堂 面倒くせえな。 ――――藤堂はいぶかしげな顔をして鍵をしまった。 藤堂 それに、お前……近頃はまた夜の勤めを始めて、店に寝泊まりすることが多い そうじゃねえか。なぜ、あの家で俺を待っていてくれねえ。 菊栄 そうかて……前みたいにしょっちゅう、おいでて来やはるわけやおへんやろ。 夜だけやのうて、非番の日かて来たり来はらなんだり……うち、一人でいるの こおうてかなん。 藤堂 しかたねえじゃねえか。忙しいっていつも言ってるだろ。 菊栄 このお店かて、忙しおす。無理言うて、暇をあけてもろうてんのに……待って るだけやったら、ちょっとでも手伝うてた方がよろしい。 藤堂 ………。(むっとする) ――――他の仲居が、せわしげに顔を出す。 仲居 お菊はん、悪いけど……梅の間の辰巳屋はんとこ、お願い。あんたやないとあ かんねんて。 菊栄 へえ。 ――――菊栄、前掛けをなおして立ち上がる。 藤堂 商売繁盛で結構だな。 菊栄 すんまへん。今夜は……店が引けたら、じき家に戻りますさかいに。 藤堂 俺に、待っていろってのか。 菊栄 ………。(困った顔をする) 藤堂 わかったよ。一人で、寝てらあ。 菊栄 あの、何か召し上がっていかはりますか。 藤堂 よそで食う。ここじゃ、胸クソが悪い。 ――――言い捨ててみよしやを出た。菊栄が、自分を待たせてよその男に愛想をふりまい ていると思うと、不快な気がする。 ――――藤堂、おもしろくない顔で帰る。実は、島原の藤尾にも先約があってふられて来 たのである。 藤堂 藤尾の奴も……伊東さんと一緒じゃねえと、他の客と同じ扱いだ。やっぱり、 ああいう店の女はお高くていけねえ。そう思ってこっちに足を向けたっていう のによ。 ――――独り言を言って菊栄の家の近くまで来ると、やはり通りの上にさっきの男がぶら ぶらと立っている。 藤堂 (やはり、密偵かな。) ――――藤堂は何気なく、男に気づかれぬようにして近所の煙草屋に入り、店番をしてい る年寄りに尋ねた。 藤堂 おい、あの男……近頃、このへんをよくうろついているのか。 老爺 へえ……そうどすな。たまに見かけますな。 藤堂 どこかの家をのぞいているふしはねえか。 老爺 へ……言うてええかどうか。 藤堂 言え。 老爺 あんさんの通うてはる、あのお菊はんいう別嬪の家どす。 藤堂 何。 老爺 もちろん、家には上がってしまへんけどな。いっぺんは、何や、お菊はんが勤 めから帰って来た時に行き会うて、表のとこで、ちょっと言い争いしてたこと がおす。 藤堂 女の知り合いだったのか。 老爺 そう見えましたけどな。男を見たとたん、えらい驚いて、こわがってたような 顔をしやはりましたさかい。その時は、うちのせがれやらが、様子を見に、表 へ出たよって、男はそそくさといんでしまいましたけどな。 藤堂 ………。 老爺 あんさんも、近頃あまり来てはらへんようやし……お菊はん、それでよう帰ら んのと違いますかいな。 藤堂 わかった。 ――――藤堂、老人に銭を握らせる。煙草屋の窓越しに、男の人体をじっと記憶した。し ばらくして、男が帰ったのを確かめると、菊栄の家の錠を開けて入った。 ――――暗くなってからも、藤堂は明かりをつけずに刀を引きつけてしばらく表に目をこ らしていた。 藤堂 いねえ。 ――――やっと安心して行灯をつけ、勝手に酒を出して飲んだ。布団を敷き、ごろんと横 になった。 藤堂 菊栄と話をしていたってえと、やはりあいつの知り合いか。客かな。 ――――藤堂は、むかっ腹が立っている。 藤堂 仲居と言っても……やはり水商売だからな。変なのにつきまとわれているのか もしれねえ。 ――――夜も更けて、菊栄が、店の男衆に送られて帰ってきた。鍵を開ける音で、うつら うつらしていた藤堂が起き上がった。 菊栄 すんまへん……遅うなって……。 藤堂 飲んでるのか。 菊栄 へえ……一杯だけ。最後のお客はんに、どうしても言うて勧められてしもて。 藤堂 ………。 ――――藤堂は不意に、立ち上がって菊栄を抱きすくめた。 菊栄 何どす。 藤堂 ………。 ――――抱いたまま、菊栄の帯をほどきにかかっている。 菊栄 あんさん? ――――菊栄はちょっと抗ったが、しかたなく藤堂のなすがままになった。裸形にされて いる。藤堂は、それを上から下まで眺めたあげく、 藤堂 菊栄。 菊栄 へえ。 藤堂 お前は、俺の女だよな。そうだよな。 菊栄 (困ったように)……あたりまえやおへんか。 藤堂 はは。 ――――藤堂は、素っ裸になった菊栄を横抱きに抱えて、布団の上に乗せた。 ――――藤堂は、菊栄を抱いた後、言った。 藤堂 さっき……変な男がこの家を見張っていたぜ。 菊栄 ………。 ――――菊栄の顔が、さっと青ざめた。 藤堂 誰だ。知らねえ奴じゃねえんだろう。 菊栄 昔……、ちょっとお客はんで知ってた人どす。 藤堂 つきまとわれているのか。 菊栄 へえ、向こうが、勝手に……でも、大事おへん。一人で出歩かへんよう、気い つけてますさかい。 ――――菊栄の声がわずかに震えている。 藤堂 そうか。それにしても、ずうずうしい奴だな。 菊栄 へえ……。 藤堂 局中法度がなかったら、叩っ斬ってやるところだ。 菊栄 いや。そんな……おそろしい。 藤堂 俺が、放っておいて悪かったよ。これからは、なるべくこっちへ来るようにす る。怖かったろう。 菊栄 へえ……。 ――――菊栄、冷や汗をかいている。 ――――勝手なもので、他の男が言い寄ってくるとなると惜しくなるらしい。藤堂はそれ から、足しげく菊栄のもとへ通うようになった。 藤堂 近頃、あいつは姿を見せねえか。 菊栄 へえ……。あんさんが、ようおこしやすのんを、聞いたんと違いますか。空威 張りしはっても、気の小さいお人どすさかいに……やはり、お武家はんはこお おすのやろ。 藤堂 新選組だなんて聞いたら、いっぺんで逃げ出すだろうな。 菊栄 いいえ……うち、よそのお人には、藤堂はんのお名を出してしまへん。 藤堂 なぜ。 菊栄 そうかて、うちみたいなもんと噂が立ったら、藤堂はんにご迷惑やし。 藤堂 おい。その、うちみたいなって言うのは、いい加減によしな。聞いていて気分 のいいもんじゃねえ。 菊栄 へえ……。 藤堂 俺だって、生まれついての浪人だ。町家のお嬢さん育ちのお前と比べてどうこ う言う筋合いはねえや。あまり卑屈になられるとかえって厭味だぜ。 菊栄 ………。 ――――菊栄、じわっと涙ぐむ。 藤堂 泣くな。おい。 菊栄 けど……うち、聞いたんどす。 藤堂 何を。 菊栄 へえ……お店のお客はんで、所司代様にお出入りしてはるお人に……新選組は 来年あたり、ご公儀に直参のお取り立てになるらしいて。それも、お旗本の、 見廻組と同じ位の格は約束されるやろて。 藤堂 ……もう、噂になってるのか。早いな。 菊栄 そうなったら、ほんまに身分違いどす。 ――――菊栄は、身寄りもない上に、離婚している自分を恥じているらしい。 藤堂 馬鹿。初めから、悪いようにはしねえと言ったろう。 菊栄 ………。(かぶりを振る)ご直参になったら、きっとええご縁がおす。 藤堂 そんなもん……俺は、直参になんかならねえよ。 菊栄 え? 藤堂 伊東先生も、幕臣になるのは反対している。俺は、早くからその人に誘われて いる。もし、いまさら幕府の抱えになる位なら……新選組を離れる気はないか とな。 菊栄 え。 藤堂 お前にはわからねえと思って黙ってきたが、俺の育った北辰一刀流というのは 皆、今の日本は、幕府の独裁はそろそろ終わりにして、帝を押し立ててまつり ごとをした方がいい、と言いあってきたような道場だ。その考えは、およそ国 事を考えたことのある男なら、誰でも同じなんだ。伊東さんは、公儀の手先に なって右も左もわからねえで働くよりは、天朝様の御世になるよう、力を注い だ方がどれほど国のためになるかしれねえ、と言う。 菊栄 へえ。 藤堂 しかし、近藤さんはあくまで、幕府が従来通り、国の舵取りをしながら天朝様 を立てていくという考えで、伊東さんは、もはや幕府を倒してでも帝が国の中 心になるべきだ、という考えになっている。そこが、大きくずれている。 菊栄 ………。 藤堂 俺は、公方様のお膝元の江戸の育ちだ。だから徳川の世の中には愛着もある。 だが、その反対に……旗本だの御家人だのというのに、どれほどくだらねえ、 腐った男が多いか……それも知っている。あいつらの風下に立って新参者と呼 ばれるかと思うとぞっとする。 菊栄 へえ……。 藤堂 しかし、正直言ってちょっと迷ってはいる。菊栄、お前は、俺がどっちにつく べきだと思う。 菊栄 うちには……答えようがおへん。 藤堂 だろうな。 菊栄 けど……うちの死んだお父はんは、京の町が千年もの間、営々として続いたん は、皆ごっさん(御所様)のお陰や、それどころか、日本の国がずっと、異人 に攻め滅ぼされることもなくやって来られたんも、皆が変わらずに帝のお血筋 を奉って来た、そのお陰様やて。こんな偉い国は、ちょっと他にはない、言う て……わがことのように自慢してはりましたえ。 藤堂 へえ。 菊栄 それに、古来武家の天下には盛衰がある。将軍さんや大臣さんは数え切れんほ ど滅んだけど、天朝はんだけは、国が始まって以来滅んだ事がない。これから も、ずっと日本のよりどころになるのは、天朝様や、言うて。……何や、商人 らしからぬ難しい本を読んではる人どしたさかいに。 藤堂 立派な親父さんだなあ。 菊栄 子供に言うても、面白うもなんともない話を何べんも……。うちは、あまりよ う聞いてしまへなんだけど。 藤堂 日本のよりどころは、天朝か……。 菊栄 天朝はんにつくのも、ご公儀にお味方するのも……あんさんの先々ええように お決めやしたらよろしおす。 藤堂 うん。 ――――藤堂、菊栄の酌を受けている。やがて、行灯の火がふっと消えて、しのびやかな 声が聞こえ始める頃、その家を外からじっと目をこらしている男がいる。ちっ、と 舌打ちをした。弥兵衛である。 ――――「みよしや」。 女将 近頃……また藤堂はんとむつまじいようやな。よかったなあ。 菊栄 へえ……なんや、怪しい男が立ってた、て心配してくれはったようどす。 女将 弥兵衛はんのことかいな。 菊栄 へえ。 女将 そうかて、知ってはらへんのやろ。 菊栄 へえ、もちろん。 女将 言わんほうがええ。前の亭主が借金しにきたなんて言うたら、きっとえらい怒 らはるえ。 菊栄 へえ。 女将 そやけど、いっぺんはお金くれてやったのやろ。それやのに、なんでまたずう ずうしい。 菊栄 ………。 女将 あんたを送ってもろた多吉どんに、あの男が待ち伏せしてた、て聞いて、びっ くりしたがな。そういうことは、もっと早うに言わんと……危ないえ。 菊栄 すんまへん。 女将 藤堂はんが毎晩泊まっとくれやしたら安心やけど、そうもいかんしなあ。ええ な、もし、また無心に来たら大声で叫んで、追い返すんやで。あんな奴、ほっ といたら何されるかわからへんし。 菊栄 へえ……。 ――――菊栄、目を伏せる。まさか、その弥兵衛に強姦されたことは女将にも告げていな い。そのまま立ち上がろうとした時、ふいに胸がむかついた。 菊栄 うっ……。 ――――菊栄は口元を抑えて、庭へ走り出た。嘔吐した。 女将 お菊はん。 菊栄 す、すんまへん……。 ――――女将が背中をさすっている。 女将 お菊はん、あんた……。 菊栄 え。 女将 出来たんやな。そうやな。 菊栄 ……たぶん……。 女将 まあ、まあ。えらいこっちゃ。あんた……働いている場合やあらへんがな。 ――――菊栄の家。布団に寝ているところへ、藤堂が駆け込んで来る。 藤堂 菊栄! 菊栄 あんさん……どう、おしやしたんどす。 藤堂 どうしたもこうしたも……本当かよ。 菊栄 え? 藤堂 馬鹿。女将が……みよしやの女将が、知らせを寄越したんだ。子供が出来たっ てのは、本当か。 菊栄 へえ。 ――――菊栄、恥ずかしげに顔を伏せている。 藤堂 俺の子か。 ――――菊栄、きっとして藤堂の顔を見る。 藤堂 いや、ごめん。悪かった。いやあ、まいったなあ。 菊栄 すんまへん……。 藤堂 俺も親父かあ。だいぶん、予定より早いが、まあ、めでてえ事だから文句は言 えねえよなあ。 菊栄 めでたい……。 藤堂 おう。 菊栄 産んでも、よろしおすの。 藤堂 それこそあたりまえじゃねえか。俺の子だもの、産んでもらわなきゃ。 ――――藤堂は、例のくしゃっとした顔で笑っている。菊栄は涙ぐんだ。 菊栄 嬉しい……。 藤堂 そうと決まった日にゃ、体を大事にしてくれよ。医者も頼むし、産婆も探す。 それに、女中も雇う。必要なら下男も入れていい。とにかく、無事で過ごす事 を考えなきゃな。そうそう、身二つになるまで、お前が何と言っても、勤めは 厳禁だぜ。絶対に、みよしやで働く事は許さねえ。じっとしていろ。 菊栄 へえ……。 ――――藤堂が上機嫌で、慌ただしく帰った後、菊栄は一人で泣いた。 菊栄 (あの男の子とは違う……あの後、月のもんがちゃんと来たさかい、それは違 う。そやけど……あんなに喜んでくれて、隠し事してんのが申し訳ない。必ず ……今度こそ、必ず、ちゃんと産んでみせる。無事で、ええややを産むし、藤 堂はん、かんにんえ……。) ――――藤堂は、にやにやしながら屯所に帰った。伊東が呼び止めた。 伊東 藤堂君。なんだか、嬉しそうだね。どうしました。 藤堂 いやあ……実は。まだ誰にも話してないんですがね。伊東先生が最初ですよ。 伊東 ふふ。何やら楽しい秘密らしい。光栄だな。 藤堂 ええ。たったいま、確かめてきたばかりなんで……(照れながら)その、例の 仲居をしているコレに、コレができましてね。 ――――と、藤堂は小指を立てたあと、お腹がふくらんだ手真似をした。 伊東 何と。それはまた……おめでとう。 ――――と、伊東は素直に喜んだ。このあたり、人好きのする男なのである。 藤堂 菊栄……いや、女のやつがね、二十五にもなって初産だなんて恥ずかしいし、 無事に産まれるかどうか不安でならない。あまり人に言わないでくれ、なんて 言うんですがね。 伊東 そうか。それは、いろいろと心配だろうな。(と、腕を組んで)私の知り合い に、産科の医者で心当たりがある。よければ、頼んであげよう。 藤堂 本当ですか。そいつはありがたい。 伊東 うん。できれば、身ごもっているうちから、身の回りの世話をしてくれる者が いたほうが心強いだろう。何だか、変な客につけまわされた事があって家にい るのが怖いらしいと言っていたじゃないか。そうでなくても、女の一人暮らし では何かと大変だろうからね。 藤堂 それは、願ってもないことです。ありがとうございます。 ――――藤堂は感激している。 伊東 それから……その女の言う通り、子供が出来た事はしばらく伏せておいた方が いい。 藤堂 なぜです。 伊東 大事な時だからね。女や子供のことを知られては、後のかけひきがやりにくく なる。 藤堂 ははあ……。 伊東 永倉君、原田君を見たまえ。近藤さんの世話で女房をもらい、隊に妻子の暮ら しを賄われて、体のいい人質をとられた格好だ。今は、あちらに弱味を見せな いことだ。 藤堂 なるほど……。 ――――このあたり、伊東は一転して計算高い。 ――――翌朝になって、菊栄は戸を叩く音で目が覚めた。小窓を少し開けて、 菊栄 どちらさんどす。 ――――と、見た。妙なものが立っている。 巴 はい。藤堂様からのお言いつけでまいりました。巴と申します。 ――――低いが、女の声である。しかし、髷を結いもせず後ろで一つに束ね、作務衣のよ うな格好をしている。にこっと笑って、格子の隙間から手紙を差し入れた。 巴 藤堂様のお知り合いの、伊東先生からの紹介でございますよ。 菊栄 へえ……。 ――――菊栄は目をまるくしている。戸を開けてやるとぬっと入って来た。女のくせに、 五尺五寸はあろうかという大柄で、しかもがっしりしている。 菊栄 あの……うちは、女中はんが来てくれはるように聞いてましたんやけども。 巴 女中でもなんでもいたしますよ。しかし、本業は産婆です。医者の真似事もい たします。 菊栄 まあ……。 巴 それと、柔術を少々。ですから、用心棒も兼ねて行ってこいという、あたしの 師匠からのお申しつけでござんしてね。ああ、あたしの師匠は、本物の医者で す。あたしの手に負えない時は、寺町の中井玄庵先生が飛んでまいります。ど うかご安心して、いい子を産んで下さいましよ。 菊栄 へえ……。 ――――巴は、柄に似ず身動きの軽い女で、てきぱきと水回りの仕事などを始めている。 巴 菊栄さんは、初めてのお子ですってねえ。 菊栄 (ちらっと翳がさす)……へえ。 巴 そりゃあ大事にしないとねえ。女の二十五っていったら、ちょうど体の変り目 でもあるんですよ。 菊栄 あの……巴はんは、江戸のお人どすか。 巴 もとは、下総の百姓の娘ですよ。江戸に長くおりましたがね。 菊栄 へえ。 巴 何しろこんななりでございますから、嫁に行くのはさっさとあきらめまして。 産婆なら、女手ひとつで年をくってもやっていけますからね。それに、あたし は丈夫なことだけは自信がありますからね。何たってあなた、お産てのは大変 な力仕事で、半日かかっても出て来ないことはざらなんですから。 菊栄 ………。 巴 おや、こわがらせちまいましたね。(笑って)大丈夫ですよ。こう見えたって あたしも一人産んでるんですから。 菊栄 まあ。ほんまに? 巴 (笑う)あはは、どこにそんな物好きな男が、と思ったでしょ。そういう顔つ きですよ。 菊栄 いえ、そんな……。 巴 もっとも、あたしは一人でこっそり産みました。ちゃんとした男の子どもじゃ ありませんでしたのでね。 菊栄 ……それで、そのややさんは? 巴 人にくれてやりましたよ。生きてりゃ十になる男の子ですけど、あたしの顔も 知りません。 菊栄 まあ……。 巴 でもねえ、こんなあたしでも、一人で産む時はそりゃあ大変で、心細い思いも しました。だからちょっとでも、おんなじ女の役に立ちたいと思いましてね。 菊栄 ………。(うなずく) 巴 菊栄さんがうらやましいですよ。旦那に大事にされて、子供を待ち望んでもら えるんですものねえ。 菊栄 へえ。 (六) 御 陵 衛 士 ――――慶応三年正月。新選組屯所は、ざわめいている。外から戻って来た藤堂が、沖田 や原田に聞いている。 藤堂 どうした。 沖田 戻ってきたんですよ。例の、伊東、斎藤、永倉のお三方が。 藤堂 へえ。 沖田 元日からだから、三日以上も島原に逗留をしたんですからね。こりゃあもう、 大目玉ですよ。 原田 大目玉ですむもんか。へたすりゃ切腹だぜ。 藤堂 切腹……。 イツヅケ 原田 何しろ、隊に戻れという局長からの使いを無視して、流連したんだ。ついうっ かり遊びすぎましたじゃ、とてもすむまい。 藤堂 伊東先生ともあろう人が……なんでそんな無茶をしたんだろう。 沖田 お二人は、なぜ行かなかったんです。 原田 俺も、新八に誘われたが、まあ……正月くらいは親子で過ごしたいからな。平 助は。 藤堂 俺も……ちょいと、行くところがあって遠慮したんだが……しかし。 沖田 正月早々、大騒ぎにならなきゃいいけど。 ――――近藤の部屋。土方と話している。 近藤 ……けしからん。 土方 あの伊東が、正面きってあんたに逆らってきた。まあ、果たし状を叩きつけて きたようなもんだな。 近藤 この機会に、切腹させるか。 土方 いや。それはまずい。 近藤 ……む。 土方 奴は、永倉を味方に取り込もうとしたんだ。斎藤君が、我々の意を含んで目を 光らせていてくれなければ、危なかっただろうな。 近藤 島原で、密談をもちかける気だったのか。 土方 新選組に離反する意思があるかどうか、確かめるつもりだったのだろう。しか し、斎藤君がうまく永倉を酔いつぶして、そうならぬように持っていった。新 八はただ、尻馬に乗っかって遊んだだけさ。奴の女……小常だが、つわりで具 合が悪いらしい。休息所に帰っても、気が休まらんそうだ。 近藤 あっちの方もたまっていた、というわけだな。 土方 まあな。 ――――と、土方は火鉢の炭を起こしながら、 土方 伊東をやれば、永倉や斎藤も処分しなきゃならねえじゃねえか。まさか、人知 れず役目を守った斎藤君に腹を切らせるわけにはいくまい。 近藤 そりゃあ、そうだ。しかし、伊東が首謀者だ。切腹は伊東だけでよかろう。 土方 それも、できんな。 近藤 なぜだ。 土方 伊東の一派は、少なく見ても二十人いる。切腹と決まれば、こいつらが一斉に 暴れ出すはずだ。だけでなく……山南の一件以来、隊のやり方に不満をくすぶ らせていた連中まで、付和雷同するだろう。そうなりゃ隊は真っ二つ、下手す りゃ向こうの方が数が増えちまうぜ。 近藤 う……。 土方 ここは、あんたの寛大さをみせることだ。 近藤 腹が立つな。 土方 伊東は、あんたが激怒することも、かといって自分を斬れぬことも、すべて承 知の上でやっている。なめられたもんさ。 近藤 ………。 土方 まあ、今は思い上がらせておくことだ。 ――――伊東は、自室で一人端座している。唇のはしで笑った。 伊東 (ふふ……さて、あの短気な近藤、土方がどう出るか。間違っても今、私を斬 ることはできまいし、許したとしても彼らの権威は失墜する。幹部三人が隊規 を乱しても処分できないのだからな。) ――――伊東ら三人は、三日間の謹慎で済んだ。隊規違反の処分としては異例の軽さとい える。 ――――一月七日。沖田が、永倉の部屋を訪ねている。 沖田 永倉さん。もう、禁足を解いてもいいそうですよ。 永倉 え……。 沖田 斎藤さんと三人で、厄落しに、何かうまいものでも食って来いって、土方さん が。 ――――と、沖田が小判をちらっと見せて笑う。 永倉 本当かよ。 沖田 ええ。私は、寒いからいやだって言ったんですけどね。 永倉 行こう。いやあ、三日も押し込めで、くさくさしていたところだ。 沖田 おや、その前にも三日、白粉臭いところに押し込められていた時は、文句も言 わなかったんじゃありませんか。 永倉 そりゃあ、言いっこなしだ。(頭を掻く) 沖田 (くすくす笑って)斎藤さんが、祇園にうまい鍋を食わせる店がある、という んです。その代わり、今夜は女っ気ぬきですよ。 永倉 あたりまえだ。 ――――その夜、沖田ら三人は四条大橋で遭遇した酔漢二人と、切り合いをしている。相 手は土佐浪士と、十津川郷士であった。屯所で、永倉と藤堂が話している。 藤堂 とんだ厄落しになっちまいましたね。 永倉 ああ。しかし、俺は思った。やはり、沖田は敵に回したくねえ。(笑う) 藤堂 相手も災難だ。よりによって、沖田総司、永倉新八、斎藤一………。新選組の 三強がお揃いとは、思いもしなかったろう。 永倉 はは。酔っぱらいの喧嘩だからと、沖田が勘弁してやらなかったら、向こうの 命はなかったろうよ。もっとも、あの傷で生きているかどうかわからんが。 藤堂 ………。 永倉 沖田に言われたよ。「永倉さんは、この夏にも父親になるんでしょう。つまら ないことで腹を切って、歳みたいに親父の顔も見たことのない子供にしちゃか わいそうだ、と近藤先生がおっしゃってましたよ」ってね。 藤堂 ………。 永倉 確かに、身重の小常を置いて島原で遊ぶなんざ、俺が悪かった。平助みてえに 自分の女のところで正月を過ごしてやりゃよかった。 ――――今度は、藤堂が伊東と話している。 伊東 そうか、やはり思った通り……永倉君は女房子供にひかれて、新選組に残りそ うだな。 藤堂 新八さんは、情にもろいですからね。沖田君にああ言われちゃ、ほろりとする でしょう。 伊東 沖田君を使うあたり、彼らも考えている。(苦笑) 藤堂 ははあ。 伊東 藤堂君は、やはり子供ができたことを伏せておいて正解だった。 藤堂 ………。 伊東 例の女子はどうです。 藤堂 はは……おかげさまで、腹の子はどうにか無事に育っているようですよ。伊東 先生の紹介で来たという手伝いの女を見たときは、俺もびっくりした。 伊東 私は、会ったことはないが……ちょっとした豪傑らしいね。 藤堂 大した女丈夫ですよ。あんなのが住み込みでいたら、誰も近寄れねえ。(笑っ て)俺が泊まりに行った時も、「私がお邪魔ならよそへ泊まりますが、あなた もお腹の子が大事なら、菊栄さんにおかしな真似をしないでおとなしく寝るこ とです。」なんて言いやがった。仕方がねえから、巴の隣の部屋で、自分の女 に手も出せねえで寝ましたよ。 伊東 ははは。巴とは、よくつけたものだ。 藤堂 もとは、お美代とかいう似合わん名前だったが、医者の玄庵先生が巴御前みて えだってんでつけてくれたそうですよ。 伊東 あの先生も酔狂だからな。 ――――伊東、酒を飲みつつ、 伊東 藤堂君。私は、近く九州へ旅をする。 藤堂 ほう。また、出張ですか。 伊東 表向きは、西国諸藩の情勢を視察し、かつ、新選組の参謀として各地の壮士に 幕府への助勢を説く、という名目になっている。しかし…… 藤堂 しかし? 伊東 実は、逆だ。勤王倒幕派の人々と交わりを深めに行く。 藤堂 なる……。 伊東 長崎あたりでは、いろいろと面白い男たちに会えるだろう。 藤堂 はあ。 伊東 その遊説の旅が終われば……藤堂君、いよいよだ。 藤堂 例の話ですか。 伊東 そう。薩摩の大久保氏がすべて引き受けると言ってくれた。なんと、朝廷でも 後押しをして下さる。 藤堂 何ていって、出ていくんです。 伊東 我々は、新選組を分離して先帝(孝明天皇)の御陵衛士となる。 藤堂 ごりょうえじ…… 伊東 今上の帝がご即位された今……攘夷の勅旨を天下にお示しになった先帝の御霊 をお守りしつつ、尊皇攘夷のために働くというわけさ。 藤堂 墓守ですか。 伊東 かしこくも帝の御陵だ。ただ浮浪狩りをしている新選組とは格が違うよ。 藤堂 ………。 伊東 藤堂君。君も、父親になる。産まれてくる子供が、衰退しきった幕府の手先の 父を持つか、それとも、天朝の兵として新しい御世の為に尽くす父を持つか。 思案のしどころだよ。 藤堂 ……はい。 ――――菊栄は、巴に教えられた赤ん坊の産着などを縫っている。「みよしや」の女将が 見舞いに来ていた。 女将 あんたにやめられたんは痛いけど、大事な事やさかい、しょうがないわな。 菊栄 へえ……。 女将 ほんまに大事にせんと……前の事もあるし。 菊栄 へえ。 女将 そやけど、今度は大丈夫や。こない、おだやかにして好きな男の子を産めるの やさかいに。昔は、やっぱり亭主の事で気鬱になって、うまいこといかなんだ のやろ。 菊栄 へえ。毎日……神棚に願かけてます。 女将 そうそう、あの弥兵衛の店な、ほんまにあかんようになったらしいえ。 菊栄 まあ、そうどすか。 女将 あの後妻のおちえいう性悪女、とうとう弥兵衛に愛想つかして、新しい男作っ て出ていったそうや。 菊栄 へえ……子供は、どないなりましてん。あの、男の子がいてましたやろ。 女将 おちえがさらって逃げてしもて、ゆくえもわからへんそうえ。あんな女子でも 自分の子供だけは可愛いらしいなあ。 菊栄 そうどすか……。 女将 弥兵衛も落ち込んで、店ごと人手に渡るのもそう遠いことやないわ。 菊栄 そやけど……女房のうちを追い出してまで一緒になったのに、なんであかんか ったんどすやろ。 女将 弥兵衛の女遊びや。あの男、おちえを後添いにもろうたはええけど、さんざん 威張り散らされて面白うないし、また外の女にひっかかったらしい。悪い病気 は治らへなんだいうことやろ。あんた、ほんまに離縁しといてよかったなあ。 菊栄 へえ……女将はんのおかげどす。 女将 あんたに、金を無心に来たのかて、どうせその女子の後始末のためやろ。ほん ま、疫病神みたいな男や。もう、金輪際近づかんといてほしいわな。 菊栄 へえ。うちは、藤堂はんや巴はんに守られてますし、大丈夫どす。 女将 ほほ。そうかて、あの巴はんて変わった産婆さんやなあ。うち、最初に見た時 は男はんかと思うたえ。 菊栄 へえ……そやけど、腕も確かやし、気さくなお人やしで、時々、よそさんにも お産の手伝いを頼まれます。 女将 へえ、さよか。 菊栄 それに、女ながら医術や柔術のの心得もおすし……心強うおす。 女将 一人、何役やろ。(笑う) 菊栄 うち……もしも、藤堂はんと所帯を持つことがかなわなんだら、巴はんと一緒 に、もうちょっと広い家でも借りて住もうかと思うてんのどす。 女将 まあ。 菊栄 藤堂はんは、お武家はんやし……何かと忙しい身の上どすやろ。そやし、巴は んが産婆と、お医者の看板でもあげて、うちはその手伝いでもしながらいろい ろ教えてもろうて……子供を育てていこうかと思いますねん。お互い一人もん でも、一緒に住んだら何かと心強いやおへんか。 女将 まあ、藤堂はんが、やや子までなしたあんたを見捨てるとは思わへんけど…… もし、この先そんなことになったら、またうちの店に来たかてええんやで。住 むとこはそら、あの巴はんと一緒でもかまへんけど……。 菊栄 へえ、おおきに。 ――――藤堂は、確かに忙しいらしく、たまにしか顔を見せない。二月の雨の夜、笠をか ぶってちょっとの間だけ、玄関に会いに来ている。 藤堂 ちょっと、内緒の会合の帰りだ。すぐ、屯所に戻る。 菊栄 寒いのに………泊まっておいきやすな。 藤堂 いや、そうはいかねえのさ。それに……あの巴の寝息を聞きながらじゃ、落ち 着かねえや。 菊栄 まあ。 藤堂 体はどうだ。なんともねえか。 菊栄 へえ……ちょっと、お腹が出てきて、帯がしんどうなってきましたけど。でも 大事おへん。 藤堂 そうか。もう、寒いから奥に入りな。 菊栄 へえ……。 藤堂 これは、今いった料亭でもらってきたんだ。鳥だ。柔らかく煮てあるから、食 え。滋養がつく。 菊栄 へえ……おおきに。 ――――菊栄、涙が出そうになる。 藤堂 近々、伊東先生が旅から戻ってきたら……いよいよ新選組を出ることになると 思う。そうすりゃ、巡察の仕事もなくなって、ちゃんとお前と住むこともでき るかもしれねえ。待っていてくれ。 菊栄 へえ……。 ――――菊栄は、そっと藤堂の胸に寄り添った。 藤堂 着物が濡れる。風邪をひくぞ。 菊栄 ええのどす。うち、嬉しいて……。 藤堂 菊栄。(口づける) ――――藤堂が雨の闇に消えた後、障子の影から顔を出した巴がちょっと笑った。 巴 いいですねえ、若い男は……まっすぐで。 菊栄 いややわ、いけず言うて。 ――――菊栄は赤くなった。幸せだと思った。 ――――間もなく、伊東は帰隊し、かねての手筈通り、近藤に分離独立を申し出た。伊東 の側近らは、近藤、土方が寝耳に水の驚きで、激論を戦わせたが、遂に伊東の弁舌 にはかなわず術中に落ちた、と書き残しているが、まさか近藤らもそこまで馬鹿で はない。 近藤 承知した。 伊東 分離して居所を異にするといっても、我々も、尊攘の素志には何らかわりはな い。新選組は幕府抱えとなり、我等は一歩、朝廷側にちかづく。無論、今後は 勤王方の情報をひそかにご報告申し上げよう。そうすれば、文字通り局長の目 指す公武合体の為、双方から働きかけることができましょう。 近藤 ………。(うなずく)但し、一つだけ条件がある。 伊東 なんなりと。 近藤 御陵衛士として、同行する者はこの署名の通り、十六名で間違いないのだな。 伊東 左様。 近藤 では、隊を分離するのは、この者たち限りとしていただく。今後一切、新選組 からの脱退、御陵衛士加盟は許さぬ、ということを約定してもらいたい。 伊東 ほう。 近藤 ひらたく言えば、新選組の厳しさに耐えかね、我も我もと、伊東君を慕ってそ ちらへ逃げ込もうとする者が出るかもしれん。それを受け入れてもらっては、 新選組が立ち行かぬ。今後そちらへ通じようとする者は、理由のいかんを問わ ず局中法度通り……脱走者としてみなすこととするから、承知しておいてもら いたい。 伊東 もとより……こちらは事を荒立てるつもりもござらぬ。新たに人を入れる場合 は、独自に募集をかけるつもりでおります。 近藤 結構。 ――――この間、土方は一言も発しない。近藤、土方が退席すると、伊東ら一派はほっと 微笑をもらした。中に、藤堂と、斎藤一がいる。 藤堂 いやあ……近藤さんはともかく、土方さんが黙って受け入れるとは思わなかっ た。冷や汗が出た。 斎藤 ……ご同様。 ――――藤堂、斎藤は伊東たち中途採用組とは訳が違う。結成以来の生え抜きで、池田屋 に斬り込んだ猛者である。 藤堂 俺や斎藤さんだけは、許さねえと言うと思ったがね。 斎藤 まあ……そうもいかんでしょう。 ――――斎藤は曖昧な笑みをもらした。近藤と仲違いをして伊東派に加わったこの男が、 実は近藤、土方の放った間者であることを誰も知らない。 ――――わずか五日後の三月二十日。伊東派は新選組西本願寺屯所を出て、三条城安寺に 仮住まいをすることになった。藤堂も、すでに荷物はなく、大小を差して支度をし た。八番隊の平隊士でも比較的おとなしい三浦常三郎という男が声をかけてきた。 三浦 藤堂組長。 藤堂 おお、三浦君か。 三浦 藤堂組長には、入隊以来さんざんお世話になって……何のお返しもできず、心 苦しいです。 藤堂 なあに、同じ京の町にいるんだ。そのうち、どこかで出くわすかもししれん。 その時は、一杯おごってくれよ。 三浦 は。これは、つまらんものですが…… ワラジ ――――と、三浦は真新しい草鞋を出す。 藤堂 おいおい。たかが三条までの道のりに草鞋はいらねえ。 三浦 いえ。伊東先生のお供に加われば、諸国奔走のこともあるでしょう。何かの時 にお使い下さい。私が、編んだものです。 藤堂 そうか。へえ……うまいもんだな。 三浦 くにで、よくやりましたから。 藤堂 そうかあ……(笑って)何よりのはなむけだ。ありがとうよ。 ――――その頃、菊栄は巴と朝茶を飲んでいる。 巴 今日は、藤堂様のお引っ越しでござんしたね。三条の城安寺ですって? 菊栄 へえ。巴はん、うち、ちょっと昼にでも、出掛けて来ようと思うてます。 巴 どちらへ? ヨ 菊栄 三条に、東の大将軍神社、いうところがおす。そこへ行って、方除けの御札を もろうて来よう思うて。 巴 方除け? 菊栄 へえ。お西はん(西本願寺)から見たら、藤堂はんらの今度のお住まいが、丑 寅(北東)の鬼門にあたるんどす。そやさかい、げんが悪いし……御札をもろ うて、持っていかはったら安心どす。 巴 へえ。(笑う)それはまた、京の都らしく…… 菊栄 ほんまは、藤堂はんが行けたら一番ええねんけど……御札を、帰りしなに、城 安寺はんにことづけて来たらよろしいし。 巴 一緒に行きましょうか。 菊栄 いいえ……お天気もええし、ちょっと足ならしに、ゆっくり歩きますさかい、 平気どす。巴はんは今日は、道具屋さんとこの、若おかみさんを診てあげます のやろ。 巴 そうですねえ。けさ、ちょいと痛み始めたっていうからそろそろ…… ――――その時、男が表の戸を叩いている。道具屋の者である。 男 すんまへん、巴はん。巴大先生。道具屋の美濃屋どす。来ておくれやす。 巴 噂をすれば…… ――――巴、湯飲みを置いて玄関へ出る。 巴 どうしました。 男 へえ。女房が、えらいもう、痛い痛い言うて…… 巴 痛いのはあたりまえです。痛みは、近くなりましたか。 男 へえ、さっきまでは休み休みどしたけど、もう一時もおさまらんようになって ……もう、死ぬ死ぬ言うてまっせ。 巴 馬鹿を言いなさい。(笑う)あのおかみさんの体なら大丈夫。お産で死ぬほど やわじゃありませんよ。 ――――言いながら、巴はてきぱきと支度している。潔くたすきをかけて、 巴 菊栄さん、ちょっと出掛けてまいります。神社へは、充分気をつけてお行きな さいましよ。 菊栄 へえ。おきばりやす。 ――――菊栄は昼頃、うららかな陽気に誘われるように歩いている。お腹は目立ちはじめ ているといっても、まだそれほど大きいわけではない。今でいうと四月半ばのこと で、まだそこここに桜が咲き残っている。 菊栄 (来年は、親子三人で桜めぐりでも出来るやろか……。) ――――大将軍神社へ詣で、御札をもらって出た時、菊栄は息を飲んだ。 菊栄 あっ。 ――――行く手に、のっそりと弥兵衛が立っている。 菊栄 あ、あんた……。 ――――菊栄はとっさに逃げ出そうとした。弥兵衛が追って来て、腕を捕らえた。 菊栄 は、離しておくれやす。 弥兵衛 そうはいくかい。お前……鍵をつけたり、人を雇うたりしよって。いつ出てく るかと思うて、待ってたんや。 菊栄 もう、あんたには関わりおへん。 弥兵衛 へへ、お前、またはらんだそうやな。え、その腹の子は誰の子や。あの時の、 わしの子供やろ。 菊栄 あほなこと、言わんといておくれやす。この子は、あのお方の子や。うちの、 ほんまに好きな男はんの子どす。 弥兵衛 そんなん、わかるもんかい。 菊栄 わかります。あんたとは、あの時無理やりにいっぺんだけ……そやけど、何日 もせんうちに、ちゃんと……子の出来てない印があったんどす。この子は、そ の後に身ごもったんや。そんな、汚らわしいことで出来たややと違う。 弥兵衛 そんなもん、何とでもごまかしよる。産まれてみたらわしにそっくりかもしれ へんやないか。お前に、あの後月のもんがあったて、誰か証人でもあるのかい な。 菊栄 いやらしい。そんなもん……。 弥兵衛 なあ、菊栄……その子はわしの子や。そうやろ。お前、今度はほんまにわしの 子を生んでくれ。 菊栄 あんさん、頭がおかしいのと違いますか。……お酒、飲んではるの。 弥兵衛 それが、どないした。 菊栄 うちにつきまとうより、あの女とほんまの自分の子を探す方が先やおへんか。 弥兵衛 おちえか……へ、あんなアマ、もううんざりや。やっぱりお前の方がええ。め っきり、女盛りになって色気がついたがな。 菊栄 ………。 弥兵衛 あの体は、わしもう忘れられへんで。なあ、お前の貯めた金で、どこか小さい 店でも借りて、やりなおそうやないか。もともとの夫婦やないか。 菊栄 よう、そんなこと……。 弥兵衛 お前かて、あの男が、ちゃんと所帯を持ってくれるやわからへんやないか。ま だ若い侍やないか。そのうち、ちゃんとした武家娘でも妻にもろうたら、日陰 もんにされるのんがオチやで。 菊栄 藤……あのお人は、そんな薄情もんと違う。 弥兵衛 ほな、出戻りの親も身寄りもないお前を、ちゃんと嫁にしてくれるのかいな。 菊栄 ………。 弥兵衛 な、お互い、分相応ちゅうもんや。わしとより戻そう、なあ、お菊。 ――――弥兵衛が抱きしめにかかってきた。菊栄は叫んで、走り出した。その時、 菊栄 きゃあっ。 ――――足がもつれて、したたかに腰を打って転んだ。 菊栄 あっ……痛い……いた……。 ――――下腹に激痛が走った。太ももに生暖かく血がおりてきているのを感じ、菊栄は気 が遠くなった。近くの茶店から人が走り出て来て、 男 うわ、え、えらいこっちゃ。あんた…… 菊栄 や……ややが……。 弥兵衛 あわ……。 ――――弥兵衛は動転して、逃げ去っている。 ――――夜。菊栄は自宅の布団に眠っている。巴が沈痛な顔をして介抱していた。みよし やの女将が、店を抜け出して見舞いに来た。 女将 ややは……。 巴 ………。(かぶりをふる) 女将 ああ……。 ――――女将は、へたへたと座り込んだ。 女将 そんな、アホな……なんちゅう……。 巴 玄庵先生にも診てもらいましたが……菊栄さんの流産は、初めてではないよう ですね。 女将 ………。 巴 子供が、お腹にちゃんとくっつきにくい作りになっているんですよ。流産も癖 になってしまっては……もっと早く知らせておいてほしかった。そうすれば、 絶対に外出なんてさせなかったのに……あたしも迂闊でした。 女将 なんで、あの子……あれほど気いつけていたのに。 巴 藤堂さんが、今日新選組を出て三条のお寺に移るそうで……なんでも、方位が 悪いからといってね、菊栄さんは方除けのお守りをもらいに行ったんです。天 気もいいし、体の調子もよくて、まさかこんなことになるはずがなかった。ま だ足元が危ないほどのお腹でもないのに、転ぶなんて……。 女将 ………。藤堂はんには。 巴 まだです。私も……玄庵先生や、伊東様へのお詫びも兼ねてお話せねばなりま せんよ。 ――――巴、気詰まりな顔でため息をついている。 女将 菊栄に、会えるやろか。 巴 薬で、眠ってますけどね。目が覚めたら……辛いでしょうよ。 ――――藤堂は、その夜は無事移転の済んだ祝宴をあげており、何も知らなかった。翌日 の昼過ぎになって、菊栄の家を訪れ、呆然としている。 藤堂 子供が……死んだ……。 巴 申し訳ございません。 ――――巴は、玄関の前に土下座している。 藤堂 菊栄は。 巴 藤堂様に会わせる顔がないと…… 藤堂 馬鹿言え、どけ。 ――――藤堂は、家の中へ駆け込んだ。 藤堂 菊栄っ。 ――――襖を開けると、昨日の出血で別人のように憔悴しきった菊栄が、おびえた目で見 上げた。 藤堂 なんて、こった……。 菊栄 すんまへん……すんまへん……。 藤堂 馬鹿。 ――――藤堂は菊栄を抱き起こした。菊栄は藤堂の胸で激しく泣いた。こんなに大声で泣 いたことはない。 藤堂 残念だった。残念……。 ――――藤堂ももらい泣きしている。 菊栄 うち、うちが……うっかりして……。 藤堂 ………。 ――――藤堂は、わけのわからない怒りがこみ上げている。女の過失をそのまま許してや るには、年が若すぎた。だが、それを責める事もできなかった。 藤堂 しょうがねえ。体を、いたわれ。 ――――藤堂は、玄関を出て巴と話した。 藤堂 いったい、なんだって子が流れたんだ。 巴 実は……これでございますよ。 ――――と、巴は大将軍神社の御札を出して、訳を話した。 藤堂 俺のためか……よけいなことをしやがって。 巴 そんな風におっしゃっちゃ可哀相ですよ。京の人は信心深いんですから。 藤堂 ………。 巴 神社の前の、茶店の人が見つけて介抱して下すって……菊栄さんは痛みで気を 失いそうになりながら、「ややが、ややが」って言い続けたそうでございます よ。 藤堂 何もねえところで、転んだのか。 巴 いえ……なんでも、町人の酔っぱらいにからまれて、逃げようとなすったそう です。お腹のふくらんだ女をからかうなんざ、ひどい男ですよ。 藤堂 男? 巴 ええ……そいつは、菊栄さんが倒れたら慌てて逃げちまったそうですけど。 藤堂 ………。 ――――藤堂は、帰路、大将軍神社の近くの茶店に行った。 藤堂 昨日……ここで身重の女が倒れる騒ぎがあったろう。 亭主 へえ、へえ……えらい、気の毒なことで。 藤堂 俺は、その知り合いの者だ。昨日世話になった礼に来た。女は、当分動けねえ のでな。(包みを出して)とっておいてくれ。 亭主 そうどすか。そら、えらいすんまへん。 藤堂 女は、酔っぱらいにからまれて転んだそうだな。ちょっと、その時の事を教え てくれんか。 亭主 へえ。なんや、ちょうど暇な時分で……人通りもおへなんだもんどすさかい、 ちらちらと、店の中から見てたんどすけど……。 藤堂 どんな男だった。 亭主 そうどすな。年は、四十くらいで、こう……商人にしては体の大きい、ちょっ と太った男で、目が大きいて、眉が薄うて……薄茶の、縞の着物を着てました な。なんや、いやらしい感じの男どっせ。 藤堂 (……あの男だ。) 亭主 あの女子はんがお社から出て来たら、待ち構えたように近寄っていって……な んや、腕をつかんで話してましたさかいに……まあ、痴話喧嘩やろ思うて見ぬ ふりをしてましたんどす。そしたら、あんた……揉み合いになって、女子はん が倒れて苦しんでましたんで、こら、えらいこっちゃと思うて……あんなこと になるのやったら、はなから仲裁に入っといたら、よろしおしたんやけどなあ ……。 藤堂 何を話していたか、聞こえたか。 亭主 いえ、女子はんの声は……男の方が、わしの子供がどうこう言うてんのが、ち ょっと聞こえただけで……。 藤堂 ………。 ――――藤堂は、怒りで顔から血の気がひくのがわかった。 ――――藤堂は、新選組時代に使っていた懇意の福助という目明かしの家に行っている。 福助 こら、まあ……藤堂様。このたびは、えらいご出世しはったそうで。 藤堂 厭味を言うな。ちょっと、調べてもらいてえことがあるのだ。 福助 へえ。そやけど、今後御陵衛士はんへ行ったお人の御用は、つとめてはならん いうお達しどしてなあ。 藤堂 そう言わねえでくれ。御用向きのことじゃねえ。ちょいと、人に聞いてくれる だけでいいんだ。 ――――福助は、三日もしないうちに聞き込んできた。 福助 ほんまに、これっきりどっせ。土方様などに知られたら、首が飛びますさかい に。 藤堂 うん。 福助 例の、「みよしや」いう店へ行って、古い女子衆に聞いてみましたところ、あ の菊栄はんいう女子は、つとめてからずっと目立ったこともない仲居で、浮い た話は聞いたことがない。昔のお客だった男が、岡惚れしてつきまとうとは心 当たりもないと言うんですな。 藤堂 ………。 福助 それから、女将と菊栄はんが時々、話していたのを聞いたことがあるそうで、 昔のその……ご亭主が……。 ――――福助は、そこから声をひそめた。 ――――藤堂は、夜にまぎれてある金物屋の店先を訪れた。と、言っても店はとうに閉ま っている。男が一人、がたがたと戸を鳴らして出てきた。藤堂は後をつけ、人通り のない川岸で、男を呼び止めた。 藤堂 おい。 弥兵衛 へ、なんや……びっくりした。 藤堂 俺の子供を殺したのは、てめえだな。 弥兵衛 子供……ああ、なんや、あんた……菊栄の男やないか。 藤堂 菊栄につきまとって、子供を流させたろう。 弥兵衛 くそ、あのアマ……しゃべりくさったんかい。 藤堂 菊栄は何も言わん。てめえのことなど、思い出したくもねえに決まっている。 弥兵衛 へ、へ……。 ――――弥兵衛は、すでに家で酔っているらしい。足をふらつかせて高笑いした。 弥兵衛 ははは、あははは……。 藤堂 何がおかしい。 弥兵衛 わしのせいにされたかて、そら殺生や。旦那、あの女子が、ややを流したんは これが三度目やで。 藤堂 何。 弥兵衛 あいつは、そういう体なんや。わしの女房してた時に、二度もしくじって…… そやさかい、わしかて外の女子に産ませる気になったんやがな。それを逆恨み して、勝手に家を出て、あげくに若い男をたらしこみくさって、大したタマや で。 藤堂 ………。 弥兵衛 しおらしい顔をして、よう泣きべそをかきよるけどな。わし、何度も夜中に首 しめられかけたんやで。悋気が大げさで、情のこわい女や。そうかて、するこ としたかて、子の出来んもんはしゃあないがな。 藤堂 だ、黙れ。 弥兵衛 あんたも、ころっと騙されてんのと違うか。あの、腹の子な。わしのもんかも しれなんだのやで。 藤堂 何っ。 弥兵衛 あんたが、しばらくお見限りの時なあ、あの女子、寂しいと見えてわしを家に ひっぱりこんだんや。わしが、ちょっと商売の金貸してくれ、いうたら中へ入 れてくれて……ただで、十両の金をくれてやるさかいに、ちょっとなぐさめて くれいうような流し目をよこしたたさかい、抱いてやったんや。 藤堂 嘘だ。 弥兵衛 嘘やないがな。わしが、慌てて上にかぶさったらな、着物が破けるのをかぼう て……ろくに暴れもせなんだ。あげくに、ひいひい声をあげてしがみつきよっ たで。そのくせ、終わったら手のひら返したように冷とうなりやがって。あん たがまた通いだしたさかいに、邪魔臭うなったんやろ。どこまでも手前勝手な 女子や。 藤堂 ………。 弥兵衛 そうしたらあんた、近頃、腹が出て来たいうやないか。そら、わしの子かもし れん思うたかて道理やろ。 藤堂 でたらめもたいがいにしやがれ。 弥兵衛 でたらめとは恐れ入る。あの女子な、わしに抱かれた時、うすい、赤みがかっ た藤色の、花模様のええ小紋を着てたで。しかも、紅ひいて……あれが誘いや のうて何や。 藤堂 ………。(あっという顔をする) 弥兵衛 あの小紋、わしのもんで裾が汚れたはずや。あんた、あの着物を洗うてるとこ ろかて見たんやないのか。 藤堂 言いたいことは、それだけか。 弥兵衛 へ、もともと、わしの女房や。あんたも若いくせに、人のおさがりなんぞ相手 にせんと、もっとええ女子を見つけたらええがな。菊栄は、わしのとこへ返し ておくれんか。 藤堂 くっ……。 ――――藤堂の中で、何かが音を立てて切れた。その刹那、藤堂の刀が鞘走って、弥兵衛 は面を叩き割られている。藤堂は、びっくりしたままの顔で倒れた弥兵衛を、川へ 蹴り入れた。 ――――二日後、三条の城安寺に、目明かしの福助がしのんで来た。 藤堂 何だ。もう、俺たちに関わらねえと言ったんじゃなかったのかい。 福助 そのつもりどしたがな。……ちょっとお耳に入れておきたいことがおす。 藤堂 何だ。 福助 例の……金物屋の弥兵衛が、死にましたで。 藤堂 へえ……。 福助 しかも、頭から一刀で斬られて。あれは、相当な腕のお武家の仕業どすな。 藤堂 そうか。 福助 奴も、死んだほうが世のためになるような男やし、後妻も子供も、もうどこに いてるかもわからへん。奉公人もやめて、潰れた店やさかいに……まあ、誰に 迷惑がかかるいうわけでもおへんのやけども。 藤堂 何が言いたい。 福助 旦那……わしは、今度の調べの事は誰にも言うてしまへん。その代わり、ほん まにおつきあいはこれきりに願います。 藤堂 わかっている。 福助 まあ、もう藤堂はんは新選組と違うのやし……「私の闘争を許さず」言うご法 度も関わりないかもしれまへんけど……あまり、町中で無茶せんといておくれ やっしゃ。 藤堂 ああ。 福助 ほな、わしはこれで……ごめんやす。 ――――福助は去った。確かに、藤堂が新選組隊士のままであれば、切腹ものだったであ ろう。 |