誠抄
第 5 回

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絵 筆 と 剣 と

                                       1  ▼
(五) 秘   密


――― 谷三十郎が、ぶらぶらと歩いている。近頃、隊の総帥代行である土方の視線がこ
   とに冷たい。面白くなかった。ふと、一軒の宿屋の前で足を止めた。
谷    (松庭の妹……確かあの娘、ここに泊まっているはずだな。)
――― 谷は、自分への冷遇は松庭のことが端を発しているように逆恨みしている。
谷    (ふん。松庭柳一郎め。あの時、いっそ……)
――― 谷は、「たけもと」の暗い納戸で、積み上げた膳をほとんど無意識に、押した。
   それがあの結果である。
谷    (目障りだから、斬ってしまえばよかったわ。妹などと称して、こんなところ
     に女を隠しているのではないか。)
――― 何気なく、宿の廻りを覗き込んでいると、はっとした。宿の中庭に、おりえが出
   てきた。男と一緒である。
谷    ………。
――― 谷、身を隠している。話し声は聞こえない。
おりえ  あれ以来どうしても、会おうといたしません。
――― 話相手は、勝田遠之進である。
勝田   やはり、局中法度とかいう掟を恐れているのでしょう。……よろしい。
――― 勝田、書状を出す。
勝田   これを、松庭に届けておきなさい。何、人づてでも構わん。きっと読む。
おりえ  何でございます?
勝田   局を脱するを許さず、などと言っても抜け道はある。八方手をつくして、上の
     人に頼んでもらったものです。松庭柳一郎君を、ぜひ家臣として貰い受けたい
     という、さるお偉方の書状です。これがあれば、近藤、土方もうんと言わざる
     を得ないでしょう。過去にもそういう穏便な方法で、堂々とやめていった者が
     あるそうだ。もちろん、多少時間はかかるかもしれないが……。お母上の願い
     には、きっと間に合う。
おりえ  まあ……ありがとうございます。これで兄は、新選組を辞めても助かるのです
     ね。
勝田   そうですよ。しかし、人に見られては困る内容だ。必ず、本人に渡るよう念を
     押して渡して下さいよ。
おりえ  はい。すぐに……すぐにでも、届けてまいります。


――― 谷、その場を去る。しばらく歩きながら、

谷    なんだ。あの女……他に男がいたのか。つまらん。
――― 谷、そのまま歩きつつ、
谷    (しかしあの男、どこかで……。)
――― 谷、あっ、とひらめいたように足を止める。
谷    あの、絵だ。
――― 誰あろう、松庭本人が人相を描き、幹部にも回覧された要注意人物の佐賀藩士で
   はないか。
谷    なんと……。
――― 谷の頭の中で、松庭、おりえ、勝田が一つの線を描いてつながった。谷は急いで
   宿の方へ戻った。


――― 宿。谷は使用人に、
谷    ここに、江戸から来たりえという女が泊まっているだろう。出せ。
使用人  へえ……あの娘さんどしたら、ついさっき、お西はん
(西本願寺)まで出て来
     る、いうて、お出かけにならはりましたけど。
谷    しまった。


――― 谷は後を追っている。しかし、どこでどう間違ったのか、おりえの方がわずかに
   西本願寺に着いたのが早い。よほど急いで走ったらしい。
おりえ  あ、あの!
――― 息を切らし、ちょうど歩いて来た武士に、思い切って声をかけた。何と、副長の
   土方歳三である。
おりえ  もし……新選組の御方でございますか。
土方   そうだが。
おりえ  あの、松庭……松庭柳一郎という者をご存じでしょうか。
土方   ……よく、知っているほうだ。
おりえ  失礼ですが、あなた様は。
土方   私は、副長の土方という者だ。そういうお前さんは、誰かな。
おりえ  
(はっと気づき)ご、ご無礼を致しました。松庭の妹で、りえと申します。お
     許し下さいませ。
土方   ああ、江戸の……そうか。
おりえ  ご存じでいらっしゃいましたか。
土方   噂だけはな。
(ちょっと懐かしげに)なるほど、江戸の言葉だ。
おりえ  はい。兄に大切な用があって、わざわざまいりましたが、忙しいらしくなかな
     か会ってもらえませぬ。
土方   うむ。一番隊は、今日は夜遅くなるはずだ。
おりえ  では、恐れ入りますが……この文を、兄にお渡し願えませんか。
土方   は、は、は。
――― 土方、珍しく笑う。まさか今の新選組で、鬼の土方副長に平同士への文の使いを
   頼む者がいるというのが驚きである。
おりえ  
(真っ赤になって)あの……何か?
土方   いいよ。引き受けた。
――― 土方は気軽く、書状を受け取っている。まさか土方も、これが松庭の運命を左右
   するほどの重大な密書とは知らない。


――― おりえ、安堵した様子で帰り道をたどっている。
おりえ  (鬼のような厳しい人だと噂を聞いたけれど……案外におやさしい。副長様じ
     きじきにお願いしたのだから、間違いないわ。)
――― その時、谷がゆくてに立っている。
谷    待たれよ。おりえ殿、だったな。
おりえ  ま……谷、様。いつぞやは、失礼を。
谷    松庭君は、留守だったでしょう。
おりえ  はい。
谷    彼から、いろいろとあなたの事で相談を受けている。ちょっと、会わせてあげ
     てもいいがね。
おりえ  まあ。本当ですか。
谷    仕事のあいまだから、内緒ですよ。
おりえ  はい。ぜひ。



                                                     2 ▼ ▲
――― 谷、人気のない荒れ寺の裏庭へおりえを連れ込む。
おりえ  あの……こんなところに、兄が?
谷    
(ふり返って)だまれ。
おりえ  えっ。
谷    貴様、松庭へ密書を届けに来たろう。
おりえ  ………。
――― おりえ、ぎょっとして黙る。
谷    図星か。誰に渡した。
おりえ  い、言えませぬ。
谷    貴様。松庭とぐるになって、倒幕派の密偵を働いておるな。
おりえ  ええっ?
谷    正直に言え。
おりえ  な、何のことかわかりませぬ。
谷    犬め。
――― 谷、おりえにつかみかかる。おりえ、叫んで抵抗する。
おりえ  や、やめて。おやめ下さいまし。何かの間違いですっ。
谷    嘘をつけ。妹というのも真っ赤な偽りだろう。お前は、町民じゃないか。
――― 谷、言いながらおりえを犯そうとする。
おりえ  きゃーっ。いや、いや!
谷    しおらしい声を出すな、女間者め。
――― おりえ、必死で逃れようとして、砂をつかむ。とっさに、谷の目にぶつける。
谷    うわっ。
――― おりえ、はだけた着物のまま、逃げ出す。
おりえ  助けてえっ。誰か、助けてっ!
――― どこをどう走ったかもわからない。運良く、一人の百姓が歩いている。


――― 百姓の家に匿われたおりえ。女房がお茶を出している。おりえ、目を泣きはらし
   ている。
女房   壬生浪に、ひどいことされたんやてなあ。可哀相に……
おりえ  まだ、されてません。
女房   さよか。そら、よかったなあ。まああんた、命があっただけでも、めっけもん
     どっせ。あいつら怒らせたら殺されたかて文句言われへんのやし。
おりえ  ………。
亭主   恐れながら、言うて屯所に訴え出たらどないや。ふらちもんは、首が飛ぶいう
     話やで。
女房   あほな。関わりあいにならんのが一番や。仕返しされたら、恐ろしい。
――― 女房、ぶるっと身震いしている。
亭主   そうやな。まあ、向こうも騒がれたら自分が困るのやし、もう滅多なことはせ
     えへんやろ。
女房   へえ。あんた今晩、うちに泊まりよし。な、明日こっそり、お宿へ帰ったらえ
     え。ひとりで帰ったら、こおうおすやろ。
おりえ  
(涙ぐんで)ありがとう……ございます。


――― 西本願寺新選組屯所。松庭、夜の巡察から戻り、土方に呼び止められる。

土方   ああ、松庭君。ちょっと。
松庭   は。
沖田   おや。また、何かじきじきの御用かな。
――― 沖田、笑いながら場を外す。


――― 土方の部屋に呼ばれた松庭。

松庭   何か。
土方   今日、門前で……可愛い娘からこれを預かった。
――― 土方、にやりと笑って封書を差し出す。
松庭   えっ。
土方   松庭君。何があるかしらんが、妹を困らせてはいかんな。
松庭   ご、ご無礼をいたしました。
土方   妹も同じことを言っていたな。なるほど、似ている。
松庭   まさか、土方副長に使いを頼むなんて……あの、馬鹿。
土方   まあ、いいじゃねえか。……会ってくれないといっていたぞ。なぜだ。
松庭   は……。
土方   身内のもめごとか。
松庭   まあ、そうです。……ささいな事です。
土方   ならば、聞くまい。松庭君。ここだけの話だが、俺は、君をかっている。何か
     困った事があったら、言ってくれよ。
松庭   ……は。
土方   沖田は人はいいが、あんたから見ればまだ子供で、相談しにくいこともあるだ
     ろう。その時は、俺に言ってこい。
松庭   ……はい。
――― 松庭、深く頭を下げる。


――― 屯所の裏手。松庭は、風呂の釜の側で、一人になって文を読んでいる。持つ手が
   震えた。中身
はもちろん、勝田の言ったようなものではない。返事の催促であった。
   松庭にして
みれば、ほとんど脅迫状に近い。人の気配がして、急いで火にくべた。

――― その後すぐ。松庭は、谷と暗い廊下ですれ違った。
谷    
(声をひそめて)松庭君。話がある。
松庭   は?
谷    君の妹と……勝田某のことさ。
松庭   ………。



                                    3 ▼ ▲
                                
けげん
――― 谷と松庭の二人が出ていくとき、門の守衛をしていた隊士が、怪訝な顔をした。

谷    ちょっと、所用で出る。松庭君は、護衛だ。
隊士1  副長には、届けてあるのですか。
谷    何、すぐに戻る。
――― 谷たちが去ったあと、隊士1と2、顔を見合わせている。
隊士1  珍しい取り合わせだな。
隊士2  松庭さんの顔を見たか。なんだか、悲壮なおももちをしていたぜ。
隊士1  谷さんのお供じゃあな。
――― 隊士1、2、くすくすと笑っている。


――― 空き地。草むらに風が鳴っている。
松庭   お話とは、何ですか。
谷    ふん。……
(意地悪く笑っている)知らないと思っているのか。
松庭   何をです。
谷    松庭。貴様は、かねてより倒幕を企てる一味と目されていた、佐賀の勝田遠之
     進と通じておるだろう。
松庭   馬鹿な。何を、証拠に。
谷    貴様の妹りえと名乗る女が、鍵屋町の鳴海屋という宿で勝田と密会している。
     しかもその女は、度々屯所内の貴様に、使いを寄越している。
松庭   人違いでしょう。私は、勝田などという男は知りません。
谷    ふふ、ははは。その言い分が、君への信任厚い土方副長に通じるかな。
松庭   ―――。
谷    貴様も知っているだろう。土方という男は、人の裏切り、法度違反を何よりも
     嫌う男だ。しかも、蛇のように執念深い。ひとたび疑いを持たれれば、すべて
     調べ上げられて、貴様の身は破滅だ。
――― 松庭、じっとりと背筋に汗をかいている。
谷    貴様は従順なふりをして、ことごとにわしを陥れようとした。その報いは、受
     けてもらおう。
松庭   
(ぐっとこらえて)……谷先生。それは、誤解です。私がいつ、あなたを陥れ
     たとおっしゃるのか。
谷    黙りたまえ。加藤の負傷の時も、吉田が死んだ時も、私が臆したかのように、
     副長に讒言したろう。
松庭   断じて、ないっ。
谷    嘘をつけ。貴様はたくみに幹部に取り入って、隊の情報を内通したのだ。それ
     が証拠に、一条の「たけもと」襲撃の場に勝田はいなかったではないか。
松庭   それは、私の知らぬことだ。
谷    ふん。何とでも言い逃れをするがいい。あの女は、事情を問い詰めたら、顔色
     を変えて逃げたぞ。白状したも同然だ。
松庭   嘘だ。
谷    間者ならそれらしい扱いをしてやろうと思ったのに、どうでも言うことをきか
     ぬとは、強情な女だ。どうせあの男共になぶられておる雌犬のくせに、もった
     いぶりおって。
松庭   おりえに、何をした。
谷    間者に吐かせるには、体に聞くものと相場が決まっておるわ。
松庭   うぬっ。
――― 松庭、刀の柄に手をかける。
谷    ほう。窮したと見えて、わしを斬る気かね。……しかし、わしを斬ったところ
     で、いずれ露顕する。女連れでは到底逃げられんぞ。
松庭   ………。
谷    それでもやるというのなら、わしも新選組の谷三十郎だ。相手になってやる。
     来い。
――― 谷、すらりと抜刀する。松庭、じっと動かない。
谷    どうした。
松庭   (この人は……俺に抜かせておいて、斬る大義名分を作る気だ。)
――― 松庭の額に、汗がつたった。
松庭   (俺はいい。しかし、今は、事を起こすわけにはいかぬ。おりえがいる。)
――― 松庭、がくりと膝をつく。
松庭   谷先生……許してください。お腹立ちの事があれば、謝ります。
谷    ほう。
松庭   しかし、……私もおりえも、断じて密偵ではない。それだけは……。
――― 松庭、屈辱で声をつまらせている。
谷    ふん。腰抜けめ。貴様の生殺与奪は、いまやわしが握っているということを、
     忘れるな。
――― 谷、傲然とその場を去る。松庭はしばらく、その場に座り込んだ。
松庭   卑劣漢め。
――― 夜風に吹かれて、汗がひいていく。松庭はじっと、瞑想しているかのように動か
   ない。どれほど時間が立ったかわからないが、やがて目を開けた。
松庭   ふ……。ふふ。
――― 松庭は肩を小刻みに震わせ、笑いだした。やがて静かな声でつぶやいた。
松庭   万事休す、か。お夏、清……やはり、天罰らしい。



                                                     4 ▼ ▲
――― 翌朝。松庭は普段どおりの隊務についている。ただ、市中巡察中、ひとことも口
   をきかなかった。沖田はその顔を時々、うかがった。表情がわからない。
沖田   ………?


――― 松庭は、その夕刻になって外出しようとしている。
沖田   松庭さん。どこへお出掛けです。
松庭   はは。野暮用ですよ。……ちょっと、馴染みに会って来るんです。
沖田   馴染み、……ああ。行ってらっしゃい。
――― 沖田は、自分は遊ばないが、組下の女遊びや色恋などは、一切とがめない。その
   まま見送った。松庭は振り返りざま、
松庭   沖田さん。
沖田   え?
松庭   ……いや。
――― 松庭は、不思議な微笑を浮かべた。しかし何も言わなかった。


――― 夜陰。松庭、京都郊外、鴨川にほど近い廃屋にいく。崩れかけた縁側に座って、
   勝田が待っている。
勝田   松庭柳一郎。よく、来たな。
松庭   来いと言ったのは……そっちの方だ。
勝田   ああ。しかし、おぬしが来ないで、新選組の捕方が群れをなして来るのではな
     いかと、ひやひやしたぜ。
松庭   それは、あり得ないな。
勝田   そうだろう。たとえ俺がどんな活動をしていようと、新選組が正式な藩士を捕
     殺することはできん。
松庭   ああ。そのとおりだ。
勝田   あと三人……間もなくここへ来る。いずれも、俺と志を同じくする人々だ。後
     で紹介する。
松庭   ずいぶんと、うら寂しいところだな。
勝田   ああ。内密の話だからな。ご多分に漏れず、わが藩も倒幕・佐幕に分かれても
     めている。俺が新選組隊士に渡りをつけているところなど、誰にも知られずに
     済めばそれに越したことはない。
松庭   ………。
――― 松庭、じっと立っている。風が、荒れた庭の草木を鳴らしている。松庭は、ふと
   かたわらの笹の葉をつんだ。かすかに、草笛を吹いた。
勝田   何の真似だ。よせ、人に聞かれる。
松庭   誰も来ぬさ。俺のような物好き以外はな。
勝田   ………。
――― 松庭が曲を吹きおえたころ、勝田がつぶやいた。
勝田   ……遅いな。
松庭   用件を聞こうか。
勝田   まあ、待て。人が揃ってからでもよかろう。
松庭   俺もそう、時間のある方ではない。おぬしの口から聞けば充分だ。
勝田   そうか。……では、言おう。今、新選組では局長の近藤勇、参謀の伊東甲子太
     郎が芸州に出張しているそうだな。
松庭   ああ。
勝田   留守中、組の取締まりは、副長の土方歳三が一手に束ねていると聞く。
松庭   そうだ。
勝田   おぬしにはまず……その土方が、いつ外出するか、報告してもらいたい。むろ
     ん、夜間の方が好都合だ。女のところへ忍んで行く時などは、最適だな。
松庭   ……なるほど。
――― 松庭は苦笑した。
松庭   土方副長を斬るつもりか。おぬしも度胸がある。
勝田   なに。俺は手を下さぬ。この京には、土方の首を欲しがっている浪士共はごろ
     ごろいる。
松庭   また、人を使うのか。(笑う)おぬしの他力本願は、相変わらずだな。
勝田   何。
松庭   江戸にいたころ……ずいぶん、俺の財布をあてにして遊んだものだ。
勝田   それを言うな。今度は、俺がおぬしの周旋をしてやる。いずれ、ひとかどの志
     士になれるようにな。
松庭   ふふ。土方歳三を始末して、その後はどうする。
勝田   次は、近藤勇。この二人を除けば、新選組の屋台骨はガタガタだ。参謀の伊東
     に働きかけ、いずれは……おぬしを副長並の扱いにしてもらう。そうすれば、
     新選組数百名そのものを、勤皇の尖兵とすることも不可能ではない。
松庭   壮大な計画だな。それが成功すれば、おぬしの顔も上がるというわけだ。
勝田   そうとも。そのためには、ぜひ、お前の力が必要なのだ。
松庭   ふふ……ははは。はははは……。
――― 松庭、笑っている。
勝田   何がおかしい。
松庭   残念ながら、俺はその手助けは出来んな。
勝田   何。
松庭   なぜなら、俺はすでに新選組隊士ではない。
勝田   なんだと。
松庭   脱走したのさ。したがって、貴様の計画も水の泡だな。
勝田   清四郎、貴様……。おりえ殿がどうなってもいいのか。
松庭   おりえは、もうあの宿にはおらん。ひそかに使いをやって、別の場所に呼び出
     してある。俺が一緒に帰ると言われて、飛んで来ているはずさ。
勝田   ………。
松庭   新選組の局中法度は知っているだろう。
――― 勝田、じりっ、と一歩さがり、鯉口を切る。
松庭   局を脱するを許さず。俺は、お夏と清のところへ行く。どのみちそうなる。
勝田   ………。
――― 勝田、蒼白になっている。
松庭   もう一つ……「士道に背くまじき事」。男としての誠をつらぬけ、と言う。い
     い言葉じゃないか。俺は、もう人を裏切らぬ。裏切って生き延びるのには、い
     ささか飽きている。
――― 勝田、じりじりと後ずさりしながら、
勝田   貴様……、俺を斬る気か。どうなると思う。守護職の会津と佐賀との間で、大
     問題になるぞ。
松庭   言ったろう。俺はすでに、新選組の人間ではない。流れ者がいっぴき、昔なじ
     みの悪い仲間を始末するだけさ。
勝田   馬鹿め。そんな理屈が通ると思うのか。間もなくここへ、同志が来る。その連
     中は、今日の密会の中身を知っているぞ。俺が新選組の松庭と会ったという事
     実を、必ず糾弾する。
松庭   同志は、来ない。
勝田   何っ。
松庭   残念だが、死人に口無しさ。
勝田   う……。
――― 松庭が、すらりと刀を抜いた。すでに、この廃屋の塀の外で、三人の血を吸って
   いる。
松庭   幸い、この場所だ。お前の周到さに感謝する。……遠之進、おのれの策にはま
     ったな。
勝田   ………。
松庭   お互い、あの世で会おう。
――― 勝田、驚いたように目を見開く。次の瞬間、松庭が渾身の一太刀を奮った。



                                    5 ▼ ▲
――― 屯所。沖田の部屋の縁側に、小者が来て呼ぶ。
沖田   何だい、こんな時分に……。
小者   へえ、すんまへん。そやけど……松庭はんが、どうしても今夜の五ツ過ぎに、
     沖田先生にこの手紙を渡してくれ、言うて……。
沖田   ……?
小者   必ず、言うてはりましたよって。
沖田   松庭さんは。
小者   へえ、まだ戻らはらしまへん。
沖田   珍しいな。あの人が門限に遅刻するなんて……。わかった。きっとその事だろ
     う。ありがとう。
――― 小者が去り、手紙を開く沖田。顔色を変えた。


――― 土方の部屋。沖田から手紙を見せられた土方も、青ざめた。
沖田   土方さん。
土方   
(うなずく)すぐに、出る。……隊士は動かせぬ。俺が行く。
沖田   私も行きます。
土方   わかった。
――― 土方と沖田、屯所を出る。


――― 松庭の手紙。
松庭   「……誠に勝手ながら、本日を以て新選組を脱退申し上げる。しかし未練では
     あるが、お世話になった沖田先生に、何の子細もお伝えせぬままでは、あまり
     に心苦しい。真実をお知らせしたいと思い、筆を取った次第です。」
――― と、松庭は事の次第を書き、
松庭   「ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ない。局中法度を犯し脱走した以上は、自
     分の身は自分で処するつもりでいるが、後の処置を内密にお願いしたい。」
――― と、頼んでいる。


――― 土方と沖田は、現場へ行って、廃屋の塀に片寄せてある浪士らしき男三名の死体
   を見つけた。皆、一太刀で絶命している。
土方   すごい。
――― さらに庭へ入った。しんとして、物音一つしない。屋敷の軒先で、勝田遠之進が
   面を真っ向から叩き斬られて、血の海に転がっている。
土方   ………。
沖田   土方さん。
――― 土方が、沖田の声の方を振り返った。暗がりに、沖田がかがみこんでいる。
土方   松庭……。
――― 松庭は、庭の片隅の灯籠にもたれかかるようにして座っている。腹を真一文字に
   裂き、返す刀で、自らの喉を突いたらしい。切っ先が首筋の後ろまで貫いていた。
   しかし、顔だけは眠っているかのように穏やかであった。
沖田   う……。
――― 沖田の嗚咽が漏れた。土方は、その背を見守るように、無言で立っている。



                                    6 ▼ ▲

――― 数日後。屯所広間に通知が貼られている。「一番隊平同士松庭柳一郎、隊命によ
   り局長への書状持参の為、芸州へ出立いたし候ところ、途上にて何者かに襲撃を受
   け、横死いたし候。」土方は、幹部達に無表情のまま、告げている。
土方   死体は、その地で始末した。ご一同も、身辺にいっそう注意してもらいたい。
――― 土方が去ると、幹部たちはざわめいた。
原田   あの松庭が、やられるとはねえ。
斎藤   
(しんみりと)いい隊士だったが……惜しいことをしたな、沖田君。
沖田   ……ええ。
――― 沖田、いつになく深刻な顔をしている。一人、違う感想を持った男がいた。
谷    (やれやれ。俺が何もせぬうちに死んだか。……おおかた、怖くなって脱走し
     たところを、沖田か土方に密殺されたのだろう。馬鹿な奴だ。)
――― 谷のみは、溜飲の下がる思いでいる。


――― 旅籠。おりえ、廊下の足音に、ぱっと嬉しげな顔を向ける。
おりえ  兄さん?


――― おりえ、放心したように目の前を見つめている。土方が座っている。

土方   短い間だったが、彼は新選組隊士として、恥ずかしくない働きをしてくれた。
     礼を言いたい。
――― おりえの前に、松庭の遺骨が置かれている。他に矢立て、小柄、紙入れ等。
土方   これは、彼の身の回りの遺品と、所持金だ。出張のための災難ということで、
     特に、隊からも見舞い金がある。これで江戸の母上に……よしなにしてやっ
     てくれ。
おりえ  うそ……。
土方   ………。
おりえ  うそ、嘘です。兄は……清四郎兄さんは……、ここで待つようにと言ってきま
     した。おまえの望みどおり、一緒に江戸の母の元へ帰るからと……こんなの、
     嘘です。
土方   松庭……いや、あんたの兄は立派な武士だ。脱走など、卑怯な真似をするはず
     がない。
おりえ  嘘よ。こんなの、こんなの兄さんじゃない。武士なんて……侍なんて、大っ嫌
     い。兄も、父も、皆嘘つきばっかり、くだらない体面にばかりこだわって、人
     を泣かせて、人を傷つけて……。こんなものいらない。兄さんを、松庭柳一郎
     なんていう侍じゃない、うちの兄さんを返してよ。返してよ。人殺しっ!
――― おりえ、半狂乱になって、目の前の物を土方に投げつける。小判の紙包みが破れ
   て、畳の上に金の散らばる音がした。


――― 三月下旬。近藤が帰京している。むっと口を閉じて、土方の報告を聞き、やがて
   太い吐息を漏らした。
近藤   松庭の遺体は……歳さん。あんたが背負って運んだそうだな。
土方   ああ。……総司の奴が、「松庭さん、松庭さん」と言って、ガキみてえに鼻を
     すすりながら後ろをついてくるんだ。あれにはまいったよ。
近藤   ……無念だったろう。
土方   しかし、すべて秘密のうちに済んだ。勝田らの死について、一応新選組にも問
     い合わせが来たが、……黙殺した。あの時刻わが隊でそのような斬り合いに及
     んだ者はいないと言ってな。
近藤   松庭め、孤軍奮闘しおって。……かわいそうなことをした。
――― 近藤は、わずかに涙ぐんでいる。しばらくして顔を上げ
近藤   しかし松庭の死の原因を作ったのは、谷三十郎であることに間違いないな。
土方   ああ。妹や、勝田とのつながりについて知っていながら……俺に告げず、それ
     を種に松庭をさんざん脅した。そのために、松庭はあの方法を選ぶしかなかっ
     た。しかし、さすがに許せなかったのだろう。すべてここに記している。
――― 土方、松庭の遺書の上に手を置く。
土方   これだけは、局長に裁断してもらおうと、俺も総司も我慢した。
近藤   決まっている。
――― 近藤は、苦い顔でうなずいた。
近藤   むざむざと、同志を死に追いやったのだ。許せん。


――― 夜。晩春、いや初夏といってもいい陽気に、谷三十郎、機嫌良く酔って祇園をぶ
   らぶらと歩いている。鼻唄を唄っていた。
谷   ………?
――― 石段の下まで来たとき、そこに座っていた黒い影が一つ、のっそりと立ち上がっ
   て、「谷さん。」と、低く声をかけた。


――― 翌日、屯所。まぶしい季節の盛りに、沖田は体の不調を覚え床についている。
   土方が、休憩がてらかたわらで茶を飲んでいる。沖田、静かに言う。
沖田   谷三十郎さんが……昨夜、祇園の石段下で斬られたそうですね。
土方   ああ。どうせ酒か女のことで、喧嘩でもしたんだろう。下手人がわからん。
沖田   
(ぽつりと)ゆうべ、斎藤さんがいなかったな。
土方   ………。
沖田   あれは、私がやるって言ったのに。
――― 土方、茶碗を置いて、
土方   総司。よく寝て、早く仕事に戻れ。
沖田   ええ。
――― 沖田は目を閉じた。道場から、ふだんと変わらぬ稽古の音がきこえている。



               
絵筆と剣と −了−
                                    7 ▲

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