誠抄
第 4 回

★黄色いマークをクリックすると、前後の場面にジャンプできます。
通常、読むときはスクロールしてください。

絵 筆 と 剣 と

                                       1  ▼
(四) 過    去


――― 松庭は間もなく現場に復帰し、一番隊の沖田のもとで働いている。沖田が土方の
   部屋で雑談している。

土方   どうだ、お前のお気に入りの松庭柳一郎は。
沖田   ええ。よくやってくれています。ああみえて、人好きのする人ですから、無口
     なわりには早く慣れている。
土方   お前のおしゃべりと、足して割ったらいい。
沖田   ただね……。
土方   何だ。
沖田   いえ、以前とどこかこう、違うんですよ。
土方   どう違う。怪我をして臆したか。
沖田   いえ。仕事に関してはそうじゃないんですが、一人になったときなど、こう、
     どことなく、表情が暗い。前からどこか影のある人だな、とは思っていたけど
     近頃特に……。何というか思い詰めているようなんですよ。
土方   思い当たるふしはねえのか。
沖田   さあ……。ああ、妹が訪ねて来ている、と知った時からですね。
土方   妹?
沖田   ええ。鍵屋町の宿屋へ、会いに行った頃からじゃないかな。
土方   そこまでわかっていて、なぜ確かめない。
沖田   でも……本人が黙して語らず、なんですよ。
土方   本当に妹か。厄介なかかわり合いではあるまいな。
沖田   さあ……忠助は、武家じゃなく町方の娘のように見えたと言っていたけど。
土方   ふむ。すると、江戸の家のほうかな。
沖田   え?
土方   山崎の話だと、松庭は浜松の家中といっても、庶子らしい。親父が江戸に囲っ
     た女との間にできた息子だそうだ。松庭は本家にひきとられたが、江戸に産み
     の母親と、妹がいると漏らしていたと。
沖田   へえ……。私には何も言ってくれない。
土方   山崎の方が、引き出すのはうまいからな。
沖田   そりゃ、そうだけど。
土方   実家のほうで、金の無心でもされたかな。真面目な奴ほど、困った時に何をす
     るかわからねえ。総司、さりげなく聞いてみろ。
沖田   さりげなく……ねえ。


――― 沖田、非番の松庭を探す。近くの竹林で、ぼんやりとしているのを見つける。

沖田   何をしているんですか。
松庭   ああ……。
沖田   絵の勉強ですか。
松庭   いや、もうあれは………。
――― 松庭、微笑する。その笑みが、どことなく寂しさを含んでいるのを沖田は感じて
   いる。
沖田   松庭さん。
松庭   は。
沖田   いえ、……子供の頃、こうして遊びませんでしたか。
――― 沖田、話を切り出しかねて、笹の葉を摘み、草笛を作って吹きはじめる。いい音
   色がする。
松庭   ああ、やりましたな。
――― 松庭も、草笛を作り、吹きはじめる。音がかすれている。
沖田   はは。これは私の方が、ちょっと上手い。ね。
――― 沖田、にこっと笑う。子供のような顔をしている。
沖田   芸達者な松庭さんに、一つくらい勝てるものがあってよかったな。
松庭   何をおっしゃいますか。
沖田   姉が、ね。
松庭   は。
沖田   いや、草笛は上の姉が……教えてくれたんです。考えてみると、姉が教えてく
     れる遊びはお金のかからないことばかりだったな。
(くすくす笑う)おもちゃ
     も買ってもらえないほどに貧乏だったが、小さい頃は、遊ぶ時間だけはたくさ
     んあった。ああいうのがひょっとすると本当のぜいたくというものかもしれな
     い。
松庭   ええ。
沖田   女のきょうだいというのは、こまごまと口やかましいものでしょう。
松庭   ええ。
沖田   私も土方さんも、母親替わりの姉には頭が上がらなくてね。京へ上ってきた頃
     は、やっとお説教から逃れられた、などとほっとしたものですよ。しかし、こ
     うして長い間会わなくなってみると、妙にその口うるささが懐かしいこともあ
     る。心配してくれる人のことをうるさいと思っている間は、それもぜいたくな
     のかもしれないな。
松庭   ………。
沖田   妹さんは、なぜ京へいらしたんです。
松庭   
(はっとする)………。
沖田   よけいなことかもしれないが……何か、私にできることがあったら言ってくれ
     ませんか。
松庭   いや……私が……家を明けて久しいもので、どうしているかと思いついて会い
     に来た。それだけですよ。
沖田   そうですか。ならいいんです。可愛い妹の顔を見て、里心でもついたかと思っ
     て、心配しましたよ。
松庭   心配……。私を?
沖田   そりゃ、そうでしょう。このところ、敵を一人で斬り伏せたときの元気がない
     ようだった。違いますか。
松庭   それは……。
沖田   いいんです。私の取り越し苦労でした。
――― 沖田は草笛を調子にのってなおもふき、ふと咳き込む。
沖田   ごほっ、ごほっ。いや、失敗失敗。むせちゃった。
――― 沖田は持病をごまかそうとして、明るく手を振ってみせた。
松庭   ……沖田さん。
沖田   なんです。
――― 松庭、まるで泣きそうな顔をしている。沖田は驚いて、
沖田   ど、どうしたんです。何か、気にさわりましたか。
松庭   ……いえ……。私は、沖田さんや、新選組が好きです。私は、ここにいる限り
     決して、あなたたちを裏切らぬ。必ず、文字通り命を賭けます。
沖田   どうしたんです、急に……。
松庭   いや。……私など、人に親切にされる資格もないのです。猫をかぶっているが
     私など、とんでもない男なんですよ。
沖田   まさか。
松庭   しかし、こうして拾っていただき、人並みに扱ってもらっている。ただそれだ
     けのことが、たまらなく嬉しい。ただ誠、という一字のために……私は恥ずか
     しくない隊士でありたいと思っています。それだけは、信じて下さい。
沖田   はは。そんなこと、今更……とうに信頼していますよ。
松庭   え。
沖田   応募の試験のときからね。私は、自分の目を信じている。
松庭   ………。
沖田   松庭さん、……私なんかじゃ若造で役に立たないかもしれないけど、なんでも
     気楽に言ってくださいよ。そう、堅く考えないで。いいですね。
松庭   ええ。
(うなずく)
沖田   行きませんか。
松庭   いや……草笛を、もう少しうまくふけるように稽古していきましょう。
沖田   ははは。
――― 沖田、にこっとして去る。松庭はそこに残っている。



                                                     2 ▼ ▲
――― 竹の音が、不吉なほど風に騒いでいる。松庭、その場にしゃがみこむ。
松庭   お夏……清、許してくれ。


――― 回想。江戸の町家。

お夏   清四郎様は、ほんとうに絵がお好きなんですねえ……。
――― お夏は、松庭が若い頃下宿していた経師屋の女中だった。おとなしいが、色の白
   い、線の細い美人だった。松庭は、畳に這うようにして襖の下絵を書いている。
清四郎  小遣いかせぎさ。
お夏   でも、江戸へ学問じゃなく、絵の修業にいらした人みたい。
清四郎  かもしれん。こっちの方が、よほど好きだ。
――― お夏が、そばで屈み込むようにして絵筆の先を見ている。ほのかに若い娘の体臭
   が匂って、松庭───当時の清四郎は、胸を高鳴らせた。
お夏   絵描きさんに、おなりになればいいのに……。
清四郎  はは。師匠に、号だけはもらってある。龍齋というんだ。これさ。
お夏   りゅう、さい……?
――― 清四郎、まだ売り物にならない絵に書かれた号を指さす。
お夏   難しい字ですねえ。
清四郎  お夏がそう言うんじゃ、こうしよう。
――― 清四郎、「竜」と書き直す。
お夏   その方が、読みやすいです。四角い字は苦手……。清四郎様に来るお手紙の表
     書きなんて、わかりゃしないんですもの。
清四郎  ははは。


――― 清四郎と、勝田ら数人の若者たちが酔って大騒ぎをしている。みな、見すぼらし
   いなりだが、元気だけは有り余っているといった風で、往来で大声で唄っている。
   帰るなり倒れた清四郎を、部屋で介抱するお夏。
お夏   こんなに、お酔いになって……。
――― お夏は清四郎のほてった顔を、冷たい手拭いでぬぐってやっている。ふいに、清
   四郎の腕がのびて、お夏の肩をつかんだ。
お夏   あっ。
清四郎  お夏。
――― 清四郎、酔った勢いでお夏を押し倒す。お夏ははじめ驚いて抗ったが、やがて彼
   の胸に顔をうずめて、荒々しい動作に耐えている。


――― 後日。
清四郎   お夏、お夏ーっ。
――― 清四郎、上気した顔で通りからお夏のもとへ走ってくる。
清四郎  俺の絵が、売れた。お前の姿を描いた絵が……襖の内職ではなく、ちゃんと俺
     の画号を入れて、初めて値がついた。
お夏   まあ……。おめでとうございます。きゃっ。
――― 清四郎、その場でお夏を抱き上げる。
清四郎  決めた。俺は、武士を捨てる。本物の絵描きになる。
お夏   ええっ。
清四郎  ついでに、お前を嫁にする。
お夏   
(真っ赤になって)まあ……ひどい。ついでなんて。
清四郎  いやだとは言わせぬ。顔もわからない小娘の婿養子になって、一生窮屈な思い
     をして生きるなんざまっぴらだ。武士でなくなれば、お前と一緒になれる。
――― お夏、清四郎の腕の中で、泣き笑いをしている。


――― 小さな借家で、清四郎はそれこそ目の色を変えて絵を描き続けた。お夏も女房と
   して、働きながら家計をささえた。
清四郎  お夏、墨。
お夏   はい。
――― お夏は、墨をすっている。目の下に、くまが浮いている。
清四郎  疲れたか。すまねえ。
お夏   ううん、あたしは……あんたの絵を見ているのが好きだもの。
清四郎  ようやく、ぽつぽつと客がつくようになってな。じきに、お前も通い女中なん
     ざやめて、のんびりさせてやるよ。
お夏   あたしは……。あんたこそ、根をつめすぎないで。ねえ……家にばかりこもっ
     てないで、おっ母さんと、おりえちゃんにも、もっと会っていらっしゃいな。
     何ていったって、実の身内なんですから。
清四郎  そうも行かないさ。あの家に行けば、浜松から人が来ていて、見つかるかもし
     れないじゃないか。連れ戻されたらどうする。
お夏   いや、そんなの。
清四郎  今じゃ珍しくもなくなったが、武士の脱藩というのは、本来は大罪なんだぜ。
     まして、松岡の親戚どもは俺を、縁組の決まった他家に対して大恥をかかせた
     仇だと思っているだろう。ばったり会ったら殺されかねない。
お夏   ………。
――― お夏、前掛けで顔を覆って泣く。
清四郎  どうしたんだ。
お夏   いやですよ、そんなの……あたしみたいに、ててなし子にするつもりなの。
清四郎  なんだって?
お夏   できたの。あんたの子が……。
――― 清四郎の顔、驚きぽかんとしているが、やがて弾けたような笑みになった。


――― やがて、男の子が生まれている。清四郎はいとおしそうに赤ん坊を抱きながら、
清四郎  決めた。この子の名は清にする。俺の初めての子だ。俺の一字をつけてやる。
お夏   きよし……?
清四郎  ああ。いいだろう。
――― 清四郎、紙に書いてみせる。
お夏   なんだか……きよって女の子の名前みたいに読めるじゃないの。
清四郎  女の子なら、お清にしようと決めていたのさ。
お夏   ちゃっかりしてるのねえ……でもなんだか、男で一文字なんて、変よ。
清四郎  馬鹿だな。今は、諸国の武士の間で一字名がはやってるんだ。この子が大きく
     なるころは、なんのなにべえだの、何々ざえもんだのというのは時代遅れにな
     るさ。
お夏   ………。


――― 朝。母が、近くまでたずねて来てこっそりと清四郎を呼び出し、おむつなどを渡
   している。
清四郎  ここまで来たんなら、寄っていきゃあいいのに。お夏もそう言っている。
母    いいんですよ。……大して具合が悪いわけじゃないけど、病気が病気だもの。
     小さいキヨ坊にうつしでもしたら、大変だからね……。
――― 母、軽い咳をしている。寂しげに笑う。
清四郎  金なら工面するから、医者にかかれよ。
母    お前が出奔したといっても、まだ、浜松の旦那様がこっそりとお手当てを送っ
     て下さるから、うちの心配はいらないよ。それよりお前、こんな時刻から酒の
     匂いがするようだけど、小金が入ったからといって遊んでばかりいるんじゃな
     いだろうね。もう独り身じゃないんだから……まじめに暮らしてくれなくちゃ
     いけないよ。
清四郎  俺の絵を買ってくれる贔屓筋との酒さ。ゆうべは、ちょいと飲みすぎた。
母    ほどほどにおし……。


――― 清四郎は家で、清をあやしている。七夕が近い。清四郎は七夕飾りから笹の葉を
   摘んで作った舟をたらいの水に浮かべ、
清四郎  ほれ。舟だ。大川で、きれいどころが舟遊びをしているぞ。チチントン、シャ
     ン、テレツクテレツク……。お大尽遊びだ。
――― と、紙に芸者や幇間の絵を描いて人形を作り、乗せてやった。
お夏   
(笑って)そんなこと、まだわかりっこないじゃないの。
清四郎  そうか。じゃあ、これならどうだ。
――― 清四郎、笹笛を吹く。この音には赤ん坊も反応して、ああ、ああ、と声を上げて
   よろこんだ。



                                    3 ▼ ▲
――― 一年ほどが過ぎた。甲高い赤ん坊の泣き声がする。お夏、出掛けようとする清四
   郎を咎めている。
お夏   子供が泣いて、落ち着かないのはわかるけど……何も、こう毎晩遊びに行くこ
     とはないじゃありませんか。
清四郎  うるさいな。勝田たち、昔馴染みの集まりだ。妻子が出来て、すっかり腰抜け
     になったなどとは言われたくない。
お夏   妙なところだけ、侍かたぎが残ってるんだから。
清四郎  何をっ。
――― お夏を平手打ちする清四郎。
清四郎  誰のおかげで、飯を食わせてもらってると思っているんだ。俺の絵が、売れて
     いるせいで、女中奉公の頃とはくらべものにならねえ位、のんきにしていられ
     るんじゃねえかっ。
お夏   ……そんなこと言ったって……そうやってのべつ使ってたんじゃ、今に何も残
     らなくなっちまいますよ。その時になって困ったって、遅いのよ。
清四郎  なんだと。お前、俺の人気が落ちるとでも言いたいのか。
お夏   ここ何日も泊まり歩いて、絵筆も持っていないじゃないの。
清四郎  うるさいっ。遊びも、絵の修業のうちだ。うちで所帯染みた女房の顔を見てい
     て、粋なもんがかけるか!
お夏   この間も勝田さんと、その前は剣術の道場の人と、その前は絵を買ってくれる
     お得意と……みんな、みんな嘘じゃないの。
清四郎  なんだと。
お夏   あんたが……勝田さんと飲みに行くって言った晩、あの人、ひょっこりと届け
     物に来たんだから。あたし……あんたが嘘をついてるって、知っていたんだか
     ら。
――― お夏、泣く。清四郎苦い顔で、
清四郎  うっとうしい顔をして、ぴいぴい泣くな。夜泣きはガキ一人でたくさんだっ。


――― 別の家。水商売の女と寝床にいる清四郎。酒に酔っている。

遊女   ねーえ、旦那。いいえ先生様。こんどは、あたいを描いておくれよう。
清四郎  美人画も、飽きてきたからなあ。
遊女   何言ってんのさ。女にはちっとも、飽きてないくせにさあ。
清四郎  絵に描いたのと、生身の体とは、別物だ。
――― 清四郎、女とじゃれあうようにして、ふざけている。


――― 自宅。お夏、やつれた顔で帰ってきた清四郎の顔を見上げる。
清四郎  眠い。寝る。
――― 清四郎、気まずいせいか、布団にもぐってしまう。お夏ひとりごとのように、
お夏   寿光堂さんが……絵の仕事を断ってきたわ。
清四郎  ……ふん、あのケチ親父。
お夏   近頃の竜斎さんは、筆が荒れてるって……。お武家様の出らしく、昔は、穏や
     かで品があって、いい味を持っていたのにって……。今後とも、あの丁寧な、
     いい味が戻らないうちは、頼むつもりはないって。
清四郎  
(カッとなって)お前に、何がわかる!女中の分際で、男に色目をつかいやが
     って。まんまと女房におさまりかえって、赤ん坊に乳をやるくらいしか能のね
     え女に、俺の苦心など、わかるもんか!
お夏   あんた……。
清四郎  俺の絵を買いたいって粋な奴は、ごろごろいるわ。ああ、まっとうな絵じゃね
     えっていうんなら、清が育つまでは、枕絵でもなんでも描いて、食わせてやる
     とも。したり顔してごちゃごちゃと亭主に説教するな。家に帰っても気が休ま
     らんから、外で気晴らしするんだ。
お夏   ………。
清四郎  ついでに言えば、女房の代わりだっていくらでもなり手がある。追い出された
     くなきゃ、黙っていやがれ。
(布団をかぶる)
お夏   ………。
――― お夏、文句を言う気力も失せたようにぼうっと宙を見つめている。



                                                     4 ▼ ▲
――― 版元の店。
店主   ほう、ほう……こんどのはまた、格別……。女の切なげな声まで聞こえてきそ
     うな。
清四郎  そうかい。
店主   だいぶ、実地のご研究のほうもお盛んだそうでございますな。
清四郎  飯の種だからな。着物を着てねえ女を描くにゃ、いろいろと……。
――― 金を受け取る清四郎。店主、いかがわしい図柄の絵をしまいつつ、
店主   またひとつ、凝ったやつをお願いしますよ。竜斎さん。
清四郎  本来は、危ない絵は好きじゃないんだがなあ。
              こうずか
店主   まあまあ。お陰で、好事家の間じゃあ評判がいいんで……何、竜斎の名前が出

     るわけじゃない。ご迷惑はかけませんよ。
清四郎  だけじゃなく、損もかけないでくれよ。
――― 清四郎、金をたもとに入れ、笑いながら去る。


――― 清四郎、そのまま、気前よく夜の町で浪費
し、また別の女と出会い茶屋の二階座
   敷で寝ている。女は乱れた髪のまま、からみついてくる。
女    ああ……好きだよ、清さん。悪い人だけど……。ほんとに、悪いひと。
清四郎  ふん。喜ばせてやって悪くいわれたんじゃ、割りが合わんな。
女    きょうは、おかみさんに何て言ってきたのさ。
清四郎  土手の、夜桜見物さ。
女    よく言うよ、この人は………いやだ、きゃははは。
――― 清四郎が裸同然で、女とけしからぬ真似をしていると、遠くで半鐘の音が聞こえ
   ている。
女    (さめた声で)いやだ……また火事。
清四郎  遠いさ。
女    江戸の華なんて言うけど……火事は嫌いだよ。
――― 女、するりと寝床を出て、窓を開ける。
女    ねえ、……いやだ。あれ、本所の方じゃないかい。
清四郎  なんだと。
――― 清四郎、起きて窓の外を見る。
清四郎  ………。
――― 顔から血の気が引いている。
女    そうだよ、本所だよ。あんたの家のほうじゃな……
清四郎  清!
――― 清四郎、叫ぶと、着物をひっつかんで走り出す。


――― 戻ると、家の一帯がもうもうたる炎と煙に包まれている。
清四郎  清!清!お夏ーっ、どこだあっ。
――― 狂ったように探し求めた。ようやく火の勢いがおさまり、近所の者が三々五々、
   自宅周辺の焼け跡へ戻って来た。皆、黒くすすけた顔をしている。
清四郎  誰か……女房と子供を……お夏と清を見かけなかったか。
町の女  それどこじゃないよっ。あんた、今頃ノコノコ帰って来て何言ってんのさ!
町の男  赤ん坊が、ずいぶん泣いていやがったなあ。まさか逃げ遅れたってこともある
     まいが……。
――― お夏は、半時ほどして近くの焼け跡をさまよっているのを見つかった。
清四郎  ………。
――― 清四郎は言葉を失った。お夏は、ぼろぼろに煤けた格好で、腕に赤ん坊を抱いて
   いる。正気を失ったように突っ立っていた。
清四郎  お夏……。
お夏   (うわごとのように)あんた……。あんた……どうして、家にいてくれなかっ
     たの。どうして、いてくれなかったのさ……。
清四郎  清は。
お夏   キヨ坊はねえ、この子は、熱があったんだよ。むずかってむずかって、大声で
     泣いていたんだよ。ずうっと、ちゃんのいない間じゅう、泣いて………。
清四郎  清はっ。
――― 清四郎、お夏の手からひったくるようにして子供を抱く。
清四郎  うっ……。
――― 子供は、煙で窒息したらしい。火傷はないが、煤で黒くなり、目を閉じて息絶え
   ている。清四郎は、がくがくと膝が震えた。
お夏   あんた。あたし、疲れた……くたびれちゃったよ。
――― お夏がふらふらと腰の抜けたように崩れ、背負った風呂敷包みの中から、清四郎
   の絵筆や画材が、ばらばらとこぼれ落ちた。
清四郎  お前……。
――― これだけは持ち出そうとしたのだろう。そのために、子供を死なせた。
清四郎  お夏。ばか、馬鹿野郎っ。
――― 清四郎はお夏の肩を強く揺すった。その一瞬だけお夏は目を見開いて叫んだ。
お夏   絵を描いてればよかったのに!うちで、絵を描いててくれればよかったんだ!
     わあああーっ。
――― お夏は気が狂ったように泣き叫んだ。


――― その後、清四郎夫婦は、母親の近くの長屋を借りて住み込んだ。子供の弔いが済
   んだ後も、夫婦は腑抜け同然に、言葉も交わさない日が数日続いた。清四郎が何か
   話しかけても、お夏は正気があるのかどうか、答えもしないのである。
清四郎  (物憂げに)お夏……腹は減らないか。
お夏   ………。
清四郎  今日は、おりえもおっ母さんも留守で、持ってきてはくれねえよ。何か買って
     来るからな。何が食いたい。
お夏   ………。
清四郎  ちぇっ。
――― 清四郎、軽く舌打ちをして出ていく。子供を亡くした痛みは、清四郎の胸にもう
   ず巻いているのだ。
清四郎  (絵の道具なんかほったらかして、清を抱いて逃げればよかったんだ。)
――― と、何度思ったか知れない。しかし、煙の中で、赤ん坊の泣き声を聞きながら必
   死に清四郎の道具をかき集めているお夏の姿を思うと、哀れでもあった。


――― 屋台の惣菜屋から、こまごまと買い込んで戻って来た清四郎は、呆然とした。
清四郎  あ……う……。
――― お夏が梁から首を吊って死んでいたのである。ほんの小半時の出来事だった。



                                    5 ▼ ▲
――― その後、清四郎はゆくえをくらました。と、言っても絵で食べていく気は起きな
   かったらしい。遊び相手だったうさんくさい連中や女たちのところを転々とした。
   しまいには不精髭を伸ばし、月代もぼうぼうにして、道場荒らしや用心棒の真似事
   をしながら無為に日々を過ごした。新選組の話もそこで聞き込んだ。

浪人1  あの池田屋の騒ぎ以来、京では新選組というのが凄い勢いらしい。
浪人2  ああ。百姓、町人を問わず、腕さえ立てば月に何両あての手当てが出るという
     んだろう。うまい話だな。
浪人1  しかし、その分恐ろしく法度に厳しいと言うぜ。ちょっとでも行いが悪ければ
     即、切腹、斬首だとさ。その上、辞めることもできねえそうだ。
浪人2  ひゃあ。くわばらくわばら。
清四郎  
(ふと)おい。
浪人1  なんだ。
清四郎  今の話、本当か。
浪人1  ああ。
清四郎  京の、新選組……。
――― 清四郎は、ふらりと立ち上がり、その足で剣の師匠のもとへ行った。路銀を借り
   京の知人への紹介状をもらい、身なりを改めて、一路京へ向かった。


――― ここで、話は現在に戻る。松庭は、日の落ちた竹林に佇んでいる。
松庭   (何か一つでも、目的がほしかった。今までの自分をかき消してしまいたかっ
     た。)
――― 人に知られたくない辛い過去がある。だから、ことさら無口になった。思いがけ
   ず、人斬り鬼と呼ばれた男たちの中で、安息の地を得た。噂とは違い、皆その日を
   懸命に生きている。魅力のある人間も大勢いた。沖田はその代表である。
松庭   (……言えぬ。同じ病で苦しんでいる沖田さんに、母が労咳だからくにへ帰り
     たいなどと、言えるわけがない。)
――― 足元に捨てた草笛を見た。
松庭   (勝田の事も。奴の仲間と斬り合って、互いに死人を出すまで戦っている。い
     まさら、あれは友人でした、間者にならぬかと誘われて困っているなどと、言
     いだせる道理がない。)
――― 松庭は、何事か決意したように、竹を抜き打ちに斬った。


               最終章 (五)へつづく
                                    6 ▲

  次の章へ(五)へ進む

   前の章へ(三)へ戻る

   トップページへトップページへ戻る