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まことしょう
第 9 回
源さん、惚れられる
      ぶっ  しょう
(四) 仏 性


 この年、慶応三年(一八六七)というのは、教科書的にいうと、「江戸時代の最後の年」
にあたるのだが、六角通りの煙草屋は、相変わらず表面は手堅い商売を続けている。
 ところが、その年の春も終わったあたり、そろそろ花は菖蒲から紫陽花へと変わる季節
になって、「江戸」から珍客が来た。
「おじさんが?」
と、その名を聞いて外出から戻ったお袖が声を弾ませたのは、井上源三郎のことではない。
江戸は神田のお頭、雲居の善平衛のところにいた時に、頭の弟分として、裏表にわたって
番頭のような役目をしてきた与吉という盗人仲間が、銀次の店を訪ねてきた、というので
ある。
「へえ。大坂へ用があって来たついでに、お袖はんの顔が見とうなった、言うて」
銀次の説明を聞きながら、お袖はぽん、と自分の財布を投げ出し、
「銀次、これで灘のでも伏見のでも、上等のを買ってきとくれよ。一升やそこらじゃあ、
与吉のとっつぁんには間に合やしないよ。」
と、草履を脱ぐのももどかしく二階へ上がった。
「おじさん。」
「おう、袖ちゃんか。相変わらずいい女っぷりだねえ」
久々に聞く本物の江戸弁である。お袖はひざをついて、無沙汰の挨拶のために頭を下げた。
 与吉は五十のなかばを越しているだろう。男の手下連中からは「叔父貴」、と呼ばれる
だけあって、お頭とは兄弟のような間柄である。仲間のとりまとめなどの手腕に関しては、
善平衛より上ではないかと評された男で、お袖も神田に連れてこられた時から、叔父と姪
のようなつきあいをして馴染んでいるし、少女の自分をなぐさんだ「旦那」の善平衛より、
いっそこっちが自分の親がわりだったらどんなにいいだろう、と思ったことまである。
「ちょっと見ねえまに、けえって若返ったんじゃねえか。むさい爺イどもから離れたのが
よかったかな。」
「いやだ。」
お袖はけろりと笑って、江戸の様子はどう、と聞いた。
「さっぱりだねえ。何しろ、天下の公方様がこうも上方に尻をすえちまったきりじゃあ、
シ(火)が消えちまったみてえでいけねえよ。」
江戸の景気は悪いらしい。あちこちで打ちこわしなどの騒動が起きて世情が不安だという。
京坂(阪)に比べると、まだゆったりと時の流れていた江戸も、そろそろ時勢の煮詰まりが
表に現れてきているようだった。
 ひとしきり町の様子などを語ったあとで、与吉はふと苦笑した。
「しかし、きかねえな。」
「何を?」
「意地っぱりも相変わらずだな。切れた男の暮らしなんざ、聞きたくもねえってかい」
「ああ……」
善平衛のその後のことである。確かに、お袖はしいて尋ねたいとも思わなかったし、だい
ぶん忘れかけてもいたのだったが。
「お頭は隠居したよ」
と、与吉が言っても、さほどに驚きもしなかった。へえ、と相槌を打っただけである。
「お頭も年だからな。赤ん坊の顔を見ながら、気楽な余生ってのを送りたいとさ。」
「だろうね。」
「すっかり、妾のおもんが女房気取りになってさ。近頃じゃ若えカカアに襖のあけたてま
であれこれ指図をされて、それでも嫌な顔もしねえで、やにさがってやがら」
「……へえ、あのおもんが。」
 かつて善平衛とおもんとの情事がわかった時は、嫉妬というよりも、つまらない小娘が
自分をコケにしやがって、という怒りが噴出して、髪をひっつかんで切ってやったことが
ある。がたがたと震えながら、詫びの言葉を泣き叫んでいたあの女も、安心しきってたく
ましいおっかさんになりつつあるらしい。そう思うと、いっそおかしみがわいてきた。
 お袖はくすっと笑い、
「女は化けるからね。」
与吉は苦労人らしくうなずいて、善平衛の跡目には、数人いる実子のうち、最も切れ者だ
といわれた三男の卯三郎がついた、ということであった。
「うさちゃんが後継ぎじゃ、皆も大変だろ」
若いだけに、稼ぎの取り集めなどにも容赦がなさそうである。
 まあな、と与吉はひといきついて、
「袖ちゃんよ、そんなわけで、もうあらかた、事はおさまってるんだ。どうだい、江戸へ
けえってきちゃあ……」
と、言った。
「え?」
お袖は、意外なことを言われて口をあけた。
「お頭のわがままに、あんたよく辛抱したじゃねえか。帰りてえ気があるんなら、俺が連
れてって、卯三郎のやつに話を通してやったっていいぜ。やっこさんもあんたの腕は欲し
がっている。」
「………。」
ああそういうことか、とお袖は納得した。確かに卯三郎は幼馴染でもあり、帰るとすれば
現場を退いた父親に文句は言わせないだけの迎え方をしてくれるかもしれない。
「仕事はまだ、やってるんだろう?」
と、与吉は二本の指をすい、と引く仕草を見せた。お袖は小首をかしげて、
「おじさん、うさちゃんに頼まれて来たの?」
「いや。ものはついで、さ。よけえな気なんか回さなくたって、お互いよく知った仲じゃ
ねえか。お頭の隠居はいいシオだ。戻ってきねえな。」
お袖はふと、与吉の言葉に郷愁を誘われたが、
「あぶく銭をたんまりもらっちまったから、気持ちが油断してね。ここいく月も、指先の
仕事はしちゃいませんよ。」
「へえ。」
「こっちは、今の江戸と違って油断もスキもない侍どもがうようよしてるんだ。へたに動
いて、ばっさりやられちまったんじゃつまらないしね。銀次にまかしておいたら、あの金
は減るどころか、ちっとは増えているらしいですよ。食べるのにゃ困らない。」
「あいつはスリも出来たほうだが、まともな商売人にしときゃそこそこのところまではい
ったろう、ってところがあるからなあ。」
「まあね」
「しかし、退屈しちゃいねえのかい。」
「うふ」
お袖はつい、思い出し笑いをした。
「何だね」
「京の都ってのも面白いところさ。近頃、ちょいと手なぐさみをしますんでね……退屈
はしちゃいないの」
「手なぐさみ?」
ええ、とお袖はうなずいて、ツボを振る手真似をした。
「博打か」
「そのお酒だって、今日のあがりでとってきたもんですよ」
と、よもやま話のあいまに運ばれて来た一升斗徳利を指差すと、与吉は驚いて、ふうんと
うなった。
「あれは、勝っているうちゃ面白いかもしれねえが、熱くなっちゃいけねえよ。稼業の金
まで注ぎ込み出したら、まずはろくでもねえ目に会うのがオチだと思ったほうがいい。」
 与吉は、まるで堅気のような口ぶりで、この姪っ子のようなお袖に忠告した。
「ええ。いい腕を持ちながら、そっちのほうが気になっちまって、潰れていったやつが何
人もいる、俺たちの仕事は地道にやるのが一番だ、っておじさんがよく言ってたっけね」
ここだけ聞いていると、お袖まで堅気の女のようではあるが、
「ちゃんと、遊び金でやってますよ。ところが、おかしなことに……血眼でやっている男
連中より、あたしは儲け続きなの。もちろん、損をする時もあるけどさ。銀次が帳面なん
かつけていやがって、それを見たらちゃんと浮いてるほうが大きいんだ。」
「へえ。そんな話ゃ聞いたことがねえや。あんなもん胴元が儲かるように出来てんだぜ。」
「うん。もっとも、あたしがいい女だから、他のお客がちょいちょいつられて賭場に来る
ように、下でサイの目でもいじって勝たしてるのかもしれない。」
「ちぇっ、しょってやがら」
与吉は苦笑した。
「勝つコツってもんがあるんですよ。」
「ふむ。まじないでも唱えるのかい」
人に説教はしていても、与吉も若い頃はさんざん、賭け事に血道をあげたことがある男だ
というのは、お袖も知っている。くすくす、と悪戯っぽく笑いながら、
「サイの目なんてのは、丁半どっちか、二つに一つしか出ないのはおんなじだもの。サイ
コロにまじないを唱えたって、きいてくれやしませんよ。それよりもっと確かなもの……
それも、おじさんやお頭に教えてもらったことが、不思議と生きていますのさ。」
「俺たちの?」
与吉ははて、という顔で首をひねった。博打に勝つコツなど、お袖に教えた覚えはない。
「そう……」
お袖はお流れの酒をくい、と干して、
「サイに賭けるんじゃない。人に賭けるんですよ。」
「人って?」
「その日、金まわりのよさそうな……そうだね、何となく懐具合がよくなりそうな顔つき
をした客、たんまり持って帰れそうな、金の匂いがするようなやつ……その男と同じ目に
賭けるんです。これがねえ、不思議とそのカンがはずれないんだ。」
ほう、と声をあげて、与吉は機嫌よく笑い出した。
「なるほど、年季を積んだ修行が生きたねえ。」
「でしょう?」
お袖も笑った。金は天下のまわりもの、とはよく言うが、その金は公平にまわるものでは
決してない。金が金を呼ぶ、持っているやつ、運のいいやつのところへ集まるのが金だ。
だから懐のあったかい客を選んで盗むようにしろ、一度や二度、財布をとられたくらいで
金運のついているやつはたいがい、困ったことにはなりゃしない、というのが、善平衛と
与吉がお袖に仕込んできた教訓だった。四つ五つの幼女の頃から、その視点で何千、何万
の人の顔を見てきたかわからない。貧乏そうな小市民が、やっと明日の糊をしのぐための
銭は狙ったことがない。それが雲居の一家のひそかな誇りで、それゆえに人様の金をかす
めとる稼業でありながら、「善」の字を通り名にすることが許されたのだ。盗っ人にも三
分の理、という通りの信条である。
 考えてみれば、お袖が去年の春、思わぬ大金を井上源三郎から奪い取って、ついその後
の顛末が気にかかったのも、この永年の薫陶が、肌身に染みこんでいたからこそ、なのか
もしれない。
 与吉は数日煙草屋に逗留して、武士の世界で起きている切迫した時勢とは一見無縁な、
情緒ある営みを続けている京都らしい名物や名所めぐりを存分に堪能し、最後の夜には珍
しく島原遊郭に花魁、芸妓をあげた泊まりがけの遊びまで経験したあと(さすがにこの日
ばかりはお袖の同行はなかった)、よく晴れた日を選んで、江戸への出立の道に出た。
 ついでに言うと、お袖たちが案じることもなく、物見遊山の合間には、ちゃんと帰りの
路銀を自分で稼いでおいたうえでの旅立ちであるから、いかにもその道の老練らしい。
 その日、明るい光の下でしみじみ見ると、与吉のおじさんもやっぱり白いものが増えた
な、と、送りに来た街道の入口でお袖がぼんやりと思っていると、与吉はふいにその顔を
見つめて、
「袖ちゃん。」
と、いくらかかすれた声で言った。
「なあに、おじさん」
つい、お袖も小さい頃のような可愛らしい返事をした。
「相手は銀次じゃなさそうだが、お前さん、好いた男が出来たろう。」
え?とお袖は目を開いた。
「なんでさ、急に。」
今の今まで、そんなことは言わなかったのに、という意味をつけてお袖は苦笑した。
「そういう顔だよ。人相を見ることにかけちゃ、俺アあんたに負けてやしねえぜ」
「………。」
少しの間があって、与吉はふっと笑うと、手甲をはめた右手で、これもお袖の右手を急に
握った。握手、の格好である。しかし、この頃に親しい人どうしが手を握り合うという、
挨拶の習慣はない。お袖はちょっと驚いて、握られた手を見た。
 与吉は黙って、お袖の指先を丹念に確かめるようにさすっている。この柔らかい手こそ
自分が作り上げた一種の作品である、といとおしむかのようでもある。
「袖ちゃんよ。」
 与吉はまた、わずかな笑みを浮かべてその指を離すと、
「サイコロの目といっしょでな、丁半のどっちに転がるかは、その時どきの運ってもんだ。
しかしよ、丁が駄目なら半、と……またいくらでも賭けなおしがきくってもんさ。自分で
選んだ、そん時の目を悔いたりしちゃいけねえよ。また次がある、と思って気楽にやって
いくこった。そうすりゃ、いい運もそのうちに寄ってくる。」
「……おじさん」
 与吉の声音にいつもと違うものを感じて、お袖はつい、目を上げた。
「達者でやっていな」
 老いたスリは、そう言って都をあとにした。

 それから少し経って、六角通りの煙草屋に与吉が病で死んだ、という江戸からの知らせ
が届いた時、お袖は驚いたあとで、一方で心にひっかかっていたことがすとん、と腑に落
ちたような感覚を覚えた。ひとことで言うと、ああやっぱり、という感じである。
 与吉がおのれの寿命を知っていたか知らぬかは別として、やはり、上方の旅はお袖の顔
見たさというのがあったのだろう。
「帰って、墓参りでもしはりますか。」
と、銀次が気を遣ってくれたが、お袖はううん、と首を振って、
「帰っておじさんに会えるわけじゃなし……墓石なんか見に行ったってしょうがないさ。」
いくらかぼんやりした声を出した。

2 

 煙草屋の一家の特筆事項といえばそんなものだが、歴史に残るほうのサムライの世界は
なかなか忙しい。むろん、新選組もそのただなかに身を置いている。
 この頃、京雀たちを驚かせたことのひとつというと、その新選組から一度に十数名もの
離隊者が、それも公然と袂を分かって出て行き、同じ洛中に居を構えたことである。
 参謀の伊東甲子太郎を長とし、錚々たる幹部らを含めた一派が、新選組とは違う名前で
高台寺月真院に屯所を置き、ある隊名を名乗った。
「ごりょう、えじ?」
御陵衛士、と書く。その耳慣れぬ言葉を聞いて、お袖も首をかしげた。
「なんや知らん、先の天子様の墓守やちゅうことだそうですな。」
「新選組にいた侍が、なんでそんな暇仕事をしなきゃならないのさ。」
 銀次は耳ざとく集めてきた情報を、お袖に解説している。
「まあ、墓の番人いうのは、名前だけのことですやろ。肝心なのは、幕府の下については
った新選組の中から、おおっぴらに天朝はん方に寝返ったもんが大勢出た、いうことでん
な。しかも、その後ろ盾が薩摩やとか。」
 お袖は賢いほうだが、政治むきのことはよくわからない。
「新選組は、足抜きが出来ないってのが決まりじゃなかったのかい。」
足抜き、とはまた下世話な言葉だが、ある組織の中から離脱することが許されない、とい
うのを彼ら庶民風に言うとそうなる。
───ひとつ、局を脱するを許さず。
 新選組局中法度の大きな特徴のひとつであり、現に、脱走を試みては、追いかけられて
殺された隊士の無残な話もいくつか知っている。
「表向きは、別の組を作るために話しおうて分かれた、いう理屈やそうやけど……まあ、
そんなんは眉唾でんな。せっかくの直参になる話よりも、帝の墓守、薩摩の手下のほうが
ええ、ちゅうことでっしゃろ。それだけ、ご公儀(徳川幕府)の力も見くびられるようにな
ってきた、いうことかもしれまへん。」
「ただの暖簾分けじゃないってのかい。」
「あの新選組が、ただで暖簾分けなんかしますかいな。」
銀次は苦笑した。
「今はまだせえへん、いうだけで……よそへ寝返り打った連中と、いずれは大喧嘩でもす
るのと違いますか。」
「大喧嘩って……」
と、お袖は眉根を寄せた。
「死人が出るような?」
「まあ、囲碁や将棋で決着はつけまへんやろなあ」
銀次はそんなふうに言った。
 彼らは知らないが、分離した伊東派へ追加の参入を申し出て許可されなかった新選組隊
士十名のうち、四名が会津の藩邸で落命したのはその後まもなくである。時勢をめぐる大
喧嘩、はすでに不気味な音をたてて始まっていたのだ。

 その年の盆がやってきた。お袖は思いたって、洛外は壬生村の、光縁寺という小さな寺
の墓地を訪れた。手に、桔梗の花と線香の束を持っている。
 光縁寺は、壬生屯所時代の縁で、京都における新選組の菩提寺をひきうけてしまった格
好で、多くの死者がこの地に葬られている。平隊士のほとんどは合葬墓に名を刻まれるだ
けのことだが、それらしい一角を見つけて手を合わせていると、背後で墓地に似合わない
素っ頓狂な声がした。
「やっ、誰かと思えば……」
 お袖が振り返った。声の主は井上源三郎である。
「まあ、井上様。どうして……」
「どうしてって、わしは壬生寺で、大砲の調練の下見だよ。」
 井上は水桶とたわしを持って、ひょいひょいと歩いてきた。
「あんたが、墓参りかね。」
 井上は驚きながらも、嬉しそうな声になっている。お袖はちょっと気恥ずかしそうな顔
をしてから、
「ええ、まあ……親しくしてた人が新盆でしてね」
「ほう。この寺に?」
「いえ。その人は江戸の人でね、蔭ながら東の方に向かって拝んだだけですよ」
半分は嘘で、新お頭の卯三郎に与吉あての香典は送っている。
「じゃあ、誰の墓参りかね。ここはわしら、新選組のホトケさんの場所だが」
「………。佐野さん、って人を」
お袖から意外な名前を聞いて、井上はきょとんとした。
「佐野君?」
「新盆ってことで、ついでに思い出したんですよ。」
お袖は自分の思いつきに、つい言い訳がましくなっている。
「そうか……佐野君の新盆も今年だったなあ。」
井上は、すでに遠いことのような声音で言っている。
「ええ。だって、亡くなった佐野さんという人は、井上様の組下だったんでしょう。なん
だか……まんざら関わりがないわけでもない仏さんのような気がして、一度拝んでおこう
かと思ったんですよ。」
「うん。あんたらのお陰で、佐野君も仇をとってもらったと、礼を言っているだろうさ。」
「そうですかねえ。」
あの頃の騒動を思い出して、お袖はふと、小さく笑った。それから、墓前だったことに気
づいて急いでその笑みをしまった。井上はそうとも、ありがとう、とうなずきながら、
「しかし、気の毒なことには変わりがねえ。」
死んでから仇をとってもらっても、若い命は戻ってこない、ということを言いたいのだろ
う。その井上は腕をまくって、桶の水でその付近の墓を、たわしで洗い始めた。
「井上様が、そんなことまでなさるんですか。」
お袖はぽかんとして井上の作業を見ている。
「ああ。歳さんなどは、死人のことをいつまでも、くよくよと考えてちゃいけねえ、忘れ
ることだ。と、言うんだがね。あんたと同じ、たまにゃあ思い出してやる者がいたって、
いいだろう。」
「………。」
 井上の武骨な手が動くたびに、埃で汚れた数年前の墓石も、まだ名前が入っただけの新
しい卒塔婆も、みるみるきれいになってゆく。冷たい水で清められたそれらの死者たちが
お袖が供えた香華の煙の中で、ひょっとしたら口ぐちに礼を言っているように思えた。
「わしなんざ、彼らのおかげで、生き延びているようなもんだからなあ。何、こうやって
やると、少しはこっちの気が軽くなるのさ。」
「井上様……。」
「源さんでいいよ。」
「え。」
「あの出会い茶屋で、源さんと呼んだろう。」
 井上は笑って、と同時に作業を終えてお袖のほうへ振り返った。
「すいません、ついとっさに……。」
お袖たちはあれから井上と会っても、本人の前でその呼び名を使ったことはない。
「いいよいいよ。わしゃ、嬉しかった。」
「え?」
「京都に来て以来、わしのことを源さん、と呼んでくれる人は、少なくなったからなあ。」
「………。」
「わしゃあもともと、百姓のせがれだ。畑仕事の合間に、武州の村々を回って、同じ百姓
の若いもんやら、子供たちにヤットウ(剣術)の手ほどきをしてやるような仕事のほうが、
似合っていたのさ。多摩にいた頃は皆、源さん源さんと呼んでくれたものだ。井上先生、
などと呼ばれると、尻がこそばゆくていけねえ。」
「ふふ。」
「そう。近藤局長は勇さん。もっと小さい頃は勝っちゃんと呼んでいた。土方副長は歳さ
ん、沖田組長は、誰もが呼び捨てだ。ははは。総司はね、入門したての頃は、幼名の惣次
郎とさえ呼ばれず、『チビ、チビ』と言われていたもんだよ。」
「まあ。」
 お袖は、今度は声をたてて笑った。お袖の見た沖田はひょろりと丈の高い若者だったが、
確かにそんな頃があったのだろう。
「この話をすると、総司はいやがるがね。『井上さん。昔話をしたがるのは、年寄りの証
拠ですよ。』だと。昔から口のへらねえガキだった。」
お袖はくすくす笑っている。
「しかし、今は公の場じゃ皆、窮屈な呼び名でかしこまっている。まあ、人間、肩書きば
かり偉くなるのも考えものだよ。」
「何せ新選組も……直参旗本にお取り立ての、殿様ですもんね。」
「おお、肩がこる。」
「それに、あの新しい花昌町の屯所。まるで大名屋敷じゃありませんか。あんなお屋敷に
お住まいだから、もう馬鹿らしくってあたしんちになんか来られないんでしょう。」
 お袖が軽い皮肉をこめて言った二つの事柄は、前述したように、新選組が近藤勇が御目
見得以上の見廻組頭格、を筆頭に、それぞれ役職に応じて徳川直参の堂々たる禄位を授か
り、同時に、あたりに威風をはらう広大な新屯所への移転をすませたことを示している。
この壬生村で、隊士らがぼろをまとって馬鹿にされていた浪士組の面影は今はすでにない。
 しかし井上はお袖に言われてあわてたように、
「違う違う。これでも、近頃は何かと忙しいんだよ。ああ、この冬には、わしの甥っ子が
こっちへ来るかもしれない。その面倒も見なくっちゃあ。」
「甥っ子……例の、お守りの?」
空の財布の中にあった日野八坂神社のお守りを贈ってくれた、という甥の泰助である。
「うむ。近藤先生の、お小姓になるんだとさ。しかし……あの子がもうそんな年になった
かねえ。」
井上はまた、実際よりもいくつか老けてみえるような表情になった。

 光縁寺の墓地を出て市中へ戻る道筋である。お袖は、壬生村ののどかな田畑の中を、井
上と歩いている。収穫時をまぢかにした稲穂が、日に照り返して美しい。
「日野のあたりも、こんな景色ですか。」
「ちょっと、違うな。京は、田舎までなんとなくやさしげだが、武州は違う。」
 井上は、小首をかしげている。どこがどう違う、と描写できないのがこの男らしいのだ
が、その脳裏に浮かんでいるだろう関東の田畑の風景がふと、見えるような気がした。
(このお人と……ふたりで日野の畑でもやりながら暮らしてみたい。)
 お袖はふと思って、勝手に、照れた。
(馬鹿な。そんな日が来るわきゃないよ。)
突拍子もない想像につい、自分でもうろたえていると、やや前を歩く井上が、
「お袖さん。」
「は、はい。」
あわてて顔をあげた。井上はそこで足を止め、横の田んぼをながめたまま、
「悪い遊びは、やめたほうがいいよ。」
「え?」
「いつだったかなあ……わしゃあ、ああいう……佐野君の仇討ちにいったようなたぐいの
茶屋に、あんたが酔っぱらって遊び人ふうの男と入っていくのを見かけたことがある。」
「………。」
「そん時ゃあ他人の空似だと思ったもんだが、いま着ている着物の柄とおんなじだった。」
「………。」
 お袖は、思わず赤面した。
「わしの母親が、『よく生きても悪く生きても一生だ』と言っていた。悪いことに慣れる
と、よいほうに戻ってくるのは難しい。しかし、つまらねえことを言うようだが、もっと
自分のことを大事にせにゃあ。あんた、根はいい人だ。」
「いいひと……。」
 お袖は、言葉につまっている。
「うむ。」
 井上がうなずいてから、お袖が同じ方を見て、さっぱりした声で答えるまでには、少し
の時間が必要だった。壬生の秋風が二人の顔をなでている。
「やめますよ、悪いことは……。源さん。今からでも、惚れた男にだけ肌を見せるような、
まともな女になろうと思います。」
「うむ。そうしなさい。」
この時は、井上がお袖のほうを向いて白い歯をみせた。


 その秋から冬にかけて、新選組にも変化がおこっている。激変であった。徳川慶喜の大
政奉還によって、幕府が消滅したのである。
「徳川様が……将軍を、やめたって。」
お膝元で育ったお袖は、茫然とした。
「ああ。こら、新選組もおおごとや。何しろ雇い主がつぶれたのやさかい。」
 今度ばかりは銀次も思わぬ大ごとに苦い顔をしている。約三百年ぶりの政変だから、京
に限らず情報を知った人間たちは、日本中で次々と同じような顔の連鎖をするに違いない。
「なんてこった。……何十万という家来は、どうなるんだよ。」
「わずか、太閤秀吉一代の豊臣家が潰れる時にでさえ、関ヶ原、大坂の冬、夏の陣と……
国を二つに分ける騒ぎになったんでっせ。まして、徳川はんは、三百年続いた老舗の大店
や。そのあるじみずから、きょうで商売やめた、いうて放り出したのやさかいに……こら、
ただで済むとは思えまへんな。奉公人……つまり旗本御家人で血の気の多いものは、『は
いそうですか、ほなさいなら』と引っ込むわけにいきまへんやろ。直参になりたてほやほ
やの新選組などは、その筆頭や。」
「いくさになるのかい。」
「へえ。天朝はんかついだ薩摩、長州、土佐、この連中かて、『さよか、ほなあんたは将
軍さんだけやめて、今まで通りのんびりしてはったらよろしい、おおきに』言うておさま
りまっか。徳川はんそのものを叩きつぶさなんだら、安心して後釜によう座りまへんやろ。
天朝はん食べさしていかんならんのやし……将軍やめたら、その分の身代もよこせ、いう
て難癖つけてくるのが当たり前ですがな。」
「………。」
「こら、源さんも今までのようにのんびりしてはいられまへんな。」

 新選組ではこの時期、副長の土方歳三が、新規隊士募集のため江戸に下っていた。大政
奉還の報とほぽ同時に、急ぎ、その新人一党を引き連れて京へ戻っている。
 その中で、井上源三郎の甥の井上泰助少年は、隊士見習い、近藤の小姓として京へ来て
いる。都の屯所に着いてまもなく、叔父の口からこのことを教えられた。
「泰助。おめえもよりによって間の悪いときに、来ちまったもんだなあ。公方様が、日本
のまつりごとをするのは、おやめになっちまったとよ。」
 泰助は、まだ前髪があったほうが似合うという年頃だが、それだけに物の本質をまっす
ぐにとらえてこう言った。

「でも、新選組はまだ徳川家の直参であることに、違いはないんでしょう。」
「うむ。」
確かに、幕府の総帥たる征夷大将軍の座を降りたからといって、徳川家そのものは依然、
大身代の一家として残っており、主君と家臣の関係には変わりがない。しかし、だからこ
そ徳川の臣となっている新選組にとってこれからが大変だ、ということを話す前に、泰助
はツ、と背筋をのばして、
「だから、私は、近藤先生や叔父さんたちがお家のために働く手伝いをします。それでい
いんでしょう?」
「なるほど。こりゃあ、子供に教えられたわ。」
井上は、からりと笑った。

 季節が寒さをつのらせてゆくと共に、時勢は、幕軍(旧幕府だが)にとってますます傾
いてゆく。煙草屋にその噂が届いたのは、厳寒ただなかの師走であった。
「とうとう、幕府がたは都落ちらしいでっせ。」
「都落ちだって。」
「へえ。会津中将様の京都守護職も、廃止や。幕府の役人は皆、大坂まで陣地をさがるら
しい。」
「新選組もかい。」
「そら……養い親が役目を解かれたんやさかい、当然そういうことになりまっしゃろな。
新選組も、京都じゅうをふるえあがらせるほど威勢がよかったもんやが……短い天下で
したな。」
 前将軍徳川慶喜の退京にともなって、幕府が朝廷方(薩摩藩を中心とする諸藩)に都を
明け渡す形の後退を余儀なくされた、という話が洛中に飛び交っている。形からみれば
まさに都落ちである。
「馬鹿。縁起でもないことを言うんじゃないよ。薩長とひといくさやって、勝てば……
また、徳川様が大手をふって、世の中に返り咲くかもしれないじゃないか。」
「………。」
 銀次は、黙っている。だが江戸生まれのお袖のように、将軍への信仰があるわけではな
い。
(そら、無理や。……腐っても鯛、と言うが、腐った鯛が生き返ったちゅう話は聞いたこ
とがない。時の流れいうもんは、さかさまには流れんもんや。)
 幕府方は総力から言えば、歩き始めたばかりの新政権に数倍する軍事力を持っているは
ずで、戦の勝敗については実際にやってみなければわからないのだが、銀次はすでに、そ
れこそ、スリが客の懐具合や気の張り方を吟味するような感覚で、総大将の前将軍にやる
気のなさそうな旧幕府が、大勝利のすえ元の威勢に戻るとは信じていない。
「何してるんだろうねえ、源さんは。」
 お袖は立ち上がって、店先の方を眺めている。
「やはりもう、来られないのかもしれまへんな。」
 井上が遊びに来なくなって、しばらく経つ。お袖は何度か、花昌町の広壮な新屯所に文
をやったが、さすがに忙しいらしい。
「もう、非番も当番もおまへんのやろ。幕軍が落ち目と見て、ぽつぼつと逃げ出す隊士も
おるらしい。」
「そんなのは、男じゃないよ。」
お袖が怒ってはき捨てると、銀次はかすかに笑って、
「男やのうても、それが人ですがな。」
「………。今夜ならおいでになれそうだと、安吉がきいてきたんだよ。あの源さんが嘘を
つくもんか。」
 時節柄、新選組幹部の多忙は百も承知だが、それだけにゆっくりと酒肴でももてなして
やりたい気持ちが募って、お袖は安吉に、どうでもじかに都合を聞いてこいと使いに出し
てやっと今夜の約束をとりつけたのである。いつもなら夕刻には来て、そんなに遅くなら
ないように、と気をつかって帰るのが通例だったのだが、冬の日が暮れるのは早い。安吉
が暮れ六つには来られるそうだ、と聞いてきたはずの鐘がそちこちで鳴っている。
 それから一刻も過ぎて、店の表戸はとうに閉まってから、ようやく井上が来た。
「いやあ、すまんすまん。やっとこさ、左之助に代わってもらってな。」
「何を代わらはったんです。」
いつも通り店の側からやってきた井上を迎え入れ、表のしんばり棒を直しながら、銀次が
たずねると、
「脱走の見張り番さ。」
「………。」
「大人のほうが、目はしのきく分、腰のすわらんもんだねえ。わしの甥っ子の泰助みたい
な年端もいかない連中のほうが、気をはって働いとるよ。」
 この日はことさらに寒く、井上は鼻の頭を赤くして、手と手をこすりあわせながら、そ
う語った。気の毒に、本当にやっとこさ仕事を抜け出してきたのだろう。
「源さん、どうぞ、あがって下さいな。」
 お袖は待ちかねていて、炬燵も火鉢もじゅうぶんに暖めてある。あとは顔を見てから、
熱燗徳利を湯にひたすのと、この日のために捌かせておいた地鶏の水炊きの鍋を火にかけ
ればいいだけの支度になっている。こんな寒い日に、出前の料理では冷めてしまって気の
毒だろう、という銀次の気配りが効を奏した。もっとも、鍋物くらいならいくらお袖でも
客に出すことくらいは出来る。
「うん。」
 井上が奥の部屋に上がり、鍋物の湯気がその空気をほどよく湿らせ始めた頃になると、
店の帳場では、銀次が羽織を手に立ち上がっていた。銚子を替えに来たお袖をちょい、と
手招きすると、小声で、
「姐さん。わしは、ちょっと出掛けてきまっさ。」
お袖は意外な顔をして、
「銀次。何言ってんのさ、せっかく来て下すったっていうのに……。どこへ行く気だい。」
来客を置いていく失礼を責めた。銀次は自分の財布をのぞいて金の有り高を確かめながら、
「島原に泊まりますわ。わしにも、来い、来いいうてうるさいのがいてたん、思い出した
んや。」
「馬鹿。」
 銀次はくすっと含み笑いをして、羽織の紐を結んでいる。
         どん
「誰かさんに似て、鈍になりましたな。」
と、独り言のように小さく言った。
「え?」
「姐さん、今夜が、おいとま乞いになるかもしれまへんで。悔いのないように、源さんと
ゆっくり、語り明かしなはれ。」
「………。」
 銀次が寒気の闇の中へ出て行ったあと、お袖は新しい酒を持って、井上のいる部屋へ戻
ってきた。井上は、いくぶん背中を丸めて、火鉢にあたっている。
「銀さんは?」
店の帳面をつけ終わって、一緒に来ると思ったのだろう。
「ちょっと……商いの寄り合いで出掛けるそうですよ。」
「そうか、残念だな。」
 お袖はそのことを謝って、井上に酌をしながら、
「あの……源さん。」
「ん?」
「新選組が、京都からいなくなるって、本当ですか。」
「なんだ、もう知っているのか。」
「やっぱり、いくさに備えて?」
「うん。おそらく、伏見あたりに陣取ることになると思うよ。」
「じゃあ、もう……ここへは……。」
「当分は無理だろうなあ。戦争がおっぱじまったら先のことはわからんもの。」
「………。」
井上はちょっと思い出し笑いをしながら、
「今度は、本当の肌付き金を縫い付けていかなきゃならんよ。あんなところに隠しておい
たんじゃ、死体のかたづけをする人にわからんだろう。」
初対面の日、袴に縫い付けておいた「金つき金」の小袋を解いたことを言っている。しか
し今回は出陣なのだ。いにしえの作法通りの始末料を、人がそれとわかるところに身につ
けていくつもりなのだろう。負けて帰るつもりで戦に臨むことはないが、万一の戦死は覚
悟して当然なのである。
「馬鹿言わないで下さいよ。」
「いやあ。ともかく、今は直参の武士だもの。その位の覚悟で行かなくちゃ、お役には立
てないさ。今夜はね、実はわしも……お袖さんたちにさよならを言うつもりで来たのさ。」
「いやですよ。縁起でもない。」
「ふふ。」
 井上は、ほろ酔いの笑いとともに、お袖に杯を差し出した。
「お袖さん、あんたも飲みなさい。」
「………。」
 お袖はそのまま、井上の酌を受けている。井上はしみじみと、
「あんたたちには、世話になったなあ。」
「何、おっしゃってんですよ。」
「わしゃあ、京に来てとうとう、決まった女も家も持たなかったが……このうちが、わし
にとっての休息所だったよ。この町の人たちは皆、新選組というと、こわがったり、内心
では蔑んだりして悪者扱いにしていたもんだが、……あんたらは違ったものな。」
「悪者だなんて……。」
「まして佐野君の仇討ちの時は、危険を侵して、わしらの手助けをしてくれた。あの時は
無茶だと叱ってしまったが、本当は嬉しかったよ。」
「………。」
「この先どこへ行っても、忘れないよ。達者でがんばっておくれ。」
達者で、という言葉が胸に突き刺さった。与吉おじさんに続き源三郎おじさんも、という
連想がお袖の脳裏をかすめたかどうか、わからない。そこまでのゆとりは吹っ飛んでしま
っている。
「源さん……。」
 お袖はそこで絶句して、うつむいたきり、ぽた、ぽたと涙を落とした。
「どうした。」
 井上は驚いて、女の泣き顔をのぞきこんでいる。だが、それ以上のことはしない。
「源さん。」
 お袖は膝を浮かせて、井上に抱きついた。その拍子に、陶器の杯はカチン、と音を立て
てどこかへ転がった。
「お、おい。」
「こうしてて下さい。じっとして、お願いだから……。」
「お袖さん。」
 お袖はぐっと指先に力をこめて、男の着物を離さない。
「いやですよ。これっきり最後みたいなことばっかり言って……死んじゃだめです。いく
さに行ったって……死んだりしたら、あたしゃ承知しませんよ。」
「そう言われても……。」
 次の瞬間。
「あたしは……。源さんが好きです。」
「えっ。」
「いいえ、惚れてます。自分でもやっと、気がついたんだ。こんな、あばずれで馬鹿な女
だけど……あたしゃ源さんに惚れてるんですよ。ええ、惚れちまったとも。こんなに惚れ
させといて、いまさらしのごのと、文句は言わせないよ。好きで好きで、しょうがなくな
っちまったんだから。」
 お袖の顔は井上の肩にふせられ、涙でくしゃくしゃになっている。
「………。」
「死んだらいやだ。源さんみたいないい人は、死んだらいけないよ。あんたみたいな人は、
かみさんを作って、子供をたくさん作って……あたしにしてくれたみたいに、あったかく、
叱ってやったり、ほめてくれたり……そうやって育ててくれた方がいいんだ。刀を持って
うろうろといくさなんかに行くより、そのほうがよっぽど、お国のため、世の中のために
なるんだ。ほんとは、……ほんとはあたしが、源さんの子供が欲しいくらいさ。ああ、抱
いてもらいたいさ。」
「………。」
 井上は、同じ姿勢のままで目を見開いている。
「好き、好き、好き。百ぺんだって言ってやるさ。あたしは源さんが……、井上源三郎っ
て男が、大好きなんだ。………。」
 お袖は井上の胸に顔をつっぷして、おんおんと泣きはじめた。井上は困ったような顔を
して、女の背中を撫でている。しんしんと寒い夜で、外には小雪がちらつき始めている。


 数日たって、新選組が、京の屯所を引き払う当日が来た。見物の人並みから少しはずれ
た所に、銀次が立っている。よそながら、井上の見送りをするつもりだった。
(ふふ……どうやら、お袖姐さんもわしも、あの御方にすっかり、性根のどこかをおかし
くされてしもたらしい。)
 屯所の内外は、荷駄を手配する男たちの声で騒がしい。門の奥で馬のいななきが聞こえ
ている。
(明神下のお袖も、とうとうただの女子になってしもた。あれではもう、盗っ人としては
使いもんにならへんやろ。)
 銀次は複雑な思いで、くすっと笑っている。
(さて、なんぞええ商売でも考えな……。)
 その時、ようやく隊伍が整ったらしく、新選組隊士の面々が路上に現れた。井上の顔も
見えている。そばで話をしている幼な顔の少年兵は、噂に聞いた甥の泰助だろう。人のい
い井上が、なぜ自分の甥っ子を一度もお袖と銀次の家には連れてこなかったのか、旧友の
沖田を始めとする仲間たちを連れてこなかったのか、この頃の銀次には、なんとなくわか
るような気がする。今日はその井上を真似て、こうしてこっそりと来ている。
 「新選組、出発。」
 白馬の上で、局長の近藤勇が手を振った。それを合図に、都の乾いた土を蹴って、新選
組の隊列が粛然たる歩みを始めた。
 銀次は列の遠くから、ひとり深々と頭を下げている。

 明けて慶応四年正月、鳥羽伏見の戦い、開戦。三日目の激戦中、新選組六番隊長・井上
源三郎は、淀千両松付近において味方を救援するために大砲の側部にとりつき、その場で
敵銃弾を浴びて倒れた。
「叔父さん、叔父さーんっ!!」
 甥の泰助はけなげにも、息絶えた源三郎の首を落として運ぼうとしたが、何しろ少年の
力では重くて身動きがならない。その時、腰にさげた源三郎の首が、ふと布包みの中から
ささやいたような気がした。
───いいよいいよ。重い荷物なんざ、置いていきな。
「叔父さん。」
 泰助は泣く泣く、見知らぬ地に首を埋めて敗走したという。余談だが、あれほどに絆の
固かった郷党の近藤勇、土方歳三、沖田総司の誰も、井上の落命の場に居合わせることは
なかった。この日、一月五日。
 井上源三郎は、こうして戦地の中にかき消えてしまった。甥の泰助少年は無事に郷里に
帰り、源三郎の戦死を語り伝えた。後に親族の手により、遺体のないまま日野の宝泉寺に
墓が建てられた。
「誠願元忠居士」
 という。戒名まで近藤・土方らに比べると控えめで、その人柄をしのばせる素朴なもの
になった。

 
 京都六角通りの煙草屋は店を閉め、お袖と銀次がどこへ行ったのか、知るすべはない。

                                   (了)



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