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第 6 回
源さん、惚れられる

(一) おじさん侍


 (四十を二つ三つ過ぎたところだろう。)
と、女スリのお袖は思った。
 慶応二年の春も盛りで、ここ京の町では清水寺へ参詣ついでの花見客が連日訪れている。
本来、京で最も桜が美しいのは嵐山だというが、やはりそれは、市中から出掛けるには一
日仕事になってしまう。清水で充分だ、と思う市民や観光の者も多いらしく、午後の門前
町は、仕舞いぎわの茶店がまだ少し、歩き飽いた客の姿をそこここにとどめていた。
 といって、江戸から流れてきて日の浅いお袖が、清水からほど近い土産物屋の並ぶ往来
を日がなぶらぶらしているのは、何も高名な桜を見るためなどではない。花に浮かれ、行

楽に疲れて、ぽうっとそぞろ歩いている人びとをお客にすることのほうが目的なのである。

 細い坂道をおりようとする時、人の注意はどうしても、足元にいく。少し酒気の入った
者も多い。この辺りの仕事は、お袖にとっては絶好の稼ぎ場所になっていた。
 おかげで、その日自分に課した目標の金額はとうに手に入れ、いくつかの財布が空しく
京の水路に消えていったあとなのだが、西日が茜色を少し濃くしてきた時刻になって、お
袖はふと、そのお客を今日の仕事納めにしてみよう、と思いついたのである。
 四十過ぎ、とお袖がみとめたその「お客」、つまりカモだが、その男は武士だった。だ
が、「武士」というご立派な文字がおよそ似つかわしくないほど、どう見ても野暮ったい、
ぽっと出の田舎ざむらい、と表現したほうがぴったりの、冴えないご面相をしている。着
ているものは粗末ともいえないが、どことなく借り着のような、肩幅や袖丈がすっきりと
身に合っていないような、まあ、ひとことでいうと垢抜けないいでたちなのだ。
───リャンコには、うっかり手エ出すなよ。
と、スリの技を仕込まれた当初、お頭の善平衛にはくどいほどに言われたものだが、お袖
はそれを承知で、仕掛けてみる気になっている。運試しでもあり、技試しでもあるだろう。
「リャンコ」とは二つのこと、つまり二本ざし、侍の俗語である。大して懐も豊かでない
上に、思いがけず手練の武芸を持っていたりして、スリを試みるには得のない相手だから、
というもっともな教えだった。その教訓にお袖があえて逆らってみる気になったのには理
由があるのだが、それは後で述べることにする。
 お袖は白く繊細な指を軽く鳴らしてから、ごく何気ない足取りでその武士に近づいてい
った。ほろ酔いの通行人たちを避けるかのように、少しそちらの方へ距離を縮めると、肩
先が触れるか触れないか、というまさに絶妙の間合いでそばをすり抜けている。
(ふっ。)
 お袖はそのまま、細い無人の小路の中に折れてゆき、天水桶に身を隠すようにして、左
の袂から藍色の財布を取り出した。
「おや、まあ。」
収穫のお宝を拝んだ時、お袖は意外な声を出した。
「あの、サンピン……こんなに持っていやがった。」
見かけによらず、中にはしめて五両に近い金が入っている。その印象の差に、お袖は面食
らったのだ。
 いったん空にした財布を、今度は縞の帯の中へ深めに挟み込むと、お袖はもう一度表通
りに出て、西の方向を見た。
 例の侍が、さっきとまるで同じ歩調で飄々と歩いてゆく背中が見える。
(くにから持ってきた、なけなしの虎の子だなんていうんじゃないだろうね。いやだよおじ
さん。青くなって首でもくくるんじゃないよ。)
そのやや丸い背中を見ていて、お袖は常にない好奇心を抱いた。仕事の後でお客に近づく
などという、これも師匠の戒めにそむく形で、その侍のあとをつけてみる気になっている。
理由は今のところ、当のお袖にもわからない。
 十分も歩いたろうか。ふと、その「おじさん」は、いずれ歴とした家中の武士であろう
と見てとれる(こちらの方が風采がいいのだ)二人連れと、ばったり行き会った。「おお、」
という最初の声だけが聞き取れた。
 「おじさん」はその二人連れの武士に、深ぶかとお辞儀をしている。その挨拶ぶりが、
どちらかというと野良で庄屋に出会った小作の百姓、とでもいったほうがいいような、純
朴そのものの頭の下げ方であった。二人のほうもつられて丁寧にお辞儀を返しているとこ
ろを見ると、公のつきあいがあるらしい。
(上役かな。)
 「おじさん」は何かにこにこと笑いながら、合計で六回も頭を下げて、やっと歩き出し
た。その仕草を遠目に見ていて、お袖は何だか、気の毒になってきた。
(お人よしそのもの、って感じだねえ。)
またさりげない距離を置いて後を歩きながら、
(どう見ても、自前で大金を持っているって顔じゃないもんね。仕事で京に上ってきて、お
役目がらみの金を持っていたんじゃないかしら。)
と、お袖は想像をたくましくしている。江戸では芝居見物を欠かしたことのない女だから、
多少はその影響もあるだろう。
(このまま屋敷について……公金を無くした、ってんで、腹でも切らされるなんてことにな
ったら……いやだ、寝覚めの悪い。)
お袖は、とりあえず「おじさん」の行く先を見届けるつもりだった。
 しかし、その「おじさん」は、数丁も歩いて繁華な町並みに着くと、ひょい、と一軒の
居酒屋の暖簾を分けて、中に入ってしまった。
「ありゃりゃ、」
お袖はぎょっとして足を速めると、あまり考えずに、同じ店の暖簾をくぐっていた。
 店内は、まだ日没には間があるというのに、ほどほどの客で埋まっている。座敷はなく、
樽腰掛けと素朴な木肌の卓がきちんと磨かれている小奇麗な造りで、亭主の筆らしい文字で
「出来ますもの」と簡単に書いて貼ってある品書きや、給仕が初老の女一人らしいところ
を見ると、本当に酒と料理だけを味わう店らしい。といって、板場で包丁を動かしている
亭主の様子から見ると、一杯呑み屋にしては品がよさそうでもある。懐の寒い職人や浪人な
どは、もっと気取らない立ち飲みはかり売りという(現在でいうスタンドバーのようなもの)
に行くはずで、この店の客はそれなりの町衆といった身なりの者が多い。腰を落ち着けて
京風の煮物や肴の味を楽しんでいる、という趣があり、仕事や花見帰りにちょっとひっかけ
るには、まず「中の上」という位置づけの店だろう。
「井上様、今日は、非番どすか。」
亭主が井上、と呼んださきほどの「おじさん侍」は、物慣れた動作で板場に近い席に座った。
同じ頃、お袖は少し離れた卓に座って、女中に酒を頼んでいる。

「うむ。東山で、花見をしてきた。」
「清水さんどすか。」
「あちこちだ。」
「お一人で?」
「たまにゃあ、一人がいい。」
亭主は突き出しの菜花の和え物を井上の前に置きながら、得心顔で笑った。
「ははあ、そういうたら、いつも大勢さんどすな。」
井上はうなずいて、肴は亭主の見つくろいにまかせる、という意味のことを言うと、あとは
気のきいた話題もないようだった。

(無口な人らしい。)
お袖は杯の酒で唇をしめらせてから、それとなく観察している。
 井上は、いくつか出された小鉢の肴を文句も言わずに食べながら、手酌でちびりちびりと
飲む。店の賑わいからは置き去りにされたようにぽつねんとした感じだが、それで気にもし
ていないらしい。

(あれじゃあ、仕事場でも肩身が狭いんだろう。そりゃあ、一人になりたいはずさ。)
どう見ても昼行灯、というか、今で言う「窓際族」なのだろうと思っている。
 少しして亭主が井上を思い出したように声をかけた。
「珍しゅう、鯛が入ってますけど、どないしまひょ。」
「鯛か。」
井上はまた、ちび、と酒をなめて、
「もらおう。」
と、何気ないうなずき方をした。お袖は聞いていて、どきっとした。
(ちょいと。知らないよ、そんな高いもの頼んじゃって───)
京の盆地では、海の魚が特に高い。輸送費がそのまま原価にはねかえるからである。
(懐があったかいと思いこんでるんだろうけどさ。)
その懐を寒くしたのは他ならぬお袖本人なのだが、まさかそうは言えない。お袖は井上の
ために勘定を胸算用しながら、わずかに意地悪くことの顛末を見てみたい、という気持ち
もある。

「お待っとうさんどす。お江戸では珍しいこともおへんやろけど。」
 井上が、出された鯛の塩焼きを旨そうに食べている。特に手のこんだ技術をほどこさな
くても旨いものは旨い。人の皿のものながら、お袖はちょっとうらやましくなってきた。

(あれに醤油と熱い湯をかけても、いけるんだよね。)
皿の上に魚の骨が見えてきた頃、お袖はそんなことをぼんやりと思った。京の食物が不味
いとは思わないまでも、やはり新鮮な海のものは恋しい。他の客には声がかからなかった
ところを見ると、この店の鯛はやはり不意に入荷した珍重ものなのだろう。

「ねえさん、一人かい。相席してもええやろか」
ふと、斜め上から若い男の声がして、お袖は顔をあげた。なるほどさっきより客の数が増
え、二人連れで席にあぶれたらしい男たちが、にやにやと笑っている。お袖の卓は四人ま
でが定員なのだ。もちろん、女一人の客ならついでに酌でもしてもらおうという魂胆があ
るのだろう。

「いいえ。あたしゃあっちに移りますよ。」
つん、という顔をしてお袖は腰を上げ、杯を持って、なんと井上の隣に席を移った。
「お武家様、すいませんけど、こちらお隣にかけてもようござんすか。」
「………。」
井上はきょとん、として、女の顔を見上げている。
「駄目ですか。」
「いや。いいとも。」
言いながら、井上はまだお袖を無遠慮に見ている。お袖は板場に新しい銚子を頼んで、腰
をかけてから見返し、

「あたしの顔に、なんかついてますか。」
「いや……」
井上はほっ、と笑みを浮かべた。
「あんた、関東のひとかね」
「はばかりながら、江戸っ子でござんすよ」
「ほう、ほう。」
井上はさらに相好を崩した。
「それがどうか?」
「いや、江戸の女は珍しいからさ。」
「旦那も、江戸から?」
「いや。江戸にも住んだが、わしは武州多摩の、日野宿の生まれだよ」
「へえ……日野。」
江戸っ子のわけがないか、と納得しながら、お袖はちら、と考えた。
(あのあたりは天領の、百姓家ばっかりじゃなかったっけ。)
どうも役持ちの侍の住居とは結びつきにくい。お袖は江戸郊外の地理には不案内だった。
仕事で必要にせまられなかったからでもあるが、田舎には興味がなかったのである。

「そう。いやいや、江戸弁とは懐かしい。」
「そりゃ……ようござんした。どうです、ご挨拶ついでにおひとつ」
お袖はくすっと笑って、井上の杯に新しい酒を注いだ。井上は、(そこは侍らしく)左手で
酌を受けながら、

「ああ、ありがとう。しかし……なぜ、江戸の若い女がこんなところにいる?」
「若くもありませんよ。」
「若かろう。」
井上は、別にお世辞のつもりもないらしい。お袖は小首をかしげて、
「いくつに見えます。」
同じように首をかしげながら、
「さあて……二十二、三かな。」
ぷっ、と、お袖は吹き出した。
「ご冗談。」
「もっと下か。」
「旦那、大年増を喜ばしちゃいけません。」
あまり若く言われるのも、ほめ言葉を越して嫌味に聞こえるものだが、井上は生真面目に
考え込んでいる。

「ふむ、違うのか。わしゃ、女の年を言い当てたことがない。」
すまなそうな表情になった。
「あんまり、お遊びにならないんですね。」
お袖が取り結ぶように言うと、井上はうなずいて、暇がない、と言った。今日の様子を見
る限りひま人そのものだが、と思っておかしかったのだが、当たりさわりなく、

「旦那は、おつとめで、京へ?」
「そう。あんたは。」
お袖は何気なく答えて、
「あたしも……近頃は、江戸より京の方が、実入りがいいんでね。」

「ほう。なんの商売をしている。」
「………。」
 お袖は、そこではたと困った。まさか、女スリですとは言えない。しかし、女と盗人、
嘘つきの才能を二つも兼ね備えているのだから、新しい答えを探すには数秒しか要らな
かった。

「占い……。」
「占い?」
「ええ。道行く人の人相見をするんです。」
「ほう。」
井上は、珍しく好奇心をそそられたらしく、目を見開いた。
「旦那のことだって、ぴたりとわかりますよ。」

「どんな風に。」
「そうねえ……今日は、旦那は……金運が悪い、と出てますね。」
「ほう?」
「それに、思わぬ災難に会う、という相が出ています。ほどほどにして、切り上げたほう
がようござんすよ。」

「そうか。」
その言葉で、井上はふと暖簾の外を見た。すっかり日が暮れている。
「おや、もうこんな時分か。では、あんたの言う通り帰るとするかな。」
(おいでなすった。)
 お袖は、まるで芝居の筋書きを知っていて、待ち望んだ場面を見る客の心境だった。
井上は、亭主に「勘定。」と言いつつ、懐を探っている。お袖はそれを横目で見ながら、
猪口の酒を口に含んでいる。

「む?」
井上、ようやく懐の異変に気づいた様子で、
「ほい、しまった。」
亭主が手をふきながら、そばへ寄った。
「どうなさいました。」

「財布が、ないわ。」
お袖はあやうく吹き出しそうになった。井上の声は、のほほんとしていて慌てた様子が
ない。やや狼狽したのは店の亭主のほうだった。

「へえ。」
「どこかへ、落としたかな?」
「すられたんと違いますか。」
「いや……思い当たらんな。」
井上は、きょとんと首をひねった。お袖はすかさず、心中で相槌を打った。
(そりゃあ、そうでしょうよ。)

亭主が気の毒そうな顔で、それでも柔和に、
「そうどすか。ほな、つけときまひょ。いつでもよろしおす。」

「いやいや……金の貸し借りは好かん。『金策いたすべからず』だ。ちょっと、待て。」
井上は、何を思ったかもぞもぞと、袴の前紐を解きはじめた。お袖は間近で見てぎょっと
声を出した。

「な、何もそこまで……。」
「ふむ?」
お袖はてっきり、着物を代金のかたに置いていくつもりなのかと思ったのだが、井上はそ
こで、脱ぐのをやめている。袴の前がぺろん、とめくれている。
「しょうがない。」
井上は袴の内側、股間のすぐそばに、手製の小袋を縫い付けてある。その袋の口をほどく
と、中から小粒の金が数枚、出てきた。
「ほれ。ごちそうさん。」
井上は、その金の一枚を亭主に渡している。そのまま、前紐を結びなおした。
「へ、へえ……毎度、おおきに。」
亭主は、ぽかんとしている。お袖も同様に意表をつかれていて、ついたずねた。
「それ……なんです?」
「ああ。これか。わしの母親がな、人ごみを歩く時は、銭を分けて持つようにと
言っていた。それで、こうしている。」
いわば、袴用の自家製ポケットである。
「懐や袂は、走ったり暴れたりしたら落ちることもある。ここならまさか、盗人に手を
入れられても気がつくし、帰るまで、袴をぬぐことはめったにない。」
当時、男性の小用は、袴の裾をたくしあげてするのである。
「へえ……。」
お袖は、妙に感心した。なるほど、いくらお袖の腕前が絶妙でも、ここに手を入れて金を
抜き取るのは不可能であろう。
亭主は釣りを渡しながらくすくす笑っている。

「邪魔なこと、おまへんか。」
「いや、うすっぺらいから、平気だよ。それにわしは、当たるほど立派なものでもない。」
「はあ。」
亭主の笑いが止まらなくなった。

総司にも、作ってやるといったら、そんなものが前にチャカチャカとぶら下がっていた
んじゃ気になってしょうがない、いやだと言いおった。」
井上はくそまじめに言っている。お袖は、たまらなくおかしくなってきた。
(冗談じゃない。皆がそんな細工をして歩かれたんじゃ、こちとらあがったりだよ。なァ
んだ……案外しっかりしてるじゃないか。心配して損したよ。)
「おかしいかね。」
「いえ。お武家様の肌付き金てえのはきいたことがありますが、金つき金、てえのは、
初めて聞きましたよ。」
 肌付き金、というのは武士のたしなみのひとつで、戦場で討ち死にという場合、自分の
亡骸を始末をしてもらう人のために、出陣前から着物に縫い付けておく金のことである。
「きんつき、きん……なるほど。お前さん、けっこう言うね。」

井上はふわっと笑って、両刀を挟んでいる。ついでのように、
「あんたも、帰るんなら送っていこうか。」
「旦那のお住まいは。」
「お西さんだ。……西本願寺だよ。」
「じゃあ、方角が違いますから。けっこうですよ。」
むろん、井上の帰り道がどの方角だろうと、断るつもりでいる。盗人の身で、他人に隠れ
がを教える馬鹿はいない。
「そうかね。」
別に、下心で言ったのではないらしい。井上はほろ酔い加減で、店を後にしている。

 お袖は銚子の底にいくらかの酒を残して、いつもの癖で少しまわり道をしながら、六角
通りにある小さな煙草屋の店に帰った。夜分のことで、当然商いは終わっている。茶の間
には、仕出しの弁当を食べながら茶を入れている一人の男がいる。名前を銀次という。
 ねえ
「姐さん、遅かったやおまへんか。」
「ちょいと、花見客相手に、ひと稼ぎしてきたのさ。」
「一人仕事は、やめといたほうがよろしいで。」
 銀次は、三十をいくつか過ぎた古いスリ仲間で、ひところ江戸の同じお頭のもとに出入
りしていた男だが、近年、表向きはこの京で煙草屋の小商人といった暮らしをしている。
その実、ここの二階座敷は裏稼業の仲間たちの連絡場所となっている。
「なんぼ、神田明神下で鳴らしたお袖姐さんかて……慣れぬ土地で無茶は禁物でっせ。危
ない危ない。」
 銀次のほうがいくつも年上だし、稼業の年季も古いのだが、お袖のことは必ず「姐さん」
と呼んで言葉も敬語を使う。江戸の「お頭」の顔を立ててきた関係上、である。お袖もそ
のせいで、「銀次兄さん」と呼んだのはほんの最初の頃だけであった。女はくっついている
男次第で、立場が変わる。いわば出世が早いのだ。
「お宝の顔を見てからお言いよ。」
 お袖は、自分の財布に移し変えた収穫の金をどさり、と無造作に投げた。こんな形でも、
一応この宿のあるじである銀次にその日の仕事を報告する、といった永年の習慣が残って
いるからなのだ。自分で稼いだからといってあがりの金を黙って自分のものにする、とい
う「こすっからい」真似が、子供の頃から人に仕えてきたお袖には出来ない。銀次も心得
たもので、素早く財布の中身を勘定しながら、お袖の機嫌をとるのも忘れないように、嬉
しげな顔をしてみせている。
「へえっ。こら、豪勢や。いったい、何人ほど働いたんで。」
「四人さ。」
「ほう。それでこれだけ集まるとは、さすが姐さんの眼力はえらいもんや。」
「最後のお客は、ほんの遊びのつもりだったんだけどね。侍にしちゃ、間が抜けてそうだ
ったんで仕掛けてみたら、五両ばかりも持ってたのさ。おかげで大した余禄さ。」
「へえ。」
「つい、なりゆきで持って来ちまった。」
 お袖は、井上からすりとった財布を、取り出している。銀次がその時ばかりは、ふと顔
をしかめて小言を言った。
「なんと。証拠の品を持って歩くやなんて……。」
と、今更言われなくとも、お客から盗った財布はできる限り素早く、人目につかぬ場所に
破棄するのが、この道の常識である。お袖も、今日の四人のお客のうち、三人までの財布
はそうした。
「金は抜いたさ。」
 お袖はふん、と聞き流して、そのすっからかんにされた財布の中から紙切れやら、お守
り袋を指でつまんで並べてみていた。
「日野の八坂神社。へえ、こんなものくにから、わざわざ持って来たんだね。」
ふと見るとお守り袋の後ろに、墨で小さく、名前が書いてある。
「井上、源三郎……源さんか。」
「源さん?」
「ああ。おっかしな侍でさあ。」
 お袖は、くすくす思い出し笑いをしている。その「おじさん」侍の話を聞いているうち
に、銀次の顔がみるみる青くなった。
「西本願寺……。そのお武家、お西はんに住んでる、いうたんでっか。」
「ああ。寺侍か何かかね。」
 京都にはその手の、今でいうと寺の雑務や折衝を受け持つ事務員のような侍、えてして
武士らしい勇猛さはないらしく、青侍、などとちょっと低い感触で呼ばれる職種の者が多
い、ということはお袖も知っている。それでそう、何気なく言ったのだが、銀次の真顔は
変わらない。ふと、一つ大きく嘆息して、
「西本願寺の……井上源三郎……姐さん、あんた……。えらい奴に仕掛けましたなあ。」
「へ?」
銀次がやや目を険しくした。
「そら、新選組や。」
「新選組?」
お袖はきょとん、としている。銀次は頭のいい男だから、話をわかりやすくするところま
で説明をさかのぼった。
「こっちでは、壬生浪、の方が通りがよろしいけど……今はそっくり西本願寺に家移りし
てます。守護職の会津様に雇われて、町の浮浪人どもを取り締まる、いうて年じゅう見廻
りしたある浪人組ですわ。姐さんかて、おととしの池田屋騒動の話、聞いたことぐらいは
おまっしゃろ。」
「池田屋……ああ、江戸で読売(瓦版)は読んださ。」
「井上、言うたらその池田屋斬り込みにも加わった、壬生浪の大物でっせ。」
「まさか。」
お袖は笑いだした。
     あさぎうら
「どっかの浅葱裏にしか見えないよ。」
浅葱裏、というのは、羽織などの裏地に、すでに江戸では流行の終わった野暮ったい浅葱
色の布地を用いるというので起こった、田舎侍の代名詞、つまり蔑称である。
「浅葱裏どころか……表も裏も、正真正銘、浅葱のダンダラや。」
と、銀次がいうダンダラは、新選組の制服である薄青色に山形を抜いた羽織をさしている。
「わしら京、大坂のスリは、あの浅葱羽織と山形の提灯には、五間四方に近寄りまへんで。」
「人違いじゃないのかい。」
「いやいや……わしらは商売柄、京都の役人の内情については詳しいおます。向こうも、
スリはその場で取り押さえられんと捕まえることのかなん事は承知してますさかいに、た
いがいのことやったら目こぼししてやるかわりに、人探しやら、裏の聞き込みやらにわし
らを使うことがあるんや。わしの知り合いの目明かしが、新選組にも出入りしているそう
で……その辺のことは噂に聞きますのや。」
「ふうん。」
「その役人が、『銀次、壬生浪だけは相手にしなや。あいつら怒らせたらその場で首が飛
ぶで』いうて……。井上源三郎、いうたら、お頭の近藤勇や土方歳三らの同門の大先輩で、
古参も古参、新選組二、三百の中でも上から十本の指に入る顔役やいいまっせ。」
お頭、といったのはもちろん銀次の世界の言葉が出ただけで、正確には新選組局長・近藤勇
と副長・土方歳三である。顔役は、幹部職である副長助勤と言い換えることになる。

「嘘オ……。」
 お袖は、間延びしたあいづちをうった。
「だって、そうじがどう、とか言ってたよ。お寺の掃除でもしてるんじゃないの。」
「そら、沖田総司や。」
 銀次はぞっ、と身震いをした。
「新選組でも、一番の使い手や。人斬り鬼の沖田総司を呼び捨てに出来るのは、幾人もお
りまへん。本物や。」
「へえ……。」
 お袖は、あきれてお守りの名を見ている。


 翌日の昼下がり、である。お袖は、いつに増して小奇麗に化粧をし、出掛ける支度をし
ている。心なしか浮き立った表情の女に比べて、傍らの銀次は渋い。
「やめときなはれ。壬生浪の本陣に乗り込むやなんて……命知らずな。」
「お黙り。」
「酔狂にも、ほどがありまっせ。」
「音に聞こえた新選組の陣中を堂々と見物できるなんざ、めったにない好機じゃないか。
ちょいと度胸試しさ。」
銀次は苦虫を噛んだような顔をして、
「姐さんのは、度胸に、くそがつきまんな。」
「うふ。行ってくるよ。」
 お袖は、うきうきして煙草屋の店を出ていった。
 銀次はぼやいている。

「善平衛お頭も、とんだ大荷物を押しつけてくれよったもんや。」
 ここで、かいつまんで過去の説明をしておく。
 お袖は、江戸は神田の明神下界隈でスリの元締めをしている雲居の善平衛という男の情
婦だった。お頭みずから、どこからか拾って来たお袖を、それこそ物事の善悪のわからぬ
ほどに幼い頃から、自慢の技を仕込んで育てあげた。お袖は善平衛の見こんだ以上の域に
達してその技量が大いに役立ったものだが、それ以上に、お頭の私用にも貢献した。つま
り、お袖がやや色気のつき始めた頃、ごく当然のようにその体を摘み取って、自分の女に
した。善平衛の妻が死んでからは、お袖が女房がわりとして一家にでん、と座を構えるよ
うになっていたし、それはそれでうまくいっていた時期があったのである。つまり、老い
た秀吉に対する若い愛妾の淀君を想像してもらうと、わかりやすい。もっとも、お袖は長
くはべったわりには子を産んでいない。勝気だけは天下一品のお袖に対し、善平衛も近年
は少々もてあまし気味で、ついつい別の、若い、しかもおとなしい妾を作った。
 銀次が、表裏の二足のわらじの商用で、しばらく神田に宿を借りていた頃の話であるが、
ある日、お頭に呼ばれてこう切り出された。座は二人きりである。
「お袖に浮気がばれた時ゃ、そりゃあもう大変でなあ、銀次。」
「そうでっしゃろなあ……。」
銀次はもともと言葉の抑揚が少ない上に、根が上方者だから、どっちとも取れる曖昧な返
事をする癖がある。この時も、つい同情した声音を混ぜて返した。それがいけなかった、
と気づいた時にはすでに、善平衛の策にはまっていた。
「おめえ、上方であいつを預かっちゃくれねえか。」
えっ、と顔を上げた時は、往年は神業のごとし、と言われた技を持つ、老スリの元締めの
目が光っている。
「銀よ。まさかおめえが、俺の頼みをきけねえ、という不義理な男じゃあるめえ。」
さすがに殺し文句も老練なのである。
「はあ……。そら、お頭にはいろいろと、世話になってますさかい……。」

銀次の声は、ますます歯切れが悪い。
「俺は、お袖にゃ正直、飽きが来ている。あいつが向こうで男を作ろうが何をしようが文
句を言うつもりはねえ。いや、むしろその方が助かるほどだ。しかしこの江戸……俺の縄
張りで勝手なことをされたんじゃ、ちと顔が立たねえのでな。」
「はあ……。とりあえず、目の前からおらんようになってくれたら、都合がええいうわけ
でんな。」
「うむ。」
 善平衛がにっとほくそえんだ時、銀次はしまった、と思ったが後のまつりである。
 で、一方のお袖も、男としての善平衛にはとっくに冷めていたのだが、あからさまに見
限られて捨てられるのでは女の誇りが許さない、ということだったらしい。銀次がそれと
なく京へ行く話を持ち出すと、
「いいよ。爺さんの顔も見飽きたし、花の都で羽を伸ばすのも悪くないさ。」
と、すんなりついて来た。
 こういう経歴で、お袖と京都で風変わりな同居、または同棲のような暮らしをするはめ
になっているのだが、
(あの激しさじゃあ、お頭の体がもつまい。)
と、銀次は思うのである。一緒に暮らしているのだから、お袖と男女の仲を結んだことは
すでに何度かある。お袖の体は相応に熟しきった魅力を持っているのは確かなのだが、ど
うにも性根のほうが強すぎる。
「なんだい、もう」
その最中にむくりと顔を上げ、
「若いくせに、弱っぴいだねえ。」

……と、床のなかであけすけに言われると、銀次はげんなりしてしまうのである。お頭公
認の浮気とはいえ、銀次にしてみれば、お袖の相手(そちらの方面も含む)は、なかば義務
からつとめている。それでこんなふうに蔑まれては、やる気もへったくれもない、といい
たいようなものだが、口答えをするのも馬鹿馬鹿しい、と放っておいた。
 幸いなことに、とでもいおうか、お袖は早々と男としての銀次の奉仕に見切りをつけ、
近頃は稼いだ金を使ってまあいろいろと、外で遊んでいるらしい。
(遊ぶにしても、新選組とは行き過ぎや。)
 上方に巣を持つ銀次は、新選組の恐ろしさを骨身にしみて知っている。かつて、こわい
もの知らずの仲間が隊士にスリを試みて、一刀のもとに斬り殺されたことがある。そのす
さまじい斬撃のあとを見ては、震え上がらぬほうがどうかしている。京都では、遊里の女
と僧侶は怒らせぬこと(どんな権力とつながっているかわからない、の意味)という警鐘が
古くからあるが、最近では女と坊さんよりも、壬生浪のほうがよっぽどこわい。
 その新選組の本拠に、こともあろうに自分の家の女居候が乗りこんでいる。
「くわばら、くわばら……。」
 銀次はつぶやいて、気を紛らわすように商売ものの煙草の整頓などを始めた。暇な店だ
が営利を抜きにして、世間への顔も見せておかなくてはならない、といった一面がある。

 場面は変わって、西本願寺である。昨年の春、京都きっての大古刹に場違いな新選組が
大挙して住み込んだのには、相応のいきさつがあるのだが、本編には関係がないので省略
しておく。ともかくお袖は今その新選組屯所の、簡単な客間に通されている。出入りの商
人などを通すために、隊士たちの住みかである場所とは隔離して作られているらしく、ま
ず雑多な屯所の中では静かなほうかもしれない。
 京でいう「いちげん」(一見)の客であるお袖が、縁側だの庭先などで待たされるような
しうちを受けずに、茶も出され、座敷に通されているのは、何も新選組が女性を尊重して
いるから、などではさらさらない。取次ぎの隊士に、
「井上源三郎様の知り合いの者でございます」
と、告げただけで、あきらかに態度が丁重に変わったところを見ると、銀次の話もあなが
ち嘘ではないらしい。
 井上はあいにく外廻りの最中とのことで帰るまで待たせてもらうことにしたのだが、お
袖は長い間、そう退屈はしていない。桜の頃にしては暖かすぎるほどの陽気もあって、部
屋の障子を開いたままにしてある。そこから庭を眺めるふりをしていると、時折、通りが
かりの隊士がちら、とこちらを見てはゆきすぎてゆく。あるいは一人、あるいは二三人が
連れ立って、雑談のふりをしながら、ということもある。だが、確かにチラチラとこっち
をうかがっているのがわかる。
(よほど、女の客が珍しいらしいね。)
お袖は、承知の上で障子を開けているのだ。向こうが見物のつもりなら、こちらも見物し
ているのである。
          
もさ 
(日本じゅうから武術の猛者を集めたというだけあって、皆いい体つきをしているよ。)
美醜はともかく、年も若く、鍛え上げた筋骨をした男たちが多い。足腰がしっかりして
いて、とりたててこれはだらしがないというのがいない。たとえば、警察官や自衛隊、
または運動選手の合宿所に紛れ込んだようなものだろう。
(こうしてみると井上の源さんは、とりわけ年かさらしい。)
 あの風采の上がらない井上が、彼らの上司であるとは、信じがたい。
 その時ひょいと、すぐそばの廊下を、組長の原田左之助が通り、足を止めた。
「井上さんのお客ってのは、あんたかい。」
「はい。」
「へえ。」
 原田は、遠慮なしにじろじろとお袖を見ている。態度が横柄なのは、井上と同じような
役付きの一人なのだろう、と見当がつく。
(まあ……いい男じゃないか。)
原田は、井上とは比較にならないほど、精悍な美男である。身ごなしも張りがあり、着て
いるものもぱりっとして、センスがいい。触れたら切れそうなこわさも含んでいる。
「井上さんは公用で出掛けていて、あと半時(一時間)やそこらは帰らんぜ。」
「存じております。お邪魔でしょうが、待たせていただきます。」
原田はほう、という目を開いたあと、
「そうかい。ま、好きにしな。」
からからと笑いながら行ってしまった。
(やっぱり、新選組ともなれば、ああでなくっちゃねえ。)
お袖も、くすくすと笑っている。


 言った通りの半時近く後で、巡察から戻ってきた井上は、きょとんとして原田の話を聞
いている。
「わしに、客?」
「ああ。しかも、女だぜ。年増だが、小股の切れ上がったいい女だよ。」
原田はいつもの癖で、好色な話をする時は左の手であごをなでる。
「はて……。」
「ありゃあ素人じゃねえな。源さん、どっかの飲み屋か女郎屋にでも、つけをためこんで
るんじゃねえのかい。」
「まさか。」
 井上は、首をかしげながら客間の方に歩いていった。浅葱の羽織を着たままである。
 しかし、その開け放たれた障子の内側にいる女客を見たとたん、明るい声をあげた。
「やあ。あんただったのか。」
 お袖は、今日の身なりにふさわしく、ちょっとつつましげに頭をさげて、
「こんにちは。お邪魔しておりますよ。」
「見違えたなあ。きょうは、ずいぶんとかしこまったなりをしている。」
というのも無理はない。先日は、お袖の普段着である粋筋の好みそうな大きめの乱れ縞の
着物で髪もゆったりと結っていたのが、今日のお袖はちょっといいところの内儀か、小唄
端唄の女師匠か、と見える程度に、やや低めの志の字にまげを結い、淡い梔子の小紋を着、
その上半襟の色合いも控えめにして、襟元のくつろげを小さくしている。
 かなりくだけた比喩をすると、銀座あたりの水商売の女性が、昼間に顧客のオフィスを、
店の衣装とも普段着とも違う落ち着いたスーツ姿で訪ねている、という感じを想像しても
らうといい。
「そりゃ、場所がらを考えなきゃね。」
「わしに、何か用かね。」
「これをお届けにあがりましたのさ。」
お袖は、井上の財布を差し出した。
「やっ。わしの……。どうして?」
井上は驚いて、手にとって見ている。
「あの晩店を出たあと、もしやと思って、気をつけて道を歩いてみたんですよ。そうした
ら、路地のわきに落ちてましてね。あいにく、お金は抜き取られちまった後でしたけど。」
もっともらしい説明に、井上は納得した様子で無一文の財布を撫で、
「そうか。いや、そりゃあ仕方がない。」
「世の中、悪い奴が多うござんすからねえ。」
お袖は、しれっとして言い放っている。
「でも中を見たら、日野の八坂様のお守りが入っているじゃありませんか。それに何やら
覚え書きみたいなものも二三枚……これは、お届けしなくっちゃと思いましてね。人に聞
いたら、西本願寺のあたりにお住まいの、井上源三郎様といえば新選組のお方に違いない、
というもんですからおたずねしたんです。ただ、やっぱりじかにお会いして確かめたいと
思いましてねえ。」
「いや、ありがとう。金はまた入ってくるが、こっちの方が大切でな。」
井上は嬉しそうに、中に入っていたお守り袋を取りだし、手に包んでいる。
「ご新造様にでもいただいたんですか。」
「いや。わしには妻子はない。」
「へえ……。」
 お袖は意外な顔をした。この年で独身というのは、遅すぎるほうである。
 井上は独特の
笑みをうかべたまま、
「こりゃあくにの甥っこが、わしが京へ上る時にわざわざ持たせてくれたものなんだよ。
少ない小遣いを出して、求めてきてくれたらしい。」
「そうですか。可愛らしいことをなさいますねえ。」
「うん。いやあ、戻ってきてよかった。あんたのおかげだ。ええと……」
「袖、と申します。」
「お袖さんか。ありがとう、恩に着るよ。」
 井上は、懐から新しい財布と懐紙を取り出して、お袖にいくらかの礼を包もうとした。
 お袖はいくぶんあわてて、
「とんでもない。そんなつもりで伺ったんじゃありませんよ。」
「しかし、わざわざ足を運んでくれたんだろう。」
「同郷のよしみってことで、いいじゃありませんか。ただでさえ、お金を無くしてお困り
のところへたかりに来たみたいで、嫌でございますよ。」
 このあたり、半分正直な気持ちも含んでいる。
「ふむ。……では、ちょっと待ってておくれ。」
 井上はひょこひょこと部屋を出ていき、やがて、菓子折りを一つ持って戻ってきた。
「お袖さん、あんた、家族は。」
「え。あの……弟の身内と……住んでおります。」
 お袖はとっさに、兄のほうがよかったかな、と思ったが、日頃の立場の余波で、銀次は
老けた弟にされてしまった。
「そうか。じゃあ、これを持って行ってくれ。もらいもんだが。」
 井上はその菓子折りを差し出した。
「そんな……。」
お袖は知らぬが、京の銘菓らしい。高価そうな包みだった。くくってある紐の色合いが
京都らしく美しいのでもわかる。
「いや、もらってくれんと、わしが困る。」
「じゃあ、遠慮なく……かえってすいませんねえ。」


 と、いうわけでお袖は、土産の菓子を手に帰ろうとしている。
 だが、

「あの……井上様、本当にけっこうでございますよ。」
「いやいや。」                             
井上は、にこにこしながら見送りについて来るのである。途中、そこここに屯している
新選組隊士たちが、好奇心にみちた目で遠巻きに視線をよこしているのだがいっこうに
気にならないらしい。お袖のほうが、さすがに気恥ずかしくなった。
「あの……女の見送りなんてのに、お出ましになっちゃ……お立場ってものがございま
しょ?」
「は?」
「………。」
 井上はただ、落とし物を届けてくれた恩人を丁寧に送り出すのが当然の礼儀だと実直
に思っているらしい。お袖はあきらめて、そそくさと門前まで歩いた。
 お袖はそこでふと立ち止まると、
「あの……井上様。」
「何かね。」
「今後はあまり、懐に大金を持ち歩かないように、お気をつけなさいまし。なんなら例
の、隠し部屋のほうにしまっといたほうが、安心でございます。」
「金つき金、か。」
井上は笑った。
「いやしかし、若い人を連れて歩いたりするので、多少は持っていないといかんのさ。
わしゃ剣の腕じゃ頼りにならんが、懐具合だけはおかげさんで皆よりも豊かなのでな。」
「はあ……。」
 お袖は、あらためて井上の顔をまじまじと見た。
(このお人は……。)
お袖は、何かにうたれたように井上を見つめている。井上がちょっと顔を前に出して、
「ん?」
「いえ……。」
「ああ、そうだ。お袖さん、あんたの占いは実によく当たったな。商売のほう、頑張り
なさいよ。」
「え?ええ……。」
「人相見はどこでやっとるのかね。他の連中にも、宣伝しておいてやるよ。」
にこにこしている。
「………。」
お袖はちょっと視線を下にはずして、また新しい嘘を重ねた。
「あの、よそものなんで、いろいろとさわりがありましてね。商いにいい場所が決ま
ったら、お知らせしますよ。」
「そうかい。」
井上がうなずいた時、お袖はやや早口で、
「それじゃ、ここでごめんくださいまし。」
いつになく丁寧にお辞儀をして、西本願寺門前を去っている。


 煙草屋に帰ると、銀次が興味ありげにきいてきた。
「どうでした。新選組。」
「うるさいね。」
 お袖は棚の上に菓子折りを置きながら、きつい声音を出した。
「おや……ご機嫌斜めでんな。」
 銀次は首をすくめて、別間にひっこんだ。お袖は二階の小部屋に入って、今日の変
装に合わない姿で、ごろん、と畳の上に寝ころがっている。
「馬鹿馬鹿しい……スリが、カモの心配なんかしてどうするのさ。カモはカモじゃな
いか。」
 お袖は、自分自身に文句を言っている。
「一回こっきりのめぐり合わせだもの。そりゃあ、カモの中にゃ善人も悪人もいるさ。
いちいち、そいつの素性までかまっていられるもんか。すられる奴が間抜けなのさ。」
 そう言いながら、お袖の中には、何か釈然としない気分がとどまっている。


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