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まことしょう
第 7 回
源さん、惚れられる
(二) 荒 稼 ぎ


 さて一方の西本願寺、新選組屯所である。午後のひととき、幹部たちの溜まり部屋では、
副長の土方歳三、助勤の沖田総司、原田左之助が談笑していた。新選組といっても、そう
毎日殺伐とした日常を送っていたわけでもなく、ことに、江戸の天然理心流試衛館道場で
同じ釜の飯を食った連中は、茶でも飲みながらざっくばらんな話をすることも多い。 たま
たま、今日ここにいる三人がそうである。

「源さんに、女の客がね。」
と、土方が首をかしげ、しかしいつもの通り、わずかに眠そうな目を向けた。切れ長で
涼しい目元なのだが、新選組副長と名がついてからというもの、より一層表情がわかりに
くくなっている。もっとも、一度かっと見開いた時はこわい。視線や口調がやや眠そうな
時のほうが、仲間うちも安心して雑談に加えることができるらしい。
 対する原田はごく明るい口ぶりで、まあ、これはこの男の生来の女好きから来るもので
もあるのだが、その日の話題を続けた。小粒のあられを手にして、時々つまんでいる。
「そうなんだよ。しかも、水商売あがりみたいな、妙にあだっぽい年増でさ。これが、
井上様のお帰りまで待たせていただきますってんだ。」
原田は四国伊予松山の出だが、江戸での放蕩が長かったので、やや伝法な江戸弁を使う。
郷里の言葉は、これもかっとなった時くらいしか使わない。
「へえ。」
 くるっとした目を輝かせているのは、試衛館生え抜き、しかも塾頭であった沖田総司で
ある。位は塾頭でも、一党の中では最年少で、自然、道場仲間の皆に対しては弟のような
接し方になる。冗談好きのわりには妙なところが丁寧な若者で、普段は敬語をくずさない。
その三人が話題にしているのが、その日、試衛館組最年長の井上源三郎をたずねてきた、
珍客お袖のことであった。原田が続ける。
「おおかた、勘定の掛け取りにでも来たんだろうと思っていたら、源さんの落とした財布、
しかも空っぽで、お守り袋しか入ってねえのを、わざわざ届けて来てくれたってんだから、
驚きだ。」
「ふむ。女の身で、新選組の本陣に乗り込んで来るとは、いい度胸だな。」
「そうさ。しかも、源さんが礼金を渡そうとしたら、頑として受け取らん。江戸の同郷に
いたよしみで、いいじゃありませんか、と言って断ったってえんだ。いまどき気持ちがい
いねえ。」
「へえ……江戸の女なんですか。」
と、その時点で沖田が懐かしそうな声を出した。姉さん子だから、江戸の姉二人を思った
のかもしれない。
「うん。飲み屋で話しかけてきて知り合ったそうだ。源さんが財布を落としたのを知って、
店の近くをさがしてくれたというんだから、よくよく親切な女だよなあ。」
原田はにやにやして、
「こいつは、源さんにも遅い春が舞い込んで来たってところかな。」
「本当かなあ。」
沖田はくっくっと笑い出した。
 しかし、土方はこの話題に違う視点を持っているらしい。ふと真面目な声を出して、
「副長」である時の表情をのぞかせた。
「源さんは、その女の住まいを知っているのか。」
「いや……聞き漏らしたと言っていたな。」
「なんだ。それじゃ始まらない。」
沖田が合いの手を入れると、原田はうなずいて、
「そこが、源さんの源さんたるところさ。ああのほほんと構えてたんじゃ、女にもてっこ
ねえ。」
せっかく向こうから訪ねてきた女の手がかりを聞きのがすなどと、原田には考えられない。
礼のついでに、親密になるための手は打っておくだろう。
 が、それは余談で、土方が女の所在をたずねた理由は他にある。
「……あやしいな。」
「何がです。」
沖田がきょとんとして見返す。
「どっかの密偵じゃねえのか。」
「まさか。」
「何が、まさかだ。親切ごかしに近づいてきたとも見える。財布だって、落としたか盗ま
れたかわかるもんか。」
やや険しい態度を混ぜたつもりなのだが、言われた沖田は一瞬ぽかんとして、直後に、
「井上さんと、女間者だなんて……想像がつきませんよ。」
体を前に折り、腹を抱えて笑っている。こうなるとしばらく止まらない。
 原田はそれを横目にしてから、ふと、
「しかし、なるほど……はたから見れば、源さんは新選組の大幹部にゃ違いないからな。」
「はたから見れば、ってのは何です。」
「おっと……失言。」
土方は二人のやりとりにはとりあわず、まるで自分に言い含めるようなつもりで、
「その女、まだ近づいて来るようなら、注意するように言っておこう。」
と言って湯飲みを置いた。原田は源さんのために代理の抗議をするかっこうで、
「殺生だねえ。せっかく、めったにねえ好機を……。」
「相手によりけりだ。女など、他にいくらでもいる。」
「その『他にいくらでも』ってのがなかなかいねえから、言ってるんですよ。」
「ふむ。」
土方は、ふとあごをひいた。それも確かである。
「近藤先生や土方さんはともかく、この総司や源さんは、女遊びがからっ下手と来てや
がる。」
「私まで、引き合いに出さないでくださいよ。」
「おめえはまだ若いからいいが……源さんはもう四十だろ。」
「いや、たしか三十七でしょう。」
「に、したって遅いさ。見た目がああなんだから、これ以上じじむさくなっちゃ女も寄
りつかんようになるぜ。早いとこ、いいのを見つけてやらなきゃあ。」
まるで、長屋の大家のような世話人ぶりの口調である。沖田がまた、ぷっと吹き出した。
「原田さん。自分が所帯を持つと、言うことが変わって来るもんですね。」
「ほっとけ。」
 からかわれる通り、原田は近頃、まっとうな妻をもらってから人並みに落ち着いたと
ころが出てきたらしいのだ。そのあと二人が新婚生活の話題にうつったのを見て、土方 は、
何事か思案顔をしてふいと席を立った。


 その土方は、井上と二人で話している。もともと、疑問というものをそのままにほうっ
ておくということの出来ない男なのだ。訊かれた井上のほうはといえば、相変わらずのん
びりとした口調で、
「ああ……お袖さんという女のことか。」
それがどうした、という顔つきなのである。対する土方は仏頂面で、
「念のため、気をつけたほうがいいでしょう。」
と、低い声を出した。しかし、井上はふわっと笑っている。
「は、は、は。まさか。わしゃあ、間者につけこまれるほど……」
「うむ。迂闊なお人ではないと思いますがね。」
「いや、隊の重要な人物でもねえということさ。大事なことは、勇先生と歳さんがちゃあ
んと決めてくれている。」
「………。」
土方は言葉につまった。井上は悪びれもせず、にこにこしている。本当にそう思っている
らしいから始末に困るのだが、この朴訥な大先輩の前でそんなことは言えない。言ったと
ころで埒があかない。鬼副長といわれる土方歳三にとって、隊内でもっとも苦手な人物、
というと実はこの井上源三郎と沖田総司の同門二人かもしれない。何しろ、相手の腹のう
ちがわかっているようでいながらそのくせつかみどころがなく、いつも飄々とほがらかに
している、という相手のほうが、底意地の悪さでものごとをくくろうとする利口な土方に
とっては手に余るのだ。
 井上はそういった複雑な相手の心境には思い至るはずもなく、
「わしゃあ、それを守るだけだもの。わしから聞き込みをしてわかるような事なら、すで
に公のことになっている。何も、小細工をしてまでこんなおっさんに近づくほど、まわり
くどいことをせんでもすむだろう。」
「おっさん……」
言い得て妙、と口に出せないのが後輩のつらいところである。
「それに、あのお袖さんという女、悪い人じゃあないよ。今度はお金を落とさぬように、
と、こまごまと心配してくれとった。江戸女らしく、さっぱりした、いい女だよ。」
「なら、いいんですがね。」
土方の渋面は変わらない。が、こうも食い違っていると反論すら出来ないものらしい。
「俺の取り越し苦労でしょう。」
つい、歩調を合わせてしまった。が、井上はうんうん、とうなずいてさらに、
「いや。歳さんはわしと違って利口だから、いろいろと頭が回るのさ。そうでなくっちゃ
つとまらねえ。」
土方の怜悧さに、感心してしまっている。
「………。」
「もし今後あの人に会うことがあっても、隊の秘密なんか漏らさんように気をつけるから、
心配はしなくていいよ。」
逆に気遣われてしまったかっこうになって、土方は片頬で苦笑した。
「……よろしく。」

 一事が万事、という。井上の素朴さ、という美点は、上下に対して同じように発揮され
るところに特徴がある。
 たとえば数日後の今日、井上は浅葱の羽織を着て、巡察前の点呼をしている。
「ひい、ふう……おや。佐野君が、まだか。」
六番隊の隊士たちは、顔を見合わせている。確かに一人、平隊士の数が足りない。誰かが、
「佐野は、腹をこわして厠にかけこんでましたから、おっつけ……。」
「そうかい。」
ほどなく、佐野という隊士があわてて走って来た。
「も、申し訳ありませんっ。遅れました。」
袴の紐を結びながら、頭を下げている。よほど急いだらしい。これが他の隊、たとえば、
風儀にうるさい武田観柳斎あたりの隊長であれば厳重注意ものなのだが、六番隊長の井
上源三郎の応対は、まるで違っている。
「腹くだしは、いいのかい。」
と、ごくあっさりとたずねた。
「は、はい。なんとか……おさまりました。」
「そうかい。ちょっと待ちなよ。」
 井上はごそごそと懐から巾着袋を出し、中から薬の紙包みを一服、取り出している。
「ほれ。薬だ、飲んできな。」
佐野のほうはあわてて手を横にふり、辞退した。
「は、しかし……巡察が。」
「いいよ。途中で漏らしたんじゃ気の毒だ。」
その口調に、隊列の一人が「ぷっ」と吹き出した。
「はあ。」
佐野はやや赤面している。井上はさらにおおまじめな顔をして、
「そりゃあわしのくにじゃ評判の薬だ。ぴたり、とよくなるから飲んできな。」
「は、では、急いで。」
佐野は薬を押しいただいて、あわてて屯所の台所の方へ引き返した。
「冷たい水はよくねえ、湯ざましで飲むんだぞ。」
「はいっ。」
六番隊の隊士たちからは、軽い笑い声が聞こえている。

 その六番隊が市中巡察の途上、茶店で休憩をとった。井上からはやや離れたところに座
った隊士たちが、つかの間の雑談をしている。比較的新参者の、岡島某という隊士は、さ
きほどの佐野と二人で話している。ここ六番隊ではだいぶ先輩にあたる佐野の腹下しは、
いまのところおさまっているらしい。
 まず、岡島がぽつんと言った。
「しかし……井上先生というのは飾らないお人だな。」
「ああ。草創以来の大幹部だというのに……少しもいばったところがない。気さくでいい
お方だ。他の隊からは、六番隊はのんびりしすぎているとか、井上先生には威厳がないと
か、口さがなく言う者もいるが、俺は、あの隊長の下で幸運だと思っている。」
佐野が実感のこもった声で答えると、岡島は苦笑しつつ、
「しかし……出世の機会にはあまり、恵まれそうにないがな。」
と、ある一面の真実を突いた。佐野はうなずいて指を折りながら数えつつ、
「ああ。ちょっと抜きんでた奴は、沖田先生の一番隊、永倉先生の二番、斎藤先生の三番
……それに、八番藤堂隊、十番原田隊。まず、この五組に抜擢されてゆくのが常だ。わが
六番隊は、まあ……控え組というやつさ。しかし、ここ新選組に限っては、出世したから
安泰というわけでもないからな。それだけ身の危険が増えることになる。」
と、これもある一面の真実である。
「ああ。つい先日、谷三十郎先生が斬殺されたばっかりだ。下手人はわからんのだろ。」
「うむ。」
岡島はここで声をひそめて、周囲をうかがってから、
「……ひょっとしたら、内部の者のしわざかもしれんというじゃないか。」
と眉をひそめている。新入りのわりに、隊長に似ず、耳目が鋭いらしい。佐野もやや暗い
顔をしてその噂を肯定するように、
「うむ。あの人も、弟を近藤局長の養子にさせて、肩で風を切って歩いていた時期があっ
たが……何しろ、敵を作りすぎた。ああも威張り散らしていたんじゃ、いつ誰にずぶりと
やられても、不思議はないさ。」
 谷三十郎、という助勤の中でも一時期羽振りのよかった幹部が、祇園石段下で何者かに
闇討ちされた理由については、平同士たちにとってもかっこうの噂話の種として、屯所内
のあちこちでささやかれたのである。辻斬りや倒幕派の襲撃、などというドラマチックな
展開より、内部犯行説というほうが彼らにとってはしみじみと怖い。まあ、今の京都では
新選組を怒らせるのが一番おそろしい、という点では、先の銀次の感情とさほど変わらな
い。いや、むしろもっと身近に怖さを感じるのは、その集団の中に身を置く彼らだろう。
 岡島はしかしやや気をとりなおしたように、
「その点、井上先生は、近藤局長、土方副長から同門の兄弟子として丁重な扱いを受けて
いるからな。」
「そりゃあ……、あの土方先生に、素振りの手ほどきをしてやったというほどの剣歴だそ
うだからな。」
佐野が得心顔でうなずく。岡島はその情景を想像しておかしかったらしく、
「ははは。」
「剣術の腕は、近藤、土方、沖田のお三方にみるみる追い抜かれたそうだが。それでくさ
ったりしないところが、生真面目でいいじゃないか。おぬしは知らんだろうが、壬生にい
た頃は、道場の稽古の時……」
と、話は回想にいたった。

 まだ壬生屯所の新選組の道場で、若い隊士たちが、井上に頭を下げている。
「井上先生。ぜひ天然理心流直伝の技を、ご教授願います。」
と申し出たのが佐野である。
 江戸で道場を開いていたころは、他の華々しい大流儀(北辰一刀流など)に押されて、ま
るきりの田舎剣法扱いを受けていた天然理心流だが、すでに状況が違っている。何しろ、
池田屋で勇名を馳せた新選組局長・近藤勇が宗家であり、いずれが鬼か蛇か、と噂される
(といっても実際の人物像とは食い違うが)土方歳三と沖田総司を輩出した流派なのだ。
江戸道場をたたんだあとで、ようやくに世間の脚光を浴びた、という感じで、少しでもそ
の実践を盗みたい、というのが、若者たちの興味の対象であったのだろう。それには、上
記の三人よりも、同流の先輩である井上がもっとも頼みやすい、という事情があった。ま
あ、ひらたくいえばあとの三人は、平の彼らから見ると、「こわい」のであるが。
 佐野を代表とする連中のまじめなつらつきを見た井上は、ふと考えて、
「ふむ。……ちょっと、待ってな。」
何を思ったかそのまま、道場を出ていこうとした。
「あの、井上先生。どちらへ?」
「塾頭を呼んでくる。」
「塾頭?」
隊士たちはぽかんとして見送ったが、佐野はつい、井上のあとを追って道場を出た。
 井上は稽古着のままぶらぶらと近所の壬生寺へ歩いていき、村の子供たちと鬼ごっこを
して遊んでいる沖田総司を見つけて、
「まーた、わっぱと遊んでやがる。総司よう。」
「ああ……鬼にみつかっちゃった。井上さん、また稽古ですか。」
これまた、井上に劣らぬのほほんとした声である。この時は井上のほうが急に年寄じみた
渋面になって、ぶすっとしたまま、
「そうと知ってたら、黙っていても来たらよさそうなもんだ。佐野君たち若い連中がよ、
天然理心流の技が見たいとさ。」
「それなら、大先輩の井上先生がお教えになったらいいでしょう。」
「わしの手を見たって、勉強にはならん。試衛館塾頭のおまえさんに伝授してもらったほ
うが、彼らのためだ。」
言っておくが、井上は謙遜ではなく、沖田に劣る剣技をまっとうに認めているのだ。
「しょうがないなあ。」
促されて、沖田が仕方なく屯所へ戻っていくと、子供たちからブーイングがおこった。
「ああん、沖田はん。」
皆が、楽しい最中を邪魔されて不平そうに口をとがらせる。
「総司はお仕事だ。ほれ、飴でも買いな。」
と、井上は、当時まだ貧しい懐の中から、子供に小遣い銭を渡してやっている。

 再び、茶店の場面に戻る。岡島は今の話を聞いて、
「へえ。」
あきれたような、それでいて親しみをこめたあいづちを打った。
 佐野は目を細めてひとりごとのように、
「そういうお人だ。井上先生は……」
 その時、井上が先に席を立ち、隊士たちに声をかけた。
「おい、皆の衆。そろそろ、行くか。」
六番隊士たちが、はい、と言って立ち上がった。

2 
さて、お袖である。昼間というのに、出会い茶屋の一室で若い男と寝ている。説明の必要
もないと思うが、このたぐいの茶屋に連れ立っている男女の目的はひとつしかない。

「姐さん、……」
 男の息が荒い。女の指はその背にくいこむようにしがみついており、ややもすれば爪が
厚い肉をやぶりそうになるほどに強い。が、お袖の手はそこにとどまることをせず、貪欲
に相手の肌の感触をさぐっている。
「辰吉……辰。ああ、もっと、もっとだよ。」
 と、単語だけで交わされる会話の中身は、これ以上は書けない。
 言葉を話す二匹のけだものの営みが終わって、しんとなるまでにかなりの間があった。
 その後のお袖は襦袢を肌にひっかけて、寝たままで煙草をくゆらせている。男は布団の
上にあぐらをかき、ぐっしょりと濡れた体の汗を絞りの手拭でぬぐいながら、
「姐さんはいつも懐具合がええようやが、一体何のご商売をしてはるんで。」
と、至極当然の疑問を女の背中に向けて発した。お袖はそのまま薄紫の煙を吐いて、そち
らを振り向くことはしない。
「聞かない約束だろ。」
「へえ。」
ここでも、煙草屋と同じく男女の地位が逆転している。いわば、女の稼ぎが男の身を支配
しているのだ。
「亭主におさまるわけじゃあるまいし、あたしが何で稼いでたって、知ったこっちゃない
じゃないか。それともかみさんと別れてあたしと一緒になるかい。」
「そら……言いっこなしや。」
町人、というよりは遊蕩児を気取ったふうの男は、首をすくめてみせた。それなりに、崩
れた色気のある容貌だが、かみさんがいるらしい。むろん、この場の男女ふたりに、世間
なみの良識などは毛ほどもない。
 お袖はふん、と鼻先で言って、煙管を口のはしにくわえて寝そべったまま、財布から金
を出している。
「小遣いだよ。」
ぽん、と一両小判を投げてやった。
「へえ、こら……おおきに。」
男はその傲慢さに怒るどころか、へつらうような笑みを浮かべて、片手でその山吹色を拾
い上げ、額の前で拝んでみせている。
「お互い、つまらないことはききっこなしさ。遊びが白けちまうよ。」
「そら、そうでんな。」
男は細い縞の帯を結んで身支度をしながら、
「これで、一杯やりに行きまひょか。」
「いいさ。先にお帰りな。」
お袖の声は、けだるげにかすれている。その低い吐息にふと興をそそられた時、
「お袖はん……。」
男はお袖の後ろから腕をまわして、肩を抱いている。
「何さ。」
「冷たい女や。そやけど……そこが、ええ。あんたなら、本気になってもええと思うてま
っせ。」
言いながら、お袖の首筋に唇をつけて軽く吸っている。
「およし……年増女はしつこいんだ。火種をかきおこすような真似はするもんじゃないよ。」
お袖は小さく笑って、男の腕をほどいた。
 やがて男が帰ると、急にきっ、と眼にきついものを宿して、
「ふん、嘘つき。」
煙管の火を盆の上に落とした。カン、という高い音が鳴った。
「いっぱしの女たらしのつもりでいるらしいが、遊んでやってんのは、こっちだよ。」
その悪態を聞くものは、丸窓の外に遊ぶ昼雀しかいない。

 お袖は、ゆっくりと湯をつかってから、することもなく煙草屋の店に帰っている。と、
銀次が帳場にすわって、はっとして座布団の下に何か、隠した。
「お帰りやす。」
「なんだい。」
「は?」
「とぼけたって駄目だよ。そこの文を出しな。」
「………。」
銀次は、漢方薬を喉奥に塗りつけられたような顔をしている。お袖は至極ぶっきらぼうに、
「別に、驚きやしないよ。あたしに隠さなきゃならないような文なら、どうせ江戸のお頭
からだろう。」
「はあ……しかし。」
この男の返事はいつもとりとめがない。お袖は急に、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「銀さん?あたしに隠し事なんかしたりすると、あとがこわいと思うけどねエ。」
お袖の猫なで声に、銀次はぞっと背筋が寒くなった。
「そやけど……読んだら、もっとこわい……。」
「見当はついてるよ。およこし。」
またいつもの口調である。銀次は観念した様子で、座布団の下からおずおずと文を出して
いる。お袖はそれをびっ、と奪い取り、読み始めた。
「………。」
 お袖は途中で顔色を変えたが、やがて、くしゃくしゃと音をたてて文を丸めると、銀次
に向かって投げ捨て、無言で二階に上がってしまった。
「ひえ……。」
と銀次は、気まずい息を漏らしている。
 お袖は二階の障子を後ろ手にぴしゃりと閉めると、わなわなと唇を震わせた。
「なんだい、畜生……馬鹿にしやがって。」
予測どおり、例の文は江戸のお頭善平衛から銀次にあてたものであったのだが、その内容
というのはこうである。

『お袖のおもり、ご苦労。あれもまずまず達者でやっているようで、安心している。
 実は、例のおもん……新しい妾だが、このたび男の子を産んだ。初産のことゆえ心配は
したが、やはり若いから母子ともに元気で、こんなめでたいことはない。この年になって
新しい子供をさずかるとは思わなかった。わしもまだまだ捨てたもんじゃない、と思うと、
おもん母子がいっそう可愛くてならない。
 ところがそのおもんが、この事がばれたらお袖さんにどんな仕打ちをされるか、恐ろし
くてならぬとおびえている。わしの手がついた当初、お袖は怒っておもんを裸にひんむき、
髪の毛を切り落としたことのある女だ。おもんの心配も無理のないことと思う。
 こうなった上は、わしはお袖とはきっぱり縁を切りたいと思っている。どうかお前のほ
うで、お袖を今後とも上方へ引き止めておいてもらいたい。もし首尾よく、お袖のほうに
も好いた男などできれば、わしはもうもろ手をあげて祝福してやりたいほどだ。………』

「それならそうと、堂々とあたしに言やあいいじゃないか。何さ!」
 お袖は、髪にさしていた柘植櫛を投げつけた。櫛は、勢い良く柱に当たって割れた。
「このお袖姐さんを見くびるんじゃないよ。何さ、畜生。畜生……」
 お袖は、泣いた。
「誰があんな爺ィに惚れているもんか。人の一生を……花のさかりを、おもちゃにしやが
って。あたしが他の男に、指一本ふれることすら……それをなんだい、今さら、他の男と
くっつきゃいいだなんて……誰が、誰がこんなあばずれに育てたってんだよう。こちとら
好きでこんな女になったんじゃねえや。善平衛の間抜け野郎、死んじまえ。若い女の乳に
くらいついたまま、ぽっくりと逝っちまえばいいんだ。馬鹿っ。」
 お袖が畳に突っ伏して泣いていると、銀次がそろそろと、障子を開けた。
「姐さん。」
「ほっといてよっ。」
と、わめかれても、廊下の銀次は静かに、
「へえ。熱いおぶ、入れときましたよって。」
なるほど盆の上に茶をのせて、部屋の入り口の畳に置いてある。
「暴れるのはかまへんけど、こぼさんように。」
「………」
 お袖はぽかん、と涙眼を上げて、立ちのぼる湯気と湯呑みをしげしげと見ると、ぷっと
吹き出した。直後に、高い声をあげて笑いはじめた。
「銀次、あんた……いい奴だねえ。」
「盗っ人にいい奴ちゅうのは、ほめ言葉やおまへんな。」
銀次は淡々と、階段をおりていっている。

 その夜、お袖はもくもくと晩飯を食べながら、銀次に言った。まだ暑さの残る宵で、
細かく刻んだ味噌漬の上に、わざと冷やした水をかけて食べるのがお袖の好みである。
女としては、少々色気のない食事のし方かもしれないが、まず銀次の前では遠慮がい
らない。ちなみにこの漬物は、善平衛の飛脚につけて送られたものであった。
「決めた。」
「何を。」
「こっちから捨ててやる。」
「へえ。善平衛お頭を、でっか。」
銀次が目を上げた。お袖は箸を止めず、
「あしたから、稼ぐよ。手下を二人ほどつけとくれ。」
「へえ、承知。」
あっさり言って、また茶碗に目を落とす。お袖はなおきっぱりと、
「百両。」
「百?」
再び、銀次が顔を上げる。
「ああ。それだけためたら……あの爺ィに送りつけてやる。赤子のご出産祝いと、あたし
からの手切れ金でございます、とね。」
銀次が、くっと吹き出した。
「手切れ金?」
「ああ。赤っ恥をかかせてやるのさ。雲居の善平衛も、とうとう老いぼれて子飼いのお袖
に捨てられた、とね。」
「そら、豪気や……」
銀次は、くすくす笑っている。
「そやけど、せっかく稼いだ百両、勿体ないことおまへんか。向こうがその気なら、こっ
ちかて好き勝手に贅沢して、面白おかしゅう暮らしてたほうがなんぼか楽や思いますけど
な。」
お袖はやや意地悪い微笑を浮かべている。
「何。そのまま百両、もらいっぱなしで終わるようじゃ、善平衛も本当におしまいさ。」
「なるほど……体面を保つためにそれ以上の手切れをよこさはるかもしれまへんな。」
「女子供に、鼻毛どころか意気地まで抜かれてなきゃね。」
このへん、永年連れ添ったお袖のほうが、善平衛という老人の気性を知り尽くしている。

 さて、その言葉通りの翌日から、お袖は京都の町中で荒稼ぎを始めた。地域の祭り、門
前町、あるいは宵闇の遊里の狭い道筋、身一つ動かせば、働き場所に困らないのがこの商
売の利点である。その人ごみを選んで、目星をつけたカモとすれ違い、すり取った財布は
素早く、手下の者に渡す。その手下はまた別の者に渡し、人目につかぬところまで運んで、
金を抜き取って財布を捨てる。カモに気づかれた時には、証拠の品は遠くに運び去られて
いる。お袖はその頃には、別の仕事にとりかかれるというわけで、一人で始末するよりは
はるかに効率がいい。
「姐さんは、きれいな仕事をしはりまんな。」
 銀次につけてもらった、弁蔵と安吉という地元スリの手下が、感心した。
「お客はんにほとんどぶつかりもせず……大したもんや。」
と弁蔵が嘆息して言うと、
「剃刀で懐を切るなんてのは、邪道だからね。お客が家に帰るまで、襟元に手をさしいれ
られたことにさえ気がつかない、っていうのが本当の技さ。」
 剃刀で、というのが俗にいう「巾着切り」である。お袖の技術は、文字通り「すりとる」
からスリなのである。この女もひところ、江戸の町がいまほどの不況でさびれる前には、
「明神下の女狐」と仲間内に畏敬されるほど稼ぎまくったものだった。狐に化かされた、
と思うしかないほど、無意識のうちにやられてしまう、ということである。その女スリが
本腰を入れて、京都での仕事に精魂を傾け出したのは初めてだったから、手下たちが舌を
巻くのも無理はない。
「それに……お宝を抜いた時にゃ、中身についてもだいたいの見当はついている。あんた
たち、あたしからつなぎで受け取った獲物を、ちょろまかそうなんて思わないほうがいい
よ。」
安吉があわてて首をふった。
「とんでもない……そんなことしたら、銀次の兄やんに、殺されますがな。」
「銀の字が?まさか、」
とお袖が笑うと、安吉は真顔で、
「姐さんは、知りまへんのやろ。銀次の兄やんは、若い頃はそら、おっかないお人で……。
今の煙草屋の店先にちょこんと座ってる姿からは、考えもつきまへんで。」
ぶるっと肩をつかんで、身震いをする。
「へえ……そいつは知らなかった。」
 お袖は、感心した。今の、お袖のご機嫌をとっておとなしく暮らしている銀次とはまた
別の一面があるらしい。
「さ、ひと休みしたら行くよ。」
「へえ。」
盗人三人が、しんとした祠の裏手から、再び人けを求めて立ちあがった。

 場面変わって、それからしばらく後日の新選組屯所である。局長近藤の自室に、土方が
来ている。近藤は役目上の書状をたたみながら、
「巷でスリが流行っているらしいな。」
「珍しくもねえ。」
「京は、年中そこかしこで祭りや法会がある。稼ぎ場所には困らんというわけだろう。近
頃新しくのしてきている奴がいて、奉行所も手を焼いているらしい。新選組からも探索の
人手を貸してくれぬかと言ってきた。」
「こそ泥の始末まで、手が回らねえよ。」
と、土方は上方の役人の不甲斐なさをそしった。近藤はふと思い出したように、
「いつだったか……一刀でスリを叩き斬ったのがいたな。」
「ああ。確か、新見錦だったろう。奴は凄腕だった。」
話題が隊内のことになると、ちゃんと乗ってくるのもこの男の癖である。近藤が苦笑して、
「あの頃……新選組で金をたんまり持って歩いていたのは、芹沢や新見位のものだったか
らなあ。」
と、遠い目をした。壬生村の一隅でほそぼそと「開業」した当初の話である。近藤ら試衛
館一派は多摩の知人などにどうにか生活費を送ってもらって、鼻紙代にも事欠くありさま
だったのだが、結成時に合流して筆頭局長となった芹沢鴨、同じく局長の新見錦らは、や
や強引な手で遊興費を工面してきては、自分たちだけ遊郭などで派手に遊び歩いていたの
である。土方の言うとおり、剣の腕は相当のつわもの揃いだったのだが、人物のほうは、
お世辞にも(一応は同志といえども)誉められたものではなかった。
「ふん。どうせ、商家を脅してゆすりとった金だ。」
「我々試衛館組は、金欠でぴいぴいしていた。スリの方で気の毒がってよけていったろう。」
 近藤と土方は、同時にからりと笑った。その芹沢、新見らの一派は不行跡のために粛清
されており、とっくにこの世にいない。天下に怖れられる新選組を作り上げたのは、今こ
こにいる二人である。
「まさか、今どき……新選組の隊士に挑むほど、無茶なスリもいるまいよ。とりあえず、
外出のさいは注意するようにと通達しておく。」
「うむ。」

 で、本日も巡察に行く前の六番隊である。井上が隊の連絡事項として述べている。
「えー、近頃、洛中でスリが横行しているそうだ。皆、虎の子を盗まれんようにしっかり
と、財布をしまいこんどってくれよ。」
聞いている隊士たちは、にやにやと笑っている。その井上が、財布をなくして女に届けて
もらったことは周知の事実なのである。平隊士の佐野が親しみをこめた揶揄で、
「隊長どののように、親切な女が届けてくれるとは限りませんからな。」
わっと笑い声が起きた。井上は怒りもせず、
「なんの、あれだって金は戻らんかった。さて、出発するか。」
と、相変わらず幾分のんびりした隊ではある。

 同じ頃、市中の神社には縁日が出て、門前がごったかえしている。お袖は指の関節を動
かしてほぐしながら、
「弁蔵はどうしたのさ。」
と、そばにいる銀次に聞いた。待ち合わせた場所には安吉しかおらず、なぜか銀次が現れ
たのである。
「あいつ、姐さんの働きぶりを見て、妙な気を起こしたらしい。ゆうべ、島原で一人仕事
をして、へまをしましたんや。」
「つかまったのかい。」
「へえ。見回りの岡っ引きがようけ、張っとりましてな。」
と、銀次は油断のない目をわずかに細くした。
「ふうん。」
「姐さんは、まだこっちの町方に面が割れてへんからええが……気いつけるにこしたこと
はおまへんな。」
そう言われて引き下がる女でないことは承知しているのだが、お袖はやはりふっ、と小鼻
をうごめかせて、彼らの世界に共通の目つきを鋭くした。情報は耳にしておくに越したこ
とはない。
「……行くよ。」
 お袖は仕事を開始した。
 今日のつなぎは、銀次がつとめている。お袖が客の懐から抜いた財布をすっ、と渡した。
名の通り渋い銀鼠の縞を着て、どう見ても町の小商人にしか見えない銀次は、風呂敷包み
の下にその財布を隠し、視線を合わせずにこれもすい、と安吉に渡している。
 うまい。
 その呼吸は、捕まった弁蔵の及ぶところではない。却って今日の仕事ははかどるだろう。
(……あいつ。)
 お袖は次に、裕福そうな中年の商人に目をつけた。さりげなく間合いを定めていると、
ふと、道行く人々の囁きが聞こえてきた。
「壬生浪や……新選組の見回りやで。」
 お袖は何気なく声の方角を見た。遠くに、浅葱のダンダラを着た一団がいる。その先頭
に立って、一人浮き立って見えるのは、井上源三郎である。
(あっ。)
 お袖は思わず、どきっとした。役人を恐れたことはないが、どうもあの井上の仏顔の前
では、悪事がやりづらい。
(間の悪い……。)
 お袖は舌打ちしたが、狙う獲物は目の前を行き過ぎていこうとしている。動き出した右
手の指が止まらないのは、すでに本能の領域かもしれない。ふい、と人込みに紛れ、その
商人の懐に手を差し入れた。その時、とんと肩が軽くふれあった。
「おっと、すまん。」
「いえ。」
お袖がその男とすれ違い、銀次に財布を渡した瞬間、背後で声が起こった。
「スリだぁっ。」
とたん、回りの動きが止まった。
「スリや、スリがおる!その女や。誰か、つかまえたってくれっ。」
お袖の背にひた、と緊張が走る。
 商人の店の者だろう。若い男が走り寄って、ぐい、と女の肩をつかんだ。

「おいっ。」
「ちょいと、何するんだよっ。」
 お袖は気強くその手をふりはらった。と、さっきの商人が、
「その女がスリや。さっき、わしに当たってきよった。」
「何だって、聞き捨てならないことをお言いじゃないか。どこに証拠があるってんだよ。」
「間違いあらへん。今そこの角で、懐をさわって財布を確かめたばっかりや。それが、そ
の女とふれたとたんに無うなったがな。」
連れの男は、商家の奉公人にしてはややいかつい柄で、
「姐さん。旦那の財布、出してもらおうか。」
「ふざけるんじゃないよ。盗んでもいないものを出せるわけがないじゃないか。ええ?」
 やりとりの合間に、お袖たちの回りには人だかりがして来たが、逆に銀次は、素知らぬ
ふりをしてその場を離れていく。冷たいわけではなく、それが常からの約束なのである。
「そんなに言うんなら、改めてもらおうじゃないか。こちとら、はばかりながら江戸は神
田の明神様で産湯を使った女だよ。ひとかけらなりと他人に疑われたとあっちゃあ、気色
が悪くって表を歩いちゃいられないよ。さあ、とっくと調べてみろってんだ。」
 お袖は威勢よく、帯をくるくると解き始めた。着物も脱ぎ、袖を裏返してぱたぱたと振
り、長襦袢一枚の姿になった。こうなったからには、すっぱだかになる覚悟は決めている。
見物客の好奇の視線が、かえってこの女の度胸に力を添えている。朗々と唱えた。
「さあ、まだ脱ぐかい。いずれどこぞの大店のご亭主のようだが、あんたの財布にゃまさ
か小銭が二、三枚ってえことはあるまい。金銀合わせてどれほどの大金をあっためていな
すったか知らないが、そんなものが隠せるとお思いなら、ここで浅草は観音様のご開帳と
でもいくかい。そのかわり、財布のさの字も出て来なかった日にゃあ、ただですむとは思
っちゃあいないだろうね。あんたの店の看板に、でかでかと詫び証文でも張り出してもら
おうか。さあ。」
「う……。」
主人のほうは、店の名が出ることにひるんだらしいが、連れのほうはまだ強気で、
「旦那。騙されたらあきまへん。こんなん、女スリの常道でっせ。襦袢、湯文字(腰巻き)
の下に、なんぞ細工をしてないとも限りまへん。」
「てやんでえ、そこまで言われて、すっこんでられるかい。」
お袖はついに、腰のしごきに手をかけた。その時、人ごみの外から、
「おいおい、よしなよ。」
と、進み出た者がある。新選組や、という声がもれた。
「井上様……。」
お袖のほうが驚いた。人垣を割ってお袖の目前に現れたのは、井上源三郎である。
「誰かと思ったら、お袖さんじゃあないか。女子がこんなところで、肌をさらしちゃいけ
ないよ。」
井上は人のいい、それでいて少し困ったような笑顔を見せている。そして商人の方へ、
「おい、そこの旦那。この女子は、わしの知り合いだ。スリだなんて、悪いことのできる
人じゃないよ。文句があるならわしが聞こうじゃないか。」
と、脅しでもなく、親身にとれるような語り口で言ったものだが、相手が震え上がった。
井上の背後には、若い新選組隊士たちがむっつりと腕を組んで控えている。無論のこと、
彼らはことあらば即、上長に助勢して加わろうと構えているのだろう。井上自身はあまり
強そうに見えないが、後ろの若者たちは、いかにもこわい。
「へ、へえ……めっそうな。」
急に、商人の口も姿勢も、青菜に塩、という弱腰になった。井上はかえって同情ぎみで、
「財布を無くしたあんたも気の毒だが、人前でこんな目にあわされたこの人も気の毒だ。
ここは一つ、わしに免じてひきとっちゃもらえねえかねえ。」
わしに免じて、という言葉の前に、はからずも「新選組の」という文字がちらついたのだ
ろう。商人も連れもそそくさと、
「へえ、そうします……。」
引き上げてしまった。
 人々の円周のなかに、襦袢姿のお袖がぽつんと取り残されている。
「散れ、散れ。見世物ではないぞ、往来の邪魔だ」
佐野たち、気のきいた平隊士の数名が自発的に声を出して見物人の輪を崩し始めた。その
時である。ふと女に近づいた井上は、ふわり、と自分の羽織を脱いでお袖の背中ににかけ
てやっている。
「あ……っ」
 お袖は、一瞬はっとして礼も忘れた。
 美男の原田左之助などが同じことをしたら、芝居の一場面にでも見えるところだろうが、
井上の場合まるで絵にならないのである。しかも、井上はみずから腰をかがめ、お袖の脱
ぎ散らかした衣服を拾い集めて、ほこりをはらってやっている。
「そこの店を借りようか。」
「は、はい。」
 井上はお袖の着物と帯を丸めて持ち、部下に向かって、
「ああ、諸君もちょっと、好きなものをつまんで休憩してくれ。勘定はわしが払うから。」
と、すぐそばの団子屋に入っていった。隊長命令に応じた隊士たちはくすくす笑いながら、
銘々床几に腰掛けている。
「おかみさん、ちょいと奥を貸してやっとくれ。」
「へ、へえ。」
女将があわてて返事をする。急に、狭い団子屋の店先は賑やかになった。
 ほどなく、お袖は店の奥を借りて着物を着なおしてくると、
「あの……井上様。ありがとうございました。」
「なあに、あんたには借りがある。」
井上は草団子を食べていた。
「しかし、威勢がいいなあ。」
くっくっと笑っている。
「………。」
 お袖は、横目で井上の顔を見た。二度までも現場に立ちあったというのに、井上はこの
女スリの素性を疑っていない。
「今日は、あんたの運勢が悪かったようだが、そういう卦は出ていなかったのかね。」
そうか、あたしは占い師だった、と気づいたお袖はややしおらしく、
「……自分のことは、占ってはいけないんです。」

「そういうもんかね。」
お袖は井上の横顔を見ながら、不思議な気持ちになってきた。
(お父っつぁん……。いえ、兄貴とか……あたしにも、そんな身内がいたら、こんな気持
ちだろうか。)
 お袖は、このさえないおじさんの顔が、たまらなく懐かしいもののように思えている。
「あの……井上様。」
「うむ?」

 一方、六角通りの煙草屋。
 日が暮れて、銀次はさすがに、お袖の帰りが遅いのが心配になってきた。
(財布が出てきいひんのやさかい、まさか捕まったりはするまいが……)
スリは現行犯逮捕、という基本は現代と変わらない。に、しても無事の報告をするために、
いい加減戻ってきてもよさそうなものだが、と思いながら六ツの鐘を聞いたあとである。
 ふと店先に人の気配がして、銀次は顔を上げた。
「ただいま。」
聞きなれた声が、いつもより心持ち明るい。
「ねえさん、お帰りやす。」
と、出てきた銀次は、ぎょっとしている。お袖が、武士を一人連れている。
「そちらさんは……。」
お袖は銀次に目配せをして、
「今紹介するよ。井上様、こちらが、弟の銀次でございます。」
(弟?)
銀次は、きょとんとした。傍らの武士がひょっこりと答える。
「そうか。ねえさんより年上に見えるがな。」
「苦労が多くてね。銀次、こちらは……新選組の井上源三郎様だよ。」
がたん、と音がした。銀次が驚いて、敷居をふみはずしたのである。
「井上様、汚いうちですけど、どうぞお上がりになってくださいまし。銀次、お酒をつけ
とくれよ。それから、料理もどこかおいしいところを取り寄せておくれ。」
「へ、へえ……。」
ちなみに、お袖は都会者の女の通例で、手ずから気のきいた料理などは出来ない。銀次は
事の次第に面食らいながら、さてどこの仕出し屋に頼もうか、と首をひねった。
 その半刻のちには、井上、お袖、銀次の三人が料理と酒をかこんでいる。
「そうでっか……ねえさんのこと、助けてもろたんですか。そら、おおきに。」
「うむ。そうしたら、お袖さんがぜひ、一献さしあげたいと言うのでなあ。わしの仕事が
終わるまで、長いこと待っていてくれたんだよ。」
「へえ。」
わしの仕事、というのは市中巡察である。各隊ごとにその日予定の巡回コースが決まって
いて、何事もなければ西本願寺屯所に戻り、組長がその旨を局に報告して解散となる。が、
井上の下にも伍長職がいるから、急な場合には代理報告でもすむはずであった。
 お袖が補足して、
「井上様は律儀なお人だからね。おつきの人たちが、どうぞお行きになって構わない、と
おっしゃるものをお断りになって、ちゃんと屯所まで戻られてから、おいでになったのさ。」
なぜか、井上の律儀を自慢するように語った。
「そうでっか……。」
井上は好物の魚(これも塩焼きである)を箸でほぐしながら、
「ねえさんは江戸っ子で、弟は上方弁とは、おもしろいきょうだいだな。」
「へ……。」
答えにつまる銀次とは対照的に、嘘の達人のほうはすらすらと、
「小さい頃にふた親をなくして、別々にもらわれましたのさ。あたしは江戸、この子は大坂、
こう離れてしまっちゃ……生きて会えるかどうかもおぼつかない頃がありましたけどねえ。
こんな年になってもやっぱり身内の縁ってもんは、切れないものでござんすね。弟が、こっ
ちへ来ないか、と言ってくれた時にゃ、あたしゃ嬉しくて取るものもとりあえず……それは
嬉しゅうございましたとも」
作り話も、ここまでくれば芸のうちかもしれない。井上はうなずいて、
「そうか。しかし、一緒に住めるようになって、よかったな。」
「ええ。あたしと違って、しっかりした子で……。こんな店まで構えて、まじめにやって
ますよ。」
「………。」
 銀次は、首をすくめている。
 
 夜が更けて、井上はすでに機嫌良く酔っぱらっていた。
「本当に……泊まっていったっていいんですよ。部屋はありますから。」
お袖が、帰ろうという井上の足元を危ぶんだほどである。
「いやいやいや……そこまでしては、申し訳ない。」
「でも、もう遅いし、お危のうございます。」
「大丈夫、だよ。」
井上は、ぽん、とお袖の肩に手を置いた。その武骨な手の感触が、思わずお袖をどきっとさ
せた。
 と、ちょうど銀次が来て、
「ねえさん、お迎えの人が、来やはりましたで。」
「え?」
「さっき、西本願寺に使いをやっときましたよって……新選組のお人らが、駕籠を連れて、
表に着いてはります。」
「そうかい……」
お袖は幾分がっかりしたらしく、
「気がつくこと。」
と、銀次だけにわかる目つきをきつくした。
「いや、すまんすまん。気持ち良く飲ませてもらった。」
井上はそれを機に、暑くて脱いでいた羽織をばさりと肩にかけて、草履の鼻緒に足指を通し
ている。お袖がその背に向かい、
「また、いつでもお寄りになって下さいまし。遠慮はいりませんから。」
そのまた背後で、銀次はぎょっとしている。
 井上はふらりと立ち上がって、表に待っている若い隊士たちに迎えられ、駕籠で屯所に
帰っていった。
 お袖は井上を見送ってから、銀次をちょっとにらんで、
「ほんとに……気のきく弟だよ。」
と、酔った息をまじえて嫌味を吐いた。
「アホな。この上新選組なんぞと深いつきあいになったら、困りますがな。」
「馬鹿。あのお方と深いつきあいになんか、なりっこないよ。」
奇しくも並んだが、「アホ」と「馬鹿」の使い方の慣れが、この「きょうだい」の違いを
端的に現している。銀次は芝居の幕をおろして、年長の上方者らしい表情に戻った。
「姐さん……本気になったらあきまへんで。わしらにとったら、ああいう善人そのものの
お人が、一番おそろしいんや。」
「おそろしい?」
「なまはんかな人の心なんちゅうもん、呼び覚ましてしもたら、つとめがやりづらくなる。
そうと違いますか。」
生半可な、は良心と言い替えることも出来る。その説教臭さを嫌って、お袖は笑った。
「あたしに、そんなもん……。」
「いいや。井上はんは、ええお人や。それも、底抜けや。あんな人間と盗っ人のわしらと
では、住む世界が違います。同じところに立ってしもたら、他人の懐なんぞ、よう狙わん
ようになりまっせ。げんに今日かて、姐さんのカンが狂うたやおまへんか。」
「………。」
と、釘をさしたあとは普段の、機嫌をとるような柔らかい声で、
「まあ、それはそれ。気にとめといてくれはったらよろしい。……ところで、あの時のカ
モ……慌てるはずや。しめて十両おましたで。小遣い銭にしては大きい」
簡単に言うと、一般庶民が半年ほど慎ましく家族の口を養える金額である。あの商人を逃
すまい、と触手が動いたのは、お袖の本職としての勘が当たっていたことに他ならない。
「へえ。道理で指が重いはずさ。」
「これで百両、満額でんな。」
「ああ。……あす、江戸のお頭に送ってやるさ。それがすんだら、あたしゃしばらく勤め
は休むよ。」
お袖の声に、酔いも含んでけだるい疲れが混じっている。
「へえ。ま、その方がよろしやろ。」
「占い師の稼業でも、習おうかねえ……お前、誰か、人相見のできる奴を知らないかい。」
「は?」
 
 それから月日が経った。銀次の思惑をよそに、井上源三郎は時々、煙草屋に立ち寄るよ
うになっている。
「まあ、井上様……ほほほほ。」
 お袖が井上と談笑しているのを見ながら、銀次は最初いい顔をしなかったが、だんだん
に、この朴訥な侍にひかれてきてしまったらしい。
 井上は蕪の浅漬けなどをかじって、茶の一杯でもご馳走になればほぼ機嫌がよく、銀次
のほうへも隔てなく話しかけてくる。
「銀さんも、早いとこ嫁さんをもらわなきゃなあ。」
「そら……わしより井上様が先でござりましょう。」
答えながら、銀次はつい、笑顔になってしまっている。
「ははは……わしのところなんざ、きてがないよ。」
と、井上は屈託がない。
「しかし、新選組の伍長はん以上のおかたは、たいがい、外に女子はんを住まわせておい
でやときいてまっせ。危ないお仕事ゆえ、お手当てのほうも、そこらの大名のご家士より
よっぽど豊かやというやおまへんか。」
 慶応年間は新選組も威勢、経済共に最も華やかな頃であり、その通り幹部のほとんどが、
雑多な屯所の男所帯とは別に妾宅や妻子同居の仮宅から通うことを認められていた。つま
り、営外からの通勤が可能な特権があったのである。現代的に言えば、「社宅」といって
もよさそうなこれらの住まいを、「休息所」と称している。(女がいるからといって休息
になるかどうかは、やや疑問ではあるが)
 前出の原田左之助の内儀の談話によれば、三度の食事まで新選組が仕出しの器で料理を
届けてくれ、月々数両の生活費を夫からもらっていたという。他にも、永倉新八が芸妓を
請け出して囲ったという話もあるし、局長の近藤にいたっては、「休息所」を数軒かけも
ちで回っていた(要は、数人の愛妾を作っていた)というほどの贅沢ぶりだったのである。
 が、井上はこの頃になってもここでそういう話題が出たことがない。
「そうだねえ……まあ、金だけは過分にいただいとるな。」
「月々にお手当てをいただける、いうのも、他のご家中とは違いますな。」
 一般に武士の俸給は米が基準であるから、年俸が当然である。しかし、新選組は会津藩
から年で支給された人件費を、それぞれの隊士に月毎で現金支給している。当時としては
いっぷう変わった給与体系なのだ。
 井上は問いにうなずいて、
「そりゃ、年で手当てをいただいてたら、合わないもの。」

お袖が口をはさんだ。
「なんでです。」
すると、井上はこともなげに、
「死ぬ奴が多いからさ。」
「………。」
一年の途中で、である。
「若い連中なんざ、月の手当ての顔を見て、初めて『ああよかった。今月もどうやら無事
に生きている』と思うそうだよ。命の洗濯に島原へすっとんでゆくのも無理はない。は、
は、は。」
 お袖と銀次は、顔を見合わせている。
「………。」
 お袖はやや女らしい顔を見せて、

「井上様も……お気をつけなさいましね。」
「いやあ、わしは……初めの頃、人数の少ないときゃなんでもやったが、いまじゃそんな
に危ないことはないよ。何しろ、剣の腕の立つ若い衆が、ぞろぞろおるからねえ。」
「人をお斬りになったこと、あるんですか。」
「あるよ。」
井上はけろりと言った。草創以来の大幹部である身としては当然かもしれないが、彼はか
の芹沢鴨殺しや池田屋騒動にも参加している。
「なんだか……信じられませんねえ。こわくないんですか。」
お袖もいっぱしの悪だが、さすがに人殺しまではしていない。つい、素人らしい質問にな
った。
「まあ、畑の大根だね。」
「畑の、大根?」
「そう。相手も人だと思うとおそろしいが、畑の大根だと思えば、なんとかなるもんさ。」
「へえ……。」
ぴんと来るようで来ない。真剣での実戦の極意を、そんな身近な言葉で片付けてしまって、
いいものだろうかとお袖はぽかんとしている。
「もっとも、今じゃ他の組長連中と同じ十五両も、手当てをもらっとるのが悪いほど、の
んびりしたもんさ。」
「じ、十五両?」
銀次が驚いて声を発した。食と住の心配不用で、月々の基本給が十五両、である。臨時の
褒賞金などの賞与分を加えたら、独身の武士としては充分過ぎる金持ちといっていい。
「うむ。そんなにもらっても、くにに送るくらいしか使い道がない。」
「はあ……そんだけあったら、女子なんて、なんぼでも囲えるやおまへんか。」
嘆息まじりに言った。お袖がそばでちょっとむくれている。
「面倒くさくってねえ。あっちの用がありゃ、島原へでも行きゃあいいし……祇園や先斗
町の芸妓やなんかは、お高くとまってて気疲れするしさ。囲っても、家のことなんか何も
しねえだろう。」
「はあ。」
「しかし、何度か、身の回りの世話くらいはしてもらいてえと思って、家を借りたことも
あったんだが……」
 井上も人の子である。やはり他の幹部と同じように、手足を伸ばしてくつろげる自分の
居所が欲しくなったのは自然だろう。銀次は男どうしとして素直に共感できる。
「女子はんを置いて?」
「うむ。まあ、女中さんだな。しかし、どうしたわけかこれが居つかんのよ。」
「ほう……。」
 銀次は、あやうく吹き出しそうになった。
 この場合、銀次のさす休息所の女と、井上の答えた女の意味がかなり違っている。
「どうせお世辞だろうが、旦那さんはいい人で、何の不満もねえというんだがねえ。」
銀次はこらえきれず、にやにやと口元を緩めている。
「旦那。そのおなごしに、手えつけはりましたか。」
「いや。なにもしねえよ。別に妾のつもりじゃねえもの。」
「そら、そのせいや。」
とうとう、はっきりと笑い出した。
「は?」
「都の女は、腹の中と言葉が裏腹ですさかい。なんぼ下働きやいうても、男女の仲やし、
ひとつ家に置くのやさかいそっちの御用もあるやろ、と思うて、覚悟はしてますのやがな。
それをまっ正直に、手えひとつにぎらんかったら、見くびられた思うて女心が傷つきます
のやがな。」
 確かに新選組の助勤にかかえられて、その家で何も起きなかったら、よほど自分に魅力
がないのか、と受け止めるほうが京女の自尊心かもしれない。げんに、この家の二人です
ら、なりゆきでそういう夜になった例がある。とは、勿論口のはしにすら出せないが。
「ほう。そうかね。」
 井上は、初めてものを知ったという目を見開いた。
 お袖がついに横から文句を入れた。
「そこが、井上様のいいところじゃないか。それがわからないなんざ、京女も野暮だねえ。」
井上は感心して、銀次同様笑っている。
「なるほど、そうだったのか。しかし、屯所にいる限り、身の回りのことも皆、人がやっ
てくれるからなあ。何も不便がねえから、わしはこれでいいのさ。」
 しかし、たまに新選組の外の空気が吸いたくなると、こうしてお袖のところへ無駄話に来
ているらしい。しかも帰隊の時刻が来ると、判で押したようにこう言って立ちあがる。
「邪魔をしたね。じゃあ、帰るよ。」
「まだ、いいじゃありませんか。」
 お袖の声に、わずかに甘えた響きがある。
「いやいや。」
 井上はにこにこ笑って、煙草屋の店を後にしている。


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