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第 12 回 |
こぬか雨 |
(三) 白 牡 丹 |
1 ▼ ─── 小郷家。和之助の自室。征一郎が、一人にやにやしている。 征一郎 やはり、こっちは俺の方が先だったな。 ─── 巻物をちらちらとかざしている。 和之助 それは、人に見せてはならぬと言われておるのだろう。 征一郎 当然だ。まだ目録のおぬしには見せられぬ。 和之助 なら、大事にしまっておけ。 征一郎 ふっふっふ。羨ましいだろう、ほれほれ。 和之助 わざわざ自慢しに来たのか。いやな奴だな。 征一郎 ふふん。今までの意趣返しだ。 和之助 十九で免許皆伝か。 ─── 和之助はきちんと膝を正して、一礼した。 和之助 おめでとう。よくやったな。 征一郎 なんだ、あらたまって。 和之助 めでたいからだ。やはり、剣ではお前に譲る。 征一郎 ちぇっ、拍子抜けだな。 ─── 征一郎は巻物を置いた。 征一郎 そう素直に来られては面白くない。 和之助 ふ。 征一郎 まあ、お前は昨年以来朋之進どのの相手に時間をとられて、稽古の量が減った からな。それがなければ、どっちが先だったかわからんさ。 和之助 そっちこそ素直だな。 征一郎 次は間違いなくお前だろう。 和之助 そうありたいものだ。 征一郎 木暮家には、まだ通わなくてはいかんのか。 和之助 ああ。しばらく……朋之進どのが藩校の授業に慣れるまでの補足は続ける。た だそれも夕刻以降になるから、また道場に行く時間は出来る。秋になれば、最 後の試験に向けてそれどころではなくなるだろうから、今のうちに道場の方に 力を入れておくつもりだ。 征一郎 そうか。大変だろうが、頑張れよ。 和之助 ……免許皆伝ともなると、人間が出来たな。 征一郎 何を。目録め。(笑う) ─── 初めて出会った頃から一年が過ぎている。再び初夏の季節になった。 和之助 眠たそうですな。 朋之進 申し訳、ございませぬ。 ─── 朋之進はさっきから、あくびをかみ殺している。 和之助 無理もない。少し、休息いたしましょう。 ─── 朋之進が藩校へ通い始め、和之助は剣術道場が忙しく、補習はもっぱら夕刻から 夜間になっている。少年はたださえ、慣れぬ環境と歩行の訓練で疲労しているらし い。 和之助 それとも、今夜はここまでになさいますか。 朋之進 いけません。それは……私が姉たちに叱られます。せっかく忙しい中を割いて 来て下さっている先生に申し訳ない、と。 和之助 先生、か。 ─── 和之助は苦笑した。朋之進以外の家族は、皆自分より年上である。 和之助 よろしい。では、四半時(三十分)だけ、横になってお休みなさい。眠い時は わずかでも眠った方がいいと申します。 朋之進 でも……先生は? 和之助 ここにいては、眠れんでしょう。庭の木陰で風にあたってきます。誰にも見ら れぬように……こっそりと。 ─── 和之助は微笑して、自分の羽織を朋之進にかけてやった。 ─── 偶然というものはあるらしい。小雨は止んで、うっすらと月が出ている。和之助 は庭の隅の石に腰掛けて休んでいた。 和之助 (広い屋敷というのは……意外に死角の多いものだな。) ─── くすっと笑いを漏らした。 和之助 (わが家なら、この庭だけで三つは入るだろう。) ─── 小郷の家も微禄というのではない。中の下、といった石高ではあるが、とてもこ の木暮家には及ばない。ふと、足音が近づいて来るのを聞いた。 和之助 (まずい。) ─── 和之助は、庭木の影に身を隠した。小さな手燭を下げ、薫乃が歩いてくる。 和之助 ………。 ─── 和之助は、暗がりの中で息をつめた。薫乃は、池のほとりの花壇に植えてある、 今が盛りの白牡丹の花を一輪、切っている。その所作が、雨に濡れた庭の反射と月 明かりの中で、異様に美しいものに映った。 薫乃 誰? ─── 薫乃がはっとして振り返った。和之助が不用意に小枝を踏んだためである。 和之助 ……見つかりましたか。 薫乃 小郷様。 和之助 申し訳ない。怠けているわけではござらぬ。 薫乃 朋之進は? 和之助 お疲れのようなので、少し休んでいただいている。 薫乃 まあ。 和之助 叱らないでやって下さい。歩くだけでも辛いのでしょうから…… 薫乃 ……はい。 和之助 あなたは、なぜ? 薫乃 ええ……。 ─── 薫乃は、牡丹の切り花をそっと胸に抱えた。 薫乃 小郷様はこの度、誠武館道場で免許皆伝をお受けになったとか…… 和之助 はい。大郷に少し遅れましたが。 薫乃 おめでとうございます。 和之助 は……ありがとうございます。 薫乃 ささやかな物ですけれど、お祝いに……と存じまして。 和之助 その牡丹を? 薫乃 ええ。小郷様は、進物は受け取っては下さいませぬ。でも……こういったもの でしたら、お持ち帰りになっても邪魔にはなりませんでしょう? 和之助 ええ。しかし……こんな立派な花を。 薫乃 花は花ですもの。この庭に置いても、いつかはしおれます。それならばしばら くの間、お手元で眺めていただけたら嬉しいのです。 和之助 ………。 ─── 和之助は、どきっとしている。 薫乃 昼間でしたら、男の方が花を抱いて帰るなどと、帰り道で気恥ずかしいかもし れませぬが……もうこの時刻でしたらよろしいのでは、と。 和之助 は……ありがたく、頂戴します。母が喜ぶでしょう。 ─── 暗いのでわからないが、和之助は赤面した。 和之助 (馬鹿、考えすぎだ。) ─── 薫乃の言葉は、意味深長にとれなくもない。師範の言葉を思い出した。 大森 (回想)高嶺の花で、いまだに誰も手折れぬ…… 薫乃 ……よかった。では、お帰りになるまでに包んでおきます。 和之助 薫乃どのは、花がお好きですか。 薫乃 ええ。 和之助 そうか。 ─── 和之助はふと、笑った。 薫乃 何か? 和之助 では、やはりあの時は嘘をついておられたのだな。 薫乃 私が? 和之助 そう。 ─── 薫乃は、ちょっと少女じみた顔をして、 薫乃 聞き捨てに出来ませぬ。私がどのような嘘をついたとおっしゃるのですか。 和之助 昨年の今頃……あなたは無妙寺の鐘楼の前で、紫陽花の花を見ていた、と言わ くちなし れた。しかしあの場所に咲いていたのは紫陽花ではなく、梔子だった。 薫乃 ………。 和之助 くちなし、とは悪い言葉に使われることがある。あなたは、亡き人の墓所でそ の言葉を連想しながら花を見ていたことに、ふと気がとがめたのではありませ んか。 薫乃 亡き人……。 かげ ─── 薫乃の顔に、暗い翳りがよぎった。 和之助 もう過ぎたことだ。あなたがいつまでも気に病むことはない。……私はそう思 いますが。 薫乃 小郷様は…… 和之助 え? 薫乃 世間のことになど、一向に無頓着なかたなのかと思っておりました。 和之助 ………。 薫乃 確かに、過ぎたこと……そうに違いありませぬ。 ─── 薫乃はふと微笑して、淡い月を見上げた。 2 ▼ ▲ ─── 和之助の部屋に、白牡丹の花が咲いている。 征一郎 なるほど……大身の家というのは、庭の花まで豪奢なものだな。 和之助 切ったというもの……いらぬとも言えんだろう。 征一郎 勿体ない。表町あたりで買えば、一鉢いくらするかわからんぞ。 和之助 そうか。 征一郎 俺の時には、何もくれなかったがなあ。 和之助 ………。 征一郎 に、しても……白牡丹とは。どこか、薫乃どのに似た花だな。 和之助 え? 征一郎 富貴な花だが、どこかはかなげな、危うい美しさがある。ただ純白だというの ではなく、血の透けるような、淡い暖かみのある色をしている。華麗で、寂し げな孤高の花だ。 和之助 (吹き出す)どうしたんだ。 征一郎 何が。 和之助 熱でもあるのか、勉学のしすぎか。 征一郎 ほれ。 ─── 征一郎は、懐から手帳のようなものを取り出した。 和之助 「百花繚乱」……なんだ、これは。 征一郎 四季の花を記した本さ。もともと、盆栽好きの為に出た手引きだ。 和之助 こんなものをどうする。 征一郎 馬鹿だな。女を口説くにゃ、花にたとえるのが一番利き目があるというぜ。異 人どもなんざ、男が女に堂々と花束を贈るそうだ。 和之助 馬鹿馬鹿しい。 征一郎 そうともいえんぜ。女は見え透いたキザに弱いもんさ。 ─── 征一郎は、白牡丹の花に顔を寄せている。 征一郎 この間、立花屋のお筆という女に山吹の花をひと枝持っていってさ。「お前に 似ている」と言ったらなぜか感激して、それはよくしてくれたもんだ。 和之助 立花屋……って。 ─── 和之助は赤くなった。 和之助 中山町の、遊女屋じゃないか。 征一郎 そうだよ。こっちは、山出し(田舎者のこと)だって意味で言ったのに、女の 方で勝手に、「あたしのことを、こんなに清らかで可愛らしい花だなんて。」 だってさ。(笑う) 和之助 もう、悪所通いを始めたのか。 征一郎 免許皆伝の祝いで、師範代に連れていってもらってからな。金が続かんから、 そう度々ではない。 和之助 あたりまえだ。 征一郎 怒ることはなかろう。嫁をもらう前に女も知らんでは、格好がつかないじゃな いか。 和之助 嫁などと、まだまだ…… 征一郎 ところが、そうでもないのだ。 和之助 何。 ─── 征一郎は、いくぶん気恥ずかしそうに言った。 征一郎 実は、婿の口が決まった。小納戸役の橋本藤蔵どのの長女で、多紀という十六 の娘だ。来年には祝言だとさ。 和之助 婿? ─── そのことにも驚いたが、そのあとひとしきり世間話をした征一郎が、 征一郎 ……そういえば、木暮の薫乃どのが、近く江戸へ行かれるそうだな。 和之助 えっ。 征一郎 何だ。聞いていないのか? 和之助 知らぬ。 征一郎 どうやら嫁に行くのはあきらめて、江戸のお屋敷にお仕えするという噂だぞ。 和之助 江戸屋敷……。 征一郎 ご正室の奥女中になる、という話だが……あの器量だから、どうかな。ひょっ と殿や若君のお手つきになる、などということもない話ではない。 和之助 ………。 征一郎 むしろ、その方があの人のためかもしれん。城下にいては暗い噂がつきまとっ たきりだが、ご側室という立場に立てば、誰も文句は言えなくなるだろう。そ れが無理でも、江戸の藩邸なら国元より交際の範囲が広い。奥勤めをするうち に、西条のことなど気にならぬところから良い縁談の口がかかるかもしれんか らな。 ─── 和之助は、呆然となった。 ─── 和之助はその夜、寝つかれなかった。うかつにも、薫乃がいなくなると聞いて初 めて、自分の気持ちに気づいたのである。 和之助 (俺は……あの人を好いている。) ─── こぬか雨の中に髪を濡らして立っていた薫乃、真っ赤な西瓜を胸にかかげて笑っ ていた薫乃、弟の体をささえながら汗をかいていた薫乃、川の水に手をさしのべて いた薫乃、そして、月明かりの中で牡丹の花を抱いた薫乃……すべてが鮮やかに闇 の中に浮かんでは消え、和之助の胸を苦しめた。 和之助 (俺は、あの人の姿に恋をしたのか。いや、違う。決して……。あの人の美し さはもっと深いところにある。俺は……あの人のすべてに惚れている。) 3 ▼ ▲ ─── 運、というものはある。それから数度木暮家を訪れたが、薫乃は挨拶にも出ず、 和之助をがっかりさせた。しかし、その雨の夜は違った。いつになく屋敷の中がひ っそりと静かに感じられた。薫乃が、部屋に来た。 薫乃 朋之進が、あいにくと出掛けております。申し訳ございませぬ。 和之助 そう……ですか。 薫乃 小郷様のおいでになる前には戻る、と申しておりましたが……使いの者がまい りまして、まだ大分遅くなるようだと……。 和之助 ……では、今夜はこのまま失礼いたす。 薫乃 父が。 和之助 え? 薫乃 父が、……今度小郷様がお見えになったら、先日お話しになっていた書物を、 お貸しするようにと申しておりました。お心当たりはございますか。 和之助 ああ…… 薫乃 私、書庫の鍵を預かっております。お探しになってはいただけませぬか。 ─── 薫乃は手燭を持って、屋敷でも家人にしか入れぬだろう奥の廊下を進んでゆく。 和之助 静かですね。 薫乃 親戚に祝いごとがございまして……皆、出向いております。 和之助 あなたは? 薫乃 私は……少し風邪気味で、遠慮いたしました。 和之助 ………。 薫乃 こちらです、どうぞ。 ─── 薫乃は、書庫の鍵を開けて入った。注意深く明かりを置くと、 薫乃 おわかりになりますか? 和之助 は……すごい。 ─── 和之助は目を輝かせて、びっしりと並んだ蔵書の背を見ている。 薫乃 父も難しいものは苦手で、半分は手もつけておらぬと申しておりましたが。 和之助 私には、宝の山に見える。 薫乃 ………。(微笑する) ─── しばらくして、和之助は一冊の分厚い本を取り出し、 和之助 あったあった、これです。 ─── と、振り返った。 薫乃 他にも……お気に召したものがございましたら、どうぞ。 和之助 よろしいのですか。 薫乃 ええ。この部屋のものなら構わない、と申しておりました。 和之助 では……厚かましく、いま少し。 ─── 和之助は再び、薄暗がりの中で目をこらしている。しん、とした空気が流れた。 和之助は薫乃に背を向けたまま、 和之助 江戸へ、行かれるそうですな。 薫乃 ………。(はっとする) 和之助 なぜ話して下さらなかった。 薫乃 ………。 和之助 話す必要もない、か。 薫乃 違います。 和之助 違う? 薫乃 言えなかったのです……あなたには。 和之助 なぜです。 薫乃 ………。 ─── 背後の薫乃は黙っている。かすかな息づかいだけが聞き取れた。しばらく、二人 はそのままの姿勢で沈黙した。しかし、ついに和之助の方から振り返った。薫乃の 瞳がまっすぐに見つめている。 和之助 ………。 ─── 一瞬、手燭の灯が和之助の動きに揺らいだ。和之助は腕を伸ばし、薫乃の体を抱 きしめている。娘は震えていたが、逃げようとはしなかった。薫乃は声を殺したま ま、ついに和之助のものになった。 4 ▼ ▲ ─── 和之助は罪人のように胸を高鳴らせながら、疲れ切って自室に体を伸ばした。牡 丹の花はまだ開いている。 和之助 白牡丹……。 ─── 夢の中にいるようだった。今夜起こったことのすべてが、明くる朝には夢だった ということになるのではないか。 和之助 (夢ではない。) ─── 蝋燭の灯の下で見た薫乃の顔も、肌の熱さも夢ではなかった。その証拠に、木暮 家の書庫から拝借した書物が、ちゃんと自室の文机に乗っている。 和之助 (罪はわかっている。しかし……俺は、あのひとに恋している。) ─── 自由な恋愛の出来る立場ではない。木暮家の者に見つかれば、不義者として即座 に斬られても文句は言えないであろう。 ─── 回想。書庫。和之助は、背を向けて着物の乱れを直している薫乃に言った。 和之助 こんなことになって……もう、この家には顔向けできぬ。 薫乃 (静かに)いいえ。 和之助 え? 薫乃 それは……困ります。どうぞこのまま……変わりなくお運び下さいまし。 和之助 何事もなかったように、というのか? 薫乃 はい。 ─── そう言って、薫乃は振り返った。このはかなげな娘のどこにひそんでいたのか、 と思うような強いまなざしであった。その瞳から涙がつたっている。 薫乃 それとも……もう、私に逢うのがお嫌でございますか。 和之助 そんなことはない。 ─── 和之助は、薫乃の背を引き寄せた。 和之助 ただ……あなたを見れば抑えがきかなくなりそうだ。それが、こわい。 薫乃 私も。 和之助 嘘だ。 薫乃 嘘など、ついておりませぬ。 ─── 薫乃は和之助の袖をつかんで、顔を伏せた。 ─── 広い家には死角がある、と以前に思ったことがある。木暮家の片隅で、ひそかな 逢瀬がいくたびか重ねられた。 和之助 (人とは……慣れるものだな。) ─── いつの間にか、薫乃と素知らぬ顔で挨拶ができるようになってしまった。しかし 一人になって自分の部屋に戻れば、物狂いしそうな夜が続く。 和之助 (会いたい……) ─── 床の中で、何度も寝返りを打った。生まれて初めての煩悶であった。 次回 (四)へつづく 5 ▲ |