誠抄
第 13 回

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こぬか雨
(四) 祭 り


                                    1  ▼


─── 藩校。同級の金井修平が話しかけている。
金井   どうしたんだ。近頃、頭打ちだな。
和之助  頭打ちどころか……
─── 和之助は苦い顔をした。
金井   悪く思うな。正直、一人でコツコツとやっていても行き詰まってきてるんじゃ
     ないのか。
和之助  ………。
金井   そろそろ、山岡塾へ来いよ。宮田もそう言ってたぜ。
和之助  なぜ、俺を誘う?
金井   物頭の息子などに、負けてほしくないからな。神崎忠三郎は父親に頼んで、学
     者を呼んで講義を受けているらしいぜ。小郷和之助などじきに追い抜いてやる
     とうそぶいているそうだ。
和之助  そうか。
金井   あんな、上士の家柄を鼻にかけたキザな奴に首席の座まで渡したくはないじゃ
     ないか。どうせあいつなんざここを出たあとは大身の長男として一生威張って
     いられるんだ。同じことなら、お前に一泡ふかせてほしいからな。
和之助  俺たちが対等に勝負できるのは……今のうちか。
金井   そう。まあ、山岡先生のところでみてもらえよ。仲間がいれば気晴らしにもな
     るし、皆、小郷なら歓迎するぜ。
和之助  ……家にいても、くさくさしてはかどらんからな。
金井   そうさ。じゃあ、今度の集まりには一緒に行こう。俺が迎えに行く。
和之助  わかった。金井、……ありがとう。
金井   ああ。
─── 金井は嬉しそうな顔をした。この時の和之助にはまだ、金井の親切の意味がわか
   っていない。


─── 山岡塾。あるじの山岡儀左衛門は、無償で後輩のために国学の講義を開いている
   人物で、家中の下級武士の子弟に人気がある。和之助はそこの聴講生となった。講
   義が終わると、皆帰り支度でざわざわとしている。
金井   小郷、どうだった。
和之助  さすがに、国学の大先輩だな。ためになった。
金井   そうだろう。先生の講義は藩校の師範などより、よっぽど鋭いぞ。
和之助  ああ。だが多少……時事に関する論説が過激な気がするが。
金井   そこがいいんじゃないか。
宮田   まあ、待てよ。小郷にはまだ、先生の持論まではわからんのさ。
和之助  ………。
宮田   小郷。これから、中山町へ飲みに行く。お前も来ないか。
和之助  酒か。
宮田   ああ。
和之助  いや……遠慮しておく。帰るよ。
宮田   がつがつやったって、頭には入らんぜ。
金井   そうとも。
和之助  悪いが。
宮田   そうか。まあ……またの機会ということにしよう。
─── 宮田は含み笑いをした。和之助は立ち上がっている。
金井   小郷。
和之助  何だ。
金井   朋之進という子は義学館へ入学したそうだが、木暮様のお宅へは、まだ通うの
     か。
和之助  ……ここしばらくは。
金井   そうか。
和之助  なぜだ。
金井   いや。忙しいのに大変だと思ってさ。
和之助  ああ。……では、失礼する。
─── 和之助は木暮家の話題にふれられたくない。早々にその場を去った。
宮田   どうかねえ……あいつは、自分のことで精一杯という感じだぜ。
金井   いや。しかし小郷は頭も切れるし、腕も立つ。それに口がかたい。ぜひ仲間に
     欲しい人物だぜ。
宮田   まあ、徐々に……だな。しばらくあのことは伏せておいたほうがいい。
金井   そうだな。


─── 夜。木暮家の書庫。和之助は手燭を借りて、書見をしている。薫乃が静かに入っ
   てきた。自然に寄り添った。
薫乃   和之助様。
和之助  大丈夫か。
薫乃   ええ。でも……長くはいられませぬ。
和之助  ああ。
薫乃   お顔の色が、すぐれぬのではございませんか。
和之助  こうして……私のために蔵書を惜しげなく見せて下さる木暮様のご好意を、私
     は、あだで返している。青くもなるさ。
薫乃   ………。
和之助  すまん。よけいなことを言った。
薫乃   いいえ。
─── そのまま、二人は静かに抱きあっている。
和之助  変だな。
薫乃   何が?
和之助  いくらでも話したいことがあったはずなのに……あなたの顔を見ると、出て来
     ない。
薫乃   ………。
和之助  近頃……帰ったあとでいつも後悔する。もっと時を惜しんでいろいろと話をす
     ればよかった、と。加瀬川に行った時はあんなふうに……こだわりなくあなた
     と話せたのに、不思議だな。
薫乃   ええ。
─── 和之助は薫乃に唇を重ねた。
和之助  だがあの頃……こんなことは思いもつかなかった。
薫乃   ま。
─── 薫乃は顔を伏せた。
薫乃   もう……戻らなくては。
和之助  ああ。
─── 薫乃が去ってからしばらくして、下男が書庫の外へ来た。
下男   小郷様。ご書見はお済みでございますか。
和之助  ああ。
─── 和之助は手燭を持って廊下へ出た。
和之助  ありがとう。世話をかける。
下男   遅くまでご熱心なことでございますな。
和之助  ……時が、惜しくてな。
下男   はあ。学問のお出来になるかたは違いますな。
─── 下男は笑って、書庫の鍵をしめた。


─── 帰路。和之助はふと、無妙寺の門前に立ち止まった。
和之助  (薫乃。)
─── 空を見上げた。秋の星空がどことなく寂しげに光っている。
和之助  (あの時のように……二人で歩けたらどんなにいいだろうか。)
─── わずかな時間であったが、加瀬川べりの明るい日差しの下を二人で歩いた。あの
   頃はまだ男女の仲にふみこんではいなかった。和之助も薫乃も、屈託なく笑って、
   春の詩の話などを語りあった。
和之助  (連れ出したい。あの家から……)
─── だがそれはかなわぬ事だった。薫乃は江戸の奥勤めが決まっている。若い男連れ
   の外出はもう許されないだろう。今のような短い逢瀬がいつまで持てるかもわから
   ない。



                                    2 ▼ ▲


─── 道場。
征一郎  少しやせたか?
和之助  え?
─── 征一郎に声をかけられた時、和之助ははっと顔を上げた。
征一郎  根のつめすぎではないのか。
和之助  ………。(ぎくりとする)
征一郎  道場と藩校と、近頃は扇町の私塾までかけもちしとるというじゃないか。ちょ
     っとは息を抜かんと体がもたんと、お袋さんが心配している。
和之助  いや……大したことはない。
征一郎  最上級組を首席で終われるかどうか、と焦っているんじゃないのか。
和之助  近頃……神崎忠三郎が追い上げているからな。自宅にじっとしていると、気が
     気ではないのだ。
征一郎  心配せずとも、上位三人くらいは見習い師範として推薦がもらえるだろう、と
     大森先生が漏らしていたぜ。
和之助  いや……油断はできぬ。何事にもだ。
征一郎  相変わらずだな。
─── 征一郎は笑った。まさか、和之助が薫乃への物狂いをふりはらうために、むきに
   なっているとは知らない。
征一郎  しかし、お前……人相が変わったぜ。
和之助  どこがだ。
征一郎  以前はもうちょっと、おつに澄ましたような……若いくせに落ち着きはらった
     顔をしていたよ。しかし、なんだか年相応の青臭いつらになった。
和之助  自分ではわからん。
征一郎  その顔つきでは、俺に勝てんな。
和之助  何を。
征一郎  ちょっと可愛がってやるから、立ち会え。
和之助  ……いいとも。
─── 和之助は苦笑して、立ち上がった。竹刀を持って向かうと、征一郎の姿が急に、
   堂々として大きく見えた。
門弟1  おい。二本差しの試合だぜ。
門弟2  うむ。
─── 門弟たちが場をあけた。前後して免許皆伝を得た若者二人を興味深く見つめてい
   る。
門弟3  どっちが勝つかな。
門弟1  そりゃあ、大のほうだろう。あの面を打ち下ろされたらたまらんよ。
門弟3  しかし、小も技巧ではまさる、というぜ。
門弟1  剛の大郷、柔の小郷か。
門弟2  賭けるか。
征一郎  俺に賭けろ。そのかわり、取ったらいくらかよこせよ。
─── 周囲がどっと笑った。和之助には、その声に耳を傾ける余裕がない。
征一郎  和、行くぞ。
和之助  ………。
─── 和之助は無言でうなずいている。征一郎の気合が、天から降ってくるもののよう
   に響いた。
征一郎  やああーっ。
─── 激しい打ち合いが始まっている。和之助の背中には、びっしょりと汗が吹き出し
   ている。
和之助  (勝てぬ。今の征一郎には……俺は勝てぬ。)
─── もとより、力わざで勝ったことはない。しかし和之助には師匠から天賦の才、と
   言われた敏捷さがある。敵の太刀筋を瞬時に見極め、しなやかに相手の隙へ切り込
   んでゆくのが持ち味であった。しかし、今日は征一郎の動きが見えない。徹底して
   受け身に回っていた。
征一郎  どうしたっ。
和之助  くっ。
─── それでもしばらくは防いだ。しかし、征一郎が鋭い気合を発して、
征一郎  おめえェんっ!!
─── と、上段から渾身の一刀を振り下ろした瞬間、和之助は目の前が真っ暗になるの
   を感じた。


─── 目を覚ました時、征一郎の顔が間近にあった。
征一郎  お、生き返ったな。
和之助  俺は……
征一郎  死んだかと思ったら、くうくうと可愛いいびきをかいていたぞ。ははは……
─── 見たことのある室内だ、と思ったら道場の奥の屋敷であった。
和之助  先生の……部屋か。
征一郎  ああ。ご新造様がたいそう心配して、気を失うほど打ち据えるとは何事だ、と
     俺の方が叱られた。日が暮れても目を覚まさなかったら、医者を呼ぶと言って
     おられたぞ。俺は、そんなおおごとになるんなら、お前を担いで逃げようと思
     っておったのだ。
和之助  俺は……どのくらい眠っていた。
征一郎  じきに七つ半だ。かれこれ、一刻以上寝ていたかな。
和之助  不覚だった……醜態だな。
征一郎  何。単に、寝が足りていなかったんじゃないのか。それとも夏負けかな。
和之助  すまん。
征一郎  先生に挨拶して、帰るか。……起きられるか?
和之助  ああ。


─── 帰路、どこからか、祭り囃子の稽古をする音が聞こえてくる。
征一郎  じきに秋祭りだなあ。道理で、空が高い。
和之助  ………。
征一郎  浮かぬ顔だな。
和之助  え?あ、いや……まだ、頭がぼうっとしている。
征一郎  そうか。
─── 征一郎はいつになく真面目な顔で言った。
征一郎  今日の……いや、近頃のおまえだが。
和之助  え?
征一郎  俺は、お前ほど頭の出来はよくない。しかし剣を見ていれば、多少のことはわ
     かるつもりだ。何か、迷ってるな。
和之助  ………。
征一郎  将来のことか。
和之助  それも……ある。
征一郎  物事を小難しく考えるのは、お前の悪い癖だ。
和之助  ………。
征一郎  俺が妻を持つと聞いた頃からだな。先を越されたとでも思ったのか?
和之助  ……正直、二十そこそこで身を固めるとは思わなかった。
征一郎  俺もだ。(苦笑する)師匠の話では、この年で免許を取ったのが先方の気に入
     ったらしい。俺が望むなら道場通いを続けてもいいというんだ。
和之助  へえ……。
征一郎  小納戸役の家で、なぜ腕っぷしの強いのが好きなのかね。算術が得意だってい
     うならわかるけどな。
和之助  多紀どのが……武芸好きなんじゃないのか。
征一郎  女だてらにか。そんな話は聞かんな。
和之助  どんな人なんだ。
征一郎  知らん。会ったこともない。
和之助  そうか。
征一郎  なまじ会わんほうがいいかもしれんな。
和之助  なぜだ。
征一郎  お前のお供で、木暮の家に出入りしていたんだぞ。薫乃どのを見てしまったあ
     とでは、どんな娘を見たってがっかりするに決まっている。
和之助  ………。
征一郎  どうせ失望するなら、遅い方がいい。一年も前から「あーあ」と思いながら暮
     らすのは嫌じゃないか。
和之助  は、は……。
征一郎  俺の家は兄弟が多い。口減らしの話があるうちに乗る方がいいさ。
和之助  不満はないのか。
征一郎  剣は続ける。それで充分だ。人間、欲を言ったらきりがないぜ。
和之助  ………。
征一郎  気楽な奴め、と思ったろう。(笑う)
和之助  いや。お前は……さばさばしていて、羨ましい。
征一郎  ふふ。
─── 小郷の家の前で征一郎は片手を上げた。
征一郎  じゃあな。今夜は、ゆっくり寝ろよ。
和之助  ああ。
─── 稽古着を肩にかけて去っていく征一郎の姿を見ながら、和之助は忸怩たる思いに
   捕らわれている。
和之助  (征一郎は、子供のまま大きくなったように見えるが……実は俺よりずっと大
     人なのかもしれん。今の俺は……。)




                                    3 ▼ ▲


─── 和之助は木暮家に出向き、当主の市右衛門に話がある、と言われて座っている。
木暮   近頃は、藩校義学館だけでは物足りず、城下の私塾や会合を訪ねて回っている
     そうじゃな。
和之助  は……お聞き及びでございますか。
木暮   むろん。このままいっても藩校首席は取れる、と言われる小郷和之助が、さら
     なる精進をいたしておる。なかなか感心なことじゃ、と城内でも噂に出る。
和之助  城内……。
木暮   わしは、我が息子のお師匠どのでござる、と自慢にしておる。はは……親馬鹿
     での。
和之助  は……恐れ入ります。
木暮   朋之進は知っての通り、いささかひ弱でな。しかしおぬしが来てくれたおかげ
     でずいぶん元気になった。感謝しておる。
和之助  いえ……私などは何も。ご子息の精進ゆえと存じます。
木暮   大森の言うとおり、あくまで謙虚だの。
─── 木暮市右衛門は、恰幅がいい。笑顔が柔和で、いかにも藩草創以来の名家の主と
   いった気品と貫祿を備えている。おっとりしているようで、次期執政への昇進が囁
   かれる切れ者だという噂であった。もっとも部屋住みの和之助には、城内の様子な
   どはわからない。
和之助  (目元が……娘御に似ている。)
─── 和之助は、背筋に冷や汗が流れている。この温和そうな重役の娘と密通をしてい
   る自分を思うと身がすくむのである。
木暮   朋之進の学業は、藩校の同年組に追いついたそうじゃな。
和之助  左様でございます。
木暮   では……しばらくの間、当家での講義は休んではもらえぬか。
和之助  は。
木暮   勝手を承知で頼むのだが……あれも少々、疲れておるようだ。病み上がりゆえ
     あまり、焦って無理をさせたくはない。おぬしが教えに来ると、はりきってし
     まうようでな。今も風邪をこじらせておるが、起きると言ってきかんのだ。
和之助  は。申し訳ございませぬ。
木暮   それに、当家も内々の事でいろいろと忙しくなる。次男の藤二郎の縁組が決ま
     っておるし、次女の薫乃は、江戸に出仕の支度がある。家の中が何かとばたば
     たしておっての。
和之助  ………。それは、おめでとうございます。
木暮   ありがとう。それらの事が済んで落ちついてから、また頼みたいと思うが。
和之助  私は……初学のお手伝いをしたに過ぎませぬ。義学館には良い師範が多くおら
     れますし、本格の講義となれば、学問を専一になさっておられる方をお呼びに
     なるのもよろしゅうございましょう。
木暮   すまぬな。


─── 和之助は、廊下へ出た。
和之助  (まさか露顕してはいないと思うが……しかし、これで木暮家にも来られなく
     なる。)
─── 絶望的な気持ちになった。使用人たちに見送りをされて玄関に向かう時、薫乃が
   追ってきた。
薫乃   小郷様。
和之助  ………。
─── 和之助は、動揺を隠して振り返った。薫乃も表情を殺している。
薫乃   先日いらした時に……これをお忘れでございました。
─── と、男物の懐紙入れを差し出した。
和之助  (はっとする)ああ……かたじけない。
薫乃   お気をつけてお帰り下さいませ。
─── 薫乃は、令嬢らしく美しいしぐさで一礼した。


─── 和之助は、部屋に戻って懐紙入れを取り出した。
和之助  (俺のものではない。)
─── 中を開けた。文が入っている。
和之助  やはり……。
─── 薫乃は何かを伝えたいために、和之助の忘れ物と言ったのである。
和之助  あ……。
─── それは、日時と場所を指定した呼び出しの文であった。


─── 昼下がり。和之助は、城下で随一と言われる料理茶屋「筒見」の離れにいる。庭
   園の流水の音と、鳥のさえずり以外に何も聞こえない。
和之助  (ここが、城下の奥座敷といわれる茶屋か……。「筒見」は家中でもよほど上
     士の者か、豪商豪農と呼ばれる者でなければ使えぬ、と聞いた。京都のごとく
     一見の客を通さないというが……なるほど俺の身分では、一生こんな場所では
     遊べないだろうな。)
─── 特に離れは、人に案内されて広い庭園を曲がりくねって歩かなければたどり着け
   ぬほどであった。前庭は樹木が重なり合い、竹垣が巡らされている。障子を開け放
   ったとしても、部外者に見られる心配はまずない。
和之助  (お偉方の隠れ遊び……密談、密会の場というわけか。)
─── 和之助はふと、顔が熱くなった。
和之助  密会……。
─── 人の噂ではなく、自分がその男女の密会をする立場になろうとは、想像もつかな
   かった。しばらく待つと女が一人で、静かに障子を開けて入ってきた。
和之助  薫乃どの。
薫乃   和之助様……。
─── 和之助は待ちきれなかったように、薫乃を抱きしめた。
和之助  会いたかった。
薫乃   私も。……誰にも、見られませんでしたか。
和之助  鍛冶屋町をまわってきた。あなたこそ、一人で出られたのか?
薫乃   私は……。
和之助  供がなければ出られぬ身だろうに。
薫乃   大事ございませぬ。私には……味方がおります。
和之助  味方?このことを知っている者がいるというのか。
薫乃   私が理由を告げなくとも、従ってくれる者がおります。
和之助  ………。
薫乃   但し、その者を待たせておけるのは暮六つまででございます。日が落ちれば、
     戻らねばなりませぬ。
和之助  わかった。しかし、いつもとは違う。ゆっくりとしていられる。
薫乃   はい。
─── 和之助は、丹念に薫乃の唇を吸った。
和之助  木暮家の出入りをさし止められて、……もう会えぬと思っていた。まさかあな
     たの方からこんなことをするとは思わなかった。
薫乃   ………。
─── 薫乃は頬に血をのぼらせて、目を伏せた。
和之助  すまぬ。
─── 和之助は、その肩を引き寄せてやった。
薫乃   あなたに、はしたない女だと思われても……。どうしてもお逢いしたかったの
     です。暗がりで声を潜めて慌ただしく逢うのではなく……一度だけでもこうし
     て……心置きなくお逢いしておきたかった。
和之助  これきりのようなことを言う。
薫乃   ………。
和之助  江戸行きの日取りが決まったのか。
薫乃   来月の十日……父が役向きのことで江戸へ参ります。その時に。
和之助  来月。
薫乃   はい。
和之助  そんなに早いのか。
薫乃   ………。
─── 薫乃は無言だった。静かに立ち上がり、次の間に通じる襖を開けた。寝間の用意
   がしてある。
和之助  ………。
薫乃   こんな事が平気な女だと……思わないで下さいまし。
─── 薫乃はその部屋に入り、後ろを向いて帯を解きはじめた。
和之助  ………。
─── 和之助は、身じろぎもせずにその姿を見つめている。薫乃は微かな衣擦れの音を
   させながら、襦袢までするりと下に落とした。
薫乃   ………。
─── 和之助は息を飲んだ。武家の嗜みとして情事の最中であっても肌着は取らない。
   それが、文字通り一糸まとわぬ裸形になって、明かり障子から差し込む昼の光の中
   にまっ白な曲線を描いて立っている。視線に耐えかねて、薫乃が顔を両手でおさえ
   た時、和之助は立ち上がって、背後から女を両腕に包んだ。


─── その後。絹の夜具の中で、和之助は言った。
和之助  もう……離れられぬ。
薫乃   ………。
和之助  江戸へは行くな。いや……行かないでくれ。
薫乃   和之助様……。
和之助  考えていたことがある。文をもらった日からずっと……その事が頭を離れなか
     った。
薫乃   何でございます。
和之助  じきに、秋の祭礼がある。五日後は本祭だ。
薫乃   はい……天神様の。
和之助  城下の武家も町家もこぞって繰り出す祭りだ。その夜に……逃げよう。
薫乃   ───。
和之助  木暮殿に……今までの謝礼としてまとまったものをいただいた。旅の当座は何
     とかなる。
薫乃   そんな……。
和之助  あなたが江戸の奥勤めをして、誰かの側室になることも……あの西条源吾と顔
     をあわせることも、私はいやだ。このまま、せいぜい藩校の師範の座にすわる
     ために成績を上げる事も、分相応の婿養子の口にありつくことも……もう、し
     たくはない。
薫乃   ………。
和之助  苦労はさせるかもしれぬ。しかし、ついて来てほしい。
薫乃   私を……
和之助  自分だけのものにしたい。
薫乃   ………。
和之助  好きだ、と言うだけでは足りぬ。そして……あなたも同じ気持ちでいると信じ
     ている。
薫乃   和之助様……。
和之助  待っている。祭礼の夜に……
─── 和之助は、しっかりと薫乃の体を抱きしめた。薫乃は静かに泣いている。


─── 薫乃は、ついさっきまであった事が嘘のように、きっちりと身支度を整え、別れ
   ぎわに言った。
薫乃   和之助様。
和之助  うむ。
薫乃   今夜お戻りになってから……祭礼の夜までは、決して外をお出歩きなさいます
     な。
和之助  え?
薫乃   ことが事でございます。人に、そぶりを気取られてはなりませぬ。
和之助  うむ。
薫乃   祭りが近いことゆえ……お親しいご学友からのお誘いもございましょう。しか
     し、必ずお断りして下さいまし。祭礼の夜に限ってお断りする、となれば怪し
     まれましょう。
和之助  征一郎もか。
薫乃   はい。あの方は……勘の鋭いお人でございます。
和之助  ………。
薫乃   お約束していただけますか。
和之助  わかった。約束する。
─── 薫乃はふと、寂しげな微笑を浮かべた。


                                     4 ▼ ▲

─── 天神祭の前後は城下を挙げて行事が増えるだけに、藩校も五日の休みに入る。
征一郎  いやあ、この時期の休みはありがたい。毎月でも祭りをやってほしいよ。
和之助  藩が潰れるぞ。
征一郎  倹約、倹約か。しかし、祭りの時ばかりはどんな馬鹿騒ぎをしてもお目こぼし
     だ。いちいち目が届かんからな。
和之助  ………。ああ。
征一郎  お前も出掛けるんだろう。
和之助  (ぎくりとして)ああ……母の供をするかもしれん。お前は。
征一郎  俺か。俺は……
─── 征一郎はちょっと照れ臭そうにした。
和之助  どうした。
征一郎  宵宮は妹たちを連れて出掛ける。
和之助  そうか。……実家で過ごすのは最後だからな。
征一郎  ああ。で、本祭の日は……あっちの顔を見に行こうと思っている。
和之助  あっち?
征一郎  橋本の娘だ。
和之助  ああ……多紀どのか。
征一郎  うむ。
和之助  会う気になったのか。
征一郎  こっそり行くんだ。そろそろ、覚悟しておこうかと思ってさ。
和之助  覚悟?
征一郎  祭りの夜なら、どんな娘だって多少は見られるなりをして出かけるだろう。祝
     言の日に見て飛び上がるようなご面相じゃ困るからな。
和之助  まさか。義姉上が聞いてきた話だが……橋本の多紀どのはなかなか器量がいい
     らしいぞ。
征一郎  本当か。
和之助  ああ。よかったな。
征一郎  しかし、人の噂はあてにならんと言ったのはお前だぜ。
和之助  自分の目で確かめたらいいさ。
征一郎  ああ。本当に美人だったら、あとで自慢しに行くぞ。
和之助  ………。
─── 征一郎が祭りの後で報告に来ても、和之助は家にいないだろう。


─── 祭りが始まっても、和之助は部屋にこもっている。母が来た。
母    扇町の山岡塾でご一緒という、金井修平どのと、宮田助五郎どのというお方が
     おみえですよ。宵宮の踊りを見に行かぬかとのお誘いです。
和之助  ……お断りして下さい。
母    よいのですか。
和之助  熱がある、とでも言って下さい。
─── 和之助は、書物に目を落としている。
母    秋の考試が近いからといって……仮病を使って人さまを出し抜こうというのは
     感心しませんね。
和之助  これでも必死なのです。遊んでいるゆとりがありません。
母    ほほ……私は娘の頃、あのお囃子を聞くとじっとしていられなかったものです
     けど。
─── 母は、笑いじわを寄せた。
母    あすの本宮には出掛けるのでしょうね。
和之助  わかりません。
母    まあ。皆、出払ってしまいますよ。
和之助  いいですよ。気が向いたら町へ出て……征一郎とでもおちあいます。
─── 嘘であった。征一郎には家族と出掛けると断ってある。
母    そう。もう、家の者について歩く年ではありませんね。大きくなって。
和之助  ………。
母    では、せいぜい今夜は学業にお励みなさい。後で、そばでもゆでてあげましょ
     う。
─── 母が去った後、和之助は机にひじをつき、思わず顔をおおった。
和之助  (母上……お許し下さい。)
─── さすがに、父母のことを思うと胸が痛んだ。
和之助  (しかし、小郷の家には兄上がいる。義姉上も……孫の道之助もいる。私には
     薫乃しかいない。)


─── その刻限が来た。和之助は、町外れの廃寺の境内にいる。ここで持参の包みを解
   き、旅装を整えた。背後の山道を乗り越えれば、国外へ抜けることが出来る。
和之助  (ご城下も見おさめか。)
─── 小高くなった寺からは、祭りの賑わいで普段より格別に明るい町の灯が見える。
   風に乗って、囃子の音も聞こえている。
和之助  (あの町を捨てても……薫乃と二人で生きる。生涯に二度とは得られぬ人だ。
     悔いはない。)
─── 小郷の家も、留守番の下男を残して皆、出掛けている。和之助の文箱の中には、
   出奔を詫びた書き置きがある。
和之助  (薫乃は女中と出て、人込みの中ではぐれて来ることになっている。あの灯の
     多さでは、町中はまだごった返しているだろう。)


─── しかし、その町の明かりが徐々に弱くなり、次第に暗闇と化しても、女は現れな
   かった。近づく者の気配すらない。
和之助  (遅い……遅すぎる。)
─── かれこれ、約束の時間から一刻半(三時間)は過ぎているだろう。
和之助  (すでに、町の木戸も閉まっているはずだ。)
─── 和之助は呆然とした。薫乃が約束を裏切った、と悟るまで、我が身の置かれた立
   場が信じられなかった。
和之助  薫乃……。
─── 白昼に全裸で自分を迎え入れたほどに深く契った女が、保身のために自分を捨て
   たのは明らかだった。和之助は腰の刀をぎらりと抜き、闇の中で立木を切った。



               
次回 (五)へつづく
                  (五)より後編、改名して小木和弥編とする。
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