誠抄
第 14 回

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こぬか雨
(五) 転  身


                                    1  ▼


─── 慶応元年春になっている。小郷和之助は江戸市中で浪々の身となっている。
和之助  三年か……早いものだな。
お崎   何が?
─── 今は、髪結いのお崎という女と同棲している。と、いうよりもヒモであった。
和之助  何でもない。
お崎   江戸に来て二年だろ。
─── お崎は鏡台に向かって、やや濃いめの化粧をしながら話している。
和之助  脱藩して三年半だ。
お崎   へえ……。そう。
和之助  お前の猫が、三つになるなどと言うからさ。
お崎   そうだよ。あたしの子。
─── お崎は笑っている。
お崎   拾ってきた時はこーんなにちっちゃくて、手鞠みたいに可愛かったのにさあ。
     今じゃすっかり放蕩息子になっちまって、あちこちのメス猫をはらまして歩い
     てるらしいよ。
和之助  さかりのついた放蕩息子……か。
お崎   こないだ、三河屋のおかみがさ、「お宅のごろつきが大事な娘を孕ませた、ど
     うしてくれる」なんて血相変えて怒鳴り込んで来るもんだから、あたしゃてっ
     きりあんたの事だと思ってアワくっちまったわよ。そうしたら、飼ってる白猫
     のメスだっていうんだから、馬鹿みたい。
和之助  ………。(苦笑している)
お崎   だから言ってやったさ。「猫は猫どうし、オスとメスがくっつきゃ、子ができ
     るのは当たり前だろ。大体、あんたんちのメス猫が御馳走のエサの匂いでもぷ
     んぷんさせて誘ったあげく、うちのトラをくわえこんだのかもしれないじゃな
     いか。そんなにご大層なお嬢様なら、蔵に鍵かけて閉じ込めておきやがれ。」
     ってね。
和之助  大層な剣幕だな。
お崎   だって、猫のアレはメスから誘うっていうじゃないか。
和之助  へえ……。
お崎   目の前で真っ白い尻を振られて、アアーン、なんて悩ましい声を出されてごら
     んよ。男のトラが我慢できるもんか。(笑う)
和之助  ………。
お崎   あんたもさ、若い娘に流し目されて、うっかりとついて行くんじゃないよ。畜
     生だって人間だって、性根のしたたかなのは女の方だからね。
和之助  お前も女じゃないか。
お崎   そうさ。したたかでなきゃ、若い浪人者の男なんざ、食わしていけるもんか。
     あら、おしゃべりしてたら遅くなっちまう。
─── お崎は肩の手拭いをぱっと取り去って立ち上がり、
お崎   じゃあ、稼ぎに行ってくるからね。これで、好きなもんでも食べててよ。
─── お崎は和之助の財布に小遣いをしまうと、忙しく下駄の音をさせながら出ていっ
   た。
和之助  髪結いの亭主か。いや……亭主にもなれぬ厄介者のヒモだ。
─── 和之助は独り言を言って、酒を飲んでいる。


─── あの夜、和之助は一人で領国を抜けた。今更引き返したのでは、なおさらに自分
   が惨めであった。それからあちこちをさまよい、食えなくなって江戸へ来た。
和之助  (江戸へなど、来たくはなかったが……田舎町では食い詰め浪人の暮らす余地
     がない。それに……)
─── 和之助はふと、かけてある刀を見た。
和之助  (あの頃は……俺を裏切った薫乃を、斬るつもりだった。)
─── 薫乃はあの秋、予定通りに江戸の奥勤めに入ったという事はわかった。
                   
はしため
和之助  (しかし、奥女中と言っても……婢ではない。屋敷の奥深くひそんでいる身分
     の者をつけねらう事も出来ぬ。)
─── そうでなくても脱藩の罪人である。藩邸の近くに出没することも出来ぬ身の上で
   あった。
和之助  (何もかも失望して……あげくの果てがこのざまだ。)
─── 藩校指折りの才人と言われた学問も武芸も、食っていく役には立たない。プライ
   ドの高い和之助には、日雇い人夫の仕事などは出来なかったし、用心棒の仕事は優
   男の風貌が邪魔になった。回想。
遊廓の主 ご浪人。あんた、確かに腕は立つようだが……姿がいけねえ。
和之助  姿?
遊廓の主 色男すぎる。用心棒には腕前はもちろんのこと、見るからにおっかなそうなツ
     ラがなくちゃいけねえのさ。その方が喧嘩を未然に防ぐことになる。それに、
     うちの女郎どもとひょんな気を起こされたらかなわねえ。
和之助  ………。
─── 従って、その容姿を生かして食うためには、小金のある女に養われる位しか手が
   ないのであった。
和之助  (お崎は、さばさばした女だが……)
─── 和之助は薫乃との恋に破れた反動のように、あけっぴろげで庶民的な女の肌を求
   めた。それは当初は新鮮であったが、やはり和之助はその誰にも本気で恋をするこ
   とはできなかった。
和之助  したたかでなきゃ、若い男を食わしてやれぬ……か。はっきりと言うものだ。
─── 和之助はぶらりと、着流しで外に出た。


─── 居酒屋。まだ早い時刻で、客は混んでいない。一段高い畳敷になったところで、
   ついたての向こうから人の話し声が聞こえてくる。
男1   おい、おぬしもやはり試験を受けるのか。
男2   やってみる価値はある。
和之助  (試験?)
男1   よせよせ。あそこは、金回りはいいが……おそろしく厳しい仕事だという。命
     がいくつあっても足りぬぞ。
男2   しかし、今時江戸の片隅で埋もれていても、仕方あるまい。同じ浪人でも、新
     選組ともなれば大した違いだ。副長の土方歳三という男は、大身の旗本かと思
     うような黒羽二重の羽織を着て歩いていたぞ。京都でも、局長の近藤勇などは
     守護職始め幕閣の大名、要人と直談しているそうだ。
男1   しかしなあ……京都は物騒だ。
男2   受かると決まったものではないが……入隊には身分、経歴、学識は二の次で、
     剣の実技が何より物を言うらしい。
男1   では、おぬしなど駄目だろう。(笑う)
男2   しかし、副長の土方自ら数十名の新参を募集に来ているという、めったにない
     機会だ。ここで許可を受ければ、京都までの旅費は向こう持ちで連れていって
     もらえる。勘兵衛などはわざわざ京の屯所へ出掛けて行って不合格になり、そ
     のための路銀が丸損になったというからな。
男1   ははは。俺はごめんこうむりたいね。
和之助  (新選組……昨年の池田屋騒動で名を上げた浪士組か。)
─── 和之助は興味を持った。ひょい、とついたての横から顔を出し、
和之助  ご両所。
男1   何だ。
和之助  俺が酒をおごろう。その代わり、今の話……詳しく教えてくれぬか。
男2   おぬしも、試験を受けたいのか。
和之助  関心はある。
男2   いいとも。よければ土方の入隊試験に、同道しようではないか。
男1   おい。
男2   いいじゃないか。一人では心細いと思っていたところだ。



                                    2 ▼ ▲

─── 和之助は、牛込の近藤邸に滞在している、新選組副長土方歳三の試験を受けてい
   る。実技の後の面接であった。
土方   小林平八郎君か。
和之助  はい。
土方   偽名だろう。
和之助  は?
土方   馬鹿にしてはいけない。赤穂浪士討ち入りの時の、吉良方の一人じゃないか。
     無学の私でも、史書くらいは読む。
和之助  ばれましたか。
─── 和之助は苦い顔で笑った。
土方   脱藩して変名を名乗る者は多いからな。本名は何という。
和之助  小郷和之助です。
土方   こごおり……?
和之助  小さい、に郷里の郷、という字を書きます。
土方   郡という字ではなく?
         
おおごおり こごおり
和之助  は。国元に大郷、小郷という名の村があります。家中にその二家の姓があるの
     は、その土地から出たものだといいます。もっとも、大郷の方は呼びにくいた
     めか、「だいごう」という読みを名乗っていますが。
土方   ふむ。その旧藩を脱した理由は?
和之助  お話しすべきでしょうか。
土方   藩から追手がかかるような罪人なら、知っておかねばならぬ。
和之助  それは、ありますまい。父母も、私がなぜ脱藩などしたのかわからぬ、と戸惑
     ったことでしょう。
土方   ほう。
和之助  ひそかに通じた女と駆け落ちしようとして……失敗しました。
土方   駆け落ち?
和之助  こっちはそのつもりで待っていたのに、女が待ち合わせた場所に現れなかった
     のです。
土方   ほう。それなのに、君一人で国を抜けたのか。
                            
ごうはら
和之助  出奔の覚悟で出たものを、のこのこと家に戻るのも業腹でしょう。
土方   なるほど。それは、いつの話かね。
和之助  三年半ほど前のことです。
土方   すると、当時は十九か。
和之助  はい。
土方   若いな。
─── 土方は珍しく、声を上げて笑った。
和之助  初めての女で、のぼせ上がったのです。我ながら、みっともない理由で脱藩し
     たものだと恥じ入ります。
土方   ふ……。初めての女、か。
─── 土方は、和之助の顔をまじまじと見た。失敗談を話す時、笑ってこちらに媚びよ
   うともしない。
土方   (こいつ……若い頃の俺に似ている。青二才のくせに妙に気位が高い。)
─── 土方は話を続けた。
土方   君は学があるらしいが……もし入隊すれば、文官のような仕事を望むかね。
和之助  とんでもない。
土方   とは?
和之助  出世のために詰め込んだ教養など、今となってはただのお飾りに過ぎません。
     そんな物が役に立つなら、寺子屋の師匠でもしますよ。
土方   寺子屋の師匠は嫌かね。
和之助  頼まれて教えにいった少年の姉と、そういう仲になりました。そんな男に、子
     供を教える資格はないでしょう。
土方   そうか。では、剣術を生かして働きたいのだな。
和之助  他に、これといった取り柄はありませんから。
土方   確かに剣の才能はある。しかし、若いわりには体が鈍っているようだな。
和之助  は……その通りです。
土方   新選組の仕事は……いや、普段の稽古からして相当きついぞ。やっていけるか
     ね。
和之助  やっていけなければ、死ぬことになると聞いています。
土方   それでも平気か。
和之助  さしあたって、命を惜しんで守らなければならぬほどのものは……何もありま
     せん。女髪結いに食わせてもらっているよりはましな日々が送れるかもしれま
     せんな。
土方   (小生意気な若造だ。)
─── 土方は、この若者が気に入っている。



                                    3 ▼ ▲


─── 和之助は採用され、出発の集合場所に出向いている。その頃、江戸では髪結いの
   外回りから帰ったお崎が、鏡台の上に張り付けられた書き置きを開くと、中からは
   小判一枚が転がり落ちた。
お崎   あん畜生、恩知らずっ!!
─── 文には、「和之助もなかなかのしたたか者にて、一人で食ふ算段を見つけ候。お
   世話様にあいなりかたじけなく候。さらば」と書いてある。

               
お ぎ かずや
─── 和之助は入隊に際し、「小木和弥」と改名している。小郷では何かと読みにくい
   ためだが、土方が尋ねた。
土方   小木和弥、か。和弥はわかるが、小木はなぜかね。
          
しょうぼく
和弥   しょせん、小木のごとき人間ですから。「かずや」は一か八か、という言葉に
     字を当てたものです。
─── 土方は手のひらに「一八」と指で書いている。
土方   なるほど。
─── 土方は、それ以降道中で個人的に話しかけようとはしなかった。今回の新入隊士
   は五十名を越えている。観察していると、その誰に対しても同じであった。
和弥   (誰にも、特に親しみを見せたりはしないということか。)
─── 和弥は、ひそかに土方を尊敬した。
和弥   (上に立つものはその位の姿勢でいてくれた方がいい。藩校でも道場でも、目
     上のものから可愛がられると、思わぬ嫉妬を買った。)
斎藤   小木君。
─── 土方に同行していた助勤(組頭=各隊長)の斎藤一が、一人離れて休憩している
   和弥に、話しかけてきた。
和弥   何です、斎藤先生。
斎藤   (小声で)ここだけの話、あんたは土方さんに気に入られたらしいよ。
和弥   え?
斎藤   上洛に際して改名したのはあんたが初めてじゃない。あの(と、視線を伊東の
     方にやって)参謀の伊東先生などもそうだったが……土方さんはあんたの改名
     の由来を知って、にやにやと笑っていた。
和弥   は?
斎藤   「普通なら気負いこんで格好のつく名に変えるものだろうに、小木がイチかバ
     チかで京へ行くときた。若いくせにいちいちひねくれているのは昔の俺にそっ
     くりだ。」とさ。
和弥   土方先生に……?光栄ですな。
斎藤   あの人がひねているのは、若い頃だけの話じゃないがね。(笑う)
和弥   はあ……。
斎藤   その後、「それでも親にもらった名前の二文字を残してあるところなんざ、可
     愛げがあるじゃないか」と言っていた。
和弥   ………。
─── 和弥、見抜かれて照れくさそうな顔をする。



                                     4 ▲



               
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