誠抄
第 16 回

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こぬか雨
(七) 時  勢


                                    1  ▼


─── 京の町並み。外では、物売りの声がのんびりと行き交っている。
声1   花、いらんかえー……
声2   くろき買わんせ、くろき、召しませー……
和弥   京は、物売りまで雅びなものだな。
─── 和弥は、「栄林堂」と看板をあげている小さな書店の店先に座っている。年老い
   た店主が相手をしている。
           
おはらめ
店主   へえ。まあ、大原女も近頃は安心して商売が出来るようになりましたやろ。
和弥   と、いうと?
店主   二、三年前は天誅騒ぎがえらいことで……新選組が出来てから、都大路はずっ
     と静かでようなりました。
和弥   お世辞を言うな。
店主   いやいや……ほんまのことどすさかいに。人は、新選組いうたらむやみに恐れ
     てはるようどすけど、中にはいろんなお方がいてはります。乱暴者ばかりとも
     限らしまへん。
和弥   ふむ。
店主   小木はんみたいに、非番の時はこうして書物に親しむような……お品のええ方
     もおいやすとは思うてしまへんやろなあ。
和弥   しばらく、本を読むのも忘れて暮らしていたからな。久しぶりに読みだすと、
     面白くてやめられんのさ。それに、田舎では手に入らなかったものも多い。
店主   へえ。
─── 女房が茶を運んできた。
女房   小木はん、どうぞ。
和弥   すまん。
店主   こいつ、小木はんが来るとなんやそわそわして……年は食うても、女子は女子
     どすなあ。
和弥   え?
女房   ほ、ほ、ほ。そら、毎日こんなおじいちゃんとホコリくさい本に囲まれて暮ら
     してんのどすさかいに、ええ男はんがおいでてくれはったら嬉しいに決まって
     ますがな。
店主   あほ。


─── 屯所の風呂。和弥ら平隊士数名が、賑やかに入っている。
隊士1  昨夜の女はどうだった。竹野屋一の売れっ子の、小春。
和弥   まあ……並の上だな。
隊士1  あれでか。
和弥   値段なりに手頃というところだろう。別にそれほどの女でもなかった。
隊士2  おい、それを言うなよ。こいつは小春に袖にされたんだぜ。「うちは、どうし
     ても小木様の方へ行きたい」と言ってな。
和弥   それは……知らなかった。すまぬ。
隊士1  しかたない。もてる奴には勝てんよ。
隊士3  小木は、どんな女が望みなのだ。
和弥   さあ……今は、取り立ててないな。
隊士2  小木は贅沢すぎる。あまり望みが高いと、一生一人者で終わるぞ。
和弥   かまわんさ。お先。
─── 和弥は、ざぶっと湯から上がった。
隊士1  あーあ、島原へ行っても、和弥にいいところばかりさらわれる。しかも、あい
     つの方は女などどれでもいいよ、とすましているのだからな。
隊士2  もてる奴ほどがつがつしないもんさ。


─── 隊士たちの声をあとに、和弥は風呂場の外で体を拭っている。
和弥   島原……か。
─── 昨夜、仲間に誘われて島原に出た。むろん、平隊士たちの懐に見合った店に上が
   るのである。隊の宴席でもなければ、角屋などの高級店はまず利用することもなか
   った。
和弥   (紫太夫が身請けされた、と聞いたのはいつだったかな。)
─── 初めて島原の夜を体験した時の女の顔が、ふと浮かんだ。  
ひか
和弥   (たった一夜の客では、むこうなど覚えてもいるまいが……落籍されて九州の
     どこかへ去った、と聞いた時は……かすかに胸が痛んだものだ。俺にもまだ、
     そういう可愛げが残っていたとは思わなかった。)


─── 湯上がりに庭の縁台で涼んでいると、斎藤一が声をかけた。
斎藤   小木君。
和弥   はい。
斎藤   今夜、仕事がある。ついて来てくれ。
和弥   はい。


─── 和弥は、ある商家の屋敷にいる。隊士が数人、小座敷で佩刀を立てかけて待機し
   ている。
和弥   (秘密の談合らしいな。)
─── 選ばれたのは、隊でも腕利きの上に、口がかたいので通った者ばかりだった。突
   き当たりの灯のついた部屋が見えるように、小窓が開けてある。廊下を一人の武士
   が頭巾を被ったまま歩き、静かに入って行った。
和弥   (おおかた、藩の借金の相談か……そんなところだろう。)
─── 一刻ほど待たされ、隊士たちは外に出た。駕籠が二丁、中で談合していたらしい
   要人が乗り込み、斎藤の指示でそれぞれ数名の護衛がついた。ところが、最後に入
   ってきた頭巾の武士は一人で帰るという。
武士   帰路、寄る所があるので、ここで失礼する。貴殿らは駕籠に従っていただきた
     い。
斎藤   それは、出来ませんな。すべてのお客人を無事に送り届けるのが、我々に依頼
     された仕事です。
武士   いや、折角のお申し出だが、それがしに護衛はいらぬ。
斎藤   我々が信用できませんか。
武士   ………。
─── 武士はちょっと考えて、
武士   では、お一人だけ借り受けよう。
斎藤   一人?
武士   それとも新選組は、複数の人数をなさねば動きませんか。
─── 斎藤は、ちょっと嫌な顔をした。
                 

武士   あの若者を……彼は、腕が利くと見ました。
─── 武士は、和弥を指名した。



                                    2 ▼ ▲


─── 和弥は、武士と二人づれで夜道を歩いている。無言であった。小橋の上を渡る時
   武士の方から話しかけてきた。
武士   お若いかた。名は、何と申される。
和弥   新選組三番隊、小木和弥。
武士   かずや……。
─── 武士は、ちょっと首をひねった。
武士   くにはどちらかな。関東、あるいはもう少し北の方か。
和弥   失礼ながら、人に物をお尋ねになる時は、わが名を先に申されるのが礼儀かと
     存ずる。
武士   ほう。
和弥   私は、あなたの名も素性も存じませぬ。また、内密のご用とあれば、知ろうと
     も思わぬ。従ってこちらの素性を申し上げる必要もございますまい。
武士   なるほど、すまなかった。
─── 武士は、頭巾の中でくすっと笑っている。それきりまた無言になった。ふと、二
   人とも耳をそばだてた。数人の足音を聞き取っている。
和弥   (小声で)下がっていて下さい。
武士   殺さずにおいてくれ。蹴散らすだけでいい。
─── 武士は冷静な声でそう言うと、塀ぎわにさがった。足音は次第に高くなり、
男    奸賊っ!
─── という声を皮切りに、覆面をした四人の武士が抜刀して襲いかかってきた。
和弥   ───。
─── 和弥は、頭巾の武士の指示通りに、刀の峰を返したまま、二人まで鋭く打った。
   敵の腕はさほどではない。
男    そ、そいつ、出来るぞ。ひけ、ひけっ。
─── 敵はまた、あっという間に逃走した。和弥は刀を納めて頭巾の男の方を振り返り、
和弥   散りましたが……あれでよかったですか。
武士   ふふ。おぬし、やはり……小郷。小郷和之助だな。
和弥   えっ。
─── 和弥は驚いている。武士は、はらりと頭巾を取った。
武士   同国のものだ。私の名は……西条源吾。
和弥   西条……あっ。
─── かつて薫乃に恋慕し、婚約者の須美という娘を死なせたといわれる西条源吾であ
   る。江戸詰めになった、という話は和弥も聞いていた。
西条   知っていたか。
和弥   ………。なぜ、私を。
西条   おぬしが少年の頃を知っている。誠武館道場に通っていたろう?
和弥   ………。
西条   筋のいい子供だと感心して見た覚えがある。今の手筋……間違いあるまい。
和弥   私は、あなたを知らぬ。
西条   嘘をつけ。木暮の薫乃どのの名を傷つけた男を、知らぬはずがない。
和弥   ………。
西条   国元を出奔したと聞いたが、まさか新選組の一員になっているとは知らなかっ
     た。驚いたな。
和弥   脱藩者を見つけたと、藩邸に報告でもしますか。
西条   まさか。今の時勢で若い者の脱藩など珍しくもない。血気にはやって行動する
     者は他にいくらでもいる。
和弥   わが藩……いや、旧藩でも?
西条   そう。今私を襲ったのも、わが藩の子弟だよ。
和弥   え。
西条   だから殺すなと言ったのだ。
和弥   なぜ……あなたを狙った。
西条   (くすっと笑って)脱藩者に、内情は明かせぬな。
和弥    ………。
─── 和弥は、むっとした。西条はかつて噂に聞いた通り、明晰で姿もよく、男がみて
   もほれぼれするような男であった。しかも、年若い和弥を手のひらで転がすような
   静かな余裕がある。
西条   私は、公用でしばらく京都藩邸にいる。もしも……だが、脱藩者でいるのが嫌
     になったら、たずねて来るといい。
和弥   大きなお世話です。
西条   そう言うような気がした。
─── 西条は、生意気な弟を見るような目をして笑った。
和弥   (初対面のくせに……馴れ馴れしい男だ。)
─── 和弥は、そのまままた黙って、西条の後を歩いた。西条はふと道を折れて、待た
   せていたらしい屋形舟に乗ろうとしている。
和弥   どちらへ。
西条   ここまででいい。中に、人がいる。
和弥   しかし。
西条   同藩の人だ。屋敷へは彼らと一緒に戻るから心配はない。
和弥   別に心配はしておりません。あなたは加納道場の天才と言われた人だ。
西条   君のほうが、一人で帰るのがこわいかね。
和弥   馬鹿な。
西条   そう。天下の新選組だからな。
和弥   では、ここで失礼いたす。
西条   小郷。いや……小木和弥殿だったな。
和弥   まだ何か?
西条   いや。先程は、ありがとう。礼を言うのを忘れていた。
和弥   仕事ですからな。
西条   気をつけて帰りたまえ。
和弥   あなたも。
─── 西条が舟に乗り込み、和弥は船着場に背を向けた。
西条   和之助。
和弥   え?
─── 和弥は思わず振り返った。その時、西条はぽん、と紙入れを投げてよこした。
西条   酒でも飲め。つりはいらぬ。
和弥   な……。
─── 和弥が投げ返そうとすると、舟はすでに川岸を離れている。
和弥   あんたから、こんなものをもらえるか。
─── 和弥は叫んだ。
西条   とっておけ。おぬしとは浅からぬ縁だ。
─── 西条は笑って、屋形の中へ入ってしまった。
和弥   くそっ!
─── 和弥は紙入れを川へ投げ捨てようとして、思いとどまった。中を開けてみた。
和弥   あ。
─── 中には、酒代にはやや多い金と、西条の署名をした文が入っている。
和弥   「この者、家中に戻りたる時は拙者身の上を預かるべく候」……だと。
─── 和弥は唖然としている。
和弥   いつ書いたのだ。
─── おそらく、会合のためにあの屋敷へ来た時、すでにこちらの顔がわかっていたの
   ではないか。
和弥   (かなわぬ。)
─── ふと、忘れていたはずの薫乃の顔がよみがえった。
和弥   (あの男の後では……俺など、よっぽど頼り無い子供に見えただろうな。)
─── 薫乃が家を捨ててまでついて来なかった理由を、あらためて思い知らされたよう
   な気がした。和弥は川面を眺めている。



                                    3 ▼ ▲


─── 和弥は金を持って帰り、屯所で斎藤一に相談した。
斎藤   酒代をもらったって?
和弥   はあ。どうしようかと思いまして。
─── 斎藤は、珍しく声をたてて、愉快そうに笑った。
斎藤   小木君は、正直だな。
和弥   子供が駄賃をもらったようで、癪にさわります。
斎藤   途中、暴漢を追い払ったのだろう。
和弥   それも……仕留めませんでした。
斎藤   ああ。先方から事情を聞いている。
和弥   え?
斎藤   あそこも時勢論がいろいろと分かれていて、藩の方針に不服を唱えるはねっか
     えりの若い者たちが脅しをかけて来たらしい。斬らずに逃がしてくれと頼んだ
     のはこちらであって、小木君の不覚ではないから、承知してくれと言ってきた
     そうだ。
和弥   ………。
斎藤   ちょっと、貸してくれるか。聞いてこよう。
─── 斎藤は和弥から紙入れを受け取った。書状だけはさすがに抜き取ってある。


─── 斎藤はすぐに戻ってきて、
斎藤   土方副長に許可をもらったよ。皆で飲む足しにしろ、だと。
和弥   そうですか。
斎藤   一人で帰る、と言い張った時は、内心嫌な奴だと思ったが……なかなか、出来
     た人物のようじゃないか。
和弥   キザな男ですよ。
斎藤   ほう。


─── 和弥は庭に出て小者の久助が焚き火をしているところへ行き、西条の紹介状をぱ
   っ、と投げ入れた。
久助   おや……お文ではおへんのか。
和弥   ホゴさ。
久助   そうどすか。小木はんはええ男やさかいに……誰ぞの恋文と違いますか。
和弥   こんな無粋な恋文があるもんか。
─── 和弥は苦笑して、その場を離れている。
和弥   (しかし、あの男……)
─── と、ふと思った。
和弥   (脱藩者など珍しくもない、と言っていたな。それにあの密談、刺客。)
─── 和弥は、国元を出る時の秋祭りの賑やかさを思い出している。
和弥   (あの、のんびりした藩内にも……世情の波が寄せてきているというのか。信
     じられぬ。)
─── 和弥自身は、国事とも思想とも何ら関係のない理由で脱藩した。
和弥   (あれから五年か……小郷の家族や、征一郎たちはどうしたろう。)
─── 母の顔が真っ先に浮かんだ。続いて、今は結婚して城勤めをしているはずの征一
   郎の姿が。城から帰って、裃のまま赤ん坊でも抱き上げているだろうか、と思った
   時、その映像は瞼の裏でぱちん、とはじけて消えた。
和弥   想像もつかん。


─── 慶応二年冬。和弥は斎藤に呼ばれている。
斎藤   小木君、ちょっと出掛ける。ついて来てくれ。
和弥   は。
─── 和弥、隊の制服を手にとろうとする。
斎藤   ああ、私服の方がいい。
─── 和弥は言われたとおりに私服の羽織を着て屯所の門を出た。短い日が落ちつつあ
   る。
和弥   私一人ですか。
斎藤   うむ。
和弥   どちらまで?
斎藤   野暮用だ。
和弥   はあ。


─── 祇園の町並みを抜けて、小じんまりとした寺の門前に着いた。
斎藤   すまないが、私が出てくるまでの間、ここで待っていてくれ。
和弥   は。
斎藤   門内へ入ろうとする者がいたら止めてほしい。また、君も中に入ってもらって
     は困る。
和弥   見張りですか。
斎藤   そうだ。
和弥   わかりました。


─── 斎藤が寺から出てくるまでの一時間ほどの間、和弥は震えながら、懐手で門前に
   立っていた。
斎藤   すまんな。寒いのに、気の毒だった。
和弥   いえ。もう、ご用はお済みなのですか。
斎藤   うむ。帰りに、祇園で一杯おごるよ。
和弥   そんな……
斎藤   遠慮しなくていい。体があたたまる。
和弥   その代わり、今夜の事は内緒ということですか。
斎藤   察しがいいな。
和弥   寺で密会とは……色っぽい話ではなさそうですが。
斎藤   ………。
─── 斎藤は、複雑な笑みを浮かべている。


─── 和弥と斎藤は祇園からの帰り、刺客に襲われた。
斎藤   (低く)小木君。
小木   は。
斎藤   祇園からつけられている。おそらく、五人。
小木   はい。
斎藤   酔っているか。
小木   多少。しかし、大丈夫でしょう。
斎藤   よし。
─── 辻を曲がった時、和弥は背後から斬り付けられた。
刺客1  天誅っ!!
─── 和弥は素早く体を交わして、横っ飛びに白刃を避けた。
和弥   何者だ。
─── 鯉口を切りつつ構えた。斎藤も間合いをとって刺客に向かっている。刺客たちは
   皆、手拭いで顔を覆っている。
和弥   闇討ちとは卑怯な。名乗れ。
刺客1  黙れ、裏切り者っ。
和弥   ?
刺客1  間者に名乗ってやる義理はない。
─── 刺客の一人が面を振り下ろして来た。和弥は反射的に抜刀して、相手の胴を一刀
   のもとになぎ払っている。絶叫が起きた。続いて打って出たものは、斎藤がまたた
   く間に片腕を切り落としている。
斎藤   新選組の斎藤一と知ってのことか。
─── 刺客たちはひるんだ。
刺客2  し……新選組?
─── 明らかに狼狽している。蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。倒れているのは、
   和弥が斬った一人である。
和弥   おい。
─── 和弥がかがみこんで肩をゆすると、男は虫の息でひとこと、
刺客1  け、権力者の……手先め……
─── と、憎々しげに言って、がくりと息絶えた。
斎藤   覆面を。
─── 和弥はうなずいて、男の顔から覆いを取った。
和弥   あっ……。
斎藤   知っているのか。
和弥   国元で顔見知りだった男です。確か、山岡……小三郎。
斎藤   藩士か。
和弥   城下で国学の私塾を開いていた山岡儀左衛門という人の弟ですが……。
斎藤   身なりからして、浪人者のようだが。
和弥   なぜ、山岡先生の弟がこんなことを……。
斎藤   あの様子では、君を狙ったのは間違いないな。
和弥   ええ。しかし……間者とは何のことだろう。
斎藤   権力の手先、か。てっきり……
和弥   え?
斎藤   いや。心当たりはないのか。
和弥   まるでありません。
斎藤   君の脱藩の理由は、女がらみだったな。
和弥   そうです。まったくの私事で……勝手に飛び出して来たのですから、恨まれる
     筋合いがありません。
斎藤   ふむ。何か誤解していたのではないかね。
和弥   薄気味の悪い……。
斎藤   どっちみち、同じ藩の出身である君が斬ったということがわかれば……まずい
     な。山岡先生、と言うからには恩のある人なんだろう?
和弥   ええ。くにを出る前……数ヶ月ほど、教えを受けたことがあります。
斎藤   なおさらまずいじゃないか。
─── 斎藤はちょっと考えて、
斎藤   小木君。君は、先に屯所へ帰れ。後始末は私が引き受ける。
和弥   えっ。で、でも……
斎藤   いいから。


─── 翌日、斎藤は自室に和弥を呼んでいる。
和弥   昨夜は、ご面倒をおかけして申し訳ありませんでした。
斎藤   いや。あの場合、斬るのが当然だろう。
和弥   は……。
斎藤   あの、山岡小三郎という男だがね。
和弥   はい。
斎藤   君の旧藩に問い合わせてみたが、知らんと言っていたよ。
和弥   え?
斎藤   「山岡小三郎などという男は、当藩には関わりない。何かの間違いだろう」と
     いう返事がきた。やはり、何らかの事情があって脱藩したのだろうな。
和弥   そう……ですか。
斎藤   知らんというものはしかたがない。こちらは、名も知らぬ辻斬りを成敗しただ
     けだ、と……そういうことにしておいたよ。
和弥   は……ありがとうございます。




                                     4 ▼ ▲


─── 和弥は数日して、無縁仏となった山岡小三郎の墓所に出掛けてみた。
和弥   (どうも腑に落ちん。俺が何をしたというのだ。)
─── 真新しい卒塔婆がうそ寒い空気の中に立っている。線香をあげた。
和弥   (……行きがかりとはいえ、同郷の者を斬るとは後味の悪いものだな。)
─── その時、同じく墓参りに来た一人の武士がある。西条であった。
西条   おや……奇遇だな。
和弥   (驚いて)あなたは。
西条   やはり、おぬしだったか。
和弥   え。
西条   山岡の弟が新選組を襲って討たれたと聞いて、もしや、と思ったが。
和弥   ………。
─── 和弥は、警戒したように口をつぐんだ。
西条   案ずるな。藩邸内に、おぬしの名は出ていない。
和弥   藩は、山岡小三郎を知らぬと申されたそうですな。
西条   五年も前に脱藩した部屋住みが、守護職お預かりの新選組隊士に闇討ちをかけ
     た、などと聞かされてはそう答えるしかあるまい。
和弥   五年前?
西条   そう。おぬしの脱藩と同じ年だ。
和弥   私は、山岡先生の弟ということしか知らない。なのに、この男がなぜ私を襲っ
     たのか、理由がわかりませんな。
西条   誤解だろう。
和弥   何の誤解です。
西条   山岡は、おぬしを斬ろうとした時に何も言わなかったか。
和弥   裏切り者の間者、権力者の手先……と。
西条   そうか。……馬鹿な奴だ。せっかく助けてやった命を無駄にしたな。
─── 西条は腰をかがめ、卒塔婆に線香をあげている。
和弥   助けた、とは。
西条   先夜、私を襲った一味の中に、この男もいた。
和弥   え?
西条   もとの小郷和之助が私と一緒のところを見て、誤解を深めたのだろう。おぬし
     が襲われたのは、いわば、巻き添えということだな。
和弥   どういう意味です。
西条   ……おぬしは、脱藩する時に誰かに理由を伝えたか。
和弥   いや。父母に書き置きはしましたが……理由は告げておりません。
西条   だろうな。
和弥   は?
西条   祭りの夜、おぬしが誰と約束をして出奔をはかったか私にはわかっている。
和弥   な……(赤くなる)
西条   しかし、あの人は来なかった。おぬしはそのまま引っ込みがつかなくなって、
     一人で山越えをしたんだろう。
和弥   なぜ、知っている。
西条   当人に聞いた。
和弥   ………。
西条   不服そうだな。同じ江戸勤めをしていれば、会うこともある。
和弥   ………。つまり、私よりも……江戸のあなたを選んだということか。
西条   は、は。(笑う)
和弥   何がおかしい。
西条   それこそ、誤解もいいところだ。まあ、あの頃のおぬしはまだ、藩校の学徒だ
     った。事情がわからなかったのも無理はないが、ことは、そんなに平たい話で
     はない。小郷……いや。今は新選組の小木殿であれば飲み込めるだろう。もと
     は藩の政治がからんだ話なのだ。
和弥   藩の、政治……何のことです。
西条   あの頃、おぬしを山岡塾やその他の会合に誘ったのは誰だったかね。
和弥   藩校の同期で、金井修平、宮田助五郎たちですが……
西条   そうだろう。彼らは、木暮家に出入りし、しかも文武に才のある小郷和之助を
     密約の同志に組み入れようとしていた。
和弥   同志?何の密約だ。
西条   ……わが藩は徳川譜代の家柄だ。殿は従来、公武合体策を支持され、藩も佐幕
     の色を公に示している。しかし、家中の若い者の中にはそれを不服とし、過激
     な勤皇論をかかげて反幕……いや倒幕まで唱える者もいる。中でも山岡兄弟、
     金井、宮田らはその急先鋒だった。
和弥   彼らが?
西条   そう。そして彼らはあの祭礼の夜、決起の会合を持った。藩の要人たちを斬り
     藩政をくつがえすためにな。
和弥   斬る───暗殺か。
西条   しかし、その計画は事前に漏れて、阻止された。彼らの動きを内偵していたの
     は、御番頭の木暮市右衛門殿と、その指示を受けた薫乃どのだ。
和弥   えっ。
西条   それだけではない。薫乃どのが江戸行きを決めたのも、奥向きと執政側とのつ
     なぎ役を果たすためだ。あの人は女ながら、いわばお父上の部下として藩政に
     関わっている。
和弥   ………。本当か。
西条   おぬしが薫乃どのへの恋慕に溺れている間、あの人は藩内の不穏な動きを知っ
     ていた。その当夜、おぬしがどこかへ逃れていてくれれば、彼らの密盟に加わ
     らずとも済む。また、それを拒んで彼らに斬られることもない。駆け落ちの相
     手が現れなければ、おぬしは失望するだろうが……頭を冷やして家に戻ってく
     れるだろうと考えたそうだ。しかしおぬしは戻らず、それが薫乃どのの唯一の
     誤算だった。おぬしは薫乃どのに裏切られたと思い込んでいるようだが、それ
     は違う。あの人は生臭い政争の中におぬしを巻き込みたくなかったのだ。
和弥   ………。
西条   計画が頓挫した後、山岡小三郎ら何名かの者は相次いで脱藩した。彼らは自分
     たちの謀議がなぜ察知されたのかわからず、その直前に謎の失踪をとげた小郷
     和之助……あれは御番頭の放った間者ではなかったかと疑っていたらしい。
和弥   私が?馬鹿な、濡れ衣だ。
西条   確かに濡れ衣だ。しかしまさか、手に手をとって駆け落ちのためとは思わぬか
     らな。
和弥   なぜ、あの人はそのことを、あなたに話したのだ。
西条   話さなければ、おぬしも山岡小三郎らと同類の反逆者と思われることになる。
     薫乃どのは、恥を承知で私に打ち明けたのだ。小郷和之助に国を捨てさせたの
     は自分のせいだ、とひどく悔いていた。
和弥   ………。
西条   私はその話を聞いて、正直……嫉妬したぞ。
和弥   後釜の私にですか。
西条   つっかかるな。(苦笑する)私がかつて、薫乃どのを思っていたのは本当だ。
     しかし私には、惚れた女のために国を捨てるほどの勇気はなかった。
和弥   あの人も、あなたと同じようにお家をとったということか。
西条   違うな。(微笑する)小郷和之助は、あのままいけば、藩内でも有望な将来を
     約束された前途ある若者だった。女連れで逃亡した愚か者と呼ばれ、貧困の中
     に埋もれさせてよいのか、と、薫乃どのは考えたろう。
和弥   ………。
西条   愛する者のために、自らはあえて身をひくということもある。
和弥   あなたがたのように、か。
西条   そう……私と薫乃どのは、男と女というよりは、もはや、共に働く同志として
     のみお互いを見ている。また、そういう形でしか─── 許されぬ。だから、
     小郷和之助というまっすぐな若者に少なからず嫉妬を覚えたというわけだ。
和弥   ………。
西条   若さとは、いい。無駄に散らさぬようにしたまえ。
─── 西条は山岡の卒塔婆をちら、と見て、口元をひきしめた。
和弥   ひとつお聞きしたい。
西条   何だね。
和弥   あなたがもしも私と同じような軽輩の身だったら……家もまつりごとも背負わ
     ずにすむ立場であれば、どうされた。
西条   さあ……。(少しの間)同じように、あの人を奪って逃げたかもしれんな。そ
     うすれば、薫乃どのとおぬしが出会うこともなかった。
和弥   ………。
西条   しかし、置かれた身分も立場も、境遇の順逆すべてを含めて人というものは成
     り立っている。もしも、ということはしょせんあり得ぬ話だ。
和弥   現実を受け入れて生きる、ということか。
西条   そうだ。現実がそこにある荷物だとしたら、誰かが背負っていかねばならぬ。
     自分が背負ったものを捨てることの出来る人もあれば、捨てられぬ人もある。
     違いはそれだけのことだ。
和弥   ………。
西条   邪魔をしたな。なぜか、おぬしとは知り合ったばかりのような気がせん。
─── 西条は立ち去ろうとして、ふと振り返った。
西条   薫乃どのの消息を知りたいか。
和弥   ………。いや。
西条   そうか。大きなお世話だったな。
─── 西条はふっと笑みを浮かべて、ふたたび背を向けた。



               
次回 (八)へつづく
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