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第 18 回 |
こぬか雨 |
(九) 再 会 |
1 ▼ ─── その年の秋に和弥は、屯所で文を受け取った。表書きの字を見て、 和弥 (女文字……征一郎かな。) ─── 征一郎は、時々こういういたずらをする。開けてみると酒の誘いであったりする ことがあった。 和弥 あっ。 ─── 中を開けて、和弥は目を疑った。 和弥 薫乃……。 ─── それは、京に来ているという薫乃からの文であった。 ─── 新選組屯所、道場。和弥は稽古中に思い切り脇腹を打ち抜かれて、板敷きの上に 転がった。伍長の大石鍬次郎が大喝した。 大石 どうした、小木っ。 和弥 く……。 大石 だらしないぞ。立たんか。 和弥 はいっ。 ─── 大石は、沖田総司や永倉新八ほどの天才肌ではないが、「人斬り鍬次郎」と異名 をとるほどのしたたか者である。勢いづいたのか、まるで猫が鼠をいたぶるかのよ うに和弥を右へ左へといたぶっている。周囲の者が眉をひそめた。 永倉 おいおい、もういいだろう。大石君。それじゃ稽古にならんよ。 ─── 剣術師範の永倉が割って入った。 大石 は、しかしこやつ……まるで力が入っておりません。 永倉 どうした、小木君。腹でもこわしたか。 小木 は……。 ─── 言いながら、永倉が和弥に目くばせをした。かばってくれている。 永倉 まあ、大石と小木じゃ名前が悪いや。初めから勝負がついているじゃないか。 は、は、は。 隊士 なるほど、大小ですな。 ─── 隊士たちの間で笑いがおこった。 ─── 和弥は巡察の前、井戸端へ出て、手桶の水をざぶっと頭にかけた。 和弥 大小、か……。 ─── ぶるっと震えが来た。 和弥 (これでは……初めての色事にのぼせて、征一郎に叩きのめされた頃と変わら んじゃないか。) ─── 六年前、十九の時に断ち切ったはずの思いだった。それが、たった一通の文で動 揺している自分が情けないのである。 和弥 (馬鹿な。俺はもう……あの頃とは違う。のこのこと、行けるもんか。) ─── ばさり、と隊服を羽織った。 ─── 町の飲み屋。和弥は、一人で酒を飲んでいる。 亭主 小木はん。もう、やめといた方がよろしいのやおへんか。 和弥 うるさいっ。 亭主 おお、こわ。なんや知らん、ここんとこ荒れてはりますな。 ─── 亭主が行ってしまうと、和弥は卓につっぷした。 和弥 くそっ。 ─── ぽん、と背中を叩かれた。 和弥 誰だっ! ─── 振り返ると、征一郎が立っている。 征一郎 よう。飲んだくれ。 和弥 お前……なぜ。 征一郎 なぜ、って……ここの店を教えたのはお前じゃないか。 ─── 征一郎は隣に座った。 和弥 そうだったか。 征一郎 お前が飲んで乱れるとは、珍しいな。いや……初めて見る。 和弥 放っておけ。俺にだって、酔いたい時はある。 征一郎 ほう。(苦笑する)それはそれは。 ─── 征一郎は、和弥の杯に酒を注いだ。 和弥 止めないのか。 征一郎 止めたってしょうがない。吐くまで飲めば気がすむだろう。 和弥 は、は、は。 征一郎 お前のことだ。何があった、と聞いたって隠すだろうからな。 和弥 ………。 ─── 和弥はそのまま、酒をあおった。 和弥 征一郎。 征一郎 なんだ。 和弥 お前……もし、もとの女房が、いま……会いたいと言ってきたらどうする。 征一郎 多紀か。(笑う)まさか、天地がひっくり返ってもそんなことはない。 和弥 もしも、だ。会って話がしたい、と言ってこの京へ来たらどうする。会うか。 それとも、無視するか。 征一郎 会うさ。 和弥 会うのか。 征一郎 勝手に出て来たからな。そのことで文句の一つも言いたい、と言われりゃ、多 紀の言い分だって聞いてやらなきゃいかんだろう。 和弥 自分を……裏切った女でもか。 征一郎 男女のあいだで、どちらか一方だけが悪い、ということはない。 和弥 ………。 征一郎 俺にも、あの女に対する思いやりが足りなかった、と、いう反省すべき点はあ る。初めから、ろくにわかってやろうともしなかったからな。 和弥 お前は……すごいな。 征一郎 そうでもないぜ。出来れば一生顔も見たくはない。あっちもそうだろう。 和弥 は、は。 征一郎 しかし……もしも向こうから会いたいなんてしおらしいことを言ってきたら、 多分、俺はあいつを許してしまうだろう。そう思うだけだ。思うだけで、そう いうことはまずあり得ない。あり得ないから言うのさ。 和弥 ………。 征一郎 お前は? 和弥 え? 征一郎 お前なら、許すか。そういう女がいたら。 和弥 ………。 征一郎 またまた内緒、か。 ─── 征一郎は笑いながら、自分も杯をあけた。 征一郎 会って来い。 和弥 征一郎。 征一郎 誰だか知らんが、会って来いよ。こんなところでくさくさしていたって、何の けじめもつかんし、解決にもならん。お前は、生真面目でまっすぐなのが唯一 のとりえじゃないか。だろ? 和弥 ……征一郎。 征一郎 なんだよ。 和弥 俺は、お前に言いたかったことがある。 征一郎 なんだ。 和弥 お前は……俺などよりずっと頭がいい。ずっと大人だ。世間のことも、人の心 も段違いによくわかっている。おまけに、いい奴だ。俺はお前を尊敬する。 征一郎 はっはっは。おい、酔っぱらってるな。 2 ▼ ▲ ─── 夕刻。屯所の部屋。皆、わいわいと夜の町に繰り出す支度をしている。 隊士1 小木、行かんのか。 和弥 いや……昨夜、古い友達と飲みすぎた。 隊士2 ははは。今日の巡察は辛そうだったもんなあ。 和弥 ああ。今夜は留守番をする。 隊士1 では、行ってくるぜ。 ─── 皆が去ってしんとしてしまうと、和弥は手文庫の中から薫乃の文を出して机に置 いた。 和弥 ………。 ─── 腕を組んで、静かに思索した。しばらくして和弥は新しい紙にさらさらと文字を 書きはじめた。 和弥 久助か。 ─── 廊下に気配がして、和弥は声をかけた。 久助 へえ。 ─── 和弥はふすまを開け、 久助 お呼びやそうで…… 和弥 うむ。すまんが、文使いを頼まれてくれんか。 久助 へえ。よろしおす。 和弥 この表書きの場所だが、わかるか。 ─── 久助は和弥の文を受け取ると、 久助 へえ。このへんのお屋敷なら……行ったらわかると思います。 和弥 そうか。では、頼む。 久助 小木様は、お若い時にかなりの秀才やったらしいと聞きましたが、……ほんま に見事なお手(筆跡)どすな。 和弥 お世辞はいいよ。 久助 いいえ。そやけど…… ─── 久助はその宛て名を見て、ふと黙った。 和弥 そう……女だ。 久助 こない、堂々とお宛て名書いて、かましまへんのどすか。 和弥 ああ。こっちがこそこそすることはないのだ。 久助 へえ……そうどすか。 ─── 久助は不思議そうな顔をした。秘密の恋文かとでも思っていたらしい。 ─── 久助はその夜戻って来て、手紙を差し出した。 久助 お返事を頂戴してまいりました。 和弥 早いな。 久助 へえ。(嘆息して)そやけど、まあ……えらいお美しいかたで…… 和弥 本人が出て来たのか。 久助 へえ。 ─── 和弥は非番の日を待って、料亭の庭にいる。薄日のさす昼の庭は東山の峰を借景 にして美しい。背後に草を踏む音が聞こえたが、和弥は振り向かなかった。 薫乃 お庭に出ていらっしゃいましたの。 和弥 ………。 ─── まぎれもなく薫乃の声である。 和弥 あなたに呼び出されるのは二度目だが……もう、部屋で待つような間柄ではな いでしょう。 ─── 和弥は、背を向けている。 薫乃 ……お顔を見せては下さいませぬか。 ─── 和弥は、つとめて無表情に振り返った。目があった。 薫乃 お久しゅうございます。 こ そ ず きん ─── 薫乃は髪を包んでいた藤色のお高祖頭巾を取って、礼をした。 和弥 ……しばらく。そう、六年ぶりですかな。 薫乃 ええ。 和弥 国元では、天神祭りの頃でしょう。 薫乃 ………。 和弥 私はあれ以来、見ていないが。 薫乃 私も……。 和弥 あなたは、なかなかお忙しいそうですな。 薫乃 怒っていらっしゃるのですね。 和弥 過ぎたことです。しかし……あなたに会って確かめておきたかった。 薫乃 私も、あなたの問いにお答えするつもりで、参りました。何なりと…… ─── 薫乃の目は、まっすぐに和弥を見つめている。 和弥 あの祭礼の夜に初めから、来ぬつもりでおられたのか。 薫乃 ………。 和弥 答えていただく。 薫乃 迷いました。 和弥 迷った? 薫乃 ええ。行きたい、とも、行けるはずがない、とも……その二つの思いで。 和弥 しかし、結局は来なかった。 薫乃 あのまま、あなたがお一人で国を抜けてしまわれるとまでは、予測しておりま せんでした。私が行かなければ、思いとどまって下さるものと……。 和弥 私のためだというのか。 薫乃 ………。 和弥 あなたは、自らの保身のために若造の私を捨てて、お家を選んだのだ。私はそ う思っている。 薫乃 何と思われても仕方はございませぬ。 和弥 あなたにとっては、江戸へ発つ前の……ほんの火遊びにすぎなかったかもしれ ぬが、私は本気だった。今になって女を責めても甲斐のないことだとはわかっ ているが。 薫乃 火遊びだなどと……それは、違います。 和弥 どう違う。あなたは、私をもてあそんだのだ。美しい自分にのぼせ上がって、 駆け落ちまでしようとした馬鹿な男を見て、さぞご満足だったろう。 薫乃 和之助様。 和弥 私は、もうその名ではない。あなたとの過去と共に捨てた。 薫乃 和之助様……お許し下さいまし。 和弥 許す? 薫乃 私の気持ちに嘘はございませんでした。でも、結果としてあなたの将来を奪い ……思わぬ方角に曲げてしまった。そのことについては、お詫びせねばなりま せぬ。それだけが言いたくて……あなたの前に現れました。どうか、許して下 さいまし。 和弥 言ったろう。今さらのことだと。 薫乃 承知しております。 和弥 ………。 ─── 和弥は意外な思いがした。目の前の薫乃は、外見こそ若々しいままだが、あの当 時よりひとまわりも強い女に成長をとげているようだった。 薫乃 ……泣くとお思いになりまして? 和弥 昔の、薫乃どのなら……。 薫乃 あれ以来、私には寄り添って泣く胸がございませぬ。 和弥 嘘だろう。 薫乃 小郷様は、私をよほどの嘘つき女だと思っていらっしゃいます。 ─── 薫乃は、静かに微笑した。 和弥 そうとでも思わねば、やりきれぬ。私は、……男として真剣にあなたを愛した つもりだった。女の嘘に騙された自分が間抜けだったのだと……そう思うこと であきらめをつけてきた。 薫乃 ………。 和弥 あなたとの事がなければ、今ごろはあの小藩で、どこかの婿にでもなってちま ちまと暮らしていただろう。しかし、今はこの京にいる。時勢の動くただなか に身を置いている。そう思えば……これはこれで面白かったかもしれん。 薫乃 新選組は、幕府のご直参になられたとか。 和弥 そう。私もそのはしくれだ。 薫乃 ………。 和弥 近く、戦乱の世が来るかもしれぬ。しかし、その時は……微力なりとも自分の 力を試すつもりでいる。女に迷って郷里の父母を捨てた情けない奴だが、今は 男として、恥じぬ生き方をしたいと思っている。 薫乃 いくさに、お出になるとおっしゃいますか。 和弥 ああ。もう、脱走者にはなりたくない。 薫乃 ………。 和弥 すまない。愚痴っぽいな。(苦笑する) 薫乃 いいえ。 和弥 俺はやはり子供だな。あなたに恨み言を言って、自分だけすっきりしようとし ている。 薫乃 ………。 和弥 あなたには、あなたの事情がおありだろう。それを聞かせてほしい。 薫乃 聞いていただけるのですか。 和弥 ああ。そのために来た。 ─── 薫乃は決心したように、静かに語り始めた。 3 ▼ ▲ 薫乃 私は、あの夜……約束の時刻に出掛けようといたしました。そして…… 和弥 ………。 薫乃 母に止められたのです。母は……私たちの事を知っておりました。 和弥 えっ。 薫乃 若い頃の淡い思いですむのであれば、と見ぬふりをしていたが、まさか、共に 家を捨てるなどという事にまでなっているとは思わなかった。どうしても行く というのならば、その懐剣で母を斬ってからにするがよい、と……。私には、 木暮の家名を傷つけた過去がございました。ようやく、それが薄れかけたとい うのに……とてもこの上、家人に恥ずかしめを受けさせることは出来なかった のです。そして、私には……役目が待っておりました。 和弥 藩内の蜜謀を探っておられた、と聞いたが。 薫乃 はい。あなたには打ち明けることができませんでしたが……。 和弥 あなたはあの時、誰の誘いにも乗るな、と私に忠告した。あれも? 薫乃 はい。祭礼の夜の会合では、藩の要職の人々を斬る計画が語られたはずです。 彼らの話を聞いてしまえば、あなたもただでは済まぬと思っておりました。そ れに、その以前から……山岡塾の人びとが小郷和之助を仲間に引き入れようと している。それとなく注意してやれ、と……そう申したのは父でございます。 父はああ見えて、政治向きのことに関しては冷徹な人でしたが……大郷、小郷 の二本差しは伜の友人として可愛いと申しておりました。 和弥 ………。 薫乃 その父母を捨てて、自分の恋ひとつに飛び込むことは、私には出来ませんでし た。私は、あなたよりもずっと臆病者でございました。 和弥 あなたには……俺よりものが見えていた、というわけか。 薫乃 ええ。あなたの一途なお気持ちを嬉しいと思いながら……私はどこか、恋とい うものを信じきることが出来ませんでした。恋がおそろしかったのかもしれま せぬ。 和弥 恋が、恐ろしい? 薫乃 ええ。人の心を狂わせるものだと……。 和弥 それは、西条源吾と須美どののことか。 薫乃 はい。あの時は……三人三様に、尋常ではございませんでした。須美さまは私 を憎み、あの明晰な西条様さえ、ご自分の我を曲げることができず……。いい え、私もひそかに……須美さまさえいなかったら、とあさましい思いにとらわ れたことがございます。 和弥 ………。 薫乃 でも、私は……西条様にも、須美さまにも本当の気持ちを押し殺して、お二人 が夫婦になってお幸せになればよい、と……。自分だけは蚊帳の外、という顔 をとりつくろったのです。でもそのことがかえって……須美さまを追い詰めて しまった。そして私は、あの方を死なせてしまいました。 和弥 それは……。 薫乃 同じことでございましょう。 和弥 ………。 薫乃 その後、私の身にふりかかった悪い評判は……当然のこととして受け止めなけ ればなりませんでした。江戸へ立った西条様も、お心に深い傷を負われたのは 同じでございました。その罪の傷ゆえに、私たちは……ずっと一人身を通して きたのです。 和弥 ………。 薫乃 でも、あなたが現れて……私は少し変わりました。 和弥 私が? 薫乃 ええ。 和弥 あなたは、西条と結ばれなかった痛手のなぐさみに、私を受け入れたのではな かったのか。 薫乃 それは、違います。 和弥 違う? 薫乃 ええ。私は確かに、あの人を強くお慕いした時期がございました。そして、う ぬぼれているとお思いでしょうけれど、西条様が須美さまではなく私を望んで 下さったことは、わかっておりました。でも、信じていただけないかもしれま せんけれど……私と西条様の間には、本当に何も……指を触れ合ったことすら ございませんでしたのよ。 和弥 ………。 薫乃 西条様は、「妻にするならあなたを、と思っていたが」と、冗談まじりに笑っ ておっしゃって……二人の間の秘密めいたことといったら、それだけでしたも の。 和弥 あの男なら……そうかもしれんな。 薫乃 お会いになったそうでございますね。 和弥 うむ。私はとうていあの男にはかなわぬ、と思った。 薫乃 そう……(微笑)でも、あの方も……おっしゃっておいででした。俺は、小郷 和之助にはかなうまい、と。 和弥 西条どのが。 薫乃 ええ。私が西条様には本当の顔を見せず、小郷様には女として惹かれたのはな ぜか、わかったような気がする、と。笑っておいででした。 和弥 私には、わからぬ。あの男に比べれば、私など未熟そのものだ。 薫乃 ………。女は、完璧な男を愛するわけではありませぬ。 和弥 ………。 薫乃 私も、西条様も……お互いを恋していながら、相手を正直に求めることができ ませんでした。あきらめること、それが思慮であり、分別なのだと自分に言い 聞かせて……でも、あなたはあの時…… 和弥 あの時? 薫乃 雨の夜、……書庫で。 ─── 薫乃は、目を伏せた。 薫乃 あなたは、まっすぐに私を抱きしめて下さいました。何のためらいも、かけひ きもなく……ひとりの女として、私を求めて下さいました。私の越えられない 垣根を、軽々と飛び越えてきて下さった。あなたほどの方なら、それがどんな に危険な賭けであることか、わかっておいでのはずでしたのに。 和弥 あの時は……夢中だった。 薫乃 私にとっても……あなたとのひととき、ひとときは夢のようでございました。 最後にお会いした時も、私はあなたになら……すべてをさらけ出して抱かれて みたい、と思いました。その心には、いつわりはございませぬ。 和弥 薫乃どの。 薫乃 ……今さらのことですけれど。 ─── 沈黙があった。 和弥 長い…… 薫乃 ………。 和弥 長い誤解だった。 ─── 薫乃は、はっと顔を上げた。 和弥 私の考えが浅かった。すまない。 ─── 和弥は頭を下げた。 薫乃 そんな。 和弥 いや。 ─── 和弥は静かに薫乃の顔を見つめた。 和弥 薫乃どの。あなたは…… 薫乃 え? 和弥 あなたは、今後どうされる。 薫乃 ………。 ─── 薫乃は微笑して、池のほとりに立った。 薫乃 父が先年、家老になりました。 和弥 ほう。 薫乃 父を始めとするご重臣がたも、恐れながらわが殿も……昔かたぎの人々ですか ら、とても若い者たちのように、徳川三百年の世を転覆させるという倒幕の考 え方には納得できますまい。いずれ、あなたのおっしゃるように……世を二分 する戦の日が来るかもしれませぬ。勝てばともかく、破れれば…… 和弥 破れれば? 薫乃 私も、古い世の人々と共に……殉ずるさだめとなりましょう。 和弥 殉ずる?死を選ぶというのか。 薫乃 それは……わかりませぬ。 和弥 馬鹿な。 薫乃 いいえ。そうなれば……幕府と命運を共にするあなたと……同じ道を選ぶこと になります。遅すぎるかもしれませぬが、私はあなたとご一緒の未来を選びま す。 和弥 薫乃。 ─── 和弥は腕を延ばした。薫乃の細い肩をつかんで、引き寄せた。 薫乃 ………。 和弥 死ぬな。……あなたが死ぬことはない。 薫乃 和之助様。 和弥 たとえ我々が武運つたなく破れても、藩政権がどうひっくり返ろうとも、あな たはしたたかに生き延びて、自らの幸せを見つけ直すんだ。それが……女に生 まれた者の……せめてもの得ではないか。 薫乃 さまざまな人を裏切っても? 和弥 そうだ。 薫乃 ………。 和弥 薫乃。 薫乃 もし……。 和弥 もし? 薫乃 もし、戦が終わって、二人とも生きていたら……。 和弥 ………。 薫乃 いいえ。新選組の小木和弥様には、言ってはならぬことでした。 ─── 薫乃は、体を離した。和弥はその腕をつかんで、縁側から部屋の中へ強引に引き 上げた。 薫乃 何を…… 和弥 あの日の小郷和之助に戻る。 薫乃 え。 ─── あの時と違い、寝具の支度はない。和弥は、畳の上に薫乃の体を倒した。 薫乃 いや…… 和弥 いやなのか。 薫乃 もう、若くはございませぬ。こんな…… ─── 薫乃は体を固くしている。昼の明るさが恥ずかしかったらしい。しかし和弥はも う女の言葉をきかなかった。 4 ▼ ▲ ─── 和弥が支度を終えた時、薄曇りの空は暮れて細い秋雨が降り始めている。 和弥 こぬか雨……か。 薫乃 ………。 ─── 薫乃はその雨を眺めながら、ひっそりと涙を拭いている。和弥はふと笑った。 和弥 やはり変わっておらぬ。あの頃も、あなたは時々泣いた。 薫乃 ……いいえ。大層な、女丈夫になりましたわ。 和弥 勤めの上ではそうだろう。 薫乃 歳月は、いやおうなしに流れます。 和弥 そうか。 ─── 和弥は羽織の紐を結びながら、 和弥 朋之進どのが、大きくなられただろうな。 薫乃 ………。 和弥 もう元服もすんだのではないか。 薫乃 弟は……子供のままでございます。三年前に病で世を去りました。 和弥 えっ。 薫乃 私も江戸にいて……みとってやることは出来ませんでしたが。 和弥 ………。 薫乃 でも……藩校の友達が幾人も誘い合って焼香に来てくれたそうでございます。 あのまま家にこもっておりましたら、そういうことはなかったでしょう。 和弥 朋之進どのが……。 薫乃 あの子から、あなたという人を奪ったようなことになって……そのことにも私 は気がとがめておりました。 和弥 ………。 薫乃 大郷様は、時々……朋之進のところへ遊びにいらして下さっていたそうです。 あの子は亡くなるまで、そのことを楽しみにしていたと聞きました。 和弥 征一郎が? 薫乃 ええ。 和弥 私には、何も言わなかった。 薫乃 ………。 和弥 今はあいつも脱藩して、京の町家に住んでいる。 薫乃 存じております。 和弥 知っている? 薫乃 ええ。先頃、西条様が江戸へ戻られる前に……大小二本差し、この京に揃った と知らせて下さいました。 和弥 西条どのは脱藩二人の居場所を知っていて、何もせずにいるのか。 薫乃 はい。あの方は……若い者が飛び出して行くことは止められぬ、とおっしゃい ました。羨ましいと思っておいでなのかもしれませぬ。 和弥 あなたは、今も西条と仕事のつきあいがあるそうだな。 薫乃 ええ。西条様は、窮乏したわが藩を支えて下さる、最後の柱石となられましょ う。その意味でご尊敬申し上げております。でも、もうずっと……私たちの間 には、藩政のお役目柄のことしかございませぬ。不思議なほど、冷静にお会い することができるようになりました。 和弥 女として心が動くことはない、と? 薫乃 ええ。ですから私もずいぶんしたたかな女丈夫になった、と申しました。 和弥 ………。 ─── 薫乃は、静かに笑っている。 5 ▼ ▲ ─── 和弥は、征一郎の部屋に上がり込んだ。 和弥 征一郎。 征一郎 何だ。いきなり…… 和弥 俺は、薫乃に会った。 征一郎 えっ。 和弥 もう隠し事はせぬ。俺は、薫乃を抱いた。六年ぶりに……。 ─── 征一郎は、飲みかけていた茶をぶっと吹き出した。 征一郎 何とまあ、あけすけだな。 ─── 征一郎はあわてて茶をぬぐうと、 征一郎 お前が先日話していた女というのは、薫乃どののことか。 和弥 ああ。 征一郎 ……やはり、あの頃から出来ていたのか。 和弥 そうだ。六年前に、薫乃をさらって逃げようとした。しかしあの人は来なかっ た。 征一郎 ふむ。 和弥 会えば、裏切られた憎しみがよみがえるだけだと思っていた。しかし、それは 違った。……俺はやはり、あの女を愛しいと思っている。 征一郎 急に正直になったものだ。 和弥 お前には、知らせておきたくなったのだ。 征一郎 遺言みたいに言うなよ。 和弥 遺言、か。 征一郎 それで、今度はどうする。新選組を脱して、薫乃どのと逃げる決心がついたの か。 和弥 それはできん。今は……俺にも薫乃どのにも、守るべき使命がある。 征一郎 使命? 和弥 ああ。 征一郎 薩長と幕府の戦など、お前一人行こうが行くまいが大勢は変わらん。国元の政 治も薫乃どの一人がどう頑張ろうと同じことだ。 和弥 承知の上だ。しかし、だからと言って放り出すことはできん。 征一郎 お前と薫乃どのは惚れあっているんだろう。本当に惚れたと思える男女が出会 うことは、人の一生にそうそうあるもんじゃないんだ。お前が守るべきものは 薫乃どのではないのか。 和弥 あの人は男に守られて生きるような女じゃない。 征一郎 意地っ張りなだけだ。 和弥 そう。その点では、俺とあの人は似ている。似ているからこそ……共に生きる ことができなかったのかもしれん。 征一郎 ………。 和弥 しかし、長年の心のつかえがとれた気がする。俺はあの人を再び腕に抱いた。 これで満足して戦にいけるさ。 征一郎 相変わらず…… ─── 征一郎は、ふと涙を浮かべた。 征一郎 お前は頭が固いよ。 和弥 何とでも言え。 征一郎 ああ言うとも。惚れた女の面影を抱いて、落日の幕府のために命を張るなんざ 馬鹿げている。ただの大馬鹿者さ。ああ、にわか直参の恩義をまに受けてのこ のこと死ににいきゃあいい。その時になって「しまった、失敗した」と思った って間に合わんぞ。俺は知らんからな。 和弥 何を怒っている。 征一郎 これが、怒らずにいられるか。貴様をぶんなぐって、目を覚まさせてやりたい くらいだ。 ─── 征一郎は、ごろんと畳の上にねそべっている。 6 ▲ 最終章 (十)へつづく |