保護される少年たち
 
 
子供が子供を殺しても何の罪も問われずしばらくしたら
街中に出てこられて、いつ隣に引っ越してくるかもしれないという
不可思議な国になりました。
子供を持ったら被害者の親になるのか、加害者の親になるのか、
どちらの可能性も、実はもう、他人事ではなくすぐそばにあるわけで、
買い物の途中に「あらっ、うちの子またどっか行っちゃった」と
いう寸分の油断も許されず、子供の学費のために夫婦揃って
外で働き、うちの子はおとなしいし勉強も出来るので、
留守にしても安心かな、と目を離していることも許されない。
一人の人間を年中無休で監視することは、常人に出来るはずがありません。
果たして昔の親が、親となる為の特殊教育を受けてきたでしょうか。
昔の子供が、身の安全を守る方法と、人命尊重の完全な教育を
受けてきたでしょうか。そうでもないと思います。
ではなぜ今こんなにも殺伐とした犯罪が毎日毎夜のように起きるのか。
「何をやっても何歳未満なら自分が死刑になる事はない」
ある時期から、この情報が世の中にぱっと広まってしまったからでしょう。
「何をやっても、相手から直接に同じ目に遭わされることはない」
加害者のほうが人権擁護という点では強者になってしまった
ような気がします。殺した子にはまだ未来に更正する可能性があるとされ、
充分な生命の時間が残っていますが、突然の凶悪な手によって
殺された子は、二度と泣くことも笑うこともありません。
あたたかい手で頭をなでてもらう事もできません。
たくさんの好物のお供えも、それを食べて成長する体がありません。
あるべき未来がないのです。
犯した子供に責任能力がないのなら親を江戸時代なみの厳罰に
処すべきだ、という大臣発言は、単に「不適切」と訂正すればすむ
話ではなく、信賞必罰の感情としてうなずけるところもあり、
しかし、もしそれを実行した場合でも、犯罪を犯した現代っ子が
「ああ、親が私の身替わりに苦しみを受けるなんて!」と
心の底から罪を悔いて泣いたりするでしょうか。
杜子春を読んで、「お母さん!」と叫んでしまい仙人に
なれなかった若者の話、に納得出来るのは、そもそも人としての
あたりまえの愛情を理解できない人には不可解な結末でしょう。
「父母を苦しませ悲しませては申し訳ない」という気持ちすら、
育てられていない無感動な犯罪者に、いくら教育による
更正・自立を求めても、おそらくは無駄でしょう。
娘を斬殺された親御さんに、「うちの子もあそこを通って変な男に
襲われかけたことがあるのよ、でも犯人がナイフ持っていなかったから
良かったわ」と、言った母親がいるそうです。何という無神経。
「我が家さえよければ」と「自分さえよければ」他人の痛みなど
わかる必要もない。親自身がそう思って子供をかわいがっている。
「うちの子のわがままを許してやってほしい、だって自分の子が一番
可愛いんだもの。」
こうした家庭の中で育てられてくる「次なる犯人」はまだ黙々と塾に通い
ご飯を食べ、ネットとゲームに興じて牙を磨いているのかもしれません。
保護された加害者がやがて成年となり、わが子の隣に微笑みながら
「普通の人」として座っていたら、差別なく微笑み返すことが出来るか。
実際に、たいがいの殺人犯の名前も、その後どうなったのかまでは
よく覚えていない。報道されなければ知りようもない。
学校や警察や国会をあてにして待っているうちに、加害者となる子も
被害者となる子も、間に合わずにまた生み出されるでしょう。
人の善良を信じてよいほど、今の大人すら、ましてや子供においておや、
平成の日本では、善悪や敬愛を骨身に叩き込まれてなどいないのです。
「社会が悪い」は何百年も前から言われてきており、「今時の子供は」も
ずっと言われ続けてきたことでしょう。
子育てがおそろしい、という国に未来を期待しても先行き暗いなと思う
この頃です。




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