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江戸は牛込柳町の試衛館道場に着いた。母屋と食客部屋と道場。さほど広い屋敷ではな い。宗次郎は、道場へ顔を出す、と言って離れた周助と勝太に居場所を示されて、一人、 周助の妻のお梶というのに挨拶に行った。女が主人の帰りに出迎えない、という事そのも のが、お光の良妻ぶりを見慣れた宗次郎にはちょっと不思議ではあったが、その家の慣習 というものがあるのだろう。目指す女は、台所で一人、沢庵をかじって茶を飲んでいた。 宗次郎が行くと、座ったままじろり、と見られた。弟子入りの子供が来るという話は、聞 いているらしい。 お梶は、周助よりはふたまわりも年下だろう。どこか水商売あがりのような中年の色気 のある女で、背も高く肉付きもいい。しかし化粧が濃く派手な着物をぞろりと着ており、 清楚な姉たちを見て育った宗次郎の目には、一種異様なものとして映った。それでも、膝 をついて両手を板の間につき、 「沖田宗次郎です。よろしくお願いいたします。」 「………。」 お梶は、むっとしたように黙って頭を下げた……いや、首を下にうなずかせた、だけで、 ろくに挨拶もしない。 宗次郎は、生まれてこのかたこういう愛想なしの大人の女に会ったことがない。きょと んとしてお梶の顔を見ている。 お梶が鋭く言った。 「何を、じろじろと人の顔を見ているんだい。ぶしつけな子だね。」 「………。」 宗次郎はびっくりした。 (ぶしつけな人に、ぶしつけって言われちゃった。) それがおかしくて、つい、くすっと笑った。 「なんだい、この子は。居候のくせに、師匠のかみさんの顔を見て笑う馬鹿があるかい。」 「馬鹿?」 「そうだよ。」 「じゃあ、おかみさんも馬鹿です。」 けろりと言い放った。お梶の尻が浮いて、眉がきっと吊り上がる。 「なんだってっ。」 「兄が、人に挨拶もできぬような者は、馬鹿だと言っていました。それに私は居候じゃな くて、内弟子です。」 「生意気な口をきくんじゃないよ。この。」 お梶は、さっきまで沢庵をつまんでいた親指と人差し指をしならせて、宗次郎のほっぺ たをつねった。 「ただでおまんまを食わしてもらうんだから、居候じゃないか。今度逆らったりしたら、 こんなもんじゃすまさないよ。覚えておいで。」 宗次郎は、ほっぺたをさすって部屋へ戻った。大人から、こんな理不尽な仕打ちを受け たことがない。勝太がやってきて、 「どうした。お梶さんに挨拶してきたか。」 はい、と口に出したつもりだが、殆ど聞こえてはいなかったろう。勝太には、黙ってうな ずいたように見えた。さっきまでと、少年の表情が一変している。 「ひょっとして、何か意地悪を言われたか。」 「………。」 宗次郎は、口をきゅっと結んでかぶりをふった。告げ口は潔くない、と思ったのだろう。 勝太は「そうか」と苦笑してから、こそっと、 「女にしては、きつい人だからな。しかし、我慢の修業だと思って、こらえるんだぞ。」 「はい。」 年若い勝太の優しさに触れて、今度は忘れていた声がちゃんと出た。 「今日の稽古がじきに終わる。皆に会わせるから、道場へおいで。その後、道場の拭き掃 除をしたら晩飯だ。」 「はい。」 そうだ、剣術を習いに来たのだった、と改めて思い出したように、宗次郎は少し目を輝か せてうなずいた。「宗家のお道場に入るのですからね」という、お光が何度か言い聞かせ た言葉への心地よい緊張感が、頬の痛みを忘れさせていた。 宗次郎は、勝太にくっついて試衛館の狭い道場に入り、門弟一同に紹介された。門弟と いっても、江戸市中の百姓町人がほとんどで、武家髷を結っているものはほとんどいない。 江戸といえば、もっと武張ったいかめしい「おさむらい」姿の大人がゴロゴロしているの かと思っていた宗次郎には、やや印象が違っていた。実家の近くの野良でみる連中と、さ ほど変わらない。中には、都会者らしく賑やかに先日見たという芝居の役者の声色を混ぜ てくっちゃべっている柔和な男もいて、そのへんがわずかに江戸らしさであったが。 少しの間正座して、見学していた稽古が終わると、宗次郎はポン、と大人たちから雑巾 を投げ渡された。 「新入りの仕事だ。よろしく頼む。」 頼みにしていた勝太を囲んで、大人たちががやがやと道場を出て行ってしまうと、宗次郎 は、一人ぽつんと残されて、雑巾を絞って床を拭き始めた。さっきまでの男たちが落とし ていった汗が、所々に散っていて、鼻を近づけるとツン、と匂う。思わず顔を背けて、そ れでも姉に言われた事を思い出しながら拭いていると、ふと背後から声がした。 「そんなんじゃあ、だめだな。」 「え。」 宗次郎の雑巾をひょいと横取りした男がいる。見た感じは三十位で、どうも百姓っぽい。 男は武骨な手で、雑巾を桶につっこみ、ぎりぎりと固くしぼりなおして、ぽんと渡した。 「こうだ。こう。腰に力を入れてふかんと、きれいにゃならねえ。」 男は自分も古びた雑巾を手に、実地でやってみせてくれている。 「は、はい。」 宗次郎は、熱心に床をこすった。 「あの……おじさんは、どなたです。」 「おじさんか。わしゃあ、日野の井上源三郎といって、ここの先生の弟子だ。」 おじさん、という言葉に笑いもせず、かといって不機嫌そうでもなく、男は淡々と答えた。 「井上……。」 「あんたの義兄さんの、林太郎の親戚だよ。」 「ああ。」 宗次郎は、ぱっと嬉しそうな顔をした。そういえば、道場に親戚が一人入っている、と、 林太郎に聞かされてきたのを思い出した。こんなに早く会えるとは思っていなかったので ある。やはり、家族を知っている人に出会えば心強い。 井上はその嬉しげな顔を見て、ふとした同情をそそられたのか、ぼやくように言った。 「林太郎も、まだこんな小せえのを一人で寄越すとはな。」 「そんなに、小さくありません。」 こういう年長者への混ぜっかえしが、この少年の良いところでも悪いところでもある。ち なみにこの癖だけは、生涯直らなかった。 「そうかい。」 井上はやはり笑いもせず、慣れた手つきで、ごしごしと床をこすっている。 歩きどおしの上に、板の間をさんざんにこすってから、やっと晩飯にありついた。茶の 間には箱膳が三つ運ばれていて、その前には勝太と、井上と、末席に宗次郎。勝太が勿論 一番の上座で、同じ弟子といっても、お梶にとっては義理の嫡男にあたるわけだから、そ ばで給仕をする。お替わり、と言われた時には飯をよそるためだが、こういう女だから、 でんと構えて、早く食事が終わらないか、という顔をして待たれているのは、やや落ち着 かない。 はは 「義母上。あとは、勝手にやりますから……義母上もあちらで、どうぞ。」 勝太も、お梶がほんの形式上、若当主のそばに構えているだけなのは心得ているから、そ うやんわり言って追い返した。 「そうかい。」 お梶は無愛想に言って、台所へ去った。井上と宗次郎には見向きもしない。 宗次郎は、膳の上のメザシをそっと数えてみた。勝太が五匹。井上が四匹。宗次郎のは、 たった二匹である。梅干しは勝太も井上も二個。宗次郎は一個。味噌汁の具も、大根の千 切りにしたのがほんの数本、ひらひらと浮いているだけである。 (わたしには……漬物がない。) 宗次郎の膳には、他の二人についている沢庵と胡瓜の味噌漬けの小皿がない。宗次郎は、 情けなくなってきた。 (姉上は……自分のおかずを減らしても私には食べさせてくれたのに。) 思わず、じわっと目がうるんできたが、文句を言うのが恥ずかしいと思い、黙って食べは じめた。 が、お梶が台所で茶を入れている物音を確かめると、井上がさっと、自分のメザシを一 匹、宗次郎の皿に乗せてくれた。 「井上さん。」 宗次郎が目を丸くして声を出すと、井上はしっ、と制止して、小声で、 「黙って食え。」 と、言った。 「でも。」 「いいから。」 「………。」 宗次郎は言われた通りに黙って頭を下げると、そのメザシを急いで口に運んだ。少しして、 お梶が勝太のそばに茶の支度をして消えると、また井上が小声で、 「音を立てるな。それとな、茶碗に色を残すな。」 と言って、小皿の上から、沢庵と味噌漬けを宗次郎の飯の上に分けた。 「はい。」 と、宗次郎の返事もこっそりである。井上は、会ってから初めて、にやっと笑った。宗次 郎も、その顔を見上げて声を殺して笑った。勝太がそれを横目で見ながら、台所の気配を 伺いつつ、宗次郎の茶碗をさっと取り上げて、おひつから飯をその漬物の上によそって、 目隠しをした。 「あ……。」 三人は、目を見合わせてくすくすと笑っている。 宗次郎は、晩飯の後は井上と一緒に風呂に行き、自室で書の稽古をしていた勝太に就寝 の挨拶をしに行っている。井上は用があるとかで、この時も一人だった。 「勝太先生、お先に休ませていただきます。」 廊下で手をついた。 「ああ。今日はご苦労だった。」 「あの……周助先生は?」 直の師匠であるはずの周助老人は、そういえば試衛館に着いたあと一向に見かけない。勝 太は苦笑して、 「また夜遊びに出掛けたらしい。おかげで義母上の機嫌が悪い。挨拶は気にしなくていい から、寝なさい。」 「はい。」 そんなもんなのかな、と、宗次郎はまた首をかしげたくなる気持ちであった。実家では、 物心がついた頃から、「あにうえさま、あねうえさま、おやすみなさい。」と頭を下げて からでないとうるさかったものだ。 しかし、何事もあちらの言う事に従え、とも教えられてきているから、この家の場合は 代表への挨拶で全てを兼ねるらしい、と納得して、ぺこりと頭を下げると、勝太が思いだ したように、 「ああ、宗次郎。」 と言った。まだ何かあるのか、とややひやりとしながら「はい。」と答えると、 「お前にあげた部屋の他でも、好きに過ごしていていいよ。しかし、奥の部屋にはあまり 近づかんことだ。義母上が嫌がるからな。」 「はい。」 そうらしい。どう見ても子供好きの女性とは思えなかった。うろうろすれば怒鳴られそう な気配は初日にして感じている。 「それから、今のところ住み込みは三人だけだが、義父上はお客が好きでな。いろいろな 人が泊まることもある。そうしたら、私か源さんと相部屋に寝てもらうことになるが、い いかな。」 勝太もこの家に養子に来た当初、色々と戸惑った経験があるのだろう。こういう気配りは 顔に似合わず、やさしい。 「はい。大丈夫です。」 宗次郎も、狭い家でつい昨日まで、年頃の次姉と布団を並べて、たまにお互いの寝相によ っては手足をぶっつけあったりしていた育ちだから、相部屋はさほど苦にならない。 「そうか。今日は疲れたろう。一人で気兼ねせずに寝るといい。明日からは、稽古と手習 いを始めるからな。」 伝達事項はそれで終わった。宗次郎はにこっとうなずいて、 「はい。おやすみなさい。」 と、また素直に頭を下げた。 「うん。おやすみ。」 勝太もうなずいて、また、漢文のややこしい手本に目を戻した。真面目な男である。 宗次郎は、角部屋の三畳間に、置かれていた布団を自分で広げて、寝た。目を閉じては みたが、枕が変わると寝られない、というのは本当で、寝なきゃ、と思えばいっそう眠り につくのが遅くなった。行灯などは点けられない。仕方なく、目を開けてみた。頭の中で、 もっと鶉豆を沢山持たせてもらえばよかった、と思った。姉が丹精こめてちろちろと煮て くれた甘い味を、もう一度舌の上で味わってみたかった。明日からはもう、姉の煮豆など はいつ食べられるかわからないのだ。豆どころか、顔を見ることも声を聞くことも出来な い、という事に思い当たると、宗次郎は少し、ぶるぶるっと肩をすぼめた。 何しろ家族と離れて初めての夜である。急にひとりぼっちになったようで、夜目に慣れ て少し見通せるようになってきた狭い三畳の部屋が、妙にしらじらしく、がらんとして感 じられた。 「………。」 新婚の穏やかな義兄とお光夫婦。娘らしくおしゃべりなおきん。その三人の顔や、家族 で囲んだ質素だが心のこもった食卓が、脳裏に浮かんできた。特に、母親がわりとして、 やさしく包んでくれたお光の顔は、何度も目に浮かんだ。 「姉上。」 宗次郎は、布団にもぐって、声を殺して泣いた。不思議なもので、涙を我慢しようと思 うと、今度は鼻水が出てきて困った。鼻と目を交互にこすりながら、宗次郎はどうにか、 廊下の外にはぐすぐすした音を漏らさないように気をつけた。やはりまだ九つの子供であ った。しかし、昼間の疲れがいつのまにか急激に襲ってきて、濡れた顔のまま、次第に深 く眠りこけていった。 |
3 |
翌朝、宗次郎は隣室の井上に起こされ、母屋の掃除から一日を始めた。まだうっすらと 淡い朱色の光線が斜めに差し込んでくる中で、廊下の雑巾がけまでを終わると、昨夜より さらに簡単な朝飯がようやく待っていた。姉が作る味噌汁のほうが美味かったな、という 感想を口の中でゆっくりと味わう暇もなく、宗次郎は大人たちの速度に遅れないよう気を 配りながら、幾分しょっぱい汁を流し込んだ。茶碗の底に残った最後の米粒をひょい、と つまんで口に入れた時、勝太がさりげなく、横に鎮座しているお梶に話しかけた。 「宗次郎は、箸使いが綺麗だ。しつけが良いのですな。」 井上はもっそりと黙ったまま、うなずいている。主婦であるお梶に、それとなくこの新入 りの少年のとりなしをしてくれようとしたらしい。しかし、そのお梶は、昨夜亭主の帰り が遅かったのが気に食わないらしくますます剣呑な顔をして、ふん、と横目で見てから、 「宗次郎。庭の掃き掃除がまだだろう。稽古の前にさっさとやっておしまい。」 「はい。」 言われたとおり、慌てて片付けをすませた宗次郎が庭へ出て、竹箒で掃いていると、周助 がのんびり起きてきて、あくび混じりで言った。 「おお、感心感心。」 「お早うございます。」 ここが肝心、とばかり宗次郎は精一杯の空元気で声を上げた。周助はぼんやりと縁側に座 って掃除の作業が終わるのを見ていた。宗次郎は箒をしまって急いで戻ってくると、待ち かねたように言った。 「今日から、稽古をしていただけるのですか。」 周助は、ついてきな、と言ってまだ門人の来ていない道場に入り、掛けてある中から、ま だ木の色が若い木刀を一本とって、宗次郎の手に渡した。大人たちのために用意してある ものよりは短いが、それでも宗次郎の小さな手にはずしりと重い。指がまわりきらない。 木刀というよりも野球のバットのような感じといえばやや近い。 「これがお前さんのだ」 と、周助が言ったところを見ると、まだ幼い新弟子のためにわざわざ作らせて待っていた らしい。周助は、これは黒光りするほどに使いこんだ愛用の木刀を握って、まずは宗次郎 に素振りのかたちを教えた。 「素振りですか。」 「あたりまえだ。まだ立ち会いなどさせられぬわ。」 「はい。」 宗次郎は言われた通り木刀を振った。十回、二十回と続けるうち、手が痛くなってきて、 ふっと、手のひらを広げてみた。子供の握力には重すぎるのだ。 「こらっ!勝手に休むな。」 「はいっ!」 それまでとは別人のように厳しい声が飛んできて、宗次郎は一寸も伸び上がった。結局、 宗次郎はその日一日、道場のすみで木刀を振り続けていた。へとへとになって倒れている と、井上がのっそりと現れて雑巾を渡した。 ふらふらになって道場を出ると、お梶の甲高い声が呼んでいる。 「宗次郎っ。宗次郎、ちょいと、煙草を買いに行っとくれ。」 「はいっ。」 小銭を持って夕方の町へ走り出た。見知らぬ町だから、お梶に言われた店を探すのに時間 を食った。大体においてこの町筋はそんなに賑やかな通りではないのだ。やっとのことで 人に聞きながら道を探りあて、暗くなった母屋に汗も拭わずに帰ると、お梶がいきなり怒 鳴った。 「遅いじゃないか。ちょいと外へ出たからって油を売ってるんじゃないよ。」 「店がわからなくて。」 「言い訳するんじゃないよ。生意気な子だね。」 言うが早いか、お梶は、ぴしゃりと宗次郎の頬を叩いた。 「あんたの晩飯はそこだからね。もう皆済ましちまったんだから、洗い物は自分でおし。」 「はい。」 お梶が煙草の包みをもぎとって奥へ引っ込んでしまうと、宗次郎はぽつねんと板の間に座 って、またも申し訳程度の惣菜で夕飯を食べた。今日はそばでわけてくれる人はいない。 別の日に、宗次郎は例によって、井上と二人で道場の床を磨きながらきいてみた。 「お梶さんは、どうして私を目のかたきにするんでしょう。」 「子供が嫌いなんだろうさ。」 およそ井上というのは物事を正直にしか答えない。宗次郎はちょっと口をとがらせて、 「ふうん。私も、あんな女の人は嫌いだな。」 「この道場で、あの女が好きなのは先生だけさ。」 別に嫌味をこめるでもなく、これも淡々と井上は言った。確かにそうかもしれない。 「先生は、どうしてお梶さんが好きになったんでしょう。」 宗次郎もまた、ごく普通すぎる、ような質問をした。井上は床板の上に目をやったまま、 ごしごしと手を動かしつつ、 「まともな女には、飽きたんじゃねえかね。なんせ、今度ので確か六番目か七番目のかみ さんだから。」 「七番目!」 びっくりして顔を上げた。井上は桶に雑巾をつっこんで、たいした抑揚もなく答える。 「ああ。俺が弟子入りしてからでも三人代わっとるでな。」 「すごいや。まるで公方様みたいですね。」 義兄から、将軍や大名のような偉い人には夫人が多いものだ、と何かのついでに聞いたこ とがある。あれはおきんの嫁入り話が出た時であったか。下級武士や庶民は勿論、一夫一 婦をつつましく守るものだ、というような話だったようだ。井上はぎゅうっと雑巾を絞っ て最後の一滴まで水を落とし、 「公方様でも、そうそう嫁さんは取り替えねえ。替えていいのは側室っていうものだ。」 「そくしつ?」 「子供にゃわからん。」 「ふうん。」 そんな会話があった後、宗次郎は、毎日道場の隅っこでもくもくと木刀の素振りを続け ている。周助に命じられた稽古といえばそれだけだ。 「チビさん、こりゃあ、なんだい。」 いつの間にかチビというアダ名で通用するほど顔なじみの門弟たちも出来た。ただし門弟 と言っても前述したように百姓町人の暇つぶし、で来る連中も多いから、一応は武士の子 である宗次郎に面と向かう時には「さん」がつく。今話しかけたのは、商売の合間の五日 か十日に一度くらい、体がなまるとやって来るという、あまり熱心とはいえない弟子のう ちの一人である。前回来た時には見かけなかったものが、宗次郎のお定まりの場所になっ てしまった道場の北側の片隅にある。割り箸ほどの長さに切った細い竹の棒が、十本並ん で置いてある。 「はい。先生から、千回一区切りするまで休むなと言われましたが、数えているうちに忘 れてしまうので……百回ごとに棒を一本ずつ移すことにしたんです。」 宗次郎のほうは、お光のしつけが抜けないから、相手構わず敬語で話す。答えられた門弟 と、これまた履歴は古いが滅多に来ないという数人がその答えを聞いて声を上げ、 「なるほど、百回が十回で、千回か。」 「子供らしいや。」 皆、笑った。 しかし、その後で始まった宗次郎の稽古ぶりを見ているうちに、笑えなくなった。 「お、おい。」 「ああ。」 宗次郎の素振りが、大人顔負けの鋭いものになってきている。しかも、速い。空気を裂 くような音があたりに響くようになってきた。それに、宗次郎は休まない。百回ごとに、 足元の棒をツン、と爪先で器用に蹴る。それが正確に、前回蹴ったものの隣に転がってい く。どう工夫したのか、別に足裁きばかりに気をとられているようには見えないのだ。 「こりゃあ……うかうかしてられねえ。」 寝ぼけまなこで岡場所の帰りに寄ったような連中が、口をへの字に結んで道場のまん中で 汗をかき始めた。 |
4 |
宗次郎が、手のひらのマメを何度か潰した後、というくらいの日数が過ぎた頃の、ある 夕刻である。台所では、お梶が、夕食の膳を支度していた。すると、周助が滅多に顔を出 さない裏口からひょい、と顔を出し、 「おいお梶。水。」 と声をかけた。お梶は振り向いて、 「え……あ、はい。」 と水瓶の蓋を上げにいくと、そこに立ったまま周助が険しい声を出した。 「なんだ、こりゃあ。」 板の間には、もうあとは運べばいいだけ、という箱膳が三つ並んでいる。 「なにって……晩のお膳じゃありませんか。」 お梶は別に気にもせず答えた。周助の声が低くなった。 「なぜ、これだけかさが少ねえ。」 「………。」 指差された膳は一番古くて、木の角がいくつか欠けている。何を咎められたかわかったの で、お梶は口をつぐんだ。 「香の物も、お浸しもついてねえじゃねえか。これが宗次郎の膳か。」 もう汁椀に汁が入って湯気が立っているから、仕度が終わっているのは見ればわかるので ある。 「そうですよ。いいじゃないの、子供なんだから少なくったって。残されたら勿体ないで しょ。」 お梶はむっと眉間に皺を寄せた時、周助は、今度は荒い声を出した。 「馬鹿野郎!子供だからこそ余計に食わしてやらなきゃならねえんじゃねえか。おめえ、 いつもこんな風に、わけへだてをしてやがったのか。」 怒鳴られたお梶は一瞬背中を縮めたが、すぐに勢いを取り戻して抗弁した。 「だって……勝太さんや井上さんのおさとからは、ちゃんと米だの味噌だのと送ってよこ すもの。宗次郎は、ほんとの居候じゃありませんか。奉公人だと思えば、食べさせてもら えるだけありがたいってもんさ。」 「なんだとっ。宗次郎はな、丁稚小僧じゃねえ。わしが見込んで、姉さん夫婦から預かっ た大事な内弟子だ。その子供にひもじい思いをさせてどうするんだ。俺に赤っ恥をかかせ る気か。」 怒気が増した。確かに、年端もいかない子供とはいっても、重要な後援者の日野名主の家 から預けられてきて、宗家の近藤周助の家では吝嗇のあまり飯も食わさずやせさせた、等 という噂が立てば、一帯での周助の面目は丸潰れである。宗次郎は名主の佐藤だけではな く、千人同心井上家の親戚でもあるのだ。しかし、そうした縁故を別としても、わざわざ 育ててみようと思い立って迎えに行った直弟子なのである。その周助の気持ちを、蔭では 女房が踏みにじっていたと知った時の怒りは、半端なものではなかった。お梶は水を汲み かけた茶碗を、わざと音がするようにまな板の上に置いて、周助のほうに向き直った。 「何さ。こんな貧乏道場で、内弟子もへったくれもあるもんか。わざわざ、一文の得にも ならない子供を引き取って育てようなんざ、道楽にもほどがあるよ。あたしなんざ、この 一年着物はおろか、新しい帯締めの一本だって買ったことはありゃしない。あんたはあち こちに出稽古だなんていってさ、うまいこと宿場を回っちゃあ女遊びをしたり、庄屋のお 座敷で御馳走にだってありついてるんだろうけどさ。女房に年にいっぺん芝居の一つも見 せないで、やれ内弟子だ、宗家だって気取りやがって、聞いてあきれるよってんだよ。」 根が水商売あがりだから、口は達者すぎるほどに達者である。溜まった毒を吐き出すよう に日頃の鬱憤をぶちまけた。これには、周助のこめかみが動いた。 「なんだと。このあま、ぬかしやがったな。」 周助は、そばにあった皿をつかんで、お梶の立つ土間に向かって叩きつけた。当ててはい ないが、破片は竈にぶつかって割れ散った。女もすでに形相が変わっている。 「あの宗次郎ってガキだってさ。どうせ、あんたがよその女に産ませた隠し子じゃないの かい。あたしへのあてつけで、今さらこの家に引っぱりこんだんだろう。」 「馬鹿者。俺に男の子がありゃ、勝太を養子にするわけがあるかい。」 「わかるもんか。勝太さんをもらったあとで、あの子の身内が名乗り出たかもしれないじ ゃないか。それで体裁が悪いもんだから、内弟子だなんて言ってさ。お前さんの考えそう なことだよ。」 「黙れ。俺あ、女の数から言ったら、とっくに五人や十人の子持ちだっておかしかねえん だ。それを、弟子っ子の一人や二人置いたからって、おめえに文句言われる筋合いはねえ。 おめえこそ、前の女房を追ん出して、まんまとこの家におさまりかえってよ、あととりの 一人も産まねえで威張ってるごくつぶしじゃねえか。居候というんならてめえのこった。 おさんどんの代わりならいくらもいるが、勝太や宗次郎ほどいい子供らの代わりは見つか りっこねえ。気にいらねえんならおめえが出ていけっ。」 「ひどいっ。」 お梶は、わあっと袖に顔を当てて泣きだした。周助はますます興ざめてしまい、 「ふん。もうおめえのその手にゃ乗るもんか。とっとと、荷物をまとめて出て行くんだな。」 それを聞くとお梶ははじけたように泣き声を止め、きっと目尻を吊り上げた。 「ああ、わかったよ。この助平の色ボケじじい。誰が、あんたの下の世話までしてやるも んか。頼まれたって、もうこんな家にはいてやらないよッ。」 お梶は、思い切り膳をひっくり返し、けたたましい音をたてて奥にひっこんだ。そして、 呆れるほど素早く、着物を風呂敷に包んで家を飛び出した。まるで、あらかじめ出て行く 時を待っていたのではないかと思うほど、日頃の怠惰な動作はかき消えて、甲高い下駄の 音が遠ざかるまでには十分も要しなかった。 「けっ。」 周助は一連の物音を聞きながら、最初は水を飲むはずだったのを、いつの間にか酒の瓶 の口を開けてごくごくと飲み、それが最後の晩酌一回分、くらいの量でしかなかったのが わかると、舌打ちして台所を出た。すると、障子の影からおそるおそる、宗次郎と井上が 顔を出している。 「おお。」 そこで初めて余人の姿を見たせいか、正気に戻ったらしい。 「先生……。」 井上が苦笑した。 「また、やっちまった。」 周助は、照れたように頭を掻いている。宗次郎はもうびっくりして立ちすくんでいる。言 葉も出ないようだった。周助は急に、宗次郎の目の高さにかがんで、さっきとは別人のよ うなしみじみとした声を出した。 「宗次郎。すまなかったなあ。飯を減らされて、辛かったろう。」 「………。」 宗次郎は、横にかぶりを振っている。 「そうか?」 「井上さんと、勝太先生が……こっそり分けていて下さいました。」 「そうか。しかし、おめえには傷になったな。俺がうかつだった。勘弁してくれよ。」 いつにない事だが、周助はこのひよこ弟子に向かって頭を下げた。 「あの……おかみさんをほっといていいのですか。」 宗次郎は、自分はどうにか内緒で食べていたのに、きつい咎めを受けて追い出されたお梶 の事が、やはり気になった。もう外は暗くなっている。周助が呆れたような、感心したよ うな声を出し、 「お前は、やさしいなあ。いいんだよ。お前のほうがよっぽど大事だ。もう、お前はこの 試衛館に住み着いたんだからなあ。」 周助は、自分もつられて優しい言葉をかけてしまったことの照れ隠しのように、宗次郎の ほっぺたを両手で挟むと、二三度ぐいぐいと動かした。 「………。うっ、うっ。」 小柄なわりにはやはり力強い修練を積んだ手の感触に触れた時から、宗次郎は、急にしゃ くりあげ始めた。 「おやおや。よっぽど驚いたか。男の子が泣くもんじゃねえよ。」 「はい。」 うなずいて目をこすると、いつの間にか、そばに勝太も来ている。周助はふん、と息をつ いて、 「これじゃ、晩飯が食えねえ。どうだ。たまには、皆でそばでも食いに行くか。」 と言った。勝太が大きな口元をやや緩めた。 「はい。片付けは、あとにしましょう。腹がへった。」 そして四人は、たまの外食に出掛けた。宗次郎は大人三人の後ろにくっついて歩きながら、 (私は……試衛館の子なんだ。これからはこの人たちについていくんだ。) と初めて居場所を見つけたような、深い息を吐いた。 さて。 お梶は、本当に帰って来なかった。しばらくの間、井上源三郎が器用に炊事をし、宗次 郎も飯炊きなどを手伝った。最初は火吹き竹から煙を吸い込んでしまいむせたりしたが、 井上は言葉では細かい指示をしない替わりに、まずは自分でやってみせてくれる。大根の 千切りや、その葉を刻んで塩をふって浅漬けにする手つきなどはどこで習ったのかと思う くらい、実に見事なものであった。 「井上さんは、上手ですね。」 「やらなきゃなんねえってことになるとな、なんでもできるようになるもんさ。お梶さん が家出をしたのはこれが三度目だ。」 「ふうん。」 あんな事が前にもあったというのにはまた驚いたが、井上は首をひねっている。 「ああいう騒ぎには慣れとるが、今度のは本気かもしれんなあ。」 「私の義兄上と姉上は、あんな喧嘩をしたことはありません。」 「男と女もいろいろさ。いつも仲睦まじい組み合わせもあれば、派手に喧嘩をしてけろっ としているのもいる。」 「ふうん。」 炊けた飯を蒸らして、汁に味噌を溶いて仕度がほぼ出来あがった頃、勝手口から入って 来た人影がある。井上と宗次郎は、最初お梶が戻って来たのかと思った。しかし、立って いるのは見知らぬ女である。 「あら、いい匂い……おいしそうだこと。」 もういい年をしたおばさん、という見たままの印象に忠実な、丸い声があがった。この家 で女の声がしたのは久々、という気がした。 「あんた、誰だね。」 井上が尋ねた。 「あたしは、あきっていいます。よろしく。」 小太りで色は浅黒く、目が小さく、美人とはまるでいいがたいものの愛嬌のある女である。 年は、どう若く見積もっても四十過ぎだろう。 「ちょいとごめんなさいよ。あいさつは、あとで師匠からね。」 おあきはそう言うと、自分の家のように上がり込んで、座敷の方に入っていった。井上と 宗次郎は、ぽかんとして女の背中を見送った。 「新しい女中かね。」 井上がまた首をひねってぼそりと言った。宗次郎は、こくんとうなずいた後で、やはり同 じように首をひねった。 ところが、周助がその夜、勝太と井上と宗次郎を部屋に呼んで、言った。 「この女子は、おあきと言ってな。今日からわしの女房だ。」 「ええっ」 という声のあと、勝太がイ、井上がウ、宗次郎がア、という形に口を開いて驚いている。 「亭主を亡くして、長いこと新宿の飯屋で働いておったのだが、このまま一人で年をとる のも可哀相だと思ってな……。もらうことにした。気のいい女だから、仲良くしてやって おくれ。」 おあきが手をぱたぱたと顔の前で扇ぐようにふって、 「いえ、あたしはね。お妾でもいいって言ったんですよ。そうしたら、丁度女手がなくっ て大変だっていうから、ついお言葉に甘えて来ちまったんですよ。この年で嫁入りだなん て、こっ恥ずかしいけどねえ。」 周助もおあきも、にこにこしている。若い三人はただ呆気にとられている。 |