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まことしょう
第 22 回
試 衛 館 の 子
(三) 苗 木
 
 
 周助の「新妻」……といっても大分トウが立ってはいるが、おあきは、確かに気さくな
働き者であった。着ているものも質素で髪にも飾りはつけた事がなく姉さんかぶりに古い
手ぬぐいを巻き、特に飯屋で長い事働いたというだけあってか炊事は得意で、大勢の居候
達の喜びそうな漬物やら煮しめやら、ごくごく庶民的な料理を一度に作るのが上手い。も
っともこの道場の連中に高級料亭並の繊細な膳部など出したところで有難がりはしないが。
信州生まれという事以外に、長いこと一人身で働いてきた骨柄は逞しく、いわば、下町の
おっかさんとでもいうタイプで、およそ撃剣道場のお内儀という感じではなく、他人から
見れば新しい下女だとでも思うに違いなかった。おあきもそれがわかっているからだろう。
通いの門弟達の前には恥ずかしがってほとんど顔を見せないし、勿論、前妻のように道場
主の威を借って威張り散らしたりもしない。しかし、幼い宗次郎にだけは気を許せるらし
く、何かと世話を焼きたがった。ある日、宗次郎が裏庭で井戸水を汲んでいるとおあきが
ひょこひょことやってきて、
「宗次郎ちゃん。お芋をふかしたから、おあがんなさいよ。」
と、手招きで笑っている。
「ちゃんはよして下さい。ちゃんは。」
宗次郎は赤くなった。生まれてこのかた、大人からちゃんづけで呼ばれる事などない。
「なんで。」
おあきはきょとんと覗き込んでいる。
「背中がくすぐったくなります。」
「あれま。じゃあ、宗次郎様。宗次郎殿、宗次郎坊ちゃん。……いやだよ。こっちがくす
ぐったくなるよ。」
笑い上戸なおかみさんである。
「当たり前のでいいです。宗次郎で。」
何しろこの道場には宗次郎以下の年の子はいない。呼び捨ての方が当たり前で身に馴染ん
でしまっているのだが、おあきは真面目に首を振って、
「そうは行かないよね。お侍の子を呼び捨てにできるほど偉かないよ。」
と否定する。宗次郎はちょっと肩をすくめて、
「私は……このあと手習いをしますから、芋はけっこうです。」
と、一応は断った。これでも忙しいのだ、それに一人だけおやつをもらって子供扱いされ
るのが面映いのでもあるが、おあきはそういう遠慮は意に介さない。
「育ち盛りの腹っぺらしのくせして、いきがるもんじゃないの。さ、おいで。せっかくの
芋がさめちまうよ。」
「でも、やっとかないと後で叱られ……あいたた。」
おあきは問答が面倒臭くなって、宗次郎の後ろ襟をつまみ上げて台所へ引っ張っていく。
小柄なわりに働き者の腕力は強い。宗次郎は、ぺたんと台所の板の間に座らされた。
「ほら。二つしかないんだよ。だから、他の人には内緒だよ。」
ぬっと突き出された薩摩芋がおあきの手の中でしっとりと光っている。
「………。」
宗次郎はちょっと会釈をして、いただきます、と小声で言ってから、まだ湯気の立ってい
るサツマイモを、割って食べた。赤紫の薄皮の中で黄色い繊維が甘味をかもし出す。口の
中をほくほくさせながら正直な声が出た。
「うまい。」
「だろ。八百屋におまけしてもらったんだよ。皆留守だから、あんたと一緒に食べようと
思ってさ、急いでふかしたんだよ。」
おあきは無造作に茶を入れている。
「だけどさ、宗次郎ちゃん……じゃなかった、宗次郎さんも大変だよねえ。こんな小さい
うちから家を出て修業だなんてさ。ここの先生はやさしいけど、稽古だけは人が違ったみ
たいに厳しいもんねえ。」
どうやら留守の退屈しのぎに、格好の話し相手を見つけたというつもりらしい。
「私は、平気です。好きですから。」
内弟子に出されたのは口減らしだろう、と一部の大人が悪く言うのも何となく聞き知って
はいるものの、宗次郎は本当に木剣を振って体を動かしているのが好きだった。大人達の
迫力ある太刀捌きを見ても、ぞくぞくする程の面白みを感じる。いずれは自分も自在に剣
を操り誰よりも強くなりたい。早く師匠の技に近づきたい。今は、世間並みの養子や奉公
に出されず試衛館道場への住み込みという境遇を与えてくれた姉夫婦に感謝している。
「あんな棒っきれふりまわしてんのが、楽しいのかい。」
おあきは道場の稽古には勿論顔を出さないし、剣術のことなどまるきりわからない。
「……棒っきれ。」
宗次郎が情けない顔をした。
「偉いよねえ。泣き言一つ言わないで、大人の中にたった一人で寝起きしてさ。家の仕事
も文句ひとつ言わないでせっせとやってくれるしさ。あたしはつねづね感心してるんだよ。」
「……そんなの……。」
芋をまたぱくん、と食いつきながら宗次郎は照れた。
「商人の奉公と違ってさ、剣術の修業じゃ、何年つとめたからってものになるかどうか、
わからないもんね。何しろ、これで終わりってのがないんだからさ。もしも弱いままだっ
たら、いくらやったって食べていけないよねえ。」
「え……。」
宗次郎はぽかんとした。なるほど、今は剣を習うのが楽しいだけだが、この先大人になっ
て、剣で身を立ててゆけるようになるのか、まだ考えたこともない。
「あら、ごめんよ。」
おあきは自分の口の悪さを笑って、あわてて言いつくろった。
「宗次郎さんはそんなことないよ。先生がね、いつもあの子は天才だ、神童だってほめち
ぎってるもの。きっと、江戸で一番の名人になるに違いないよ。」
「まさか。私なんか、叱られてばっかりですよ。」
「見込みがあるから叱るんだよ。何の師匠だって、そりゃそうだよ。」
と、おあきは年の功で真実を突いた。確かに、人が後進に物事を教えようとする時、何の
見込みも期待もないものに厳しく教えようとはしない。教える側にも労力が必要だからで
いくら知と技を与えてもそれ以上伸びようとする力のないものに教えても無駄なのである。
「先生には子供がないからねえ。あんたのことは、勝太さんとはまた違って、自分の孫み
たいに可愛いんだよ。あたしにはわかる。」
「そうかな。」
これは少し違うのではないかと思った。宗次郎は父母も祖父母も知らないが、周助と自分
の関係は飽くまで師と弟子、であって、幼いながらも孫可愛がりのような無条件の身びい
きを受けているとは感じていない。いわば男と男の関係なのである。が、おあきは剣の方
にはとんと無関心なので、自分の理解し得る範疇でなぞらえて捕らえるのだろう。
「あたしだって……周助先生が可愛がってくれるからこんなところにもいられるってもん
でさ。ほんとは、居心地がいいってわけでもないよ。」
「え……どうして?」
宗次郎はきょとんとした。いつも楽しげに暮らしているおあきの意外な愚痴である。
「だって、このとおりのがさつ者だもの。御新造様だのハハウエだのって呼ばれると、お
尻が浮き上がっちまう心地がするよ。あたしは知らなかったけど、天然理心流なんて田舎
剣法でもさ、合わせて何百の弟子がいるっていうじゃないか。それを聞いてたまげちまっ
たわよ。あの先生がどうしたって、そんな偉い人には見えないもんねえ。」
おあきは新宿の店で、いつも一人でぶらぶらと来ては女たちに卑俗なからかいの言葉を投
げて大法螺の一つもかましてみせる風変わりな親父、という周助の私的な面しか見ていな
い。門人の数も自分から自慢はしなかったのだろう。周助は野暮が嫌いである。
「でも、日野では、名主の彦五郎さんが頭を下げてお見送りをしますよ。」
宗次郎は流派の為に弁明した。偉い人が尊敬するのはもっと偉い人、という子供ながらの
論法である。
「ねえ。」
おあきは笑い出した。
「とても、あたしの布団で鼻毛を抜いてる爺様と同じ人とは思えないよね。」
「じ、爺様?」
宗次郎が目を丸くしている。
「先生はいい人だけどやっぱり忙しいし、あたしは八番目だか九番目の女房でしょ、なん
たって名前があきだもの。いつ飽きがきて見放されるかもしれないと思うとさ、女一人で
心細いときもあるよ。宗次郎ちゃん……じゃない、宗次郎さん。あんたは、あたしのこと
を馬鹿にしないで、ずっと仲良くしておくれよね。頼りにしているからさ。」
おあきはしみじみと言うのである。周助は老齢だし養子の勝太は独身でありこの先縁組が
あって別の女が家に入る事になるだろう。寄る辺ない身ひとつでひょっこりと後妻にきた
おあきにこの先主婦としての安住が約束されているとは限らない。実姉夫婦が健在で温か
く気遣いながら外に出してくれた宗次郎とは少し事情が違う。
「はい。」
宗次郎は神妙に返事をした。この少年は姉さん子で育ったために気持ちがやさしい。それ
を感じて安心したのか、おあきはまた明るい声に戻って、休憩の終わりを告げた。
「さ、食べたら、ちゃっちゃっと手習いをしといでよ。」
「はい。御馳走さまでした。」
芋を断らなくて良かった、と宗次郎は微笑した。その後で勝太から与えられた宿題の手習
いをしている。周助は文字を読めとはうるさく言わないが、真面目な勝太は学問好きの多
摩の富農層の出で、逆に「試衛館に置いたら読み書きも覚えない」と侮られては名折れだ
と思うのか、出稽古の合間に、達筆で知られた名主や僧侶などから、適当なお手本を書い
てもらっては持ち帰ってくる。大人たちがつききりで教えてくれるわけではなく、与えら
れる紙も貴重品だからふんだんに書き捨てるわけにはいかず、宗次郎はそのお手本を見な
がら紙が真っ黒になるまで一人で練習をするのだが、勝太が戻る前には一枚、きちんとし
た清書を整えておかなくてはならない。それを持って手本を書いてくれた先生のところへ
勝太が戻り、朱を入れてもらい、評価を聞いてきて伝えてくれるのである。いわば通信教
育だが、宗次郎は勘が良いのか、我流ながら書の筋が良いと誉められるのだそうだ。しか
し宗次郎は文筆の道を深めようはまるで思わなかったようで、今に残る書簡はごくあっさ
りした挨拶のみの文面のものが多く書幅に大書したものも、多摩の先輩達に影響されての
和歌や俳諧の一句も自書したものは見つからない。この少年の感性の細やかさは、接する
相手がいてこその間でかもしだされるもので、文字や絵などの紙の上に形でとどめようと
する種類のものではなかったのだろう。
(姉上とは全然違うけれど……おあきさんもやさしい人だな。)
ふと、考えた。おあきは無教養で、宗次郎に仮名文字ひとつ手をとって教えることは出来
ない。しかし試衛館に取り残された宗次郎を何かと気遣ってくれる。男達にはない気遣い
の仕方であり、母性であろう。
(私の母上は、どんなひとだったんだろう……。姉上のようにほっそりした人だろうか。
それとも、おあきさんみたいにぽっちゃりした女の人だったんだろうか。生きていたら、
あんなふうに……一緒にお茶を飲んで冗談を言ったりしたのかな。それとも、やっぱり武
家だから厳しい人だったろうか。)
 宗次郎にはまるで母の記憶がない。少し寂しかった。
 
 

 
 
 
 
 
 芋、栗、柿と味覚の秋がたちまちに過ぎて、木枯らしの荒ぶ季節がやってきた。今日は
ことのほか寒く、朝は霜が白かった程だが、宗次郎は朝の稽古を終えた後、わずかながら
寒気がゆるむ頃に、腰をかがめ裏の井戸で洗濯をしていた。井戸水は冬は温かい、などと
言うがそれでも冬風に吹かれながらの作業では手が真っ赤になるほどに冷たい。空はどん
よりと灰色で雪が降っても不思議はなさそうだった。
 おあきが慌てて、綿入れ半天を引っ掛けた格好で廊下に出てきた。
「宗ちゃん。そんなことは、あたしがするからいいよ。」
言った拍子に咳き込んだ。
「また、ちゃんって言った。寝てなきゃ駄目ですよ、風邪なんだから。」
宗次郎が叱った。おあきはこのところ流行り風邪による高い発熱で寝込んでいるのである。
「でもさ、手が冷たいだろ。見ちゃいらんないよ。」
女のおあきより尚細く小さい宗次郎の手である。やらせまいとして洗濯物を隠しておいた
のだが、いつの間にか引っ張り出して内緒で洗っていた。
「いいから、寝てて下さい。こっちこそ見ちゃいられない。」
風邪なら治る、という時代ではないのである。ことに江戸は狭いので、病が流行ると伝染
が早く人がばたばたと倒れる。道場の門人たちもこのところ休んでいる者が多かった。が、
うつる事より何より、おあきの体のほうが心配だった。
「悪いねえ……。じょうぶだけが取り柄なのにねえ、まったく。ああ、お天気がこんなで、
どうせ外に干したって渇きっこないよ。よーく絞って廊下にでも干すといいよ。」
「はい。そうしますよ。」
「じゃあ、おとなしく寝ているよ。悪いねえ、本当に。」
おあきは鼻をすすりながら引きあげて行った。去りがてら大きなクシャミが一つ聞こえて
宗次郎は思わずくすっと笑った。手足は冷たいが、一心に洗濯物をこすっているとそれな
りに体は暑くなり、ようやく立ち上がって冬雲を見上げた。
「先生が帰って来るまで降らなきゃいいけど……。」
 太い木刀で年の割りには鍛えてある腕の力を一杯につかって絞った布をパンパンと叩い
て皺を伸ばした後で、綱を張った廊下に洗濯物を干していると、玄関の方で人の気配がし
た。
「ごめんよ。」
そうだ、出迎える者がいないのである。
「はーいっ。」
宗次郎はたすきを解きながら、急いで玄関に出た。
 土間に男が一人立っている。変わった風体であった。濃紺の絣の着物をからげ、笠をか
ぶり、手甲脚絆を固めた旅装で、背中に大きなつづらを背負っている。その上に、木刀と
赤い紐のついた撃剣の面をくくりつけている。
「どなたですか。」
ごく当然の質問をした。
「なんだ、おめえは。」
と、男のほうがぶしつけな質問を返してきた。宗次郎はむ、と口を引き締めたが我慢して、
「私は、この家の弟子で沖田宗次郎という者です。」
はきとして答えた。男はその名を聞いて笠の内からじろりと目を上げ、
「ああ……。おめえか。なるほど、ガキだな。」
宗次郎も向こう気の強さでは負けていない。
「物売りなら、勝手口から来たらいいでしょう。もっとも、台所には今誰もいないけど。」
ところが男はぶっきらぼうな声で意外な事を言った。
「無礼なことを言うな。俺は、お前の兄弟子だぜ。」
「兄弟子……?」
確かに試衛館には町、商、農民の弟子も多いが。
「そうさ。周助先生と勝太さんは、いるか。」
宗次郎も小なりと留守を預かる男である。やや胸をそらして言った。
「まず、お名前を伺いましょう。」
「強情なガキだな。」
男が苦笑した。
「石田村の、歳三さ。」
 その名を聞いて、宗次郎は膝を打つように、
「あっ。彦五郎さんの、弟の?」
と言った。初対面の周助の口からも勝太の口からも出た、石田村の大尽の末息子で日野名
主佐藤彦五郎の妻のぶの弟である。
「そうだ。」
歳三も義兄の名が出たことで了解済みだと思ったらしく短く言った。宗次郎も素直に頭を
下げた。
「それは失礼しました。周助先生も、勝太先生もお留守ですが、夕刻には戻ります。」
「そうか。じゃあ、待たせてもらう。」
言う間に、歳三は、勝手に旅装を解いている。
「あの……ちょっと。」
「あとで、飯と茶を頼む。」
「え。」
「奥に頼めば、何か出てくるだろう。トシが来ていると言っておけ。」
 歳三は器用な指先で笠の紐をほどいた。態度は横柄だが、宗次郎が思わずはっとしたほ
ど、髪が黒く、目元が涼しい美男である。まだ二十歳前だろう。歳三は、それきり黙って
奥へあがりこんでしまった。
「ちょっと。困りますよ。」
宗次郎は追ったが、歳三はそのまま突き当たりの部屋へ行き、押し入れから布団を取り出
して勝手にねっころがった。
「ここは、私の部屋ですよ。」
宗次郎が口を尖らせた。
「へえ……。しかし、その前は俺の定宿だ。」
「そんなこと言われても。」
宗次郎の入門前の頃から、つまり何ヶ月もの間顔も出していなかった人間に、いきなり自
分の部屋と布団を使われたのではたまったものではない。しかし歳三は頓着せず、
「晩飯まで起こすなよ。寒い。そこを閉めろ。」
「え。」
「………。」
歳三は面倒臭そうに手真似で、「閉めろ」という動作をした。宗次郎はぽかんとしたが、
やがてしかたなく障子を閉めて、台所へ行った。
「変な人だ。おそろしくずうずうしいな。」
と、文句を言いながら晩飯用の米をといでいるうち、おあきのかわりに野菜などの買い出
しに行っていた井上源三郎が戻ってきた。
「ああ、井上さん。」
宗次郎は助かった、という思いで井上に歳三の来訪を告げた。
「へえ……歳さんが来たかい。」
突然の来客に驚いたようなふうもない。この井上も日野宿の出身である。
「勝手にあがりこんで、私の部屋で寝ちゃった。」
「まあ、あの男の気儘は、今に始まったこっちゃねえ。飯ができりゃ起きてくるだろう。」
「ええ。そう言ってました。あんな勝手なお弟子さんなんて、初めて見た。」
井上も宗次郎の部屋を占領した来客のことを認めてしまっていることにあきれながら宗次
郎が言うと、井上は旧知のために弁護した。
「あの子は、口は悪いが、根っからの悪でもねえよ。」
「あの子?」
宗次郎はその口ぶりがおかしくてくすっと笑った。
「まだ十八だもの。大人ぶって、女遊びなどしちゃあいるがな。わしより、六つも下だか
らな。」
「えっ。」
宗次郎の手が止まった。
「なんだ。」
「……井上さん、今おいくつなんですか?」
「二十四だよ。」
「嘘だ。」
宗次郎は、はじけるように笑い出した。
「何だ、嘘ってのは。女じゃあるめえし、若く嘘をつくわけがねえ。」
「ご、ごめんなさい。」
「男の笑い上戸は、みっともよかあねえ。」
そうもっそりと言う井上は、どうみても三十より前には見えない。
 
 
 天候が崩れそうなのを避けて、周助が思いのほか早く、外出から帰って来た。宗次郎が
迎えに出て、石田村の歳三さんがという話をすると周助が笑って、
「ほう。歳の奴、来やがったか。」
と、言った。
「私の兄弟子だそうですね。」
「何、奴だって始めたばっかりだ。ヒヨコのようなもんさ。」
おかしそうに言った。何ヶ月も師匠に顔も見せずにいて、兄弟子などと威張っていえるよ
うな熱心な者ではない。
「そうですか。」
「しかし、あいつは喧嘩が滅法強い。喧嘩の術でいったら、お前も勝太もとうてい足元に
も及ばないだろうよ。」
「へえ。」
石田村の歳、といえば大層な暴れ者だと何かの拍子に聞いた記憶はあるが、その事から宗
次郎は勝手に、ごつごつした骨太な若者を想像していたのだが、先ほど見た歳三の顔かた
ちはどちらかといえばやさ男で、喧嘩ずきという印象がない。しかし周助が言うのだから
確かなのだろう。
「その暴れ者に剣術だけは教えてくれるなという、兄貴の頼みだったがね。」
「彦五郎さんの?」
「いや。大尽の……実家の兄貴さ。歳三は早くにふた親が死んで、兄貴夫婦に育てられた
んだ。今は姉さん夫婦のほうに厄介になっているらしいが」
「へえ……私と同じだ。」
「うん?おお、そうだな。育ち方は大分違うがな。」
周助が笑った。宗次郎の物静かな姉お光と歳三の肝っ玉の据わった姉おのぶとの気性もか
なり違う。男の子は身近で育ててくれる女に影響を受けるのだろう。
「あいつは、お前と違ってちょっと性根がひねている。あのまま行ったらくさくさして、
ろくでなしの遊び人になるしかなかろうさ。だからわしは、剣をすすめたのだ。男たるも
のは、ひとつに打ち込むものがあれば、まっすぐに進むことができる。」
「はい。」
宗次郎は神妙にうなずいた。
「しかし、やつめ。同じ年頃の勝太に負けるのが悔しいらしく、この試衛館には寄りつか
ず、薬売りをしながら勝手に武者修行してまわっとる。」
周助はまた愉快そうに笑った。
「しかし、我流には違いないがあれは強くなるよ。度胸だけは一人前以上だからの。」
「へえ……。」
 周助が、寝込んでいる女房を気にして奥の部屋へひきあげていくと、ほどなくして勝太
も戻ってきた。日暮れにはまだ少し間があるが、外はどうやら生憎の氷雨が降り始めたと
いうことである。
「歳さんが、来ているって?」
先に周助から聞いたらしく、宗次郎の顔を見るなり言った。
「はい。寝ておいでですが。」
「しょうのない奴だ。宗次郎、起こして来い。」
 宗次郎は、自分の部屋へ戻って障子を開けた。歳三は、軽い鼾をかいて寝ている。
「歳三さん。」
宗次郎はこわごわ、歳三の寝顔をのぞきこんでみた。起きる気配もない。
「人の布団をとりあげて、よく寝られるな。歳三さん、歳三さん、起きて下さいよ。先生
たちがお戻りですよ。」
「うーん……。」
歳三はもっそりと布団をひきかぶって寝返りを打っている。
「変な時間に眠ると、後で寝られなくなりますよ。」
「馬鹿言え……俺あ、ゆうべ寝てねえ。だから、いいんだ。」
「なぜ寝てないんですか。」
宗次郎は、へんな質問をした。そんなに忙しそうな人間には見えない。
「子供にはわからねえ。」
と、歳三も屁理屈をこねた。宗次郎は井上が「あの子」と言ったことを思い出し、
「じぶんだって子供のくせに。」
と文句を言った。歳三はむっとして、漸く面倒臭そうに半身を起こし、あくびをした。
「何だと……うあ、あ。うるせえ………飯は出来たのか。」
「井上さんが、せっせと支度していらっしゃいますよ。」
「ふうん……源さんがね。あの、お梶とかいう女房よりゃうまそうだ。」
前妻のお梶と井上、どちらの人間も知っているらしいが情報が遅れている。宗次郎は親切
に教えてやった。
「お梶さんなら、とっくに出て行きましたよ。今は、おあきさんという人が先生のご新造
です。」
「何。またかわったのか。」
歳三が目を見開いた。
「ええ。おあきさんは、料理は上手ですよ。今日は風邪で寝ているけど。」
呆れたらしい。
「先生も、やるな。」
くく、と笑っている。まさかしばらく無沙汰をしているうちに女房が変わっているとまで
は思わなかったようだ。
「私も、井上さんを手伝わないと……歳三さん、早く起きて先生にご挨拶をして下さい。」
「飯の時でいい。出来たら起こせと言ったろう。」
「そんなの、駄目ですよ。」
「眠い。」
言うなり、歳三はまた、布団をかぶってしまう。宗次郎は、ちょっと考えている。
「う……や、やめろ。」
歳三が起き上がった。宗次郎は、布団のすそから手を入れて歳三の足の裏をくすぐったの
である。
「義兄上とおんなじだ。こうすれば起きると思った。」
子供らしい知恵である。
「ばか。馴れ馴れしいガキだな。」
さすがに頭をはたいたりはしないが、歳三はさも憎々しく言った。
「歳三さんだって、ずうずうしい人だ。」
「何。」
「ここは、私の部屋です。ぬしのいうことは聞いていただきます。」
宗次郎が、部屋主の権利を発動した。第一、布団を貸すといった覚えもないのである。
「ちぇっ。こうるせえ。」
歳三は大あくびをして、すらりとした両腕を伸ばしている。
 
 
 
 
 
 周助の部屋。歳三が、まだ眠たそうに目を半開きにしながら、周助に挨拶をしている。
「ごぶさたしまして……また、しばらくご厄介になります。」
何度か商家に奉公をした事がある若者だから、こういう時のお辞儀と声音はやわらかい。
しかし、家主が泊まっていけと言ったわけでもないのに、さっさと逗留を決め込んでし
まっているところは自分勝手なものである。
「相変わらず……懲りずに悪さをしておるらしいの。」
周助も動じないほうなので、にやにやしている。
「先生も、ますますご壮健だそうで……。」
「言うわい。小僧めが。」
周助が笑った。この年になって新妻を取り替えたことを示唆しているのはわかっている。
しかし、わざわざ聞きましたよと切り出さないところが歳三の頭の良いところでもある。
「ご新造は、風邪だそうですな。」
「おあきか、うん。日頃は丈夫な女なんだが、ちとこじらせてな。」
手狭な屋敷のことでもあり、日頃は夫婦が同じ部屋で起居しているのだが、おあきのほう
で老齢の周助に悪い風邪をうつしたら申し訳ない、と部屋を分けてひきこもっている。
「商売物で何ですが。これを、飲ませておあげになるといいですよ。」
 歳三は、風邪薬の包みを差し出した。なりわいで家業の石田散薬という打ち身用の家伝
薬を売って歩くのが、歳三が生家から認められたアルバイトなのであるが、単独の薬だけ
でそうそう需要があるわけでもない。最も需要があるのは打ち身がつきものの剣術道場だ
が、合間にはやはり普通の薬、風邪薬や痛み止め、疳の虫、そういったものも少量ずつは
つづらの中に揃えている。江戸は薬種問屋が多くて種類も豊富だが、在郷の村だとそうは
いかない。勿論、決まった薬売りが村々を廻ってはくるが、歳三は容姿が良いうえ、商売
となると如才なく愛想のひとつも言える男なので、出入り先の、特に女たちには受けが良
く、急場の薬を頼んでくれることも多い。本腰を入れれば商才もあったかもしれないが、
何しろ商家の奉公などというかしこまった規則詰めの修行は生来の強情が邪魔をしてもの
にならなかった。実家の次兄が二度も世話をして奉公に出したものの二度とも首になって
帰っているのである。一度目は喧嘩、二度目は女。そのせいで実家には足を向けづらく、
家伝薬の行商を条件にして一人ぶらぶらと歩いては何とか食べている。金に詰まると、居
心地のいい義兄の庄屋宅か、この試衛館に来ては日を暮らしてまたどこかへ旅に出る。そ
ういう暮らしであった。
「うん。ありがとうよ。」
周助は喜んで、鷹揚に風邪薬を受け取った。歳三もまさか師匠から代金をとろうとは思わ
ない。その代わりに好きなだけ居ていいよという暗黙の呼吸なのである。
「しかし、先生も律儀というか、底抜けの物好きというか……女房を八人も取り替えるく
らいなら、いちいち嫁にしなけりゃいいじゃねえですか。」
歳三が気を許してあけすけに言った。この男には、石田村の実家に盲目で家督を継げず次
兄に家は譲られたものの、自身は義太夫や俳句などを嗜みながら気ままに暮らしている長
兄があって、その長兄が近在の宿場女郎と遊ぶためにはぶらりと一人で遠出していつの間
に帰ってくる、というつわものだから、女ずきの話には慣れている。しかし女が好きだか
らと言って八度、九度と女房に迎えたなどという豪傑はさすがに周助しか知らない。
「わしは、面倒見がいいのよ。お前みてえに、一人の女にかかずらわってオロオロと泣き
を入れるような甲斐性なしとは、年季が違うわい。」
「ちぇっ。それは、言いっこなしだ。」
とたんに歳三の形勢が悪くなった。周助はにやにやしながら、
「年増女の色香にのぼせて、所帯を持つだのガキが出来たのと大騒ぎをしたのはいつのこ
とじゃったかな……。」
と、あごを撫でた。歳三が十七で二度目の奉公に上がった時、同じ店の年上の女に手引き
されて性の快楽に溺れ、風紀にやかましい大店から叩き出された時、多摩の兄が出てくる
までの間、一時は江戸の周助が身柄を引き取ってやったのである。
「あんなの、悪い夢みてえなもんで……目が覚めたら忘れましたよ。」
歳三は苦い顔をした。その時の女は、腹に子が出来たと言い出し、歳三の実家が富農であ
る事をあてこんで手当てを期待していたらしいのだが、歳三の実家もそうそう裕福な内証
ではないと知って態度を変えた。歳三も、隠れた火遊びがさらけ出されてしまうと、現実
に水をかけられて夢から覚めたのである。別れた後子供が生まれたという話は聞かない。
「そりゃあよかった。で、こっちの方は、どうかな。」
 周助が話題を変えて、両のこぶしで剣を持つ手真似をした。
「世の中、強い奴が多いってことですかね。」
歳三は正直にもらした。多摩一帯は武術ずきが多い。道場を回っても、まだまだ歳三の喧
嘩剣術では歯の立たない相手がごろごろしている。
「付け焼き刃では歯が立つまい。明日から、宗次郎と一緒に素振りをせい。」
周助が、撃剣道場の師範の顔に戻って言い渡した。歳三はうへ、という顔をして、
「宗次郎……ありゃあ、生意気なガキですな。」
と言った。周助が笑った。目くそ鼻くそである。
「向こうも、お前に言われたくねえだろう。しかし、あれは天才だよ。」
「あんなガキがですかい。」
歳三が眉をひそめた。
「そう。お前さんも、ちょっとばかり入門が早いといっても、すぐに置いていかれかねん
よ。天分が同じなら、馬鹿正直に毎日精進している奴のほうが強くなるのは道理さ。」
これは率直な感想である。天然理心流には本業の合間に稽古に通ってくる弟子が多く、
宗次郎のように小さいうちから専心出来る内弟子は稀な存在であった。
「………簡単にはやられねえ。」
歳三が持ち前の負けん気を瞳に光らせた。
「どうかな。」
周助はふふ、と笑っている。 
 
 
 
 
 翌日。歳三も、周助の命令で大人しく木刀での素振りを始めた。しかしそこはへそ曲が
りの歳三らしく、宗次郎とは離れて狭い道場のわざわざ反対側でやっているのである。勝
太があきれて、周助のそばへ来て苦笑した。
「並んでやりゃあよさそうなもんだ。」
周助はふふん、と笑って、
「子供と見比べられるのが悔しいのさ。見ろ、素振りだけでいえば、宗次郎の方が鋭い。」
「そうですか。」
勝太は歳三とは仲がよい。年も一つ違いである。まさか二十歳に近い男が子供に負ける事
もあるまいと贔屓目で見ようとしたが、師のいうことである。
「動きにまるで無理がねえ。あの面をまっすぐに当てられたら、おめえでも目がくらむよ。」
そうかもしれない。宗次郎の持つ木刀はまだ大人のものに比べれば軽く、握力、腕力とも
及ばないが、まるで自分の腕の一部と化したかのように振りがしなやかである。正面にあ
の太刀筋で当たったら想像以上の衝撃が弾けるだろう。数ヶ月の稽古で基本の動きが体に
しみこんでしまったらしく、末恐ろしいものを感じる。
 周助は制止して、弟子達に声をかけた。
「歳。おめえの武者修行がどれほどのもんか、源三郎と立ち会ってみな。」
 歳三は素振りをやめ、やや上気した顔を振り向けて素直に従った。
「……はい。」
次に周助は宗次郎を傍らに呼び、お前はここで見学だと正座させた。勝太はすでに、他の
門人らに稽古をつけてやるために道場に立っている。
 歳三は、井上と向き合って打ち込みを始めた。井上の剣は、器用ではない。しかしまだ
剣を始めて一年にもならぬ歳三に、長年の修行が負けるはずがない。激しい打ち合いが続
いている。宗次郎はじっと目を見開いて、言われた通り見学していたが、周助が、
「どうだ。歳の腕は。」
とささやいた。
「はい。思ったより強そうです。」
「ほほ。」
周助が吹き出した。
「でも。」
「ん?」
 宗次郎はしばらく歳三の動きを見ていて、ふと、
「ほらあれ。今のは、天然理心流ではなくて、他の流儀の技ではありませんか。」
と周助に答えを求めた。
「ほう。わかるのか。」
周助は、目を細めた。もちろん、宗次郎にはまだ個々の技など教えてはいない。師匠や先
輩の誰とも違う動きを歳三が時々織り交ぜる。それを直感して目に入れているのである。
「先生は、どうして歳三さんには、よその道場への出入りをお許しになるのですか。勝太
先生には、他流試合は厳禁とおっしゃるのに。」
 素直な疑問であった。これには周助もまじめな顔で答えている。
「ふむ。……いつか、わしは植木屋だと言ったな。」
「はい。」
 いつか、ではない。宗次郎が初めて周助に出会った時にしたたとえ話である。宗次郎は
新鮮な体験の日であるからよく覚えている。
「剣術使いも、植木と同じでいろいろあるのさ。勝太が、杉のように真っ直ぐ上をめざし
て、でっかくなっていく木だとする。宗次郎はまだ苗木だが、大きな檜になるかもしれぬ。
しかし、例えば松の木は、ただ真っ直ぐに伸びていたって面白くもねえ。いろんな風雪に
あたって、あちこちに枝葉を伸ばし、曲がりくねった木が名木と呼ばれることもある。ま
あ、そういう苗木の違いを見て、育てていくのも、植木屋の仕事さ。」
「………。」
「いまどき江戸で流行りの竹刀剣術などは、さしずめ桜の木だなあ。ぱあっと、派手で華
やかな花が咲く。だから人々が浮かれて寄ってくる。」
 周助は、試衛館とはくらべものにならぬ隆盛を誇る、江戸三大流儀のことを言っている。
北辰一刀流、神道無念流、鏡心明智流。いずれも技の精緻を極め、江戸はおろか全国から
藩士の子弟が入門を目指して集まってくる。天然理心流の門人は近在の在野の者が多く、
技でも道場の規模でも門弟の見栄えでも、当代流行の大道場とは比較にならぬ素朴さであ
る。
「しかし、木の値打ちというものは、見た目の華やかさや綺麗さとは違う。根っこや幹の
ところがいかにしっかりしているかってことさ。中がスカスカでは、ちょいと花がきれい
に咲いたといったって、簡単に折れちまうからな。桜は折れるとそこから腐る。」
 軽佻浮薄、見た目重視では駄目だ、というのである。勿論、桜の中にも数百年の命脈を
保つ巨木が出現することはあると知ってはいるが。
 宗次郎は、木々の形をあてはめて想像している。
「勝太先生が杉で、私が檜で、……歳三さんは松。」
と、言ってから、宗次郎は、
「井上さんは?」
周助の顔を見た。
「うん?ふむ……」
周助はちょっと返答に困った。実のところは、井上源三郎が名人達人の域に達するほど、
大木の素質があるとは師匠の周助は思っていない。器用ではないが、基本に実直である。
それはそれで良いと思っている。
「宗次郎。今日から、一人稽古は終わりじゃ。」
周助はにやりと笑みを含んだ。
「え……。打ち合いですか。」
「そうだ。」
宗次郎は、わっとばんざいをした。
「嬉しいか。」
「はい。あと何年も、素振りだけをするのかと思っていました。」
「ははは。馬鹿を言え。はたち前には指南免許をとれ。」
「え……本当に?」
天然理心流の修行は長い。十年、十五年を経てのことだろうと思っていた。
「もちろん、それも今日からのお前次第じゃが。」
いかに少年の頃に天分を持っていようとも、それを成人まで開花させるのは当人の努力で
しかない。
「はい!」
宗次郎は、早くも木刀を持って立ち上がっている。周助も、みずから立った。
 
 
 宗次郎は、対人で立ち会いの稽古をするようになると、そちらの方が余程性に合ってい
たらしく、めきめきと上達した。一年のうちには道場の大人たちが舌を巻くほどになった。
それでも、最年少内弟子の基本の暮らしは変わらない。皆が慌しく夕方に帰ってしまうと、
一人で道場の雑巾掛けをしている。力が弱くて、井上に雑巾を絞ってもらわなくてはなら
なかった頃に比べると、ずっと腕の力もついた。床を蹴る足腰もしなやかな強さを備えた。
「せえのっ。」
床板を端から端まで、一気に裸足の足を蹴りだして往路を拭きあげてしまう。向きを変え
て顔を上げた時に、歳三が、行商の格好で立っていた。
「よう、チビ。はりきってるな。」
「歳三さん。」
 宗次郎は汗で光る笑顔を見せた。ヘンクツな歳三とも、いつの間にか顔がなじんでしま
っている。
「チビはないでしょ。」
立ち上がった。
「確かに、背が伸びたな。」
もともとタテにばかり伸びる体質の上に、年間を通して手足を激しく使う運動が、拍車を
かけたようである。
「きっと、歳三さんを追い抜きますよ。背たけも剣も。」
けろっと言った。
「ちぇっ、ぬかせ。」
小憎らしいがきである。だが、歳三のほうも近頃では慣れてしまっている。
「また、道場荒らしですか。」
石田村の「石」の字をかたどった紋入りの薬箱には、赤い紐を垂らした剣術の面がくくり
つけてある。天然理心流は基本として素面素籠手であるが、幕末の剣術道場では、防具を
用いる流儀が増えている。歳三は薬売りのついでに各地の道場へ乗り込んで立ち合いを願
い、独学を磨いたという。わざわざの自前の装備は、先方が防具つきで、と条件を出した
時の用意である。
「たまに稼業もやっとかねえとな。兄貴から小遣いがでねえのさ。」
石田村の土方家では、盲目の長兄はともかく、丈夫な癖に野良も手伝わない末弟の歳三に
はやや風当たりが強い。
「石田散薬の薬売りか。あちこちに行けて、面白そうですね。」
「ふふん、呑気なこと言いやがる。人に頭を下げて歩くのは楽じゃねえぜ。」
歳三が試衛館で見せる内づらの悪さは、薬売りの旅を終えてきた時、特にひどい事がある。
「そうかなあ。」
宗次郎は、ここへ来て以来試衛館近辺の町しかほとんど出歩くこともない。今日はここ、
明日はあちら、という暮らしが興味ぶかく感じるというだけであった。
 歳三はふん、と一息ついて、
「宗次郎。手紙を書きな。」
と言った。
「え……誰にですか?」
「おめえの姉さんにだよ。こんどは日野へ行く。ついでに届けてやる。」
 きょとんとする宗次郎に、
「書けと言ったら書け。四半刻なら待ってやる。」
と、せかした。
「面倒くさいなぁ」
 宗次郎は雑巾をぶらぶらさせながら、照れ臭げに言った。この少年は、教えられれば年
のわりにはそこそこ達者な字も書くのだが大の筆不精で、年賀状くらいしか書かない。口
数の多さからしたら反比例のようなものだった。しかしそれでも急いで部屋へ戻り、簡単
な手紙を書いて、歳三が草鞋を結んでいる時に渡した。
「じゃあこれ。お願いします。」
 歳三は受け取って手紙を懐にしまいながら、
「本当は、文なんぞ書くと、お光姉さんを思い出して恋しいんだろう。」
と、ずけりと言った。
「そんなこと。」
宗次郎は、ちょっと口を尖らせた。
「じゃあ何だ。俺が日野へ行くとなったらその羨ましそうな顔は。」
「寂しくなんかありませんよ。おきん姉上の嫁入りの時に会ったから、いいんです。」
宗次郎が家を出た後、次姉のおきんが江戸へ嫁して、その席できょうだいの顔が揃ってし
ばらくたつ。おきんも嫁の立場でもあり、試衛館に顔を見せることはない。
「無理しやがる。」
 歳三はにやっと笑った。
 
 
 歳三が、日野の沖田家に顔を出したのは数日後の昼下がりである。生憎と、というべき
か頃よく、というべきか、当主の林太郎は留守にしており、お光一人が出迎えた。もとも
と土方家と林太郎の実家井上家は親戚であり、お光は宗次郎の同門であり日野名主の義弟
という歳三を信用している。宗次郎の文使いで来てくれたという事を知ると喜んで、快く
茶を入れた。だが亭主の留守という事もあり、歳三は屋内に入らず、縁側に腰掛けた。お
光が茶を運んで来た。
「宗次郎は、無事に暮らしておりますか。」
 やはりお光の関心はそこにある。
「元気ですよ。あれは、弟子の中でも一番筋がいいらしく、周助先生がみっちりと稽古を
つけています。秘蔵っ子というわけでしょう。」
「左様でございますか。皆様に、ご迷惑をかけてはおりませんか。」
「いや、年のわりに気はしのきく子で、用事もよくやるし、誰彼となく親しんでいる。大
人の弟子たちより技の進みが早いので驚かれていますが、本人が天狗になったりしないも
んで、チビさんと呼ばれて可愛がられていますよ。まあ、人気者ですな。」
「有難うございます。」
 お光は、安堵したらしい。しみじみと美しい笑顔をほころばせた。急に背が伸びたこと、
周助の今の女房ともうまくやっている事、などを聞くといちいち熱心にうなずいた。お光
夫婦も宗次郎の身を案じてはいるが、里心をつかせまいとして、勿論訪ねていく事もない
し、日野の道場へ周助が来ている時にも、あれこれ聞いたりはしないしことづけを頼む事
もしない、と、歳三は義兄夫婦から聞いている。
「お光さん。私は、日野の佐藤に二三日泊まって、帰りにまた寄ります。宗次郎への返事
があれば、その時にお預かりします。」
 歳三は、茶を一杯飲むと早々に沖田家を出た。お光は近在でも評判の美人で、若い男が
長居をして、噂でもされては気の毒だと思ったのである。
(しかし、いい女だな。)
 本心でいえばもう少し、お光の細面ながらしっとりとした色香のある姿を眺めて話も聞
いていたかったのだが、そうもいかない。歳三は、貧しいとはいえ武家の育ちであるお光
の、楚々としたたたずまいや物言いなどに、ほのかな憧れを持っている。
(宗次郎の姉でなければ……。)
などと、歳三はいっぱしの事を思ってみる。しかし、いくら近在の村男より容姿がいいと
いっても、まだ二十歳にも届かぬ農家の四男坊の歳三に、まっとうな武家の女などが見向
きもするはずがなかった。
(林太郎さんのところは、うるせえ親がいねえからまだましだが……しかし、いくら武士
になれるからといっても婿養子なんぞはいやだな。俺には、先祖伝来の土方という隠し姓
がある。武田信玄にも仕えた旧家の名だと聞いている。いつかは堂々と……天下に「土方
歳三藤原義豊」と名乗りをあげる侍になりてえ。人がその名を聞いて恐れをなすような、
名ばかりではねえ強い武士に。)
 歳三には、そういった野心がある。しかし、まだ茫洋たる望みで、実現のめどすら立た
ない。土方歳三の名が天下に響きはじめるまでには、さらに十年の歳月を待たなければな
らなかった。近藤勇しかり、沖田総司しかりである。
 
 
 


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