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まことしょう
第 20 回
試 衛 館 の 子
(一) きょうだいの家


 その日は空が高かった。
 五月晴れの青空は、裾にあたるところにだけわずかに雲を引きのばして、こんな日には
天を舞う鳶や雲雀でさえどこか楽しげに見える。その抜けるほどの青さがやがて端々から
薄桃色の化粧をほどこしはじめ、一面の風景が茜色に染まり始めた頃、多摩は日野宿をは
ずれた田舎道の上を、飾り気の少ない島田の髷を結った、若い武家の娘が、まだ幼い弟の
姿を探して歩いていた。
「宗次郎。宗次郎ーっ。」
 一緒に遊んでいたはずの近所の子供らが夕闇を怖れてねぐらに帰ってきたというのに、
中でもちびすけの弟一人が戻らないのはどうしたわけか。ひょっと川べりから転げ落ちて
怪我でもしていないか、と、姉の声には幾分切羽詰まったひびきがある。
 家から四半刻近くは探し歩いたであろうか、ふと、人けの絶えた神社の境内へ入り、祠
の陰を覗いていると、ふいに天から声が降ってきた。
「あねうえー……。」
 娘・お光は驚いて頭上を仰いだ。境内に大きな楠がある。声はその枝葉の間から降って
きたものらしい。
「まあっ。」
 思わず両手でひきつった頬をおさえた。わずか五才の弟・宗次郎が、お光の身長の倍ほ
どの高さの枝にいて、太い幹にへばりついている。
「何をしているのです。」
「木登り。」
 お光は聡い娘だが、やはり慌てていたらしい。から手で木の上にいる者に、それ以外の
目的があるはずもない。ごくりと唾を飲み込んでから、
「降りていらっしゃい。」
と、言った。
「降りられません。落ちるもの。」
「………。」
 と、また弟は至極当然の答えをした。べそをかいていないのが幸いだが、確かに滑って
降り損ねれば足を挫くか手を折るか、良くて打ち身、悪ければどうなるかはわかるまい。
冒険心で登る時は平気だったものが、下を見たらすくんで、急にこわくなったらしい。
「静かに。そのままじっとしているのですよ。」
かといって、お光も若い娘である。とても、その高さまで登って助けてやることは出来な
い。お光は走って、取りあえず最も近い村の老婆の家に頼み込み、物干し竿と、荒縄や女
物のしごきなどを長く結んだものをとって来た。戻って来た頃には、樹上の宗次郎の顔が
ぼやけて見えるほどに日は落ちてきている。お光は手早くその長いものを竿の先にくくり
つけて宗次郎に差し出し、
「これを、腰のまわりに巻きつけてしばりなさい。何度も、固く、固く結ぶのですよ。」
 先だって、遊びがてらに縄の縛り方を教えておいて良かった、とつくづく思った。
「はい。」
 子供ながらに、これがほどけたらえらい事だ、というのはわかるのだろう。宗次郎は素
直に従っている。
「その端をこちらへ、投げて。そうそう。」
 枝を滑車がわりにして、反対側から徐々に降ろそうというのである。お光は手が痛くな
るほどに縄の端を握りしめ、
「私が、こちらを持っていますからね。ゆっくり、あちら側へ……そう。そう。ゆっくり
と……。」
 救出が始まって、両の足が静かに木から離れると、ぎりぎりと体の重みが手にくいこん
だ。宗次郎は宙吊りになりながら、そろりそろりと低い位置に降りてきて、ようやく地上
に足をつけた途端、無邪気に姉の胸に飛び込んできた。
「姉上。」
 お光は手も腰も力が抜けて安堵しながら、次の瞬間、
「もう。……なぜ、こんな危ないことをするのです。」
と、きっと眉をしかめてみせた。その答えというのがふるっている。
「遠くが見たかったから。」
 宗次郎は嘘のようにけろっとして、小さな歯を見せてにこにこしている。
「まあ……。」
と嘆息混じりに言った後、お光はとりあえず、説教は家に帰ってからにしよう、と思った。
考えてみれば、足がかりもないのに宗次郎ひとりであの枝まで登れたとは考えにくい。他
の年長の子らにつられて、つい夢中になって帰りそびれたというところかもしれない。こ
の辺りの子供たちは、遊びも喧嘩も案外きついのである。意地悪で梯子を外されたりした
のであれば、告げ口もせず泣きもせず、という点は良しとしなくてはいけないのかもしれ
なかった。両親のない子はえてしてそんな目に遭いやすい。
 姉のそんな心中を知ってか知らずか、弟のほうはくるんとした瞳で笑顔を向けている。
大体の場合において、お光は、この子の笑顔に弱い。甘い、というより、怒るほうが馬鹿
馬鹿しくなって、その気が失せてしまうのである。不思議な子供だった。
「それで……遠くが見えましたか?」
「はい。もっと、うんと高くまで登れば、もっと遠くが見えますか。」
「……そうね。」
「すごいなあ。いっつも、そんなに遠くを見ているんだ。」
 宗次郎は顔をあげ、そこにある楠が人であるかのように感心して誉めた。その瞳は、も
う楠の枝葉を通り越して藍色の空に浮かんだ宵の明星までみつめている。
 この少年が、幼名沖田宗次郎、のちに新選組一番隊長、沖田総司である。


 それから歳月が経って、姉娘は養子で入り婿の林太郎、という、武州日野宿井上家の出
の若者と夫婦になった。もともと沖田家は奥州白河藩の江戸定府の微禄で、長女のお光、
次女のおきん、末子に長男の宗次郎がいる。嫡男がいるのに婿養子、というのもおかしな
ものだが、父の勝次郎は永い病を得ていて、子らの行く末を案じて早いうちに後継を決め
ておきたかったのだろう。その頃にひょっこり、文字通り忘れ形見の男の子が生まれた。
沖田家は実質勝次郎を最後に白河藩を浪人し、その両親も相次いで亡くなり、今は林太郎
の実家の援助で、若夫婦が妹と弟を養いながら、日野の一軒家に住んでいる。窮屈な藩邸
の長屋に押し込められた暮らしよりは、よほどのびのびとして心地が良かった。しかし、
そのきょうだいが肩寄せ合うような日々は、もうじきに終わろうとしていた。
「宗次郎は?」
と、お光が居間に顔を見せると、真ん中のおきんは縫い物の針に目を落としたまま、
「また、義兄上と一緒に川遊びに行ったようです。」
義兄上というのはお光の夫の沖田林太郎である。
「しかたのない子。遊んでばっかりいて……。」
まだ遊び盛りの頃の面影をどこかに残しているおきんがそういうと、お光は微笑して、
「林太郎どのは、宗次郎が可愛いのでしょう。今のうちに、子供らしい遊びをさせてやれ
とおっしゃいます。」
「あんまり甘やかしては、人さまのお家に入ってから苦労をいたします。」
「もう、弟子入りまであまり日がないのですから。」
おきんはふと、今さらのような質問をした。
「江戸の試衛館道場というのは、どんなところなのですか。」
「牛込の、ごく小さな構えのところだと聞きましたけれど。」
実はお光も行った事がない。
「名主様のお道場よりも?」
名主、というのはこの日野宿六か村の寄場名主で、佐藤彦五郎といい、無類の剣術好きで
自邸に道場まで建てている。ちなみに、この佐藤家は林太郎の出た井上家とも縁戚で、彦
五郎の嫁おのぶの実家が、石田村の土方といい、両家から後年に新選組の大幹部を出して
いる。
「ええ。江戸の市中では、土地も狭いですからね。」
「そんなところへ内弟子などといって入って、ちゃんと食べさせてもらえるのかしら。」
「天然理心流宗家の、近藤周助先生がじきじきに引き受けて下さるのですもの。光栄なこ
とですよ。」
「どうでしょう。貧乏道場で、ていよく小僧さん代わりにこき使われなければいいけど。」
「これ。おきん……口が過ぎますよ。」
 長女は温和でしっかり者、次女は気が強くてやや生意気、不思議な事に末弟はその両方
を持っている。
「姉上は人が良すぎます。世間では、宗次郎の弟子入りを口減らしだなどと言う人さえい
るのですから。」
「無礼な。」
と、さすがに温和な姉も眉をひそめた。
「私が来年に嫁入りするのは道理だとしても……本来の嫡男である宗次郎まで江戸に厄介
払いをして、婿養子の林太郎義兄上とお光姉上が、夫婦水入らずで暮らそうとなさってい
ると。私、あんまり悔しくて喧嘩をいたしました。」
「誰です。そんな心ないことを言うのは……。」
「………。」
 おきんは、ちょっと顔を赤らめて黙った。お光は思い当たるところがあって、
「おおかた、修五郎どのあたりでしょう。」
「ええ……。」
「あなたに袖にされた腹いせでしょう。中野様に縁談が決まったのが口惜しくて、そんな
嫌がらせを言うのです。」
「私、修五郎どのと約束したわけではありませんもの。なのに、男の人って身勝手。」
浪人の子といっても、おきんは色が白くてそこそこの美人だし、江戸の娘であるから、縁
組が決まるまでは近在の若者にもてた。お光のほうはそれ以上なのだが、最初から人のも
のと決まっていたから浮いた話にならなかったのは仕方がない。
「あなたが思わせぶりなふりをするからですよ。」
「まあ、ひどい。」
 おきんは、ぷいと口をとがらせた。
「これ。中野様に嫁いだら、そのような顔をしてはなりませぬよ。」
 おきんは、はい、と言って縫い物の糸をとめた。嫁ぎ先の中野家は、江戸詰めの三根山
藩士なのである。両親もない浪人の娘にとってはまずまずの良縁であった。少し田舎暮ら
しでのびのびさせすぎたかな、と、お光はこのところ妹の躾に小言が多くなっている。


 日がかげり始めて、狭い玄関の外から、あるじの林太郎の声が聞こえて来た。
「おい、ミツ。お光、今帰った。開けてくれ。」
お光ははい、と返事をしながら急いで戸を開け、驚いた。
「まあ。」
宗次郎が、林太郎に背負われて眠りこけている。この義兄は背中に男の子をおぶって、手
には釣り竿と魚篭をつかんで、汗をかきながら家までたどり着いたのであった。
「これ、宗次郎。」
 お光が起こそうとすると夫は制止して、
「いいんだ。寝かせておこう。おきん、布団を敷いてくれ。」
「はい!」
 慌てておきんがのべた布団の上に寝かされても、宗次郎はそのまま正体がない。真っ赤
な顔をしている。熱でもあるのかと心配したお光は、林太郎を振り返って、
「どうしたのです?」
と聞いた。
「いや、俺が悪かったのだ。石で怪我をするといけないからと、焼酎(消毒薬として使う)
を持っていったところ……こいつ、私が川へ入っているすきにお茶だと思って飲んでしま
った。」
「まあ。」
 おきんが、後ろで吹き出している。
「余程のどが渇いたらしくて、がぶがぶっとな。『義兄上、このお茶は変な味がします』
と言ったきり、ぶっ倒れてしまった。」
「大変でございましたね。重かったでしょう。」
人の体は、寝入ってしまうと倍も重く感じるものだ。今は弟妹を背負うことはなくなった
が、お光は経験で知っている。
「いや。まだ子供だ。お光に比べればずっと軽い。」
「ま。……旦那様。」
 お光は赤くなった。後ろで、おきんも赤くなっている。


 お光が、林太郎たちの釣ってきた魚を焼いて、夕げのしたくをしている間に、おきんは
林太郎の肩を揉んでいた。姉の夫といっても、早くから養子に来ているから、もうすでに
本当の兄妹のようなものである。おきんは近々嫁にいく事が決まっているから、義兄に孝
行する機会もじきになくなるであろう。
「凝っておいでですこと。」
 林太郎も剣術を習っているから、筋肉は並の人よりも厚い。その上に凝るとなったら娘
の細い指では、しなるほどに力を入れないと効かないほどの凝り性である。今こうして、
肩のツボを探り当てつつ揉んでいる事も、いずれは婚家で役に立つだろう。林太郎は首を
下に垂れつつ、心地良さそうに指の動きに合わせてうなずくようにしながら、半ば目をつ
むっている。
「おきんは、お父上におんぶされた覚えはあるか。」
「物心ついてからは、ずっとご病気でしたから……でも、うんと小さい時には、あったよ
うな気がいたします。」
 沖田の父母は、共に病で早く亡くなっている。当然、姉弟の両親の記憶も、上から順に
濃淡の度合いが違っている。
「そうか。宗次郎には、そういう思い出がない。可哀相だ。」
 おきんはちょっと指を止めた。
「だから、おぶっておあげに?」
「うん。」
「義兄上は、おやさしい……私も、そういう御方に添いたいと思います。」
「妻の心掛け次第さ。亭主というものは、妻が可愛ければ、本人にもその身内にもやさし
くなる。」
 おきんはくすくす笑って、「御馳走さま。」と言い、再び親指にぐっと力をこめた。


 さて、人騒がせな酔っ払いの宗次郎は、夜更けになって目がさめた。すぐ横の布団に、
姉のおきんは寝入っている。小さな手で軽く揺り起こした。
「姉上……姉上。」
「うーん……。」
 おきんは目覚めない。夫婦の寝室、襖の奥から、お光の小声がした。
「宗次郎?起きたのですか。」
「はい。」
 お光が隣室から出て来た。宗次郎はぽつねんと、暗がりに立ちすくんでいる。
「お腹が、すいた……。」
 宗次郎は腹に手をあてている。ぐうー、と間延びした音がした。夕刻から昏々と眠り続
けいたのだから無理もない。空腹で目が覚めたのだろう。
「義兄上もお休みになっていますからね。静かに。こちらへいらっしゃい。
 お光は宗次郎を連れて台所に行き、ふきんをかけてあったにぎり飯を出した。宗次郎は
けろりとして、お新香をぱりぱりとかじり、お光が煮つけにしておいてくれた魚を食べて
いる。
「お魚は、焼いた方が好きだな。あつあつで塩焼きにしたの。」
勝手な事をいうものである。
「焼いた時には、ぐうぐう眠っていたじゃありませんか。」
「うん。……今度は、塩焼きにして下さいね。」
 宗次郎は、姉の機嫌をとるように、ちらっと目を上げて笑った。その顔に、何ともいえ
ぬ愛嬌がある。お光はふ、と溜息をついて、
「焼酎など飲んで、体は何ともないのですか。」
「はい。寝たら、何ともなくなりました。」
「宗次郎は、きっと酒豪になりますね。父上もお強くていらしたから。」
 あまり接点のない父子の、遺伝の証を見たような気がして、お光は遠く父を想った。
「そうですか。でも、ちっともおいしいと思わなかった。」
「あたりまえです。今から焼酎がおいしいと思うようでは困ります。」
 そも、あんなものを吐き出しもせずに飲み干したというだけで末恐ろしい、と感じた位
なのである。
「私は、お茶の方が好きです。姉上、お茶を下さい。」
「………。」
 やれやれ、という顔でお光は茶を入れながら、
「宗次郎。あちらへ行ったら、お茶を下さいなどとは言えなくなるのですよ。自分で、な
んでもしなくてはいけませんよ。」
「はい。」
「あなたは、末っ子の甘えん坊なのですから……修業が厳しいからといって、わがままや
泣き言を言ってもよそ様のお宅では通じませんよ。いいですね。」
宗次郎は出された茶を飲んだついでにちょっと口をとがらせて、
「はあい。」
と言った。弟子入りが決まってから毎日のように聞かされて、わかってますよ、と言いた
かったのだろう。小さな不服が顔に出ている。
「はあい、ではありません。はい、と短くおっしゃい。」
「はい。」
「ご飯は、きちんと決められた時間にいただくこと。お勝手の都合もおありですからね。
もちろん、出されたものに文句を言ったり、残したりしてはいけません。」
「はい。」
「天然理心流は、林太郎義兄上のご親戚筋が、たくさんご門人になっておいでです。その
宗家の近藤周助先生の内弟子になるのですから、あなたがきちんとしないと、義兄上の恥
になるのですからね。そのつもりで、何事も辛抱して、よくよく先生のお言いつけをきく
ことが肝心ですよ。」
「……ふぁい。」
 宗次郎は、食べるとまた眠くなったらしい。お光のお説教の間に、こっくりと舟を漕ぎ
だした。


 それから幾日か過ぎた日の昼さがり、おきんはこの何日もかけて取り組んでいた縫い物
の手を止めて、最後の糸をパチリ、と切った。
「できたぁ。」
 どっと安堵の歓声を上げて、おきんは今出来上がったものを両手で持ち上げ、そのまま
ごろん、と畳の上で仰向けに倒れた。
「これ。」
同じく針仕事をしていたお光の叱咤が飛び、くの字型に折れた膝小僧の上をぴしゃん、と
叩いた。勿論、痛い程の力は入っていない。
「だって、くたびれたんですもの。ああ、本当に疲れました。」
おきんは少女がするようにいやいや、と首を横に振って、それでも大人しく座り直した。
お光は苦笑して、
「ご苦労様。」
と言い、おきんの労作を手に取ってみた。
「まあ、本当によくできたこと。」
 おきんの縫っていたのは、宗次郎の新しい剣道着であった。丁寧に細かく刺し子がほど
こされている。指の力のいる仕事であった。おきんは誉められて当然、というふうに頷い
てから、ふとしみじみ呆れたように、
「小さいですねえ。義兄上のと比べると、嘘みたいに……。」
「ええ。」
「姉上、見て。ここのところ……ほら。」
 おきんは目を輝かせて、稽古着の襟をとり、娘らしい指先で襟裏を示した。そこには、
刺繍で「沖田宗次郎春政」と、丹念に縫い取ってある。
「まあ……。器用なこと。」
おきんは手先の細かい事には根気の良いほうである。嫁入り先でも重宝されるだろう。
「他のお弟子さんのと、間違われたりしたらいやですもの。」
「試衛館には、他にこんな小さな子供はいませんよ。」
「いいのです、それでも。」
弟の名を一字一字、心をこめて記すことが、おきんには意味のある作業だったのだろう。
お光も同じように、小さい宗次郎の着物や袴などを仕立てていた。
「あまりぜいたくはしてあげられないけれど……せめて、こざっぱりしたものを持たせて
やりたいものね。まだ九つで、家族と離れるんですから。」
「義兄上も、散財……。姉上、私の輿入れの時には、お気遣いは結構でございますよ。」
「心配しなくてもよいのです。林太郎どのは、ちゃんと考えていて下さいますよ。」
妹にしても弟にしても、引き取る側ではある程度沖田家の内情を知っているから、持参の
物にはさほどの期待もしていないだろうが、やはり親代わりの夫婦としては、最低限恥を
かかせないだけの支度はしてやりたい、と思うのが人情だし、現に林太郎はその工面でし
ばらく忙しく歩いていた事がある。弟はともかく、おきんの年頃になればその苦労も何と
なく察せられるのであった。
 丁度、折よく宗次郎が、外から帰ってきた。
「ただいま。」
 例によって元気だけは一人前に戻って来て、後ろ手に、何か隠し持っている。にこにこ
していた。
「お帰りなさい。何を持っているのですか。」
 宗次郎は待ってました、というようにコクリ、と頷いて雑作もなく手を前に突き出した。
「ほら。」
 宗次郎の手には、大人の拳ほどの大きさもある蛙の足に麻紐をくくりつけてぶら下がっ
ていた。ぴょん、と蛙が暴れて、手を離れて板の間に飛び降りた。姉二人が、あわてた。
先に飛びのいたのはおきんである。
「きゃーっ、きゃあっ。」
「宗次郎っ。」
 お光の声を合図に、宗次郎は素早く蛙を追いかけ、敏捷につかまえた。
「は、早く外へ……捨てていらっしゃい。」
お光もあまりぬめぬめした生き物は得意ではない。手でしっしっ、とするような仕草で、
指示を与えた。宗次郎はちょっと残念な顔をして、
「こんな大物、めったにいないのに……。たぶん、この辺の大将ですよ。」
というと、再びほら、と宝物を見せるようにして、姉二人の方へ広げて見せた。
「嫌っ、こっちへ来ないで。」
おきんは柱にしがみついている。
「可愛いのになあ……」
宗次郎の指は、蛙の水かきを器用にいじっている。お光は戸外を指差して、
「宗次郎!捨てていらっしゃい。」
と、今度はきっちりと命令した。
「はい。」
 宗次郎は蛙をぶらさげて外へ走って行き、間もなく戻って来た。
「もう。……ああ、まだ胸がどきどきする。」
田舎では珍しいものでもないが、おきんはうんと幼い頃に誤って蛙を裸足で踏み潰してし
まって大泣きした事があり、それ以来畦道で彼等に出会うと、おっかなびっくりで遠巻き
に避けながら歩いている。宗次郎が外で遊び歩くようになった頃には、娘らしくなって来
ていて弟と泥田で遊び回る事も少なかったから、宗次郎にしてみれば姉がそんなに嫌いな
代物だとは知らなかったらしい。
「いたずらが過ぎますよ。」
宗次郎はお光に言われて手を洗って来てから、素直にごめんなさい、と言った。義兄上な
ら面白がってくれたかなあ、という顔でぽかんと余所見をしている。
「ちょっと、こちらへおいで。」
「え……。」
弟は、ちょっとびくっとしている。
「叱るのじゃありません。これです。」
と、お光は仕立物を広げてみせた。
「わあ。」
 宗次郎は、ぱっと目を丸くして喜ぶと、真っ先に稽古着を手にした。
「これは、私の?」
「そうです。おきんが縫ったのですよ。
「ありがとう、ございます。」
宗次郎は嬉しそうに、稽古着を抱いてぴょこんと頭を下げた。
「もう、苦労して縫ってあげたのに、お返しが蛙だなんて、あんまりです。」
おきんはまださっきの事に怒った顔をして、ぷん、とむくれて見せた。
「ごめんなさい。」
子供ながら、刺し子入りの稽古着が縫うのに大変という事くらいはわかる。勝気な次姉を
怒らせたことに気が咎めたのか、宗次郎は素直にそちらへ謝った。お光はそれを見たあと、
促して言った。
「着てごらんなさい。」
「はい。」
 宗次郎は生き生きして、稽古着に袖を通した。成長を考えて幾分大きめに縫ってあるか
ら、露出した腕が余計に細く見える。おきんはからかうように、または少しの心配も込め
「やせっぽちねえ。」
と呆れた声を出した。尤も、このきょうだいに丸ぽちゃはいないのだが。
 宗次郎が、さっきのおきんと同じようにむくれて口をとがらせた。お光は笑って仲裁に
入り、
「でも、よく似合うこと。立派な豆剣士ですよ。」
目を細めている。宗次郎は満足げにうん、と頷いたあと、
「姉上。あのね、おみやげは、蛙だけじゃないんです。」
おきんがぎくっとして、
「ま、まだ他に……。」
「うん。桶の中に。」
「桶?」
 お光はこわごわ、台所に行ってみた。
「まあ。きれい。」
 水汲みの桶の中に、野菊やリンドウなど、見事な秋の花が一抱えも入れてある。
「まあ……。宗次郎にしては、気のきいたことをするじゃないの。」
 おきんはくすくす笑った。お光も微笑して、花の茎を切り、小さな仏壇に供えている。


 その夜、林太郎が外出から帰って来て、お光だけに告げた。
「あさって、彦五郎どのの道場に、近藤先生が出稽古におみえになる。養子の勝太さんも
一緒だ。そのとき、宗次郎をお預けする。」
「あさって……そうですか。」
お光はトクン、と胸の中ほどを叩かれたような心地がしたが、努めて平気な顔で頷いてみ
せた。
「江戸の道場へご挨拶に伺うのが筋道だが、周助先生は気取らないお方でな。遠いからい
いよ、とおっしゃったそうだ。お光、あさっては二人で近藤先生にご挨拶して、宗次郎の
ことをお願いしよう。」
「はい。」
 お光はやや伏目がちにうなずき、夫が寝付いた後で、隣室の襖を静かに開けてみた。惣
次郎は、遊び疲れてすやすやと眠っている。遠い灯りの中で、その寝顔をみた。
「宗次郎……。」
 知らず、お光の目がうるんできた。乳飲み子の宗次郎を残して母が死に、同じ病で父も
早く死んだ。以来、母親がわりとして夢中で育ててきた弟である。


 宗次郎は、翌日お光からその話を聞いたとき、ちょっと目を見開いた。
「あす?」
「ええ。そのつもりで、今夜は早く休んでおくのですよ。」
「……はい……。」
 その頃おきんは、裏の小さな庭で、草むしりをしている。宗次郎によく似た口元をとが
らせて、ぶつぶつと独り言を言っている。
「急すぎるわ。義兄上も、意地悪だわ。」
 おきんは、土のつかないところを選んで、手の甲でぐい、と涙をぬぐっている。


                      
うずら
 その夜。皆が寝静まった後に、お光は台所で、鶉豆を煮ている。砂糖は贅沢品で、普段
は滅多に甘いものなど作らないのだが、明日宗次郎に食べさせてやるつもりだった。
(もう、しばらく何も作ってやれないのだから……。)
 お光が、消えない程度に気をつけながらとろとろとした火を見つめてぼんやりしている
と、宗次郎が起き出して、背後から声をかけた。
「姉上。」
 お光は、びっくりして振り返った。
「どうしたのですか。」
「うん……。」
 どうやら宗次郎なりに、緊張して眠れないらしい。そう言ったきり、ひざを抱えて、お
光の隣にちょこんと座った。
「心配?」
「……ちょっとだけ。」
宗次郎は、ことさらに強がったように、前を見ている。
「大丈夫ですよ。宗次郎は、強いもの。男の子ですものね。」
と、お光は慰めにもならぬことを言った。
「うん……。」
 宗次郎も、並んでかまどの火を見ている。ぷつぷつという音が微かに聞こえ、豆が柔ら
かくなっていく間の、いい匂いがしている。
「姉上は、まだ寝ないのですか。」
「もう、煮えましたから……火を落としたら休みますよ。あなたは、明日江戸まで道中を
するのですから、ぐっすり眠っておかなくてはいけませんよ。」
「はい。」
と言いながら、宗次郎の尻は台所の板の上からあがらない。姉が鍋の中をかき回して、火
を落とす作業をしている間、その背中をじっと見ている。何を考えているのか、記憶の中
に長姉の姿を残しておこうとしているのか、わからない。
「ちょっと、味見をしてみる?」
「はい。」
 宗次郎は嬉しそうな顔をした。お光は、出来立ての煮豆を小皿に少しとってやった。
「熱いから、気をつけて。」
 宗次郎はうなずき、ふうふう言いながら豆を食べた。
「あちち……でも、甘い。おいしい。」
「明日までには、味がしみて……もっとおいしくなります。楽しみにしてお休みなさい。」
煮豆の味は、冷めて味が程よく馴染むまでの段階が最後の仕上げなのだ。宗次郎に持たせる
頃には染み出して流れないように、少し汁気をきっておかなければならない。
「うん……はい。」
 宗次郎は、お光の顔を見上げている。お光はどうも、たまらなくなってきた。
「あのね、……姉上。」
「何?」
 誰も聞いていないのに、宗次郎はお光の側に顔を近づけて、ひそひそと耳打ちした。
「抱っこしても、いい?」
「まあ。」
 思いがけない言葉にお光は目を丸くした。宗次郎は、叱られると思ったのだろう。
「………。しょうのない子。」
 お光は、膝の上に宗次郎の体を抱いてやった。向かい合わせだから、顔は見えない。見せ
ないようにしていた。弟の細っこい体をさすっていたら涙が出てきた。おぶい紐で歩いた頃
からは見違える程に成長したが、まだまだ子供なのだ。しかし、ここで鼻をすすったり涙を
落としたりしてはなるまい。聡い子だから、自分が寂しそうにすればそのまま伝わってしま
うだろう。お光はけんめいに、息を静かに吸い、吐いて、平気なふりをした。その間、惣次
郎はおとなしくじっとしている。が、急に照れくさくなったらしく、自分から体を離した。
「もう、いい。」
「そう……では、お休みなさい。」
「はい。お休みなさい。」
 宗次郎は行きかけて、急に戻ってきた。
「あのね、姉上。今の、内緒ですよ。義兄上にも、おきん姉上にも、言っちゃだめですよ。」
お光はつい笑った。
「はいはい。」
「はいは、短くでしょう。」
いつかの小言のお返し、をされて、姉はたすきをかけた肩をちょっとすぼめた。
「……はい。」
外で、松虫の声がしている。

                                 (二) へつづく


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