来島又兵衛 
 きじま またべえ 

長州藩士
 
  文化14年1月8日、萩藩士喜多村左治馬正倫の次男として長州高千帆  

  村(小野田)に生まれる。名は政久、幼名光次郎、後に又兵衛と称し、  

  来島家を継ぐ。  

  巨体で大力を持って知られ、剣術、馬術にも長けた。吉田松陰及び  

  その門下生と親交があり、ペリー来航以来、尊皇攘夷の志を抱く。  

  28歳で駕籠奉行となり、安政2年には大検使、同6年には所帯  

  方頭人に進んだ。  

  計算の才にも秀でた意外な面もあったというが、豪傑と呼ぶにふさ  

  わしい風貌を備えており、幕末の長州藩の急進派の先頭に立つ。  

  文久3年5月の馬関攘夷戦では、総督国司信濃の参謀として活躍、  

  翌6月には、猟兵八十余人を率いて京都へ上る。  

  また、奇兵隊創設のあとを受け継ぎ、三田尻で久坂玄瑞とともに  

  遊撃隊を組織し、膺懲隊以下の諸隊を合してその総督となる。  

  文久3年8月18日の政変、又、池田屋事変に憤慨し、元治元年  

  7月19日の蛤御門の変に出陣し、馬上にあって敵弾を浴びて戦死した。  

  享年49歳。  




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