中西君尾 
 なかにし きみお 

 
 
  天保14年、京都府船井郡八木町に生まれた。19歳で祇園の置き屋  

  島村屋から芸者となる。主に貸座敷、縄手大和橋の魚品で長州の高杉  

  晋作を介して多くの長州藩士とのつながりを持つ。  

  後明治の元老となる井上聞多が、元治元年9月、地元山口市湯田温泉  

  で長州藩内で敵対する俗論党に襲われた時、虫の息の井上がとどめ  

  の刃を胸に受け、懐の鏡に切っ先があたり死を免れた話が残されて  

  いる。これは井上がロンドンに向う時に、自分の小柄と交換した君尾  

  の鏡であり、ずっと肌身はなさず持っていたものだったという。しかし、  

  桂と幾松のように井上と結ばれることはなく、結果的には君尾は祇園  

  で多くの勤皇志士のために手助けをすることになる。  

  君尾は長州の寺島忠三郎に頼まれスパイとして志士弾圧の急先鋒で  

  あった島田左近の思われものになったこともあるといわれ、この後  

  島田は天誅第1号として斬殺されている。  

  近藤勇も祇園の一力の座敷で君尾と出会ったことがあるが、近藤が  

  口説いたところ、君尾は「禁裏様のお味方をなさるならあなたのもの  

  になりましょう。」といい、近藤は「我らは会津に従う。言葉には従えぬ。  

  無礼は許せ。」と酒を一気に呑み干しさっぱりと席を立ったという話  

  が残されている。加茂川の川座敷で、桂小五郎、久坂玄瑞、鳩居堂の主人  

  らと酒を酌み交わし帰る途中に新選組隊士に壬生の屯所に引き立て  

  られ、拷問に掛けられるが、君尾は気丈にも同席者の名や話の内容など  

  肝心なことは口を割らず、近藤は「新選組は無益な殺生はしない」と、  

  駕籠を呼んで祇園に送り返してやったという。  

  君尾はまた、追われていた薩摩の中村半次郎をかくまったり、会津藩士  

  に踏み込まれた勤皇青年を裏口から逃がしたり、多くの志士たちを救  

  っている。長州の品川弥二郎もその一人で、君尾とは恋仲になった。  

  慶応4年に東征軍が進発の時に歌ったといわれる「宮さん、宮さん〜」  

  のトンヤレ節は品川の作といわれるが、曲をつけたのは君尾であると  

  思われている。君尾は品川の子を宿し、その子、巴は祇園の役員となる。  

  明治になっても君尾はずっと祇園の芸者を通し、維新の高官となった  

  かつての志士たちと昔語りをしていたという。  

  大正7年没  




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