近藤ツネ 
 こんどう つね 

 
 
  ツネは徳川御三卿の一つ清水家の近習番、松井八十五郎の長女として  

  天保8年9月10日に生まれた。八十五郎の家は現在の東京都千代田区  

  富士見あたりと思われるが、ツネ自身の生地は明らかではない。れっき  

  とした士族の家であり、ツネは一橋家の祐筆を、その母は清水家(または  

  一橋家)に仕えた奥女中であったといわれている。ツネには一人だけ  

  弟がおり、彼は慶応元年5月清水家の臣として上京し、会津藩御預りの  

  中にその名の記載があり、後に箱館戦争では新選組に加盟、弁天台場で  

  の降伏人名簿に名が見られる。  

  万延元年3月29日、三つ年上の近藤勇と24歳で結婚した。ツネ  

  は、武術家が決死の試合の際に襟に髑髏の刺繍をつけたという話に習い  

  夫近藤勇のために稽古着の背中に髑髏の刺繍をし、その稽古着は今も  

  小島資料館に残されている。  

  文久2年、一人娘の瓊子が誕生する。しかし、親子揃っての生活は1年  

  しか続かず、文久3年2月、近藤勇は天然理心流一門の同志をひきいて  

  上京した。ツネは、義父近藤周斎のもとで、留守を見守ることとなる。  

  しかし勇はすぐには戻らず、翌元治元年6月の池田屋騒動で、夫を局長  

  とする新選組は有名になり、その三ヵ月後に勇は隊士募集と将軍に上洛  

  を促す目的を持って江戸に帰った。勇はこのとき自宅を宿にして奔走  

  していたが10日ほどで京都へ戻った。養父周斎が大病を患い、帰って  

  ほしいとの旨手紙を出しても、京都の情勢が大変であるからと、大金を  

  送ってくるだけであった。その後養父が亡くなり、葬式もツネ一人で  

  出すことになる。  

  近藤はツネを娶る時に、「我が家は剣術修行のために若い男子の出入り  

  も多く、容姿容貌麗しく驕飾ある女は憚る。陰日向なく養父に仕え、子弟  

  たちの面倒をみて、失策憂事のない女こそが私の妻と思っていたので、  

  この女性を選んだ。」と、言っていたといい、ツネはそれにこたえて、家  

  を守っていたと思われるが、京での近藤の女の噂を耳に、憂えることも  

  多かったと思われる。  

  近藤は5年を経て、京より戻るが、そのときは京での幕府崩壊の大敗の末  

  である。再会の喜びも束の間、近藤は甲陽鎮撫隊を転戦して、ついに流山  

  で捕縛、処刑死する。近藤の死後、ツネは近藤勇の生家に転居し、瓊子の  

  成長を楽しみに暮らし、明治9年3月20日、勇の甥勇五郎を瓊子の婿に  

  迎えた。明治16年には、孫の久太郎も生まれるが、明治19年6月28日、  

  4歳の久太郎を残し、瓊子は25歳で亡くなった。  

  瓊子の没後九ヶ月で勇五郎は再婚し、ツネも後妻の世話になるが、確執も  

  多く、晩年ツネは自殺癖をもちノイローゼ気味であったという話も残さ  

  れている。  

  明治25年7月、56歳で没する。  




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