お う の 
  

 
 
  萩城下の油商の娘、また水戸浪士の娘だともいわれ、出自は確かではない。  

  おそのともいい、源氏名は此の糸(このいと)。明治になり作られた戸籍名  

  では谷梅処(たにばいしょ)とされる。  

  文久3年6月頃、下関の遊廓・堺屋の芸妓時代に高杉晋作に出会う。  

  ちょうど高杉が奇兵隊を結成した頃であった。高杉には、長州藩山口奉行  

  井上平右衛門の娘、雅子という正妻が居たが、この妻のもとに居たことは  

  ほとんどなく、おうのを身請けし、できる限りの時間そばに置いていた。  

  おうのは、右を向けといわれたらいつまでも右を向いているような女性と  

  伝えられているが、そんな性格が鋭敏な高杉に愛されたといわれる。  

  高杉が命を狙われ、大坂や讃岐の博徒・日柳燕石のもとに逃げた時にも  

  三味線を抱えておうのとかけおちの如くよそおったといわれている。  

  また、おうのは豪商白石正一郎邸に預けられていたこともあり、離れて過  

  ごさなくてはならない間には、高杉から身辺を気遣う手紙が送られ、人が好  

  くて余りに素直なおうのに対して「人になぶられぬよう気をつけよ」と忠告  

  している。  

  慶応2年2月、高杉の妻子が萩から下関に出てきて、おうのと会う事となる。  

  両者の静かではあるが激しい戦いに困り果てる内容の木戸に宛てた高杉の  

  書状が残されている。高杉はこのときすでに労咳に冒されており、おうのは  

  懸命に看病するが、慶応3年3月には病状が悪化し、住まいに妻子も呼び寄  

  せられ、おうのが最期まで高杉の看病をすることが難しく、葛藤の日々を送  

  ったことと思われる。やがて4月14日、高杉はわずか27歳の命を終る。  

  このときおうのは24歳くらいであった。  

  高杉の友人伊藤博文、井上馨などが、若いおうのが他の男性と浮名を流して  

  高杉の名を汚してはいけないとして、無理矢理におうのを剃髪させたという。  

  尼となったおうのは梅処尼と称し、下関の吉田清水山の奇兵隊本陣跡に建て  

  られた高杉の墓を守る東行庵の庵主となる。井上や木戸らに生活を支えられ  

  一生、晋作の菩提を弔った。  

  明治42年没。墓は高杉の墓が見える場所につくられた。  




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