山本八重 
 やまもと やえ 

 
 
  弘化2年、会津藩士山本権八の娘として生まれる。山本家は代々藩の  

  兵術師範を務めていた。八重は14歳の時に、藩の男たちも運ぶのを  

  苦労していた四斗米俵を肩まで上げ下ろしするほどの腕力を持ち、気性  

  も男まさりであったといわれ、父からは銃剣の扱いを習った。八重には  

  18歳年上の覚馬という兄があった。覚馬は江戸で西洋兵学と砲術を  

  学び、蘭学も修めており、八重はこの兄の影響を強く受け、洋銃の実践  

  操作を初め、西洋の合理的精神を学んだと思われる。八重は21才の  

  頃、兄が藩校日新館に招いた蘭学と理化学の学者、但馬出石藩医の  

  息子川崎尚之助と結婚した。  

  慶応4年8月23日、八重が24歳の時、会津藩兵が国境の警備  

  に出ている間に新政府軍がなだれ込み、鶴ヶ城下にはろう城の命が下る。  

  八重は鳥羽伏見の戦いで亡くなった4歳年下の弟三郎の形見の着物袴を  

  着用し、七連発のスペンサー銃を担ぎ、弾薬を掛け、鶴ヶ城三の丸に  

  母と夫と共に向ったという。兄覚馬は四年前の禁門の変で負傷失明し、  

  鳥羽伏見の戦の時に新政府軍に捕らえられ、薩摩藩邸に幽閉されて  

  いたが、その報は会津には届かず、処刑されたと思われていた。その  

  ためにも、八重は髪を切り落とし、新政府軍と戦う闘志を燃やした。  

  鶴ヶ城に入った約五百人の武家妻女たちは藩主容保の姉照姫のもと、元  

  家老夫人の諏訪キチの指揮で団結し、最後まで城と共にと意志を固める。  

  城の女達はおもに兵糧を炊き、弾丸をつくり、負傷者の看護に当たったが、  

  八重はこれだけでは満足できず、大砲の扱いを老兵に教えたり、飛来した  

  新式の不発弾の分析などもした。死者が増える中、八重は夜襲隊にも  

  加わり、暗闇の中、銃で敵を襲った。  

  ろう城一ヶ月、降伏のときが来た。この間に父権助は討ち死にし、夫  

  尚之助は他藩人として城外に出された。開城前夜、八重は三之丸雑物庫  

  の壁に「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ」と  

  かんざしで刻んで泣いたといわれている。  

  開城の人員改めで女はお咎め無しになるにもかかわらず、八重は男装  

  して検査官をごまかし捕虜となるが、途中女とばれて追い返された。  

  明治4年、死んだと思われていた兄覚馬の生存を知り、八重は京都に  

  出る。兄は盲目にもかかわらず、薩摩で著した「管見」が新政府に認めら  

  れ、京都府顧問という役職についており、八重は会津藩士たちの向った  

  斗南には行かず、母と共に兄を頼った。京都での八重は兄の感化を受け  

  英語を勉強する。  

  当時日本にキリスト教主義の学校を作ろうとしていた新島襄が、覚馬と  

  意気投合し、二人で同志社の建設に取り掛かった。八重はこの新島と  

  明治9年、32歳で結婚し、同志社の発展に貢献する。新島はその気丈  

  な性格に惚れて八重に求婚したといわれる。かつての夫、川崎尚之助は  

  会津で生き別れた後、すでに病死していた。その頃まだ、明治政府が  

  キリスト教禁制を解いてから3年しか経っておらず、迫害の気風は強く  

  残っていたが、八重は結婚の前日に洗礼を受け、新しい女として生きる  

  道を選んだといわれている。  

  新島は身体が弱く、14年間の結婚生活後、48歳で他界する。八重は  

  その後、日清、日露戦争では篤志看護婦として傷病兵のために働き、晩年  

  は社会福祉活動に尽くした。  

  昭和7年、88歳で没する。  




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