天璋院 
 (篤 姫) 

 
 
  天保6年12月19日、鹿児島城下の今泉家五代忠剛の長女として、鶴丸城東北  

  の重臣屋敷が並ぶ上町に生まれた。今泉家は島津家の御一門の一つで、  

  また、母も島津家の一族であった。はじめ、名を一子(かつこ)といい、後  

  諱を敬子(すみこ)という。一子は幼い頃から明るい利発な子であった  

  という。  

  嘉永3年、島津家に将軍夫人の候補が求められた。ときの将軍家定は癇  

  症で、言葉も不明瞭であったといい、また、鷹司政煕家からむかえた有姫  

  一条忠良家からの寿明姫と二度も夫人に先立たれ、将軍家を支えられる  

  しっかりとした夫人がのぞまれた。  

  嘉永6年3月、一子が19歳の時、斉彬の実子とされ今和泉屋敷から鶴丸  

  城に入り、君号を篤姫とした。鶴丸城で三ヶ月ほど過ごし、8月21日  

  鹿児島を出立する。10月2日、近衛邸に参殿し、京、宇治を見物後10月6日  

  伏見を立つ。そして、23日に江戸、芝藩邸にはいった。しかし、将軍  

  継承問題を有利にしようとする一橋家の政略結婚の様相を帯びていた為に  

  輿入れはなかなか進まなかった。  

  嘉永7年3月3日、幕府は日米和親条約を結び、阿部老中の外交手腕が  

  評価された。安政3年2月、この阿部老中から婚礼の許可が出され、11月  

  篤姫は安政2年に転居した渋谷の下屋敷から江戸城御広敷(大奥)に入った。  

  徳川斉昭は外様の島津氏を警戒はしていたが、慶喜を将軍に推す立場から  

  承諾し、篤姫に将軍に慶喜を立てることの必要性を言い含めていた。  

  安政3年11月19日に結納の儀、12月18日に婚礼が行われた。この  

  時、家定33歳、篤姫21歳。縁談が持ち上がってから6年も要した。  

  輿入れ後、翌安政4年、島津斉彬が登城の際、大廊下下間詰を命じられる  

  という効果が現れた。次いで、父斉興の従三位昇進が実現するが、肝心の  

  慶喜擁立工作は進まなかった。そんな折、6月17日に一橋派の盟主であ  

  る阿部正弘が37歳で病死する。そして、4月に南紀派の彦根藩主井伊  

  直弼が大老に就任する。井伊は、6月19日に日米修交通商条約を調印し、  

  25日には、慶福を将軍継嗣とすることを公表した。  

  安政4年7月6日、病弱であった家定が35歳で急死する。篤姫にとって  

  たった1年7ヶ月足らずの結婚生活であった。また、その10日後、薩摩では  

  斉彬が急死し、以後、全国で安政の大獄がおこなわれ、24歳の若さで  

  落飾した篤姫改め天璋院は、大奥を束ねることに努めた。  

  安政7年3月3日、桜田門外の変で井伊大老が暗殺され、状況は又一変する。  

  文久2年、公武合体の為に孝明天皇の妹和宮が、十四代将軍家茂に降嫁する  

  ことになる。この和宮付きの女官と天璋院付きの女中とのいがみ合いが  

  大奥で起る。慶応2年、第二次長州征伐のなか将軍家茂が大坂で急死した。  

  そして今度は和宮が若くして落飾し、静寛院と号す。  

  天璋院は始め、慶喜擁立派であったが、将軍家の元御台所の立場から次第に  

  家茂に親しみを覚えていたという。家茂が上洛中は和宮と共にお百度参り  

  をしたともいわれる。  

  慶応4年、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に帰った徳川に対し東征して来る官軍  

  に天璋院は、命にかえての徳川家の存続と慶喜の救命の嘆願書を提出している。  

  江戸城開城後は幼い徳川家達の養育に専念し、徳川宗家の維持に尽くした。  

  明治16年11月20日、48歳で亡くなった。  

  墓所は東京都台東区寛永寺。  




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