土方歳三義豊
ひじかた としぞう よしとよ
新選組副長、幕府寄合席格、蝦夷共和国陸軍奉行並
 
天保六年(1835年)五月五日武州多摩郡桑田村石田で豪農の家に生まれる。父は隼人
 
義諄。母は恵津。六人兄弟の末子で、父は歳三が生まれる前に他界。母も天保十一年に他
 
界し、兄の喜六夫婦に育てられた。名を藤原義豊。
 
弘化二年、江戸上野の伊藤松坂屋に奉公に出されるが、番頭と喧嘩になり帰省。その後も
 
大伝馬町の呉服屋に奉公に出るが長続きはしなかった。家伝の秘薬「石田散薬」を行商に
 
出ながら、剣術道具を担ぎ独学で剣を学び、姉のぶが嫁いだ日野宿寄場名主佐藤彦五郎宅
 
に身を置いていた。この頃、薬草を刈り取りの際に近隣の人々に助勢を頼むのであるが、
 
大人数を的確に指示する歳三には、生まれつきの才覚があったのだと言えよう。
 
彦五郎は剣術に熱心で自宅に道場を持っており、天然理心流の門人でもあった。そこで江
 
戸から出稽古に来た近藤勇と出会うのである。安政六年、歳三は天然理心流近藤周助の門
 
人となり、江戸の道場に寄宿する。このときに新選組の基礎となる人材に出会うのである。
 
文久三年 幕府呼びかけの浪士隊に近藤らと加盟上洛。清河らの帰府に従わず京に残留。
 
会津藩松平肥後守御預りの壬生浪士組となり、副長職に就く。順次、局中法度を考案し、
 
隊士の役割を作成。局長職に就いた芹沢、新見を粛正し、近藤勇を唯一の局長として立て、
 
隊内の規律を強める。
 
元治元年六月、古高俊太郎を捕らえ、前川邸で拷問の末、御所焼き討ちの為の密会をつき
 
とめて、不逞浪士を捕縛する。未然に反乱を鎮圧した「池田屋事件」であり、新選組の威
 
勢は一気に高まった。
 
翌慶応元年には、江戸以来の同志で信望のあった山南敬助が自刃して果てたが、新選組は
 
以後の最盛期を迎える。隊士の実務は歳三の手に委ねられており、監察方を使い長州方の
 
間者の処分や、規律に違反した者たちを次々と罰していったのである。近藤の長期出張に
 
は歳三が留守を守り、自身も自ら二度江戸へ募集に下り多くの隊士の採否を受け持った。
 
まさに、近藤勇・土方歳三の両輪が新選組を支えてきたのである。
 
慶応三年 御陵衛士を拝命し隊を分裂した伊東甲子太郎らが近藤暗殺計画を企てているの
 
を察知し、油小路に誘いだし、四人を斬殺。壊滅させた。
 
幕府は大政奉還を決意し、新選組も会津藩と共に伏見に移るが、慶応四年一月、鳥羽伏見
 
の戦いが始まり、薩長軍と激突。歳三は新選組全軍の指揮にあたったが最新兵器の威力を
 
目の当たりに見せつけられる結果となった。敗戦で江戸に引き上げる最中にも歳三は次の
 
戦いに意欲を燃やしていた。伏見の戦況を江戸で尋ねられ、「もはや刀や槍で戦争は出来
 
ない」と率直に語り、洋装断髪に改め、洋式戦術を取り入れてゆく。
 
この頃、寄合席格の地位を幕府から与えられ、名を「内藤隼人」と称する。勝海舟からの
 
甲府鎮圧を言い渡され、甲陽鎮撫隊を組織して甲府城に向かう。一日違いで西軍、土佐の
 
乾退助に甲府に入城され、形勢不利をみるや、神奈川の菜葉隊に救援を求め単身馬をとば
 
すが功を奏せず、勝沼交戦は敗れた。隊伍を整える為に五兵衛新田(現足立区綾瀬)に身
 
を置く。兵を集め、下総の松平家に向かい進軍。下総流山に陣をはるが、動きを察知した
 
西軍の奇襲に遭い、近藤勇が投降す。歳三は近藤助命の為に勝海舟に謁見した後に江戸を
 
脱出。下総国府台に集結している、幕臣大鳥圭介の率いる軍に参入し、参謀格となる。
 
以後の歳三は、武士に見切りをつけて、軍人としての才覚を発揮させていくのである。
 
各地を転戦し、宇都宮城では衆目を驚かせる勝利を得たが、西軍による奪還戦で足の指を
 
撃ち抜かれ、会津に落ちる。この時、逃げようとした味方の一兵士を歳三が斬り捨て、臆
 
する者はこうだと軍の士気を奮い立たせたが、後日この兵の供養をさせた一面もある。
 
新選組を山口二郎に委ね天寧寺で養生するも、会津からの作戦招集はなく、その時期に、
 
近藤の斬首を聞き、この地に墓碑を建てる。若輩にも優しく、福良本陣を尋ね、白虎隊に
 
戦いの心得を教え激励したという伝承もある。母成峠で新政府軍と激烈な死闘を繰り広げ
 
るが圧倒的な兵力の違いに退却し、単身庄内藩に援軍を求めて向かうが道をはばまれ、会
 
津の戦線が陥落する状況をふまえ、松本良順、松平定敬を落とすべく、榎本武揚の艦隊が
 
停泊中の仙台に向かう。歳三は一時、同盟軍の総裁に推された。榎本らとともに仙台藩に
 
奥羽列藩の抗戦を唱えるが、新政府恭順に傾いたことで断念、蝦夷地を目指す。箱館に渡
 
航する際に、侍従間制度を廃し、桑名、唐津、松山藩士を新選組に振り分けた。
 
蝦夷の鷲の木に上陸後、七百人の兵を率いて福山城を陥落。大雪の中を強行し、江差を優
 
れた戦術で看破し平定する。この年の十二月、蝦夷共和国が誕生し、陸軍奉行並に選出さ
 
れた。
 
明治二年 宮古湾まで北上してきた政府軍を打ち破り、甲鉄艦を奪取する為に奇襲するが、
 
失敗に終る。四月、新政府軍は五陵郭に向かって進軍。歳三の軍は二股に陣取り、台場山
 
で激戦十八日間に及ぶ勝利を収めていたが孤立状態になり、やむなく撤退。隊士市村に遺
 
品を託して、孤立した弁天台場を救出すべく五月十一日、額兵二小隊だけで向かうが、一
 
本木関門付近にて馬上の歳三の体に銃弾が炸裂。
 
土方歳三義豊 享年三十五才、壮絶な散華となる。
 
 
たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも
魂は東の君やまもらん
 
■ 御 家 紋 ■
 
■ 剣 客 剣 豪 ■
 
 

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