梶原平馬
かじわら へいま

会津藩家老
 
幕末の会津藩家老で、主戦論派であった。正確な生没年は不明である
 
が、天保13年頃、会津藩家老二千二百石の内藤介右衛門信頼の次男
 
に生まれる。兄に後の家老、内藤介右衛門信節、弟に彰義隊員で後に
 
獄死した武川三彦信臣がいる。
 
幼少時、家中の名家梶原家の養嗣子となり、祖先から伝襲の平馬景武
 
を名乗り、会津藩随一の貴公子といわれた。
 
慶応元年、24歳の頃若年寄、翌年には若くして家老となり、藩主
 
容保の京都守護職後半期の会津藩外交の役目についた。
 
鳥羽伏見敗戦後、会津藩江戸総引き揚げの折には、すぐには会津へ帰
 
らず残留して、横浜でエドワード-スネル(弟)から武器弾薬を購入し、
 
それを船に積み、ヘンリー-スネル(兄)や長岡藩家老河井継之助と共に
 
箱館を経由し、新潟港から陸揚げした。
 
帰藩後、庄内藩と近づき、米沢藩や仙台藩を動かして、奥羽越列藩同盟
 
を成立させた動きは、梶原の策略によるものといわれている。
 
また、会津藩総督として新潟港から同盟軍各藩の武器購入や新潟開港に
 
伴う諸外国との折衝まで行ったといわれる。
 
その後、会津藩の海軍力増強をはかろうとするが、7月29日、新潟
 
港は新政府軍に占領され、同日長岡城と二本松城を失うと、梶原は帰城
 
し、籠城戦に備え、君主側立場で政務にあたり、降伏開城に反対した。
 
開城後は東京に幽閉されるが、その間にも藩主容保の助命嘆願に努める。
 
赦免後、青森県庶務課に勤務するが、後、消息をたつ。
 
近年根室市に墓があることが分かった。没年も明治22年頃と思われる。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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