梅田雲浜
うめだ うんぴん

小浜藩士
 
文化12年6月7日、若狭国小浜藩士矢部岩十郎義比の次男として生
 
まれる。幼名源次郎、義質、雲浜はその号。父は矢部姓であったが、
 
のち祖先の梅田に改姓した。
 
文政5年、8歳にして藩校順造館に入る。文政12年、15歳で上京
 
し、崎門学派の望南軒に入塾。翌年江戸に行き、山口菅山に学ぶ。
 
天保11年、26歳で一度郷里小浜に帰ったが、翌年再び上京し、
 
大津で湖南塾を開き子弟を教育する。その生活は貧窮を極めたが、
 
師の上原立斎が雲浜の人柄を見込んで娘の信子を娶せたという。
 
天保14年、29歳で名門望南軒の講主に迎えられ、崎門学者と
 
して広く知られるようになる。
 
雲浜は藩政や海防策についての意見書を、藩主酒井忠義に書き送るが
 
これが幕政批判と受け取られ、嘉永5年小浜藩を除籍され浪人となる。
 
ペリー来航後、江戸で吉田松陰ら尊攘志士たちと交流し、その後長州
 
藩に赴き、重臣坪井九右衛門に渡りをつけて、長州産物御用掛になり、
 
塩、蝋、紙を輸出させたり、京、大坂の呉服、小間物、薬、木材など
 
を輸入させる話をまとめたりなど交易業を営むが、これは攘夷、将軍
 
に一橋慶喜擁立をはかる経済的基盤を築くためであったといわれる。
 
安政5年、将軍継承問題がおこると一橋派につき井伊直弼を批判した。
 
同年8月、水戸藩に降下された戊午の密勅も、雲浜が青蓮院宮に提出
 
した意見書が参考にされていたともいわれている。
 
これらの活動は大老の謀臣長野主繕の知るところとなり、悪謀四天王
 
の一人と目され、安政の大獄の逮捕者第一号となる。逮捕の最高責任者
 
は旧藩主で京都所司代の酒井忠義であったのも皮肉な運命といえる。
 
雲浜はすぐに江戸に送られ激しい拷問を受けるが、ただ、「攘夷の大儀」
 
と答え、安政6年9月14日、幽閉先の江戸の豊前小倉藩小笠原
 
忠喜邸内の獄舎で脚気を悪化させて死亡した。又、毒殺されたとも
 
いわれる。享年46
 
墓は、東京都台東区松ヶ谷町、海禅寺。又、京都市東山区、安祥院。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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