そ の 一
万延元年十月〜元治元年四月
1 万延元年十二月二日 小島キク宛 土方歳三書簡

猶々御用ひよふの義ハ、壱かひを三日くらひに而よろしく候間、左様御承引可被下候。余り沢山は不宜と申事ニ候間、此段申上候。乍末皆様江よろしく願上候。猶伯父君様ニハ別段よろしく申上候。以上。
猶々御出に而恐入候得共、御風之義ハよろしく御座候哉、御伺申上度拙家兄も御案事申上候。以上。
一寸申上候。然は先日御噺申上候御薬義、品見ニ御座候間、少々さし上候。御用ひ被遊候而御様子よろしき御座候はゝ、早々御申し越し被遊候。御紙面参次第、早々取よせ御届ケ可申上候。先は早朝取込不文御用捨可被下候。早々不具。
極月二日

小野路
小島御老母様
           石田歳蔵
              己下

歳三の青年時代、現町田市小野路小島家の老母の病気について、薬の服用法を細かく示している。
「服用には一回を三回位にして、余りたくさんは良くないという事です。皆様、特に伯父上には宜しくお伝え下さい。私の兄も案じております。先日お話した時の薬は見本ですから差し上げますので、飲んでみて具合がいいようだったら、お知らせ下されば早々に取り寄せます。早朝で取り込んでおり乱文ご容赦下さい。」
言葉の通り急いで書いたものらしく、思いつくままに「なお」という言葉を重ねて順序だっていないところが面白い。歳三の案外に気の細かい優しさも見えるようである。まだ姓の土方を名乗らず、所在の石田村を署名に使っているところは興味深い。

2 文久三年壱月中旬 小島鹿之助宛 土方歳三書簡

乍恐御両親様江御聞被仰上可被下候。何れ近々内参着御奉伺申上候。以上。
改年之御慶千里同風、目出度申納候。益々御重歳可被遊奉陳賀候。尚期永日之時候。恐々敬白。
              土方歳三
小島兄

尚々申上候。両三日前ニ江戸表より申参しニ、文武両様ノものニ候ハゝ、百五拾石より弍百石まて、壱通りにてハ五拾石つつ被下候趣申来り、如何候哉。若思召有之ニ御人も御座候ハゝ被仰聞被下候。
一 日野井上源三郎江、諸公より御上洛御供として三拾俵弐人扶持つつ被下候。御帰城之後、御高ハ被仰下申可候由、御壱人口となり。
先は為御年玉奉申上候。以上。
小野路
小島鹿之助様
           己下
             石田
             土方歳三

同上、小野路の小島鹿之助に宛てた年賀状で、相手に対する「兄」は別に血縁関係でなくとも、男子の尊称としてよく使われている。昔の事だから、「御重歳」として正月に数えの年齢を無事重ねた、という祝辞が入っており、冒頭の年賀の言葉はまず型通りな感じで、本当の用件は後半であろう。
「三日程前に江戸から言ってきたのですが、文武両道の者であれば百五十石から二百石、ひととおり五十石ずつ下されるということですがいかがでしょうか?日野の井上源三郎へは、諸公から御上洛の御供として三十表二人扶持で、帰城のあとに下されるとの事。」
末尾の「先ずはお年玉の為申し上げ奉り候」という言葉は歳三一流の遊び心か。浪士組上洛の話が出たこの頃には、石田村在住の署名をしている。正月だから帰省していたのだろうか?

3 文久三年三月二十六日 小島鹿之助・橋本道助宛 土方歳三書簡

委細ハ近藤より申上候。
愈御壮健可被為在御座奉南山候。
一 上京後御無言罷過奉恐入候。帰着不相成候ハゝ大慶と思召可被下候。乍末御三家御一同様江よろしく奉願候。先ハ早々不備。

三月廿六日
尚々小島御年より様方江別段よろしく奉願候。以上。

小野路
小島鹿之助様
橋本道助様
   人々御中
             京都
              土方歳三

京都上洛後の手短な挨拶状のようで、冒頭唐突に「詳しい事は近藤から申し上げます。」と始まっている。「上京後(当時は勿論京都をさす)音信もなく過ぎて恐れ入ります。帰着がならなかったのは良いことと思って下さい。御三家ご一同様、特に小島のお年寄り様には宜しくお伝え下さい。」とあるのは前述の小島の老母の事か。用件のみ急いで書いているという感じを受ける。

4 文久三年十一月 小島鹿之助宛 土方歳三書簡

寒中之砌弥御壮健可被為在御座奉恐悦候。随而此方一同無事罷有候間、乍恐御休意被下候。然は、過廿一日松本捨助殿上京仕、壬生旅宿江向参上、如何之義有之候哉難計、仍之一先下向為致候間、彼是宜敷奉願上候。
一 久々御無音罷過何とも恐入候得共、小子之筆位ニ而ハ京師形勢申上兼候間、承り度折なから此御無音申上候。御推察之上御ゆるし被下候。乍末小嶋御両親様初メ宜敷被願上候被下候。何卒右之段上溝江も宜敷奉願上候。
一 松平肥後守御預り候新撰組浪士勢ひ日々相増、依之万々松本氏より御承り被下候。先ハ恐々不備。

十一月日 松平肥後守御預り
                  土方歳三
小島兄参

尚々、拙義共報国有志と目かけ、婦人しとひ候事、筆紙難尽、先京ニ而ハ、嶋原花君太夫、天神一元、祇園ニ而ハ所謂けいこ三人程有之、北野ニ而ハ君菊、小楽と申候まひこ、大坂新町ニ而ハ若鶴太夫、外弐三人も有之、北ノ新地ニ而ハ沢山ニ而筆ニ而ハ難尽、先ハ申入候。

報国の心ころをわするゝ婦人哉
歳三如何のよミ違ひ

今上皇帝
朝夕に民安かれといのる身の
    心ころにかゝる沖津しらなみ      (*御製は「心にかかる異くにのふね」)
一 天下の栄雄有之候ハ早々御のほせ被下候。以上。


旧暦十一月であるから既に冬の気候であり、初の底冷えの京では「寒中」をしみじみと感じたことと思う。この一通はのつくくらい有名な歳三の手紙で(笑)、冒頭から署名までは「松平肥後守御預り」と、壬生浪士組から新選組の正式名称(当時から「撰」も同音異字で併用されたらしいが)を賜った後の、働き盛りを迎えた男らしい意気込みを見せているが、中間では思い切り砕けて、「いやあこっちへ来てからはモテてモテて仕方がない」と自慢している(爆)。その点は金も身分もない多摩農村の四男であった頃とは雲泥の差だったのであろうし、若い男だからこそのはしゃぎぶりも好ましい。だが、最後に多少違ってはいるが現天皇についての和歌を載せ、尊攘精神に戻って引き締めている辺り、なかなか面白い構成である。
「こちらは一同無事ですのでご安心下さい。先月二十一日に松本捨助が壬生へ来たのですが、どうしたものかと思い帰しましたので宜しく。私の文章では京都の情勢は到底書き表せない位で、ご無沙汰をして申し訳なかったですが、ご推察下さい。私の事を報国の有志として婦人の慕うことといったら、筆舌に尽くし難いほどで、京都でも大坂でもこれこれの女……報国の心を忘れる位。(和歌)天下の英雄がいれば早々に上洛させて下さい。」
松本捨助は同郷の多摩の青年で、この時はるばる京都壬生を訪ねて入隊志願したらしいが、嫡男のため拒まれ、小島家宛ての書状を預かって戻った。歳三の「宜しく」には、そちらで説得してくれというのも含まれているのでは。捨助に「おおー、歳さん久しぶりでねえか!」と隊士たちの前で古馴染み扱いをされたら新選組副長としてはかなり困ったかもしれない(笑)。しかし捨助は後年、すでに人手不足となった甲州出陣の頃には入隊を許され、歳三と共に転戦した。

5 文久三年十一月 平忠兵衛、平作兵衛宛 土方歳三書簡

其後は久々不伺、貴下御無書ニ罷過、奉恐入候。時分柄寒中之候相成候得共、愈御壮健可為在、御坐奉恐悦候。随而野生無事罷在候間、御休意思召被下候。
一 拙義下向之程難計、依之拙宅之儀宜敷奉願上候。
一 京師形勢も申上度候得共、中々以小子筆ニハ難尽候間、いさひハ日野より御聞取被下候。
天下一変此時御坐候。乍末御一同様江宜敷被願上可下候。
余は期後便之時候。恐々不備。

十一月日 松平肥後守御預り
             土方歳三
平忠兵衛様
〃作兵衛様

いささらは我も波間にこき出でゝ
あめりか舩をうちやはらわん


平家は高幡不動近く上田村にあり、歳三の曾祖母の実家。4の書簡と同じ頃に書いたものと思われ、無沙汰の詫びと、自分は無事である事、京都の形勢は大変だ、皆に宜しく、という内容にはあまり変わりがない。「帰れそうもないから家の事は宜しく」「詳しくは日野(義兄佐藤彦五郎か)から聞いて下さい」という文面、いかにも郷里の親戚に宛てたという感じがする。文末に尊皇攘夷の総本山ともいうべき、水戸老公徳川斉昭作の和歌を引用しているのは時代を感じさせる。自分で作ればいいのに……(笑)

6 元治元年一月十日 平忠衛門、平作平宛 土方歳三書簡

再白 今般御上洛ニ付、去ル二日下坂、一昨八日浪花へ御着被遊候御砌、御警固被仰付候之処、略図愚書裏ニ相認申候。
御一覧可被成被下候。以上。

新暦之御吉慶無休期申納、以先其御砌被相揃、弥御清栄ニ御超歳被成、千万芽出度奉賀候。御倶ニ小子も無異ニ加年在勤仕候。乍慮外御放意可被成下候。先ハ年甫御祝詞迄申上度書入置、猶期後日時候。恐惶謹言。

正月十日
              土方歳三
平忠衛門様
御同作平様

5と同じ平家に宛てた年賀状。冒頭主語がないが、将軍家茂護衛のことであろう。「上様の御上洛に付き二日に大坂へ行き、八日に浪花に到着される時の警固をしたので、略図を手紙の裏に書きました」という意味。 「新暦のご吉慶……」以降は新年に相応しく目出度い言葉を並べ、こちらも無事だからご安心を、と言っている。

7 元治元年四月十二日 佐藤彦五郎宛 土方歳三書簡


一 はちかね壱ツ

右は八月十八日御所非常、三条なわ手のたゝかひに相用ひ候間、此はちかねハ佐藤兄江御送り奉申上候。

子四月十二日
             土方歳三
佐藤尊兄

日野宿名主で義兄の佐藤彦五郎に、鉢金を送った時の書状。前年八月十八日の政変で御所に出動した時と、志士平野国臣の潜伏先へ踏み込んだ時(三条縄手の戦い)に着用したものを、記念品として郷里に残しておきたかったのだろう。

8 元治元年四月十二日 佐藤彦五郎・土方為二郎宛 土方歳三書簡

御参代之砌皇朝より御手渡し之御直筆、壱札御送り奉申上候間、御写替被下、是ニ而も御取置可被下候。
乍末内外共御無音之儀、宜敷御伝声可被下候。余は富沢君より御聞取之程奉願上候。草々不具。

四月十二日
             土方歳三
佐藤彦五郎様
土方為二郎様
  人々御中

土方為二郎は歳三の長兄で盲目だった。妹の夫である彦五郎から読んで聞かせた事だろう。「皇朝からお手渡しされた直筆一通をお送りするので写して取り置いてくれ」とある。

9 元治元年四月十二日(推定)宛先不明 土方歳三書簡

任幸頃、便奉申上候。愈御壮健可被為在御坐奉上寿候。
一 小子義、昨春中より上京仕、別段御奉公と申事ノ儀無之、乍然今ニも君命有之候ハゝ、速ニ戦死も可仕候間、左様思召被下候。
右ニ付、死而之後ハ何も御送り可奉申上候様無御座候間、是迄之日記帳壱札并正月廿一日同廿七日大樹公 (以下欠損)

「昨年の春より上洛し、別段ご奉公という程のことはないが、今にも君命があればすぐに戦死する可能性もあるだろうからそう思っていて下さい。死んだ後は何も送れないでしょうから、これまでの日記一冊と、正月二十一日と二十七日将軍が」までで欠損している。この時送られたらしい日記、が歳三自身の書いたものなのか、同封したのは将軍についての何だったのか、興味は残る。池田屋事件まであと数十日という時の、死を覚悟の文面が妙に符号していて引き込まれる。





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