慶応元年三月〜慶応四年八月 |
20 慶応元年三月二十一日 佐藤彦五郎宛 沖田総司書簡 以手紙奉啓上候。暖気相増候得共、皆様益御勇猛被渡大悦至極奉存候。然は去月中書状差出処候得共、段(々)御無沙汰仕候段、不悪御思召無之様奉願候。 小子義始、京都詰合士一同、無事罷暮候間、乍憚此段御安意可被下候。就而は此度、土方君初外両三人東下仕候間、同々ニ而御期限伺方致東下候筈ニ候得とも、京都ニ而も諸事身分相応御用向繁多ニ而、江府乍残念いたし兼候間、委敷土兄より御聞取之程、奉願上候。乍末小野路、上溝辺江も別段書状差出候所、何分急用故差不出候間、宜敷御伝声可被下候段、御厚情被下。 山南兄、去月廿六日死去仕候間、就而もつて一寸申上候。 右は時候伺方迄、如此御坐候。余は後便之時申上候。恐々以上。 三月廿一日 沖田総司 佐 彦五郎様 何分申兼候得共、稽古場之義は宜敷奉願上候。恐々。 土方歳三の隊士募集東下の際に、沖田が出した手紙で、時候伺い方々、と言いながら末尾には重要な件を含んでいる。ご無沙汰、という程久々に筆を取ったのも実はその為ではないか。 「先月中に手紙を出そうと思っていたのですが、ご無沙汰してすみません。京都の皆は無事ですからご安心下さい。ついては、土方さん(土方君・土兄も同じく尊称)が帰郷されるので、私もご機嫌伺い方々ご一緒しようと思ったのですが、仕事柄忙しくてかないませんので、詳しくはお聞きになって下さい。何分急用なので小野路、上溝あたりへ手紙が書けませんが宜しくお伝えください。山南さんが先月二十六日に死去しました。ついでをもってちょっと申し上げます。恐縮ですが稽古場の事も宜しくお願いします。」 共に天然理心流を学び、多摩の出稽古にも歩いた山南敬助の死を、ここまであっさり伝えたのはなぜか。土方の口から委細は伝えられるはずであるが、その先触れという意味もあったのかもしれない。山南の大津脱走を沖田が連れ戻したという話に確証はなく、ただ「憤激して自刃」という同時代の史料が残る。山南は前年岩木升屋事件で大怪我を負って以来、本格的な現場復帰のならない期間が相当にあったらしく、自ら死を選んだことは確かである。移転後の西本願寺でこの文面を書く時に沖田の胸に去来したものを思うと、簡略な書き方と共に興味は尽きない。 |
21 慶応元年七月四日 宮川音五郎宛 沖田総司書簡 前文御免被下候。然は皆々様益御勇猛被遊、大悦至極ニ奉存候。次ニ宮川信吉公者、我カ同組ニ而無事罷有候間、御分家様ノ方江も無心配被遊候様、一寸申上候。京都ニ而も一同無事罷有候間、此段乍憚御安意被下候。 毎々恐入候得共、関田君方江も宜敷伝声被下候。尚々、柳町方も宜敷奉願上候。余は幸便之時申上候。艸々不備。 七月四日 沖田総二 拝 宮川音五郎様 尚々、時候御厭被遊候様、重奉存候。 近藤勇の長兄に宛てた手紙で、勇の従弟に当たる宮川信吉が入隊し、無事に過ごしていることを伝えたもの。わざわざ「我が同組」と書いたところを見ると沖田の直属に配置されたようである。関田君、は信吉と親しかった府中常久村の関田庄太郎のことで、この年四月の土方の関東下りに於ける隊士募集に志願したが、嫡男という事で断られ、涙を飲んだと言われている。信吉は慶応三年に天満屋で討死したが、庄太郎は明治の世に生きた。 |
22 慶応元年七月四日(推定) 佐藤彦五郎宛 沖田総司書簡 以手紙啓上仕り候。残暑厳敷候得共、皆々様益御機嫌御座被遊、大悦至極ニ奉存候。然は京都詰合一同、無事罷有候間、此段乍憚御安意被下候。猶去月より御無沙汰いたし候段、御任免被下候。 尚々、京坂之形勢も無替候間、余は幸便時申上候。乍末御尊母様始、皆々様、御稽古場御連、石田土方先生江も宜敷御伝声可被下候。先は時候伺迄、如此御座候。以上。 七月四日 沖田総司 拝 佐 彦五郎様 尚々、時候御厭被遊候。以上。 沖田の残暑見舞。本当に用件しか書いていない(笑)。毎度の「ご伝声」を頼んでいる中で、石田土方先生というのは土方歳三の長兄為次郎(号を石翠)の事。 |
23 慶応元年七月二十二日(推定) 井上松五郎宛 土方歳三書簡 未タ残暑去兼之処、愈御静勝被成御坐奉恐悦候。随而当方一同無異、御休意可被下候。 一 防長御発向之義、即秋末与奉恐察候。時根至之処、御身御大切専一奉存候。且遠国御出陣故、御さしつかへ之義も有之候ハゝ、被仰越候様候。先は時候御伺旁如此御坐候。以上。 廿二日 土方歳三 井上兄 新選組井上源三郎の兄で、千人同心である日野の井上松五郎に宛てた残暑見舞。秋頃と思われる長州進発に向けて何か不都合があれば京都に言って下さい、と述べている。 |
24 慶応元年十一月二日 近藤周斎・宮川音五郎・宮川粂次郎・佐藤彦五郎宛 土方歳三書簡 向寒之節御坐候処、弥御堅勝被成御座与奉大悦候。随而当方無事罷在候間、御安意可被下候。 陳は来ル四日発足ニ而、永井主水正君与近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳、其外六人御同道、広島御用与して発向、然而後、防長応接ニ有之候。尤、皇国治乱此時候。左候へは萬死一生之時候。 併籏下人数幾千万同等に御用向被仰付、是報国有志合集随分奉大悦候。且、応接次第ニより、直様御人数御差向可相成与奉存候。御先陣大将ニハ閣老板倉伊賀守様と申事候。左候へ者、其節都形勢も相計、其上惣人数も近々度奉存候。先は取込中、大概事、如此御坐候。恐々頓首。 二日 土方歳三 近藤老先生 宮川御両兄 佐藤彦五郎様 尚、小の路児島兄江も、橋本江も御聞声願候。土方、沖田、井上、大石、宮川、右等ハ留守宅相守居候。 時候挨拶と共に、近藤勇、伊東甲子太郎らが幕命で大目付永井尚志に随行、長州訊問使に加わった事を伝えている。「皇国治乱はこの時に候」という表現と共に、その事のなりゆきによっては「すぐさま人数差し向けもあるだろう。先陣は板倉伊賀守様ということだ。よってその時は都の情勢も計り難い」と取り込み中、西国情勢の緊迫感を書いている。 *「陳ハ」は「の(述)ぶれば」と読む。 |
25 慶応元年十二月十二日 井上松五郎宛 土方歳三書簡 時下甚寒、愈御堅勝可被成御座奉大悦候。 二ニ当方一同無事、御安慮可被下候。陳者佐彦よりの書面御廻し被下、千万難有奉謝候。 一 近藤より申上候事与存居不申上候得共、過十一月六日、大坂発足ニ而、近藤、伊東、武田外六人、〆上下十三人斗、大目付永井主水正様、御目付戸川伴三郎様、松の孫八様、吾三方ト吾同道ニ而芸州広島表江罷越候間、乍後事此段申上候。先ハ早々如此御坐候。不備。 十二月十二日 土方歳三 井上松五郎様 24と同じく近藤の西国出張を伝えたもの。幕府の訊問使と長州代表宍戸備後介の会談は芸州広島で行われ、永井は近藤以下の面々を「もと新選組で今は自分の家来」という形にし、長州まで遣わそうとしたのだが断られたらしい。それはそうだろう、池田屋に斬り込んだ近藤本人が斬られた側のご当地に入ったら不穏極まりないというものだ(汗)。ちなみに、ここには名が書かれていないが吉村貫一郎も探索方として影の力とばかり局長に従い、更に敵地まで潜入して頑張っているのである。←身贔屓(笑) |
26 慶応二年(推定)一月三日 小島鹿之助宛
沖田総司書簡 新春之御吉慶、不可有際限御座候。愈御勇剛ニ被成御越年、芽出度御義ニ奉存、随而私義無異加年仕候。右、年頭御祝詞申上度、呈愚札候。尚、期永陽之時候。恐惶謹言。 沖田総司 房良(花押) 正月三日 小島鹿之助様 参人々御中 文字通りの年賀状。花押付き。沖田ファンは欲しいだろうなと思う。 |
27 慶応二年(推定)一月三日 佐藤芳三郎宛
土方歳三書簡 新春之御吉慶、不可在際限御座候。愈御勇剛御越年被成、芽出度御義ニ奉存、右、年頭御祝詞申上度、呈愚札。尚、期旬之時候。恐惶謹言。 正月三日 土方歳三 義豊(花押) 佐藤芳三郎様 26と同じく、通常の年賀状。どうやらこの書面は沖田が代筆したものと思われる、そうだ。歳三のあの(笑)特徴的な筆跡を見てわからない位の間柄だったのだろうか。忙しいので代筆もご愛嬌、ですんだのかもしれないが。 |
28 慶応二年(推定)一月三日 土方隼人・土方伊十郎宛 土方歳三書簡 毎々御無音多御仁免、尚又、御一統様並ニ御隣家様へ宜敷御伝声奉願入候。 新春之御吉慶、不可有際限御座候。愈御勇猛ニ被成御越年、目度御儀ニ奉存、右、年頭御祝詞申上度、呈愚札。尚、期永陽之時候。恐惶謹言。 土方歳三 義豊(花押) 正月三日 土方隼人様 同苗伊十郎様 同じく年賀状。今よく使われる健勝、清栄、などという言葉に比べ、多摩の人びとに贈る言葉は勇猛、勇剛、などと勇ましい言葉が使用される所が、土地柄を表しているような気がする。 |
29 慶応二年二月(推定) 佐藤彦五郎宛 土方歳三書簡 〆 小生さし□之刀壱腰御送り申上候。壱刀有之候ハゝ、間ニあひへく候。 佐藤彦(以下破損) 愈御壮栄、奉大悦候。 二ニ当方無事、御休事被遊可被下候。 陳は、此度大石鍬次郎東下為致は、非別義右鍬次郎弟酒造(蔵)氏於当地病死仕候。依之橋家と大石家相立ル者ハ鍬次郎外無之、右ニ付一先帰府為致親類共至急相諸事事度義も有之東下致候間、四五日在府可仕候。 一 近藤未た帰京不仕候。防長一件而東行不相分、尤京地ハ至静事御坐候。先ハ右申上度、如此御坐候。恐々不備。 冒頭は歳三が刀を贈るとの記述、本文は新選組諸士調役の大石鍬次郎が、一橋家来である実弟造酒蔵(みきぞう)の二月に京都で死去による相続問題で一時期東帰する事を伝えている。こうした新選組の配慮も空しく大石家は鍬次郎による相続成立せず断絶したが。次の項では近藤はまだ西国出張から戻らず、帰還は未定としながら、留守の京都は静かだと述べている。 |
30 慶応二年三月二十九日 宮川音五郎・宮川粂次郎・近藤ツネ宛 土方歳三書簡 愈御堅静可被成御坐候。奉大悦存候。 随而当方一同無事。先生過十二日依る、御帰京被遊候間、御安心被下。 三沢村喜平咄し一向存不申候。坂中ニ而歩兵ハ召捕候事ハ両三度も御坐候得共、其未タ文ニ無之、尤彼之小人共申事ニ御坐候ハゝ、御遠察可有之候。 一 防長一件も追々と御運ひ相成候間、是又御安意可被遊候様、老等江も其段宜敷被願上可被下候。先ハ申上度、此如御坐候。恐々不備。 廿九日 土方歳三 宮川両兄 柳町 御内助様 宛名の「柳町御内助様」は近藤夫人ツネの事。勇が無事に京へ戻った事から「先生」という呼称を使ったのだろう。「三沢村喜平の話は一向に存じません。大坂では歩兵召し捕りの事は度々あるがその中にはなく、尤も、あんな小人の言うことだから」と、歳三にとっては小事と一蹴しておいて、長州の件に移っている。新選組の最盛期ともいうべき頃であれば当然か。 |
31 慶応二年八月(推定) 平作平宛 土方歳三書簡 時下秋冷、愈御堅静奉大賀候。 二ニ当方一同無事候、御休意ニ被下度奉存候。 一 関東一揆騒敷様子、貴兄御出張防戦御尽力と察入候。 一 防長事件も是迄、官軍不都合次第も此度、改而御発達有之候間、是より余ハ速ニ御追討ニ相成可申と相察入候。尤委曲日々佐藤方江申送り候間、是より御承知被遊可被下候。且、当局人数出張不仕京都ニ在陣、定而因循と世人申候事御坐候。乍併凡人の知処無之候。在尤不遠都ニおゐて一戦も可有之事ニ御坐候。 御序之節、高幡山貴僧江宜敷御鶴声奉願候。先ハ申上度、如此御坐候。恐々不備。 土 義豊 平作平兄 尚々何も御無声甚々申訳無之尓々御仁免、御全家中様江よろしく奉願上候。 「関東の一揆騒がしき様子」と不穏な世情に、平も防戦が大変だろうと察している。次にあるのが本題で、「長州の件もこれまでは官軍(朝廷の認める軍=この時点では政府である幕府軍)に色々不都合があったが改めて進発との事、これからは速やかに再征となるだろう。詳しくは佐藤彦五郎に伝えたので聞いてほしい。かつ、当局人数(新選組)が出戦せず京都に在陣とは、定めし因循と世人は言うだろう。しかし凡人の知るところではない。遠からず都に於いて一戦構える事もあるだろう。高幡山(金剛寺=高幡不動)の僧にも宜しく伝えて下さい」長州征伐に加われず凡人にはぐずぐずしていると笑われても、京都で戦があればその時が新選組の出番だ、というのは奇しくも一年数ヶ月後に実現することになる。高幡不動は土方家の菩提寺でもあり、歳三の碑や銅像を建てて功績を顕彰しているのは広く知られるところ。 |
32 慶応三年一月十日(推定) 小島鹿之助・橋本道助・橋本才蔵宛 沖田総司書簡 改年御吉慶目出度申籠候。愈御勇猛被為渡御座、珍重之御義奉存候。随而小子儀茂無事罷在、乍憚御安意被成下候。右、年始之御祝詞申上度、捧愚札。猶、期永陽之時候。恐惶謹言。 沖田総司 正月十日 小島鹿之助様 橋本道助様 橋本才蔵様 猶、未タ時寒退兼、折角時候御厭遊候様奉存候。猶旧猟中は、彼是御無音罷過、以甚恐入、此段不悪思召可被下候。尚、稽古場義者御一同様ニモ宜敷奉願上候。以上。 通常の年賀状。沖田は道場の事が余程気になっていたのか、よく「稽古場の義は宜しく」と書いている。 |
33 慶応三年十一月一日 宛先不明 土方歳三書簡 以飛札致啓上候。偖、差来久々御貴面大悦仕候。且其節者御世話共相成候処奉附(伏)候。 一 小生共昨三十日、勢州四日市駅迄着仕候間、明後三日九時頃ニは入京可相成心組候間、御安意被下度候。 一 京師表時勢柄追々切迫之由、猶否上京之上、可申上候。先は致御貴意如此御座候。恐々不備。 隊士募集で江戸、関東に下り、その帰路の途中で書いた手紙。宛先がわからないがその節は世話になったと礼を言っている。「昨日は伊勢四日市に着き、明後日には京都に帰れるだろう。京都表の時勢は追々切迫との事、帰陣してから申し上げます」この前月には大政奉還がなされており、徳川幕府の政権返上は直参となった新選組副長にとっても一大事だった事と思う。この時希望に胸を膨らませて上京中の新入隊士たちには知らせなかったと思うが。 |
34 慶応三年十一月十二日 宮川音五郎宛 沖田総司書簡 向寒之節ニ御坐候得共、益御勇猛被成御坐珍重之御義奉南賀候。陳ハ土方、井上両氏之義茂道中無滞、当月三日帰局致候。此段御休意可被下候。 扨、其節者御尊書送り被下、難有拝見致候。拙者義も老先生病気ニ付、是非共東下致心組御候得共、病気故何分心底ニ不相叶候。乍併当節は日増快方ニ赴、此分ニ而ハ最早大丈夫ニ可被存候間、乍憚御安意可被下候。猶又先生事万端宜敷奉願上候。先は其節迄、書余は拝顔之上万々可申上候。 恐々不具。 十一月十二日 沖田総司 宮川音五郎様 尚々、時分柄寒気御厭可被下候。何よりの味噌漬被下、難有奉存候。 二ニ御一統様江も貴君より宜敷御伝声奉願上候。 現存を確認される中で総司最後の手紙。土方歳三と井上源三郎が無事に(歳三の手紙にある通りの十一月三日)江戸の旅から戻ったと伝え、「そのせつはお手紙を頂き有難く拝見いたしました。私も老先生がご病気なので是非(見舞の為にも)同行しようと思っていたのですが、何分、自身が病気の為心に叶いませんでした。でもこの頃は日増しに快方に向かい、この分ではもはや大丈夫だと思われるので、どうかご安心下さい。先生の事は、万端宜しくお願いいたします。またお会いした時にでもお話しいたします。寒いのでお気をつけ下さい。何よりの味噌漬を下さって有難う」と、ここで初めて自分が病気である事を記している。恐らく、肺結核が進んで人に隠しきれず多摩にまで伝わる病状になっており、手紙で心配された事への返事であろう。この翌月には伏見にあり、負傷した近藤と共に大坂の後方へ移送されているのだから、「最早大丈夫」なはずはない。「老先生」は長患い中だった近藤周斎の事で総司には恩師である。しかし、周斎はこの手紙にわずかに先立つ十月二十八日には亡くなっていた。当時の事で連絡には時間がかかり、総司はこの時点で知らなかったと思う。上京以来一度も帰れなかった総司が、入れ違いで師匠の死を知った時の心中はどのようなものだったか。わずかに文末、宮川家から懐かしい故郷の味である味噌漬を贈られて「何よりの」と喜んでおり、少しは病身の食も進んだであろうか。 |
35 慶応四年八月二十一日 内藤介右衛門・小原宇右衛門宛 土方歳三書簡 弥以、御大切と相成候。明朝迄ニハ必猪苗代江押来り可申候間、諸口兵隊不残御廻し相成候様致度候。左も無御座候ハゝ、明日中ニ若松迄も押来り可申候間、此段奉申上候。以上。 廿一日夜五ツ 土方歳三 内藤君 小原君 会津戦争中に認めた書簡。会津藩士宛てに援軍を求めたもので、この日付は新選組が母成峠の激戦に破れ後退中の事で、「西軍は明朝までには必ず猪苗代へ押し来たるだろうから、諸口(沢山ある進入路)の兵隊を残らず廻されるように、さもなくば明日中に若松城下へ到達する」と事態が一刻を争う事を告げている。会津は主力を反対側の猪苗代湖南側に集めていたが急な援軍増強はままならず、言った通り会津若松は二十三日の官軍進攻から一ヶ月の籠城戦を招くことになる。 |