元治元年六月〜慶応元年二月 |
10 元治元年六月二十日 佐藤彦五郎宛 土方歳三書簡 さて 愈御壮健被遊御座奉恐寿候。偖而、当方一同無事罷在候間、御安心被下。 一 新撰組之義も当月五日之戦功ニよつて、上様より御内意之趣奉申上候。局長近藤君ハ両番頭次席、其次与力上席、其次与力、其次与力次席、其次御徒席、ト先右等之所ニ而内々被仰聞候間、此段奉申上候。委細追而申上候間、必御他言無之様奉願上候。先ハ如斯御座候。恐々不備。 廿日 土方歳三 佐藤兄 池田屋事件の後、義兄への報告を兼ね幕府から新選組を幕臣に取り立てる内意が伝えられた事を記している。「当月五日」とは勿論その事件当夜のことを表しており、「今月五日の池田屋での戦功によって、上様から内意が下され、局長の近藤さんは両番頭次席(以下役職順)と内々に聞かされました。詳しくは追って申し上げますので必ずご他言なさらないようお願いします。」未定とはいえ、わざわざ書き送った裏には、幕府から取り立ての申し出があった事を栄誉とし誇る面はなかったろうか。しかし新選組でも、この時は幕臣としてあまり重い扱いの役ともいえない為か近藤から話は断っている。 |
11 元治元年七月二日 佐藤彦五郎宛 土方歳三書簡 一 当今形勢奉申上候。六月廿二日長州人伏見迄五百人程押来り、大将ニハ福原越後、跡よりハ追々押来り二千人程ニ相成候。陣所之義ハ山崎天王山ニ壱ケ所、又本陣ハ嵯峨天龍寺加免山ニ陣取居、尤赤白之籏立、益盛ニいたし居、依之新撰組并会公御人数ハ京竹田道東九条と申処江出陣ニ及申候。何近々取かゝりニ相成申候。尤何も口々御固付候間、左ニ申上候。 天王山五百人 天龍寺六百人 伏見六百人 丹波阿のふ寺六百人 前書之通り御座候。暑中と可申上之処、如此之始末ニ而御無音、内外相宜奉願上候。御所よりも追々命令下り、一同奉恐悦候。追而一戦之上命有之候はゝ、委細奉申上へく候。恐々不備。 七月二日 東九條陣所より 土方義豊 佐藤兄行 (*加免山=亀山 阿のふ寺=穴太寺) 池田屋事件に引き続き京都に一大騒動を巻き起こす禁門の変、の事前、配置された陣所に詰めている時に立てた書状。手短ながら、長州勢や自らの現況を細かく分析し報告している辺り、後年、戦上手と言われた歳三の一面を彷彿とさせるものがある。文末の「暑中見舞いの頃とはいえこういう次第ですから、便りをせず申し訳ないが内外に宜しく伝えて下さい。御所からも命令が下り、一同恐悦に感じております。追って一戦の上、もし命があれば委細を申し上げましょう。」という言葉に戦陣ならではの凄みを感じる。 |
12 元治元年八月十九日 小島鹿之助・橋本本家・分家宛 土方歳三書簡 一筆奉啓上候。愈御壮健被成御座奉南山候。随而当方一同無事在京罷在候間、御安心被遊度候。 一 京都一へん一々奉申上度候得共、寸も悪筆ヲ以難尽御坐候間、委細は大沢宮川氏より承り可被下候。尚上溝佐藤氏江ハ宜敷奉願上候。 二ニ野生いつも無事相過候段、ご一同皆々様江宜敷被願上被下候。 一 肥前ニ二百万石可有之哉と奉存候。依之天下有志有之候ハゝ、御さし御登可被下候。先ハ以愚札如此御座候。恐々不備。 十九日 土方歳三 小嶋兄 橋本御両家様 尚々天王山一戦ハ古しへの殿下再らひ致哉と天下諸人申候。 一 長州江ハ多分さし向ニ相成哉とも奉存候。尤近国御備夫々相伺候様子柄、依而山口主人之君もさためし御登り候ハゝ、京地まて是非共御登り相成候様ニ仕度奉存候。尚一同より宜敷奉申上候。 (山口主人=山口直邦・近江守、小野路・野津田両村地頭。幕府騎兵頭、砲術師範) 前述の禁門の変が終息した後の手紙で、一同の無事を伝えた後、「京都一変は一々申し上げたくても私の悪筆では尽くし難い、委細は大沢の宮川氏から聞いて下さい」と省略、文末に自身も出戦した山崎天王山の事は戦国の古戦場らしい様を伝えている。長州、肥前など西国情勢を気にかけていた事は文中に見られ、郷里の人も京まで是非共上ってくれ、と促しているようだ。 |
13 元治元年八月十九日(推定) 小島鹿之助・橋本道助宛
土方歳三書簡 秋冷御坐候処、愈々御静勝可被成御坐と奉大悦候。随而当方一同無事罷在候間、御安意被遊可被下候。陳は上方筋并ニ防長之形勢、猶委細ニ近藤より申上候間、左様思召可被下候。乍末三家初メ内外共御全家中様江被申出度奉願候。先は御便迄如此御坐候。恐々不備。 八月十九日 土方歳三 児島尊兄 橋本主人 尚中侯老公ニ御無事之趣よろしく御申上被下候。 児島尊兄、は小島の異字であり、この頃は漢字の混用は珍しくない。取り急ぎの挨拶状のようで、上方や防長(周防と長門のニ国、でつまりは長州藩のこと)の形勢は近藤から詳しく申し上げる、後便の時まで宜しくと伝えるにとどめている。 |
14 元治元年九月十六日 勝海舟宛 土方歳三書簡 未得拝顔候得共、秋気遂日相加之候。益御壮清ニ被為昼夜御尽力之旨波及天下、不肖之我等迄も欣喜不少奉存候。 然ニ御甥三浦敬之介子会藩山本覚馬と申仁より被頼、手前局中ニ引受、亡佐久間氏之仇種々配慮探索之処、比日承知仕候ハ全国賊長士之作業ニ候。 付而ハ性名等も承知仕候得共、去日犯禁闕候節生死も難斗、且成刺客ニも賊長門父子も日夜説得シ、亡父之仇為国家ニ候ハ文武研究シ、我輩と供に尽力可然と存補育不他罷在候間、決而無御心労様奉頼候折々ハ憐察落泪仕候。 先ハ右之趣奉申上度、勿卒任禿毫粗略之段、御海恕可被成下候。謹言。 九月十六日 新選組 土方歳三 勝阿波(安房)守様 尚々局長近藤勇と申者ハ、内々御上洛為周旋関東下向罷在候間、私より右之段奉申上候。已上。 勝海舟宛土方歳三の書簡は現物を見たことがあるのだが、どう見ても本人の筆跡ではなく(笑)隊士の誰かに代筆させたものだろうと思う。文中にある甥の三浦敬之介(助)とは、勝の妹の夫・学者佐久間象山の息子。父が暗殺された仇討ちの為、会津藩山本覚馬から新選組が身元を預かる事になり、「亡佐久間氏の仇は種々配慮探索」しており、「姓名も承知しているが、長州人が先日御所を犯したところで生死も計り難く、彼には文武に務め我々と共に尽力するようにと補育しているところだからご心配なく」と書いている。長門父子は禁門の変の罪に問われた長州藩主父子の事か。「折々は憐れに察して落涙仕り」という文面はおよそ歳三らしからぬところで、代筆ならではと思う。「あわ」違いはきっと勝に苦笑されたに違いない。後年、近藤勇が流山で投降し官軍に捕らわれた時、歳三は江戸へ戻り勝に直談判して、助命の事を頼み、また恐らくは勝の指示で旧幕陸軍に指揮官として加わる事になるのだが、それを思うとこの頃からの知己であった事はなかなか興味深い。肝心の三浦は仇討ちどころか隊士としても物にならず脱走してしまった。天才の子は必ずしも天才ならず、で新選組としても扱いにくかったのではないだろうか。尤も、象山暗殺は肥後の人斬りと呼ばれた河上彦斎の所業というから、仇討ちを実行しようとしても三浦の腕では至難の業だったろうし、やらないでましだったのかもしれないとは思うが……(^^;;) |
15 元治元年九月二十一日 小島鹿之助宛 土方歳三書簡 愈御壮健被為在御坐奉恐悦候。 一 昨冬中、上溝村おゐてハ御焼失被成之由、奉驚入候。未タ御見舞之書状さし出不申之段、貴兄より宜敷御伝声被下候。 一 京師形勢可申、いさひ近藤氏奉申上候。乍末章、御一同皆々様江宜敷被仰上被下候。猶貴兄ニ入もの無之候間、婦人衣留井さし上候間、御一見被遊被下候。二ニ当五日御出立前山口近江守参上仕、□御噺相伺候間、貴兄御聞奉願上候。以上。 廿一日 土方歳三 小嶋兄 「昨年冬、上溝村(歳三の郷里への手紙に前出した知己)に於いて火災焼失との事、驚いております。まだ見舞の書状も出しておらず、宜しく伝えて下さい。京都の形勢は近藤さんからお伝えします。女物の衣類を差し上げるので御覧下さい。今月五日、ご出立前の山口近江守(前出)とお会いし話を伺いましたので貴兄もお聞き下さい。」歳三が贈った婦人の衣類とはどんなものだったのか、見てみたいものである。 |
16 元治元年十月九日 近藤勇・佐藤彦五郎宛
土方歳三書簡 一書奉申上候。時分柄追々寒冷相催候処、愈御堅勝可被為在御坐と奉恐悦候。随而局中一統無事罷在候間、御安心可被下候。 一 当月七日、近藤門人と申て松木の延三伜元太郎、小林重太郎、右両人同志致度旨申入候。唯々何事も申さずさしおき候。此者義いかゝ取計候てよろしく御坐候哉否奉伺度候。尤無こし参り、近藤、土方とさして甚々同志中江不面目之義候。行々右よふの者無之奉願上候。 一 過五日篠塚峯三義、松平肥後守殿江古主よりたつて御願に付、よきなき次第ニて先主人江相渡し候間、此段奉申上候。 二ニ兼て奉申上候、家来之附五六人は是悲供御遣し相成候様、奉願上候。尾州公並大目付永井公、近々打ち西国江御発向与申事故、種々御帰京之処心配仕おり候。 一 局一同炮術ちふれん不残西洋つゝ致候而毎日仕候間、おふひに此程よろしく相成、長門魁も可相成与奉恐悦おり候。先は御伺旁ゝ如此御座候。恐々不備。 九日 土方歳三 近藤勇先生 佐藤彦五郎様 尚々過廿八日出の書面、八日到着仕候。あらかしく。 近藤勇が東下りをしていた留守を預かっている時に書いたもので、現存する中で歳三から近藤宛の書簡は珍しい。「寒冷」と時候挨拶をしてから「局中一統無事」とある言葉等、新選組副長から局長への手紙らしさを随所に見せている。「今月七日、近藤門人と称して松木元太郎、小林重太郎の二人が入隊志願して来たのだが、ただ何も返事していないが、どう取り計らってよいものでしょうかね。もっとも、無腰(刀も帯びず)で来て、近藤土方と多摩の知り合いという顔をされ、同志の間で随分恥をかいた。今後はこういう者がないようにしてもらいたい」と苦情を伝えている。「五日、隊士の篠塚峰三について、松平容保公を通じて元の主人から是非返して欲しいと言われたので余儀なくそうしました。兼ねてより言うよう、五六人は是非こちらに遣わしてもらいたい。尾張公と大目付永井公が近々西国へ発つとの事で、種々気にかけている。局では砲術の調練を残らず西洋式にしたところ大いに良くなり、これなら長州征伐の先鋒も出来ることだろう」と、留守中でも隊内外の様々な事に目を配っていた事がうかがい知れる。追伸から、江戸を発した飛脚が京へ到着するのに十日程の日数がかかったようだ。歳三の対局長報告書として、興味深い一通という気がする。 |
17 慶応元年一月二日 小島鹿之助宛 沖田総司書簡 尚々、御一統様江宜五伝声奉願入候。 新春之御吉慶、不可有際限御座候。愈御勇剛ニ被成御越歳、目出度御儀ニ奉存候。右、年頭御首詞申上度、呈愚札。尚、期永陽之時候。恐惶謹言。 沖田総司 房良 丑正月二日 小島鹿之助様 小野路村出稽古などで世話になった小島鹿之助に対する沖田総司の年賀状。本当に必要な事だけパッパッと書き、後は皆さんに伝言宜しく、と書くのは総司の特徴のような気がする(笑)。筆跡も近藤、土方に比べると、若い剣客らしく小気味の良い切れ味がある印象を受けている。 |
18 慶応元年二月九日 佐藤彦五郎宛 土方歳三書簡 新井氏江御紙面拝見候処、愈御堅勝被遊御坐候与奉恐悦候。随而小子初メ一同無事、御安意思召可被下候。 一 小子江被仰聞委細奉承引候間、御安心被成下候様奉願上候。猶、永倉君被為遣此義無別条候。 只々行軍記之砌は少しさしひかへ有之候間、右様ニ御坐候。当今御再勤ニ相成居候間、左様御承引可被下候。 一 此頃之内、会津君公御下向相成哉も難計、依而御下向ニ相成候ハゝ、天下一大事之事候間、会君関東之御様子相分候得者、一刻も御急御知らせ可被下候。天下分メ此一時可有之与奉恐察候。 実ハ御供可申上与損奉上候処、御前おゐて帝土義偏ニ願候与被仰聞、無余儀京師ニ罷在候間、何卒肥後守様御役御引ニても相成候ハゝ、別飛脚ニ而も奉願上候。先ハ右申上度、以愚札如此御座候。 恐々不備。 二月九日 土方歳三 佐藤兄君 尚々御一同江宜敷願上候。かしく。 歳三の書き癖ともいうべき箇条書きの前部分は、新選組の行軍録を作成した際、試衛館から上洛組の永倉新八の名が入っていなかった事を彦五郎が懸念し、それについての返信と思う。これ以前、永倉は近藤勇の隊内独裁を批判して、会津藩の仲介により和解したものの、行軍録作成時には謹慎中の身でありメンバーに入れられていなかったのだろう。その点を歳三は「この時は少々差し控える事があったのだが、今は職務に復帰していますよ」と書いている。後半は「会津藩主松平容保様が関東へ下向されるかもしれず、そうなれば天下分け目の時だけに一大事だと思う。実は御供しようとも思ったが、帝都である京を頼むというので余儀なく残っている。会津様の為にも、どうか別飛脚でも、一刻も早く関東の情勢を知らせて欲しい」と頼んでいる。別扱いの特急便は高価につくものと思うが、そこは義兄の彦五郎だから許される甘えともいえるだろう。 |
19 慶応元年三月一日 佐藤彦五郎宛 土方歳三書簡 春暖之節御座候処、愈御安康可被為成御座と奉上存候。随而当方一同無事、御休意可被下候。 一 庵旅宿之義追々多人数相成候て、何分人数あ詰兼候。依之来ル十日頃ニは西本願寺講堂と申所江旅宿替り相成候間、若御用簡も御座候ハゝ、右の所江向書状御差立可被下候。 一 然とも不相分候得共、大和十津川と申所江浮浪之者相集り様伝聞仕候。其外摂丹妙けん山江も相集り様ニ伝聞致候。如此形勢ニ而は又不遠一戦も可有之と奉存候。乍然右様形勢差詰り候ニ、未タ関東おゐては御老中様初メ大小名ニも御心中江不入事と奉存候而、於小子共も誠ニ残念奉存候。乍然何思召有之哉、御地御風評承知仕度。 一 此度又々御老中様内豊州君御東下相成、御上洛不被為在候而は実ニ恐入候儀ニハ御座候得共、関東之思召之儀も一口も不相直事と奉恐察候。殊ニ小子共も関東おゐて尽忠報国之者ニ御ツノリニ相成候ハゝ、尽忠も重シ報国も重シ、何を何と分別も難致候。何卒徳川家之御衰ウン今壱度於此所ニ引直し、尽忠報国之四字も衛忠勤致度候。 一 常野ノ大将武田初メ半分程、井伊并若丹ノ手、首打折候様相成候。誠右様之者共位ハ関東ニ而も何不奉存候得共、洛近おゐて如小子相心得候。先者申上度如此御座候。恐々不備。 三月朔日 土方歳三(花押) 佐藤兄 尚々御仝(同)家統中江宜敷。 二ニ石田為兄并五右衛門老人も宜敷奉願上候。 一 小嶋江ハ別段形勢不記候間、貴兄より宜敷御伝可被下。 歳三から、間近に迫った屯所の移転通知と、各種時勢、情勢論ともいえる一文。隊士も増え壬生の郷士屋敷では手狭になって来たので三月十日頃には西本願寺に引っ越すと伝えるのみで、天然理心流門人でもあったはずの山南敬助二月下旬の死については触れていない。 大和十津川、摂津妙見山の浪士の動き、常陸水戸天狗党の若狭での末路などを伝え、「この分ではまた遠からず一戦もあるだろう、こんな差し詰まった形勢の時に関東では老中、大小名もわかっていないようで誠に残念だ。そちらでの風評も聞かせて欲しい。」文中、歳三の言葉で「尽忠も重し報国も重し、何を何と分別も致しがたく候。何卒徳川家の御衰運を今一度ここに於いて引き直し……」とあるのは心情の吐露として目を引かれる。決して徳川万々歳、と単純に思っていたのではなく、幕府と接する中では義憤にかられる事も色々あったのだろう。 追伸の石田為兄、とあるのは石田村実家の長兄為次郎の事。 |